架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

 「島が見えたぞお!荷物をまとめろーい!」
 1990年6月の頃。その様な大音声でリリィは目を覚ました。窓からは明るい朝の光が差し込んでいる。
 彼女が眩しげに外を見ようとして体を布団から起こすと、ぎしりと床の軋む音と体が揺れる感覚がした。ああそういえば、と彼女は思い直した。ここは常ならぬ船の上だと思い出したのである。
「間も無く本船は、トゥアナケ多国籍租借地は、間も無くトゥアナケ港に投錨致します。お客様はお手荷物等纏められまして、下船の支度を願います…」
 ガサガサという雑音混じりのスピーカーから流れるアナウンスを聞き流して、リリィは隣の船室に足を踏み入れた。そこでは、一人の青年ともう一人、見た目は可愛らしい女性とみえる不思議な人が黙々と荷物をまとめている。
「おはよう、クリス」
「あ、おはようございますリリィ様。荷物の方は大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ」
「おはようございます王女様。よくお眠りになれましたか?」
「鉄の船は慣れないわ、アレノさん。やっぱり帆柱のある木の船でないと」
「まあ」
 彼女の付き人、クリスの側で笑うのはアレノ・リル。今回の旅で案内人を務めることになった、若いマウサナ人の外交官である。
「もう少ししたら船が港に入ります。既に連絡入れてますから、下船してすぐにホテルの方にご案内できますよ」
「何から何までありがとう、助かったわ。何しろ租借地に行くのはもう何年ぶりかってくらいだし」
「あの時はまだ無人島に村ができたくらいの頃でしたからね、リリィ様」
「今はどう変わっているか、じっくりご覧になってくださいな」
 三人が目指すのは、この古い王国の中で最も開かれた土地だ。今から数年前、産業の発展の為に各国との提携が結ばれたことで誕生したその場所には、国籍を問わず多くの人々が訪れ、開発と投資を進めてきた。アレノ以外の二人にとっては、正しく外国に行くに等しい。
「おや」
 ふと潮風がカーテンを越えて、客室の中に入り込んできた。そして、眩しい陽光、無限に広がる青空の下の外の風景が見える。
「あれは…!」
 その先に覗いたのは、小さな島。そして、そこに聳え立つ遥かな摩天楼の姿であった。無数の天を衝くビル群が立ち並び、島へと向かう船等を傲然と見下ろすその様は、遠くの沖からでもリリィを圧倒するに十分だった。
「ご覧ください。あれが今の、トゥアナケです!」
 ラピタ王国王女、リリィ・ティナ・ポマレがおよそ六年ぶりにトゥアナケの土を踏んだのは、それからおよそ一時間後のことだ。王都タアロアから二昼夜を越えた船旅の終わり、様変わりした港の桟橋が、初めの歓迎であった。
 「ATTENTION、タアロア発トゥアナケ着、定期フェリー三〇六便のお客様は七番ゲートより手荷物・検疫検査場へお入り下さい。トゥアナケ発、ハレレマヌイ・リゾート行きフェリーの搭乗受付は九時五十分から…」
 桟橋から下船した三人は、特権身分証を提示して速やかに検査場を抜けると、そのままターミナル出口で待機していた車に乗り込んだ。中は日差しが遮られ、クーラーからの涼しい空気が満ちている。
「あっつい、タアロアよりも暑いわここ」
「湿気とアスファルトの放射熱がありますからね。文字通りのヒートアイランドというやつです」
「近代化の弊害ってやつかしら」
 開発の著しく進んだトゥアナケの暑さは、タアロアに比べて不快極まりない。頻繁な降雨により単純な気温こそ低いことが多いものの、元来の湿気とアスファルトの放射熱などが合わさり、本土のそれに比べて些か過ごしにくいことは否めない点だった。
