架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

 「お疲れ様。また明日」
 わたしはそう言って、強引に部屋を出て行った。後ろは振り返らない。そう心のうちに決めて、扉を締めて階段を降りる。
 どこかに行くあてがあるわけではない。どうせ日が暮れたら、また王宮には戻らねばならない。それでもわたしは、日暮れの街へと強引に一歩を踏み出した。
 一応この熱帯の島にも、季節めいたものはある。蒸し暑い夏から、多少過ごしやすい秋がくる。半袖では少々肌寒い時節だ。
 街の人通りはまばらである。今夜が細い三日月の夜なのもその理由であろう。薄暗く閑散とした都の大路、対照的に明るい提灯が提げられた食堂からは、こんな日にも賑わいが絶えない。
 だけど、わたしはそこには目もくれなかった。ひたすらまっすぐに歩く。そうしなければならないと、なぜかそう信じていた。
「リリィ様」
 名前を呼ぶ声がした。大路の真ん中で、ひんやりと冷たい土を靴で踏み締めたその時に。誰の声かはすぐにわかる。物心付いた時から慣れ親しんで、記憶の最初から決して側を離れない。わたしの半身にも等しく、心から信頼する人ーそして、今最も会いたくない人だ。
「クリス、どうかしたの」
 彼は少し驚いた様な素振りだった。それもそうだろう。何しろ、わたし自身でさえ、口から出た声の冷たさに、内心驚いた程だから。
「その。やはり、昨日のことを」
「昨日」
 その言葉が心のかまどに火を入れる。ずっと、オロヘナ山の頂に積もった雪の様に冷え込んでいたわたしの心が、急に熱を帯びる。だけどそれは、普段わたし達が持っている温かな、それでいて心地よい熱ではない。暗く、澱んで、肌を刺すように痛々しく、悲しい熱だ。
「はい。不愉快にさせた、と思ったので。申し訳ありません」
「……ううん、気にしてないわ」
 嘘を吐いた。その声はあまりにも自然に口から転げ出た。いや、きっとわたし「自身」は嘘だなんて思っていないだろう。きっと本当に気にするまいと思っているのだろう。だけど、それは結局のところ嘘だということは、他ならぬ「わたし」が知っている。
「………」
 明るい土色の瞳が微妙な光をわたしに注ぐ。
「嘘つきめ、俺はよく知っているぞ。お前は俺の呼びかけを三回も無視したじゃないか。視線さえ合えば逸らしたじゃないか。部屋からだってすぐに出て行って、話さえしなかったくせに。そして、挙句、お前は大使館での仕事の最中に、俺の分の茶まで無理やり飲み下したじゃないか」
「違う。それは違う、単にそういう気分だっただけ」
「その通り、でもあなたが悪い。何もかもあなたが悪いのよ!」
 心に浮かんだ声は、どちらも出てこない。心の奥底で流れる思いは、喉元で強く押さえつけられ、ごぼごぼと大きな音を立てている。それを悟られない様に、わたしはまた努めて声を作った。
「それだけかしら。他に、何かある?」
 何もない。そう言うだろうか。彼は、そんな人間だ。万事に控えめで、わたしが道を誤らない限りは、差し出口を叩くこともしない。逆に言えば、彼が引かないということは、それは何か並々ならぬ覚悟あってのことだ。…どう答えるのだろう。
「……ご迷惑でなければ、少しお話しできますか?」
 彼は踏み込んできた。扉を押し開いて、わたしの中に、引けない一歩を踏み出してきた。どきり、と心臓が跳ねる。一体何をする気なのだろう、何を告げる気なのだろう。
