架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

 時の流れというものは、川の流れの如く決して留まることはない。昨日より今日、今日より明日へと向けて、種々の悲喜交々を巻き込みながら、永遠に流れるものである。
 しかし、その中にあって人の儚さ、小さなというものはどれほどであろうか。恐らくは、川底の石の間の、ごくごく小さな砂粒にも劣るであろう。水の流れによって引き剥がれ、浅瀬に浮かび深い底に沈み込み、当人にとってはその万事が波乱に満ち、一浮一沈に心を懸けてもがくのであるが、外から見れば、それは視界にも入らぬほどに小さな営みである。
 そして、この広大無辺な世界の中の一隅にある、極々小さな王国にあっても、それは例外ではないのだった。

 十二年前。ラピタ王国に、「運命が、船の姿を取って現れる」二年前のこと。後に王国のキーパーソンとして大いに名声を高めることになる、リリィ・ティナ・ポマレ王女は、まだ十歳の少女であった。
 神々の加護を受けて国を統一した初代国王は、その身体全てが常人と異なる白色であったという。彼女はその生まれ変わりの如く、同じ白色の体を持って生まれた…。
「クリス、ねぇ、クリス」
「どうかなさったのですか、リリィ様」
「どうかもなにも、もう嫌よわたし。だって、この後もきっとお勉強、鍛錬、修行の繰り返し。今まで、自分の身体が自由になったことなんて一回たりとも無いのよ!」
「ですが、リリィ様は…」
「知ってるわよ。神様のお力を借りて、王国を守らなきゃいけない、でしょ?もううんざりだわ!」
 リリィは酷く不満げに頬を膨らませた。初代国王の似姿を持つ彼女は、古い教えの中では正しく神々の化身である。その身体に秘めたマナは誰よりも強く、人々や王国にあらゆる加護を与えることができると、本気で信じられていた。
 しかし、当の本人はたまったものではない。何しろ、生まれた時から人と異なる容姿で、その上国王の娘という高貴でありながら何事も自由にならぬ身分。同い年の友人はおろか、対等に話せる人間さえいたことは無かった。
 たった一人、物心ついた時から側に居るクリスという少年に対してだけは、心の奥底まで見せて甘えることができた。しかし、彼でさえも家臣としての一線を越えることはできないのである。
 そうした孤独の中、務めだけを押し付けられてひたすら勉学と修養の日々を送るというのは、到底その幼い心では納得できないであろう。
「しかし、リリィ様。今までの王族の方々は伝統のもと、そうしたお勤めを…」
「嫌なものは嫌!」
 クリスの言葉は理性的で、正しさにおいては全く反論の余地が無い。しかし、頑ななリリィの気持ちを変えるには足りないーいや、むしろ、そうであるが故に、彼の諫言は全く無意味であった。
「ねえ、クリス。今日はもう何もしたくない。勉強も、鍛錬も、修行も。例えお父様が言ったってやらない。神様だって、一日くらいお休みしても何も言わないわ」
「そ、そんなことは出来ません!第一、陛下のご命令に逆らうなど…」
「逆らわない」
「それでは一体…」
「命令を受けなければ、逆らい様が無いわ。ついてらっしゃい!」

 数分後。二人は秘密の抜け道を通り、密かに王宮を抜け出して王都タアロアの大路に出た。
「はぁ、せいせいした、外の空気って美味しいわね」
「た、大変なことにっ…陛下になんと言い訳したら…」
「もう、せっかく外に出られたのに。そんな鬱鬱としていたら、ただでさえ曇りの天気が大雨になっちゃうわ」
 日除け帽子の下からリリィは口を尖らせた。一方、向けられる方のクリスは酷く青ざめていて、体の震えで下げた刀の鯉口がカタカタなるのでは無いかという様子である。
「しかしリリィ様、王宮を抜け出して一体どこに行かれるおつもりですか?」
「あてはない」
「あてはないって…まさか都から出るおつもりですか!」
「都の中だと追っ手に捕まるから、それは当然」
「ダメですってば!」
「…もう嫌。とにかく今は、王宮も何も目に入れたくないの。あなたも、ついて行けないと思うなら来なくたっていいから」
「そういうわけにも行きませんよ…」
 彼女は早足で大路を歩き、都の大門を目指した。沿道には小さな店屋や家屋が立ち並び、今日も多くの人々が行き交っている。この街ほど多くの人が住み、賑わっている場所はラピタ島はおろか王国全土何処にも無い。二人にとっては、此処こそが世界の中心であった。
「にしても、都は大きいのね。どれだけ歩いても門が近くに感じないわ」
「お疲れならどこかで休みますか?」
「いい。雨が降り出す前に外に出たいの」
 そう言いつつ、二人は幼い身には似合わない健脚で歩き抜き、大門を抜けて遥かな原野へと歩を進めた。前を見れば、そこにはひたすら何もない野が広がっていて、片やを見れば灰色の波寄せる海が、翻れば茫漠たる平野が何処までも広がり、薄霧を隔てたずっと向こう側には、深緑色の山肌が聳え立っている。
「…本当に何処まで行くんですか?」
「何処までも。ひたすら歩くの…今は『王女様』からとにかく離れたいから」
「…分かりました、お供します。その代わり、危ないことがあったらすぐに帰りますからね」
「わかってる。…ありがとね、クリス」
 リリィは初めて笑った。そしてぎゅっとクリスの片手を握り、また道を歩き出した。その目には迷いは無く、未知の世界へ抱く興味の光に満ちている。彼女が何処を目指しているのか、それはきっと彼女自身にも分からなかっただろう…。