「このまま、アリイ・ストリートを真っ直ぐ行って、マウサネシア区画のホテルにご案内致します。リクエスト通り、島の風景を一望できる高層階のスイートルームにお部屋をご用意致しました」
「やったぁ!」
「ちょっと、車の中狭いのであんまりはしゃがないでください!」
 子供のようにはしゃぐリリィを横目に、クリスは外を眺めやった。車が走るアリイ・ストリートは、租借地の主島であるトゥアナケ島を南北に貫き、バンテン港ターミナルから商業繁華街、そして果ての方には他の島々に向かう飛行場につながっている。また、枝分かれしたいくつかの道を通ると、ここに住む人々の居住区画と工業区画が広がっており、華やかな印象は薄れ、雑然とした空気に包まれる。
 元来この島は、ラピタ本土では建設や経営が困難な工場(具体的には、従来破棄されてきた金鉱山の廃石を再利用し、金を抽出するもの)を建設する為に、ベルカ連邦が主体となって地方一円ともども租借したものだった。
 しかし、租借に参加する国や居住する外国人の人口増加、更には地方内の離島がリゾート地として注目されたことで観光客が流入し始め、その後を追う形で商業地や繁華街が整備されたのだ。
「(今や人口は二万人以上、流入する観光客は軽く二十万に手が届く勢い、そこから上がる収益は膨大極まる額になっている)」
 今やこの島は、王国における開発・商業・観光業・工業の最大の集積地であり、所謂一次産業や二次産業に依存していた王国財政に貴重な外貨収入を安定的に齎す「大鉱脈」である。何しろ、抽出金の収益を丸々他国に投げ渡しても、租借料と観光業者から流れるリベートだけで、十分に諸外国からの債務返済がこなせる程なのだから。
「(とはいえ、もう既にこの島に昔の面影は無いな。背の低い草むらに椰子の木がぽつぽつと生えているだけ、生き物といえば大きめのネズミとアホウドリ。そんなラピタの辺境だったのに…)」
「クリス?さっきから何を難しい顔しているの?」
「ん、ああいえ。なんでもありませんよ」
「嘘。あなたの目、ずーっとぼんやりビルを見ているわ。何か気になるものでもあったの?」
「まあそうですね…洋服とか、少し気になりました」
「ご希望なら、ホテルの方にお願いしてリクエストのお洋服を上下揃えますよ」
「ああいえ、いいんですアレノさん。そういうことではありませんから」
 白絹のチュニックの袖をいじりながら、リリィは「?」という顔をする。純粋に旅行を楽しんでいる彼女の気分に水を差すわけにはいかない。クリスは微かな郷愁を胸に仕舞い込むと、目を閉じてうたた寝に落ちた。
 車は大通りを抜けてマウサネシア地区に入ると、一際目立つ高層ホテルの前で停車した。様式は地区の持ち主らしく、機能的で無駄や豪奢な飾り気は無い。しかし、かといってその姿が無粋であるとか不恰好という訳ではなく、むしろシンプルであるが故に却って魅力を感じさせる建物であった。
「建物の外壁に青空が映ってるわ」
「窓が大きいからなんですよ。上の方から、島の風景を思いっきり楽しんでもらう為です。さ、中に入りましょう。最上階のスイートを予約してありますから」
 クーラーのよく効いた涼しげなフロントを経て、エレベーターに乗る。二十数階の最上階、そこまで登っていくと扉が開く。そして、廊下の突き当たりにある部屋にカードキーをあてて鍵を開けると…
「こちらが今回お泊まり頂く、最上階のスイートになります」
「はえぇ…」
「こいつは凄いですね!」
 壁は白い壁紙で覆われ、柔らかい絨毯が床に敷かれている。ベッドは一つの皺もなく整えられていて、飛び込んですぐに寝入りたい欲望に駆られる。が、なんといっても最も目を引くのは、その巨大な窓とそこから覗く雄大極まる島の景色であろう。