 悲観、楽観、恐怖、怒り。ぐるぐると回る思いは、わたしから論理を奪った。ただ感情のままに歩けとわたしに命じた。
「……」
 わたしは黙って頷いた。不安と恐怖と、ほんの僅かな喜びをたたえて。

 「今日はいい天気でしたね」
「…そうね」
「雨が多いのに珍しい」
「…ええ」
「……」
「……」
 こんな実の無いやりとりを、何度繰り返したことだろう。彼の言葉は虚しく響き渡って、何も生み出しはしない。まるで鐘を叩くようだ、わたしはそう思った。どれだけ叩いても、所詮鐘は音を鳴らすだけで、それ以上は返してくれない。振動が収まれば、また沈黙が辺りに生い茂る。
 どうしてだろう。昨日の朝まで、わたしと彼とは、この世で最も近しい関係だと思っていたのに。手を伸ばせばすぐに相手の胸に届くくらいに、目を閉じても、隣から体温や鼓動がありありと伝わるくらいに。二人は寄り添っていたはずだった。
 なのに今は、赤の他人よりもずっと遠い。顔も知らないどこかの誰かに宛てて、届くかもわからない手紙を書くような思いだった。
 元はと言えば、どうしてこんなことになったのだろう。少し目を閉じて、わたしは思い出した。
「すぐにお休みを頂きたいのです。急の知らせが入り、すぐに実家に帰らなくてはいけません」
 今から一月ばかり前、急に彼はわたしにそう言ってきた。
「どうしたの一体。何があったの?」
 基本的に彼の仕事はわたしの付き人だ。いつでも側に仕えて身の回りの世話をする。休みと言ったって、主人の側には居なくてはならないから、実質彼に休暇など無い。その上で休ませてくれというのは、即ち彼が自分のもとを離れていかなくてはならない理由があることを示していた。
 この時すでにわたしの心は穏やかではなかった。心配がよぎり、ざわめきが起きる。
「父が急病だそうです」
「お父様…先生が」
 彼の父親の顔を、わたしは知っている。彼の父は辺境の出でありながら、優れた学識を認められ、王室付きの教師にまでなった人だ。その人こそが、わたしと彼との切れない縁を繋いでくれた人に他ならない。
「父が倒れたと母親から書簡があり、場合によってはすぐに手術が必要になるかもしれない、と」
「…分かったわ。直ぐに行きなさい。一ヶ月の休暇を与えるわ」
「ありがとうございます」
 その日のうちに彼は船を見つけ、地元へと帰っていった。彼の地元はとても遠く、順風の時でさえ一日半は優にかかる。どうか良からぬことが起きる前に間に合ってほしい。そう考えながら、わたしは彼を送り出した。
「ねえ、ぷいちゃん。クリスは大丈夫かしら」
 夜。一人きりの部屋で、わたしは飼っているモルモットを抱き上げた。ふっくらとした体つきに、柔らかな灰色の毛並み。抱き上げると温かさと共に、速い鼓動が伝わってくる。
「ぷい?」
 モルモットはくりくりとした目でわたしを見上げた。きっと言葉など理解できていない。遊んでくれるのか、それとも追加で餌をくれるのか。そのくらいのことしか思ってはいないだろう。
「…もしも、彼が戻れないことになってしまったら、どうしよう」
 あり得ない話ではない。彼の家は地元の島ー人口は千人かそこらの小島だがーでは相応の名家だ。過去には一代限りでアリイの称号を得た当主も輩出している。そうでなくとも、彼は優秀だ。よく人の心の機微を悟り、穏やかな性格で常に周りと和合して争うことがない。彼の家が島から抜け落ちれば、それは現地社会にとっては大きな損失になるだろう。
「でも、嫌だな…」