 「つ、疲れた…もう足がパンパン…クリス、おぶって」
「無理です…俺もキツいんで…」
「他の村まで後どのくらい…?」
「分かりません…というか、地理も見ずになんで都を出ようなんて…」
 一時間ほど歩き続けて、二人はぐったりとして、一里塚として置かれている石碑のそばに座り込んだ。辺りは相変わらず平穏に風が吹き、草がそよいでいるが、集落の気配は全く見えない。
「あ、煙…あれは…」
「あれは多分都の狼煙じゃないですかね…」
「ってことは追っ手が来るじゃない!早く行かないと!」
「も、もう足が震えて…」
「そこで何をしておる」
 二人がギョッとして振り返ると、そこには…
「見たところ、只人では無さそうだが…」
「お、おじいさん、あの…」
 そこに立っていたのは、杖をついた痩せぎすの老人だった。髪の毛は既に真っ白になっていて、顔には深い皺が幾つもも刻まれている。着ている着物は襤褸ではないが、ひどく使い古している様で所々継ぎがあてられ、ついている木の杖は傷だらけになっていた。
 しかし、その眼に灯る光は気力に満ち溢れ、地面についている脚は太く強靭そうである。よくよく観察して見れば、杖をついてはいるもののそもそも腰が曲がっていなかった。
「…ふむ。そこのお方は恐らく…」
「あっ」
「え、えっと、こちらは…その、実はさるー」
「……」
 老人は少し考えた。目の前の少女と少年を見定める様な鋭い視線を送り…しばらくして、莞爾たる笑みを浮かべて言葉を続けた。
「まあ、なに。この様なところに王女様がいらっしゃるだろうか。よく似た別人かのう…くっくっく」
「あっと…その…」
「まあ良い。疲れているのなら、一つワシの庵まで来んか。あの向こうの林の中にある。何、こちらから出て行かねば、誰も来やせんぞ」
 老人は無造作に杖を払い、付いてくる様に促した。…もはや二人に否やは無かった。
 さて、老人に導かれ、リリィとクリスは最後の力を振り絞って歩いた。前を見ると、確かに平原の中にぽつんと林が見える。なぜかそこだけ取り残された様な林の中央に、老人の言う庵はあった。
「ここじゃ」
「わぁ…」
 木々の葉が陽の光や雨を遮断し、涼しげな空気を作り出す中に、一軒の小さな家が建っていた。藁葺きの屋根に壁の無い建物。柱の間には穴が空いた粗末な簾が降りていて、すぐ横にはかまどと小さな畑、そして水を汲むための井戸がある。老人は縁側に溜まった埃を払うと、履き物を脱いでそこから中に上がった。
「ほれ、入れ。しっかり靴は脱いでからじゃ」
「し、失礼します…」
「入るわね…」
 入って見ると、中は外の見てくれと同じ様に質素で、家具らしきものは筵と小さな机の他には何も無い。確かに男が一人で暮らすにはこの位で良いのかもしれない。外のかまどと寝る所さえあれば、後は殆ど何も必要無いのだろう。
「適当に座っておれ。今、水を汲んできてやろう」
「あの、おじいさん。わたし達は…」
「ああ、聴かん聴かん。わしにとってはお前らの名前なんぞ、どうだっていい。わしはただ、行き倒れておった子供を二人拾っただけじゃ。…但しその代わり、わしの名前も訊くなよ。どうせここには三人きり他におらんのだから」
 冷淡にもとれる口調で老人は出て行った。そして、外から水を汲む音が聞こえてくる。
「…大丈夫かしら、クリス。とって食べられたり、拐かされたりとか…」
「いざとなったら、俺が身代わりになりますから、リリィ様は逃げてください。なんとか足止めします」
「そんな、そうなったらわたしも…!」
「これ。高々十かそこらの子供が、一丁前に身代わりだのなんだのと言うな。安心せい、わしは今更、そんな悪事に手を染める気概は無い」
「……」
「信じられんか。だが、それでも構わん。いずれにせよ、水と飯がなければ、お前達は飢え死にじゃ。素直になった方が良いと思うがの」
 リリィとクリスは躊躇いつつも、目の前に置かれた簡素な杯に口をつけた。冷たい井戸水は汗と疲労の滲む体に染みて、美味かった。
「かっかっか。水を飲んだら少し休むがよかろう。時間が来たら起こす」
「俺たちは何をしたらいいんですか?」
「そうさな…まぁ、夕食の材料取りを手伝ってもらおうか。よく食べる子供が二人増えたのでな、採り直さにゃならん。ほれ、わしは今から薪を取ってくるから、早う寝ておれ」
 再び庵の中は子供二人になった。あの男は山の方に行ったのだろうか、だとすれば暫くは戻ってこないだろう。今が逃げる好機だ。
「…今逃げても、すぐに追いつかれるし…逃げ切っても、追っ手に捕まっちゃう…」
「追手の方がマシだとは思いますけど…でも、俺はあのおじいさん、多分悪い人じゃないと思います」
「…まあそうよね。あれだけ長生きしているなら、きっと思慮もある人でしょうし…」
 そう呟くと、リリィは床に寝そべった。よほど疲れていたのか、早くも目に眠気がある。彼女が隣に添え、と言いたげに小さく床を叩くと、クリスも横に寝た。横になってみると、足の方から頭の方まで急速に眠気が回ってくる。
「ん…おやすみ、クリス…」
「は…い…」
 彼女の体を守る様に抱きしめると、その温かさでいよいよ彼の意識は緩やかな眠りの中に落ちていく。僅かな時間の抵抗の末、彼は心地よい感覚に身を任せ、両の瞼を閉じた…。