 窓は南西の隅から北東に向けて島全体を望む向きに開けられており、薄ぼんやりとした北側の浜辺まで、島のあらゆる建物を望むことができる。平らかな土地には見渡す限り家屋やビルが立ち並び、その様式にも各国の地区の差が如実に現れている。ある地区はコロニアルの白亜の家を建て、またある地区は団地の様な量産形の建物を並べていたが、これらの様式の違いが混淆され、唯一無二の情景を窓の額縁に描いていた。
「あっちのお風呂からも同じような光景がご覧になれますよ」
「本当!?」
 わーい、と子供のようにはしゃぐリリィ。二人はその様子を見て自然と頬を緩める。彼女はまだ知らなかった。なんでもテキパキとこなすアレノが、まるで図ったかのような偶然で、クリスの分の部屋を取り忘れていたことを…。
 あらかたホテルの利用法について説明し、食事券など諸々を受け取ったリリィとクリスは、早速島の観光に出かけた。無論アレノも一緒である。
「最初はどこに?」
「まあ、一応来たし政庁にご挨拶にでも行こうかしら」
「了解しました」
 トゥアナケ多国籍租借地、形式の上では国王の所有するトゥアナケ王室御料地の政庁は、島のほぼ中心にある各国共同管理区に存在する。島と地方全体の土地は、それぞれの国が自国の利権範囲として分割管理しているが、この政庁所在地に関しては具体的な所有国を定められていないのだ。
 政庁はラピタ本土に多く建築された小離宮の様式を模した三階建ての質素な建物で、白塗りの外壁に朱色の屋根瓦で葺かれた急峻な屋根が特徴である。
 車を降りたリリィが正面玄関から中に入ると、中ではさまざまな人種の係員達が忙しく働いており、カウンター越しに多様な相談を投げかける市民達に対応していた。
「ご連絡しましたアレノ・リルです。行政長官にお目にかかりたいのですが」
「承っております、アレノさん、クリスさん、ほしてリリィ殿下。三階執務室で長官がお待ちです」
 ラピタ人係員の案内の下、三人は階段を上がって三階の長官執務室の前に向かう。そして、係員がノックをして、
「長官、お客様がお見えです」
「入りなさい」
「失礼致します。ラピタ王国王女リリィ殿下、並びにその御付きの方々、お見えでございます」
「初めまして、殿下。トゥアナケ御料地執事、並びに多国籍植民地行政長官のマーティン・デロバートです」
 初老の紳士然としたデロバート長官は恭しく頭を下げた。彼は王国開闢以来初の外国人の御料地執事であると共に、多くの国々の利権が絡み合う島をここまで波乱なく統治してきた極めて優秀な政治家である。
「初めましてデロバート長官。リリウオカラニです。こちらは、補佐のクリストファー」
「ようこそおいで頂きました殿下。国王陛下におかせられましては、ご壮健とのこと、心からお喜び申し上げます」
 デロバートは形式上国王に任命され、その代理人として地方を治める執事であるが、行政長官の名の通り一方では市民によって選出された民主指導者でもある。彼は当初スカセバリアル地区の知事として選出され、その後知事会議と立法院の決定で初代の行政長官に就任したのだ。
 故にリリィから見れば、彼は臣下であると同時に外国の統治者でもある。王族であるとはいえ、あまり上からな態度を取ることはできない。
「今回は突然の訪問に際し、快く万事の手配にご協力くださいまして、ありがとうございます」
「いえいえ。寧ろこちらこそ、名声高い王女殿下を今一度迎えることができまして、感謝しております。フェイ知事、シソワット知事、ドルゴフ知事他、立法院からも歓迎の挨拶を預かっておりますよ」
 挨拶の記された手紙を受け取って懐にしまうと、リリィは改めて言葉を述べて辞去しようとする。すると、デロバートは徐ろに、
「こちらをお持ちください。島の詳しい地図です。良いお時間を過ごされます様に」
「ありがとうございます、長官。長官こそ、末長くお元気で」
 政庁を出た後、三人はもらった地図を確認した。そこには、明確にどこからどこまでが各国の土地かが示されており、またその地区の中で目ぼしい観光スポットや店などが書き込まれていた。