 その一声が呼び水になった。心の中で古い思い出までもが鮮明に蘇る。二人で主に学んだ日々、陽の光の下に出られないわたしの為に、花を摘み、傘を編んでくれたあの日、全てが変わっても、なおわたしの側にいて支えてくれた今日までの十年…。
 もはや彼の存在はわたしにとって、いないことが想像できないくらいに大切なものになっていた。思えば愚かなことだろう、常に側に仕えてくれることがどれほど大変か、どれほど貴重でかけがえのないものか。それを今更ながらわたしは思い知ったのだ。
「嫌だよ、もるちゃん。クリスが居なくなるのは、やだ…」
「ぷぃ…」
 艶やかな毛並みに一雫、涙が落ちた。そしてそれは、二つ、三つと増えていく。しかし、膝の上から温もりが去ることはなかった。心の内を理解してくれているのだと、その時だけは信じられた。
 その日からわたしは、何度も夢を見た。大切な人が、光の中へと消えていく夢だ。わたしは追うことさえできず、見送るしかない。そして、決まって目が覚めるときは…泣いていた。

 「殿下、クリストファー様から電報です」
「直ぐに見せて」
 数日後、彼から電報が来た。曰く、
「チチツツガナシ アスノフネニテ」
 島には外国からタダ同然で引き取った旧型の設備しかなく、通信環境は極めて劣悪である。この二十世紀の末の末に、未だに数単語の電報が現役の通信手段である。だが、それでもわたしにとっては嬉しかった。よかった、彼は戻ってくるのだ、と。たったこれだけのメッセージが、心を軽くし、舞い踊らせた。
「直ぐに返信なさい。いい?『スグニハオヨバズ シバシヤスメ』」
「『スグニハオヨバズ シバシヤスメ』、承知しました!」
 その後、詳しい経緯を説明した手紙が届いた。電報で伝えられた通り、父親は殆ど健康であり、しばらく医師の世話にはなるが、直ぐに治るであろうこと。そうなれば電報を打ち、直ちにそちらへ帰ること。戻る時には土産物の菓子を携えていくこと…何度も何度も、舐めるように手紙を読んだ。ああよかった、これで万事丸く収まる。
 わたしは返事を書いた。折角だから、与えた分の休みは使い切りなさい。また会える日を楽しみしている、と。
「やった、よかった!クリスが帰ってくる!」
 夜、一人になったわたしは、子供のように無邪気にはしゃいだ。それだけ嬉しかった。心配が氷解して、また彼と会えることが、嬉しくて嬉しくて堪らなかった…。
 幸福の糸が切れたのは、彼が都に戻る前日のことだ。わたしはその日の朝、昼出港の船に乗って帰京する旨の電報を受け取っていた。帰ってくる彼の為に何か甘い物でも用意してやろうか。そう思案をめぐらせながらベッドに入る。
 …暗い夜。月一つ、星明かりひとつ見えない真っ暗な空。その中に一隻の小舟が揺れていた。ざあざあと激しく波立つ海。舟は押し戻され、引きずられ、揉まれている。
「クリス!」
 わたしは、自分が何処にいるのかも分からない中で、その名前だけを呼んでいた。しかし返事は無く、遂に舟は転覆し、真っ黒な海に呑まれていった…。
「あっ!」
 目を開けると、微かな日差しがカーテンの間から差し込んでいた。体は汗でぐっしょりと濡れていて、心臓は早鐘を打っている。息が上がり、視界は滲んでいて形をとどめていない。
「クリス…!クリス、クリス…」
 無意識のうちにわたしは何度も何度も名前を呼んだ。ああ、どうか無事に帰ってきてほしい。無事でさえいれば、それでいい。また顔を見せてくれたら…!