 「起きろ。起きんか、二人とも」
「ん…ん、ん!?」
「あ、れ…クリス?」
「ねぼすけどもめ。人の家で気持ち良さそうに眠りおってから…全く、生意気に抱き合って寝るなど、子供の教育はどうなっておる」
 視線を向けると、小さく身を起こした自分にしがみついて、リリィが寝ぼけ眼で見つめてきている。その表情がどこか幸せそうなことに気がついて、クリスは恥ずかしげに目を逸らした。
「ふん、男の方はませておるわ。まぁいい、起きろ。お前達二人に付いてきてもらう仕事があるからな」
「…分かったわ。何をしたらいいのか教えて」
「女の方は飲み込みが早いわい。助かるのう。では行こうか」
 そう言って老人が二人に渡してきたのは、簡素な長い釣竿であった。
 庵を出て少し歩いて行くと、大河ワイルクの幾つもある支流の一つである小さな沢に出る。ここはとある渓谷から流れ出ており、透き通った冷たい水を豊富に湛えている。そこにたどり着くと、三人はそれぞれ椅子の代わりにそこら辺の大きな石に腰掛け、釣りの準備をした。
「餌はそこら辺の虫やミミズを使え。その位は自分で獲れるじゃろう」
「ええと…きゃぁぁっ!びくって、びくってした!」
「喧しい!ええい、針を刺したらすぐに水に投げ込むんじゃ!」
「あっ、糸が絡まった!」
「ちょっと、そんなに引っ張らないで…!」
「やれやれ、コレが夕食が懸かった大切な釣りじゃと分かっておるのかのう…」
 少し後には都きっての釣り名人となる二人も、この頃はまだミミズにも怯える素人でしかなかった。互いにおっかなびっくり餌をつけ、なんとか糸を垂らしたはいいものの隣の相手と糸を絡めてしまう。しかし、引きの強さはこの頃から変わらない様で、二人ともたちまち一匹目をあげた。
「やった!釣れた!」
「おじいさん、釣れた魚は…」
「…ん、あぁ、そこのびくに入れておくんじゃ」
「大丈夫ですか?」
「あぁ…大事ないわい。…釣りをしていると、ついつい昔のことを思い出してしまってのう…」
 老人はそう言いながら釣り糸を見つめている。細まった目に何が映っているのかは、側にいる少年には到底考えもつかないことであった。
 それ相応の釣果を得た三人は、夕暮れ時の薄闇の中を庵へと帰還した。老人は縁側で火打ち石を使って火を起こし、庭に小さな焚き火を拵える。その間、リリィとクリスは考えていた。
「今頃都はどうしているかしら」
「大騒ぎでしょうね…四方八方に人を送って、探させているでしょう」
「…やっぱり、帰らなきゃダメよね。わたし達」
「はい。その通りです」
「すまんが、びくの魚を取ってくれ。ついでにお前らにも魚の捌き方や焼き方と言うものを教えてやろう」
「はーい」
 料理は手際よく進む。魚を開いて内臓を出し、塩を振って櫛を刺す。そして、それを火の回りにおいて焼けるのを待つのだ。
「…少し時がかかる。暇なら向こうへ行って何か遊んでいるといい」
「ううん…ここに居るわ」
「何故だ。動けんほど疲れたか…それとも何か…」
「おじいさんの話が聞きたいの」
 ふとリリィはそう言った。思いつきで始めたこの家出旅、今ここまで無事にいられたのはこの老人のお陰でもある。一見無愛想に見えて、その実中は竹を割った様に明瞭な性格。しかし、時折過去に対する並々ならぬ思いを感じさせる目をしている。知りたい、果たして彼は…どの様な人なのだろう。