「こうしてみると、やっぱり国ごとのカラーが出るわね」
「確かに」
 例えばベルカ連邦の管理区域には、島の主要産業である工場があり、そこに住まう労働者の住居や彼ら向けの簡単な食事や日用品を売る店が大部分を占めている。他方、マウサネシアの地区は商業施設や飲食店、歓楽街が大きな面積を占めており、労働者達の心の洗濯場として機能している様だった。
「時に、スカセバリアルの区域には病院と学校がたくさんあるみたいだけど、これはどういうことなの?」
「それはまあ、簡単な話です。レファルみたいな国からは家族総出の出稼ぎが珍しくなくて、その子供達であったり、あるいはこの島で生まれる子供達に対して基礎教育をする必要がある、というわけなのですよ」
 マウサナ人のアレノは少し恥ずかしげに言った。なるほど、どうやらこの島の出生率は随分と高い筈である。何しろ…。
「ま、まあ!とりあえずスポットを回りましょう!マウサネシア地区は朝も昼も夜も楽しいですよ!」
「あ、話逸らした」
 さて、アレノの運転で向かったマウサネシア地区であるが、まさしくこの辺りはこの島の観光の中心地である。表通りにはマウサネシア企業の店だけでなく、本来租借地に参加していないフリージアやゴトロスのブランド店舗も見える。
「あれらの国は租借地に参加してなかったらしいけど」
「ああ、彼らは租借の代わりに、投資契約みたいな形で契約してる企業群なんです。リゾート開発とか、観光地化の原動力は国家というより、ああした民間企業なんですよ」
「ふーん…」
「あ!勿論王国政府の同意は得ていますよ!土地も所有ではなく賃貸ですし、きちんと利益の一部は上納して、」
「わかってるわかってる。大丈夫よ」
 苦笑いしつつリリィは車を降りて、多くの人で賑わうショッピングモールに足を踏み入れた。
「はー、すっごいわね。単にお店の集合だけじゃなくて、映画館とかレストランなんかも併設されてる…」
「各階ごとに色々と扱ってるものが違うみたいですよ。ほら、島のビーチ観光客向けの水着とか、あとこっちはお土産物みたいですね」
「確か、なんと言ったかしら、ボラボラ島の国にワニの皮を貢納するところがあったわよね。そこが出どころかしら」
「多分そうでしょう」
 モールの中は真ん中が吹き抜けになっていて、その周りを円周上に見せや行楽施設が取り囲む形で造られている。軒を連ねる店舗は皆リリィやクリスにとっては全く未知の店で、何を扱ってるかさえロゴマークでは判別出来なかった。
「とりあえず入ってみようかしら」
 そう思ってふと目についた店に入ってみると、唐突に店の中から大音量で、「お金とチンポ」が三人の鼓膜をぶち抜いた。そうかここはレコード屋だ、と得心する前に彼女達は店の外に這々の体で這い出し、向かい側の化粧品店に潜り込んだ。
「酷いわねあれ。音量が特に…」
「びっくりしましたね」
「多分誰かミスったんだと思いますが…」
「いらっしゃいませ、お客様。何をお探しでしょうか?」
「あら…あぁ、ここは化粧品のお店なのね…どこの国の品物なの?」
「はい、こちらはゴトロスの輸入代理店『オールドパルファン』でございます。ゴトロスの有名ブランドだけでなく、世界各国の優れた化粧品・香水を扱っておりますわ」
 品の良さそうな店員は、やってきた客の身分が高いことを目ざとく見抜き、五割増しでお愛想を振り撒きつつ、商品をあれこれと宣伝した。
「むむ…化粧品というのは思ったよりも奥が深いのね」
「そうなのですお嬢様。昔から人間は、自分を磨き、より美しくなるために途方もない苦労を積み重ねてきたのですわ。ご覧下さい、こちらの香水。デニエスタ帝室御用達の『シシィ』ブランドの香水です。貴重な天然材料だけを使った、お客様によくお似合いの格調高い香りで…」
「リリィ様、その辺にしておきましょう。もうキリがありませんから」