 ラピタにおける夢は、何かの啓示そのものだ。昔からわたしは、自分の見る夢を事細かに覚えて記録しなくてはならぬと、そう教わった。だから、単なる夢と頭で割り切ることなど、出来はしなかった。
 ふらふらとおぼつかない足取りで、わたしは浴場へと向かった。汗と涙とを洗い流すと、多少頭が落ち着いた。服を着替えて、そのまま神殿に向かう。
 据えられた神々の像に対して舞を奉納し、そしてひざまづいて国家の平安を祈った。…お世辞にも信心深いわけではない。それでも、この時ばかりはラピタにも神様はいるはずだと、思わずにはいられなかった。
 …はたして、彼は無事に帰ってきた。書記官室の扉が開き、あの優しく照らす光のような笑みを浮かべた時のわたしの気持ちが、きっと彼にはわからない。
「おかえりなさい!生きていてよかった…」
 もう少し勇気があったなら、彼を抱きしめていたはずだ。
「はい、ただいま帰りました」
 彼はにっこりと笑って応えた。そして、荷物からお土産の箱を取り出すと、ふとなんでもない様に呟いたのだ。
「ことの経過次第では、もしかしたら、この仕事も辞めることになったかもしれません」
 その言葉が心に入れたヒビの大きさもまた、彼には伝わっていないだろう。

 「その」
「なに?」
「あの時は無責任なことを言いました。もちろん、本気だったわけではありません…今後は、決して言わないように努めます」
「何が、かしら」
 何度目かもわからない謝罪を彼は口にした。でも、そうじゃない。あなたの言葉は、全く見当違いのことを言っている。
「辞めるかもしれない、と言ったことです」
 確かにその言葉は、わたしの心を強かに傷つけた。思えば理不尽かも知れない。寂しさに震えていたことも、不吉な夢に泣いたことも、伝えなければわからないだろう。
 でも、結局はその程度なのだ。夢も寂しさも外目にはわからない。わたしがどれだけあなたを大切に思っているか、言わずとも察してくれということが、どれほど都合の良いことかわからない自分ではなかった。ましてや、いつも寄り添ってくれていた彼を相手に。
 しかし、心の奥底には「どうしてその程度のことがわからない」という思いが蟠っている。あなたが大切、失うのが怖い。わたしが恐れていることを、どうしてあなたはそう口に出せるの?「ことと次第」って何よ。そんなことであなたがわたしの側から離れていくなんて…。
「クリスは」
「はい」
「クリスは、補佐役を辞めるかもしれないと、そう言ったわね」
「はい、それはその…仮定の話です」
「わかってる。だからそれはいいのよ。本当のことじゃないのはわかってる。…それに、本当にあなたの家族に何かあったら、あなたには自分のことを、第一に考えてほしいの。だから、それは仕方がないことよ」
 半分は自分に言い聞かせるための言葉だ。
「決して、リリィ様のことを軽視したわけではありません」
「知ってる。でも、それでもどうしようもないことは起こるかもしれない。……あなただけのことじゃなくて、わたしにとってだってそう。もしもの時、ひょっとしたらわたしに何かあって、あなたと離れなきゃいけない時が来るかもしれない」
「……それは、」
「もしもの話よ。仮定の話…」
 ひどい言い草だと自覚はしている。でも、これで分かってくれるかしら。わたしの気持ちとあなたの気持ちが同じ方向を向いているのなら…。
「自分は、辞めませんよ」
「でも、辞めるかもしれない。わたしも同じよ」
「…もしも、本当にそうなったとしたらー」
 違う!やはり、彼は分かっていない!昨日だってそう、わたしが話しているのはそんなことじゃないー
「クリスは、昨日も同じことを言ったわ」
「昨日」
「そう、昨日」
「言ったかもしれません」
「言った」
「…はい」
「クリスは、『もし本当に辞めることになる時は、引き継ぎをきちんとします』、と言ったわ」
「はい」