 「変わった子供だ…こんな老人の昔話を聞きたがるとはのう」
「わたしと彼はまだ十を少し越したくらい。…知らないこともたくさんあるし、分からないことも。おじいさんの昔の思い出から、それが分かったらいいなって」
「ふん…まあ良かろう。一応わしもここまで、それ相応に波乱の人生を送ってきた…この七十五年の人生、終わりも近いだろうから、お前達の様な子供に語り残すのもいいかの…」
「七十五歳…そんな長生きを…」
「あぁ。わしの父親もお祖父さんも、そんな生きる者は居らなんだ。この世の楽しみを尽くし、医師を側につけて、神々の寵愛厚いアリイとてそうじゃ…」
「アリイ?じゃあおじいさん、貴族なの?」
「昔はそうじゃった…わしの父親は、国主様と崇め奉られる人でな、わしもその子供として大勢の人に傅かれてきた。だが、跡継ぎの争いに負けて国を追い出され、流れに流れてこの場所へ来た。九番目の王様の御代の、十二年だったかのう…」
「九番目の王様?」
「そうじゃ。わしが生まれたのは、さらにそのまたお母さん、八番目の王様の御代の末のことでな。その頃にもとても長生きの人がいた。とある老人は五番目の王様の御代に生まれて、そのお父さんは三番目の王様と直接お会いしたことがあるとか言う話じゃった…まあそれはよかろう。…九番目の王様は、兎に角人気が無かった。いや、王様だから皆一応敬意を払ってはいたが、どこか要らないものの様に思っていたろう。わしの生まれた田舎では、王様の代替わりも知らぬ者が居た程じゃ。…その様な時代だった」
「おじいさんは国を追われた後どう暮らしていたの?」
「国を追われた後、わしは初めて都に登った。何しろ、わしは爪弾き者、庶民の様に耕す土地があったわけでなし、かと言って奴隷は嫌じゃった。だからわしは、同じ様に弾かれた無宿人の中に入り込み、なんとか大工の職を得た。これは、アリイの方々から命じられたり、国の労役に従って建物を造営する仕事でな…楽ではなかった。だが、毎日の食だけはきちんと貰えた。恥ずかしいことじゃ、家を追われてから漸く食事の尊さというものを知ったのだ」
「……」
「そして、かれこれ四十年以上その仕事をした。アリイの方々の為にいくつもお屋敷を建てたし、王様の離宮も建てた。三十九年の大火事で都が焼け野原になった時も、わしらがみんな建て直したたんじゃ」
「大火事…」
「そうじゃ。火が燃え上がり、竜巻の様にばっと空へと伸びて…逃げ惑う人々が押し合いへし合いして、その後重なり合って焦げ死ぬわけじゃ…。雨が降って日が消えた後に見てみたら、南方の庶民の家も、北の方の拝領屋敷もみんな燃えてしまって、奴隷小屋の奴隷から、貴いアリイの家族まで皆一応に倒れておった…わしらが心血を注いで建てた屋敷が何軒も燃えた…」
「悔しかったでしょうね…」
「いやいや。そのことでわしは気がついた。あぁ、所詮は贅沢に身を飾り、出世に心を砕き、見事栄達を果たしたとしても一夜にしてそれは潰える。ならば、この世での栄耀栄華を希求したところで何になろう、とな」
「栄耀栄華…」
「男の方」
「はい!?」
「お前さん、見たところカフナの出だな。身なりがよく言葉遣いは良いが、アリイらしく威張ったところが見えん」
「た、確かに父は医師ですが…」
「…アリイになりたいと言う顔をしていた。何を求めておるかは知らんが、余りそれに囚われてはならんぞ」
「そうなの?」
「え、あ、いやぁの…」
「カッカッカ…のう、子供ら。わしはな、七十五年生きて漸く、人生というものの一つの境地に辿り着いた。世の中は有為転変、栄華を極めた人もふとしたことで惨めな終わりを迎え、はたまた底を這う虫の様な生まれの人が富貴に至り子々孫々まで栄える。しかし、たとえ我が身はどうあれ親しい者、愛しんだ者もいずれは消え去る。結局のところ、何かを永久の物にしたいという求めは無駄なものなのだ」
「…じゃあ、私たちは何をしたら良いの?どうやって生きたら良いの?何のために私たちは生きていけばいいの?」
「…それはのう、簡単なことじゃ。『お嬢さん』、今を愛することじゃ。自分の人生や境遇が、川面に浮かぶ浮草の様に儚く変わるものであるならば、だからこそそれを愛することじゃ…苦しくても、悲しくても、楽しくても…今は今しか有り得ぬと、そう思って愛しみ、生きなさい。いずれ失われると言って邪険にせず、むしろその日が来るまで…それがある幸福を噛み締めることじゃ」
「……」
「分からぬかな、いや、それで良い。だが…いずれ年月を重ねれば、わかる様になるじゃろう…」 「おじいさん、では貴方は、今何か求めるものはありますか?何かなさりたいことは無いのですか?」
「…強いて言うならば、昔から綴ってきた日記を書き上げることじゃな…。そろそろ、あれを終わりにして一冊の本にしたいと思うておった。わしが死んだ後、誰か一人でも、わしを覚えておいてくれたらと思って書いたものだ。それだけが、今の望みじゃよ…。さあ、魚が焼けた、食事にしようかのう」