「う…気にはなるけど…確かに値段も考えると…うーん…じゃ、とりあえずこの日焼け止めだけ買うわ。これ下さい」
「はい、お支払いはリエーラで宜しいですか?」
「はい」
「リリィ様、俺ちょっとトイレ借りますから、先に行っててもらえますか」
「あら、いきなり?…まあいいけど。この先の広場で待ってるから」
「ありがとうございます」
 と、この様な調子で三人は店を後にした。リリィとアレノは先に広場に向かい、それから少し遅れてクリスが追いかけてくる。
「随分時間かかってたけど何してたの?」
「え、ああその。トイレの使い方に慣れなくて。すみません」 
「ふーん…まあいいわ。ところで、ちょっとお腹すいたからご飯食べに行きましょ!」
「はい、それじゃ、モールのレストランに行きましょうか。お好みは何か?」
「特には」
「では、ここから一番近いマウサネシア料理店に行きましょう。美味しいガパオライスが食べられますよ」
「わーい!」
 それから少し後。たらふくマウサネシアのガパオライスとラッシーを飲み食いしたリリィは、腹ごなしがてらモールを出て街を歩き回った。境目となっている通りを一本抜けると、その先は全く風景が様変わりする。
「この辺りは確かレファルの地区なのよね」
「はい。レファルはいわゆる古典主義に傾倒していまして、この辺りは昔ながらの煉瓦だとかの建材を使った建物が多いんです」
 アレノの言葉の響きには少しやれやれ、と言う色がある。確かに狭苦しい島の土地を有効利用するには、少しでも面積を取らない高層建造物が適している。しかし、一方でレファルのそれは階層が低く、収容人数もそこまで多くはない。
「私はこう言うの趣感じて好きかな。街路樹も丁寧に植わってて、空気も美味しい」
「まあ確かに。心なしかこの辺りは多少綺麗な感じがしますね」
「ピロシキ〜ピロシキは要らんか〜」
「あ!なんか美味しそうなのがあるわ!クリス、あの屋台行ってみましょ!」
「はい!?」
「よく食べるのねあの王女様って…」
 島の各地ーそれこそ、工場の近辺まで回り終えた頃には、既に街は闇に包まれていた。車に乗ってマウサネシア地区に戻ってくると、煌々と桃色のネオンが灯った店が営業を始めており、仕事終わりの労働者たちの姿が観光客に混ざり始める。 「先にホテルに戻ってお風呂に入りましょう。その後お夕食ということで」
「まあ、お酒も飲むし妥当かしらね」
「そういえば客室は…一緒、でしたよね。俺達」
「…それ、今言うの?」
 部屋に戻った後、リリィはちらちらとクリスの様子を伺いながら、脱衣所に入った。
「いい、絶対入らないで。覗かないで。入ってきたら絶交だから」
「はいはい」
 もはやこのやりとりも慣れたものだ。そう思いながら彼は冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出し、中身をコップに開けて飲んだ。暑さでオーバーヒート寸前だった頭に痛烈な冷たさが染み渡る。
「ああ、確かに。綺麗だなこの風景は」
 ふと窓の外を見ると、そこには確かに値千金の夜景が広がっていた。街頭の並ぶ大通り、店やビルから漏れる明るい光、対照的に真っ黒な海…。見惚れてしまうほどに美しかった。
 同じ頃。リリィもまた、遥かな夜景を見ながらバスタブに体を沈めていた。
「あったかい…」
 入り慣れた王宮の温泉とはまた趣が異なる。あそこでは煌めく星空は上にあった。しかし、今は自分のはるか下に広がっている。窓側のヘリに頭を乗せて夜景を望みながら、ふと彼女はガラスに息を吐きかけた。そして、生じた曇りに指をなぞらせて小さな絵を描く。
「く、り、す…ふふっ。なーんて…」
 彼も入れてやるべきだっただろうか。頭の中にそんな疑問が浮かぶ。一緒に浴槽からこの夜景を望むのも悪くはないだろう。
「…でも、恥ずかしいよ」