「それから、『決して不都合の無いようにします。そのことでいい加減なことはしませんし、自分が辞めることでリリィ様に迷惑をかけたり、不安がらせるようなことはしません』って」
「…はい」
 ああ、やはり。あなたは分かってはくれないのね。分かる、あなたのその顔が、可愛らしいきょとんとした顔が、全部教えてくれた。
「不都合の無いようにする?…そんなことできないわ。絶対に無理なことなんか…出来もしないことなんて、言わないで」

 逃げる様に王宮に戻ると、わたしは自室に引きこもり、泣きじゃくった。どうして、どうして彼は分かってくれないのか。わたしは、あなたが辞める、辞めないなんてことで怒ってはいないのに。
「愛しい」
 あなたが何万回口を滑らしたって、許してあげる。
「大好き」
 でも、あなたがわたしの側からいなくなるのは嫌。
「あなたが特別」
 あなたと、クリスと、
「ずっと一緒にいたい」
 …わたしは独りよがりだった。自分がどれほど大切に思っているか、彼に理解して欲しかった。あの時、わたしの心にヒビが入った時、彼に答えてほしい言葉はあった。
「私はリリィ様の『特別』ですから」
 自惚れ以外のなんでもないセリフ。でも、それでいい、彼が自惚れ屋で、主人の寵愛を一身に集めていると、そう信じて疑わない人ならよかった。そうしたら、わたしはきっと、こんな酷く、心を引き裂かれる様な思いはしないで済んだはずだ。
 …分かってはいる。そのことが、わたしの下から去る以上に、彼にとって難しいことに。何事にも慎ましく控えめで、立場を利用することなど絶対にしない。わたしに対しても一線を守って、常に敬意と礼節を忘れずに接してくれる。だとしたら、その分を侵そうとしているのはわたしだ。非は全てわたしにある。
「う、ううぅ…」
 泣き続けた。感情の溢れるまま、思いの荒れるままに、わたしは涙を流し続けた…。

 「リリィ、リリィ。起きなさい、リリィ…」
「ん…」
 泣き疲れて力が抜け、気が付かぬうちに深い眠りに溺れていた。それを、優しい声が引き戻す。
「目が覚めたか、リリィ」
「…陛下!」
 側にいたのは国王ーわたしの父だった。大柄で肩幅が広く、威厳を作ろうとしているのか、小さく髭を生やしている。
「忘れたかリリィ。王宮の中では、私を父と呼べと言ったぞ」
「…失礼しました、お父様」
「何かあったのかね。ずっと泣いていたが」
「それは…」
「言ってみなさい。父ならば、聞かねばなるまい」
「実は…」
 わたしはみんな話した。自分の気持ち、理解してほしいこと、彼の言葉、そこから逃げ出してしまったこと。きっと、彼を傷つけてしまったこと…。父は何も言わずに、黙って聞いてくれていた。話すうちにまた涙が浮かんでくる。しゃくり上げながら、わたしはかろうじて全てを話し終えた。
「…リリィ、一つ言ってもいいかね」
「はい」
「お前は、クリスのことが好きかね」
「…はい」
「側にいてくれて、幸せと思うかね」
「……はい」
「…それをお前は、彼に伝えたかね」
「…いいえ」
 父の言葉は優しい。誰も責めることなく、穏やかな声で、わたしの心に染み透ってくる。
「かつて文字がなかった時代、ラピタでは口に出す言葉が全てだった。他の国ではいざ知らず、この国では、話すことが命そのものだった。分かるな?」
「はい」
「お前の心の内をそのままに打ち明けなくてはどうにもならない。まずは、それを忘れてはならないよ」
「…はい」
「…リリィ。一つだけ、お前に教えてやろう。ついさっき、お前は『クリスが側に居て、幸せだ』…そう答えたね」
「はい」  
「クリスにも、そう思っていて欲しいかね」
 …そうか、そうだったんだ。わたしの中で全てが繋がった。言葉の意味が、表情の意図が。何もかもわかった。彼もわたしと同じでー欲しかったのだ。
「そう思っていて欲しい、です。わたしだって幸せだから。あなたがまた戻ってきてくれてよかったと、そう思っているから…」