 食事を済ませ、夜の闇が林を包むと老人は早くも明かりを消して寝転がり、安らかな寝息を立て始めた。簾を通して月明かりが差し込み、虫の声だけが響く中、二人は少し離れた場所で寝ることになった。たった一枚の筵を借りて寝そべると、ふとリリィがクリスの体を強く抱きしめた。
「…どうかしましたか?」
「…ううん。なんでもない。だけど…」
「だけど?」
「あのおじいさんが、『今を愛せ』って言ったから。…だから、あなたのことを大切にしたい…というか…」
 それ以上彼女は何も言わなかったし、彼も何も答えなかった。朝が来て、二人にささやかな旅の終わりを告げるまでの間、何かを話す者はいなかった…。

 「…おや、偉く懐かしいものを読んでいますね、リリィ様」
「クリス。覚えていたのね、この日記」
「勿論。リリィ様の我儘に付き合ったことはみんな覚えていますから」
「……」
 青年は笑った。彼女の読んでいたその本が、二人のところにやって来る、そのきっかけになった思い出にむけて。
「…もうあの人が亡くなってから、十一年経つのね。結局…あの人がどこの誰だったか、あの人自身の口から聞くことはできなかった」
 彼女は静かに外を眺めた。後一年生きながらえて、あの大きな変化を彼が見たとしたら、一体どう日記に記しただろうか。
「どうですかリリィ様」
「なあに?」
「…あの人の言葉の意味が、わかりましたか?」
「……まだ全てじゃない。けれど、少しはわかる様になった」
 過去を懐かしむだけではない。未来を憂うだけではない。今に視線を向けて、それを愛そう。どれほど変わっていったとしても、結局はこの場所が故郷で有り、私達が生きる場所なのだから。
 リリィはそう思いながら、一冊の本と記憶とを、本棚の奥に仕舞い込んだ。

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