 リリィは今年二十歳になる。最早、自分が彼に抱く気持ちの名前を知らない訳ではない。既に薄ぼんやりとしていた思いは明確な形を取り始めている。
「だから、特別なのかな…」
 元々男女を別つ文化が無く、日常的に人々が混浴するこの国の習慣で生きていながら、どうして彼一人と入浴を共にすることがこんなにも恥ずかしいのだろうか。その理由は既に明らかだった。
「さ、行きましょうか」
「うん」
 風呂で体を洗い、汗を流した後、二人は部屋を出て約束通りホテル内の高級レストランの前までやってきた。正直なところ、雰囲気はこちらが気後れするほどに華やかで、伝統衣装がドレスコードを根拠に弾かれやしないかと不安になるほどだった。
「いらっしゃいませ。ご予約は承っております。どうぞ窓際のお席へ」
 アレノとリリィ、クリスは窓際の一番景色の良い席に案内された。ボーイが手早くメニューを準備して持ってくる。
「ここは何料理なんですか、アレノさん」
「ここはカーリスト料理の専門店ですよ。ラピタから輸入した産物を使ってのフルコースが売りです」
「なるほど」
 じゃあそれを、と頼むと確かに彼女のいう通り、食べ慣れた野菜や果物が見慣れない形で次々と供される。流石は高級ホテル、メインだけでなく前菜やスープにもよく手間をかけており、食前酒ひとつとっても王宮の料理に匹敵する味である。
「ところで、この後どうしましょうか」
「普通にもう休むつもりだったけど」
「ああいえ、それならそれでいいんです。ただ、もうすぐバーが営業を始める時間ですから」
「バー…面白そうね」
 メインであるローストポークを口に入れながらリリィは言った。彼女は洋酒に目が無いが、ラピタの人材の都合上、どう飲もうと自分で用意するより他に無いのだ。寧ろ、他人が作ってくれるということは全く未知の新鮮な体験である。
「お酒に関しては、この国ではほとんど誰もよく知らないから楽しみだわ」
「二十歳からそんなに飲んでると体壊しますよ」
「大丈夫大丈夫。度数低いのしか頼まないから」
「本当に大丈夫かなぁ…」
 その様にして夕食を終えると、三人はエレベーターに乗って件のバーを目指す。アレノによると、そこでは気心の知れた男がバーテンダーを務めているのだとか。
「ちょっと口調に品がないのが玉に瑕ですけど、バーテンとしての腕はいいんですよ」
「ふうん」
 店の中はやはり暗めに照明が絞られていて、古めかしい木製のカウンターをスポットの様に照らし出している。壁や床、内装の作りはおそらく十九世紀末から二十世紀初頭をイメージして作られたのだろうか。
 しかし、カウンターの奥に並べられた多種多様な洋酒の瓶はやはり壮観である。王宮には付け届けとして各国から高級な酒が何本も贈られてきて、書記官府の執務室にも並べられているが、やはり本職、そのバリエーションは凄まじい。
「いらっしゃいませ…ってなんだ、アレノか」
「ハリー、相変わらずね。まさか、他のお客さんにもそんな口の聞き方して無いでしょうね?」
「無論だよ…っと、こちらの方は?」
「リリィよ。こっちはクリス。アレノさんに接する様に気軽に接してもらって構わないわ」
「ほっほう、てのはあなたがあの高名な王女様ですか。コイツは驚きだ」
「ちょっと、無礼ですよ!」
 五十過ぎくらいだろうか、半分ほど白くなった頭を綺麗に後ろに撫でつけた鷲鼻の男。眼光は年を経たもの特有の緩やかだが鋭い輝きを放っており、全体的にシャープは印象を与える。これ程までにバーテンダーの衣装が似合うものもそうはおるまい、とリリィは思った。
「それで、お客さんバーは初めてかな?」
「自分でカクテルを作ることは偶にあるけれど、本土にはこんな店は一軒もないから」
「ほほう、ソイツは勿体ねえ。ここで作ったものの美味さは一度飲んだら忘れられねえぜ」