「…ならば、そう伝えなさい。どんな言葉だって、よい。彼に包み隠さず、そのまま…」
 父が出て行った後、わたしはしばらく眠れなかった。しかし、段々と瞼が重くなり、緩い眠りの海の中に体が沈んでいく。薄れていく意識の中で、誰かがわたしを呼んだ気がした。
「リリィ、リリィ。愛しているわ、わたしとあの人の娘…心の底から愛している…」
「…おかあさん。わたしも、そうするから…」
 幸福な日々の記憶を抱き締めて、わたしの意識は闇へと溶け去った。

 翌日。わたしは遠い地方の現場に行く為に、彼と一緒に馬車に乗ることになっていた。集合場所は王宮から少し離れた寮。彼が迎えにきてくれる約束だった。
 心地よい馬蹄の音を響かせて、二頭立ての乗合馬車が来る。
「リリィ様」
「おはよう、クリス」
 わたしは彼のすぐ後ろの席に乗った。手を伸ばせば、御者である彼の肩にはすぐに届く。
 天気は良い。雲一つない空だ。気温はほんの少し肌寒いが、上に何かを羽織れば訳のないことだ。
「……」
「考えごと?」
「…はい」
「わたしのこと、かしら」
「…そうです」
「ごめんなさい」
「そんなことはー」
 振り返った彼と視線がぶつかる。
「クリスが大変な時に、困らせてしまってごめんなさい」
「…いいえ」
「もう、変なことで怒ったりしない…酷いことを言ってしまったから、許してはもらえないだろうけど、それでも、もう二度とあんな風に怒ったり、酷いことを言ったりはしないから…」
 まだだ。まだ終われない。もっと伝えたいことがいくらでもある。言わなきゃいけないことがたくさんある。だけど、わたしの口は動かなかった。許してもらえないかもしれない、もう彼はわたしの側にいることを、幸せとは思っていないかもしれない。
「いえ、その…自分は、自分が知らないうちに、傷つけるのが恐ろしいので」
「クリス?」
「…きちんと仰って頂くのが、いいと思います。自分の方こそ、申し訳ありませんでした」
 声に怒りは無かった。ただ優しく、わたしを気遣ってくれるいつもの声だった。無意識のうちに表情が緩んでしまう。
「仲直り、してくれる?」
「勿論です」
「…よかった」
「はい、自分も嬉しいです」
 ここで言葉を止めるな。何かに駆り立てられる様に、わたしはさらに続けた。
「クリスは、いつかわたしの付き人を辞めてしまうかもしれない」
「えっと、その…」
「別に怒ってるわけじゃない。でも…わたしは、その、駄々をこねたの。一緒に居られないとしたら、すごく馬鹿なことだと思う。…限られた大切な時間なら、こんな悲しいことに使いたくはないから」
「…でも、そうさせたのは自分です」
「クリスは別に悪くないのよ…えっと、その、変だわ。仲直りしたなら、もっと楽しい話をしたほうがいいのに。ええと、お別れ…ひょっとしたら、すぐか、もしくはおばあちゃんになるくらいの遠くまで、笑顔の時間がたくさんあるといいなって…」
「はい」
「だから、嫌なことを言ってごめんなさい。わたしはお別れが嫌で、今、すごく幸せだから…だから、その時まで、嫌なことは言わないのがいいかなと、そう、思いました…」
 伝わったかな。回りくどすぎたかな。ほんの少しの不安が心の中にある。でも、気持ちは今は穏やかで、またお互いに通じ合っていることはわかった。
「もしも、自分が」
「ん?」
「もしも自分が、『ついてきてくれ』と言ったら、リリィ様はついてきてくれますか?」
 その時、風が吹いた様な気がした。心の中に澱の様に溜まった何かを吹き飛ばす清風が。
「それも良いわ…クリスと一緒なら、どこだって楽しいから」
 それだけ言って、わたしは目を閉じる。昨日の夜には無かった安らかな眠気が体を包んでいた。
「大好きよ、クリス」
 その言葉は、夢の中のものだったのか。それとも、現実に出ていたのか。今はもう、わからない。

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