 何が欲しい?と言いたげにハリーは顎をしゃくった。最初に指名されたクリスは戸惑いながらも、
「ええと、じゃあマティーニを」
「ふふん。いいセンスだ。アレノはどうする?」
「ホワイトレディ」
「流石だ。で、お嬢さんは?」
「…ピニャ・コラーダ」
 彼女は少し恥ずかしそうに言った。何しろ、マティーニもホワイトレディも、三十度前後の強い酒だ。にも関わらず、自分だけ八度前後のごく軽いものだけを頼んでしまったのだから。
「ま、飲み慣れてないうちはそれがいいな。あんまり早いうちから強いのを飲みすぎるのも体に毒だ」
「…マスター、やっぱり俺もピニャ・コラーダにしておきます」
「そうかい?ま、まだ夜は始まったばかりだから、それもいいんじゃねえか」
「なんか、私だけ仲間はずれみたいですね」
 ぷう、とアレノが頬を膨らませる。それを見て他の三人は少し苦笑いした。
「ほいっと。じゃあまずはホワイトレディからだ」
 カクテルグラスに真っ白な酒が満たされている。見た目は優しげで甘そうではあるが、実のところはアルコール度数二十九パーセント、ジンベースにキュラソーを加えた中々に重い酒である。
「じゃ、次はピニャ・コラーダを作るぜ」
 そう言ってハリーはまた手早く材料を用意し、シェイカーを振って混ぜ合わせる。氷の踊る心地よい音が響いた後、グラスには淡い黄白色の液体が注がれた。
 このカクテルの材料はラム酒にパイナップルジュース、それにココナッツミルクである。いずれもラピタ特産の品物であり、その気になればどこの家でも簡単に仕上げることができるものだ。
「それじゃ、いただきます」
 口をつけるとフルーツの酸味とミルクの甘味、そしてラム酒の風味が中に広がる。リリィは普段自分が作って飲むものの違いに驚いた。これまで何度も作ってきたから、多少の熟練はあると自負していたが、やはり何十年もシェイカーを振り続けてきた達人のそれに比べれば雲泥の差である。
「おいしい…」
「はは、そりゃあよかったぜ。一気に飲むなよ、度数が低いとはいえ、普通の酒よりはきついからよ」
「そういえば、ハリー。仕事の方はどうなの?」
「お陰さんで好調だ。本土の方じゃ昨今の不景気で店を手放さざるを得なかったが、こっちじゃ嫌でも需要がある。酒と料理に熟達した人間は、絶対に食いっぱぐれることはねえのさ」
 確かに頷ける話だ。こんな辺鄙な南の島では、きちんとした娯楽も乏しい。そうした場所では、優れた娯楽を提供できる人間の需要は自ずと高まる。だが、それにしてもここまで卓越したバーテンダーが、こんな小さな島で働くというのも、なかなか因果なものだ。酒を飲みながらクリスはそう思った。
「これだけ美味いカクテルを作れるなら、行けるかもしれない…」
「何がです?」
「ハリーさん、一つお願いがあるのだけど」
「おん、なんだい?」
「このレシピ通りに、ひとつカクテルを作って頂戴」
 そう言うと、リリィは愛用の革手帖のページを一枚破き、そこに何かを書きつけてハリーに手渡した。それをみた彼の顔が少し曇る。
「コイツはオリジナルカクテルのレシピかい?」
「そう。あれこれ混ぜている間にできたの。自分じゃ素人だったから、一度達人に上手くやって貰えば本当の美味しさがわかるかもって」
「だが、八種類も原料を混ざるのはそう聞いたことがねえな…しかも貴重なのが入ってる。ちょっと高くつくぜ」
「勿論。でも、騙されたと思ってやってみて」
「なるほどね…ま、作ってみましょ。グレナデンシロップはあった筈だが、ベネディクティンは…」
 彼は酒瓶の棚をあれこれと探し、原酒の準備をする。一方クリスは不安そうに話しかけた。
「大丈夫ですか?なんか、正直不安しかないんですけど」
「私のセンスを信じなさい。作った時は美味しかったから」
「八種類…逆によくそんな材料を調達できましたね」
「給料が吹っ飛んだわ」
 前のカウンターでは、ハリーが驚くべき熟練の技で、早くもハリケーングラスに一人分のカクテルを準備し終えている。その様は見たことがないほどに鮮やかな赤色で、水平線に沈む茜色の夕焼けを彷彿とさせた。
「さ、完成だ。ひとまずやるだけやってはみたが、そこのお嬢さんのセンスに期待だな」
 三人分の謎カクテルが仕上がり、前に出される。クリスとアレノは少々不安げな面持ちだが、リリィの顔は期待に満ちている。そして、誰からともなく目配せをして、三人は同時にグラスに口をつけた。
「ん、美味しい!」
「本当だ!フルーツとお酒の味が絡み合って、複雑な甘さが出てますね」
「すごい、やっぱりプロが作ると違うわね」
「ほう、美味いのか」
 三人の反応が良好であったことを受け、ハリーは今度は自分の分を少なめに作る。流石にロングドリンクをそのまま飲んでしまっては仕事にならないからだ。
「美味い!!」
 グラスから口に開けて、彼は驚きの声をあげた。
「コイツは驚きだ。ただフルーツの味がするだけじゃねえ、ビターやキュラソー、ベネディクティンなんかが上手く絡んでいい味わいを出してやがる…」
 クソッ、今までこんな組み合わせを見落としてたとは、とでも言いたげな様子であった。一方リリィの方は誇らしげにグラスを掲げて見せる。
「お嬢さん、本当に二十歳かい?」
「まあそうよ。だけど、舌には自信があるの」
「むむむ…荒削りだが、もう少し改良して、細かく量を調節したら、バーのメニューに入れられるくらいの美味さだな。このレシピ、他の店に取られなくて良かった」
「それは何より。それは差し上げるから、是非完成させて欲しいわ」
「勿論だ。このホテルのバーの新しい象徴にしてやるぜ。…ところでだ、このレシピに名前はあるのかい?」
「そうね…じゃあ、ここの夕焼けを記念して、『サンセット・スリング』なんでどうかしら」
「いいねぇ、よし。楽しみにしておいてくれよ、お嬢さんが本土に帰るまでの間に、『サンセット・スリング』を新メニューに加えてやるからな!」
 バーを出た後。アレノの別れたリリィとクリスは、二人でまた最上階の部屋に戻ってきた。お互いほんの少し酔ってしまった様で、互いの体温を熱く感じる。
「…あの、リリィ様」
「んん?なぁに」
 やがて、クリスがふと口を開いた。
「実はひとつ、お渡ししたいものがあるんです」
 そう言って彼は側の紙袋から、小さな箱を取り出した。
「これ、私にくれるの?」
「ええ。もう二十歳ですから。個人的な贈り物です」
「憎いことするじゃない、クリスのくせに」
 箱に結ばれた紐を丁寧に解き、リリィは蓋をとった。その中には、小さな香水の瓶が大切に仕舞われている。
「これ、あのお店の…」
「はい。きっとリリィ様に似合うかな、と」
 彼が渡したのは、あの「シシィ」の香水であった。しかし、彼女もよく知っている通り、それは決して安い品物ではない。王族である彼女でさえ気後れする様な値段なのだ。単なる官僚の彼がそう簡単に払える金額では…。
「実は少しずつ、頂いていた禄を売り払って外貨を貯めていました。二十歳のお祝いに、とびっきりの物を差し上げたいと思って…」
「……ありがとう、クリス」
 そう言って、リリィはクリスの体を抱き締め、頬に口づけした。
「え、あっ、リリィ様…?」
「……はっ!え、あ、いや、その…ごめんなさい。酔っ払ってるみたいで…」
「いいいえ、お気になさらず…」
 彼女は顔を赤らめて視線を外す。しかし、プレゼントの箱は決して離さず、大切そうに胸に抱いていた…。

 一先ず一日目は、この様なものであった。これ以降もリリィ達は租借地で、実に面白い事件を引き起こし、鮮やかな思い出の情景を自身の人生に描き加えていくのだが、それはまた後日のこととしよう。

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