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聖教国は少なくとも聖暦200年頃には文献に登場しているが、その国家体制は常に変化しており、なにより様々な国家とは大きく異なった独特な性格を持っている。
ある総司教(象徴的な聖教国の国家元首)は自身が間違った世紀に生きていると語った。そして、デニエスタの皇帝に対して「貴殿方とは長い間良き隣人でありましたが、それでも私達を理解する事は無いでしょう。」と語った。

主な国境は聖暦1500年頃には既に定まっていたが、その時でさえこの国家に対して一定の図形を描くことが出来なかった。それは、この国家が様々な形の多くの諸邦の集合体であったからであり、長い間この国家を示す名称はなかった。多くの場合、この国家は『総司教の国々』だとか『神聖な諸国』と呼称された。
いつの頃からかそれらの国々は『レーヴ聖教国』と呼ばれるようになったが、それはレーヴ人の国家でもなければレーヴと言う王朝があった訳でもなかった。

聖教国は地理的にも民族的にも一つに結びついた訳ではなかった。強いて言うならば、それはデニエスタ人の国家であった。しかし、それは事実を反映しているわけではなかった。
アクシア人や高天原の人々、そして土着のミラン人がいたから、決してデニエスタ人が過半数を越えることはなかった。
ヴェリターライヒやアルバンではデニエスタ人が優勢であり、確かに国政はデニエスタ人が主導していたが、決してそれはデニエスタではなかった。

聖教国は、中世的封建制がひどく奇妙に変形した亡霊を21世紀に入ろうとする現代に於いても維持している最後の国家の1つであり、他国のように民衆が国家を創ったのではなく、国家が民衆を創った。文化はかつての古代文明を元に宗教的要請から創造され、他国のような自然発生的に創造されたものではなかった。
言語もそうであった。教会が言語を生み出し、それを教会で各地に広めたから民族的には同一では無いにも関わらず、彼らは皆同じ言葉を使用した。そう言った国家による創造によって、聖教国の諸国はある程度共通の文化を持ちまた経済的結び付きが生まれた。
詰まるところ、民衆は国家の歴史にとって余所者であった。他国のように民衆のエピソードが国家の歴史では無かったのである。
歴史を巡って国家が動いたのではなかった。聖教国を巡って歴史が動いたのである。

聖教国はカーリストの諸国やその影響下にあった多くの国家に精神的安寧を与え、歴史上様々な使命を受け取った。
ある時は東方から来襲する異教徒の侵略に立ち向かう為の精神的支柱となった。またある時は未開拓他に進出し、様々な文化と文化を繋げたし、立憲主義を導いた啓蒙思想を神学と深く結びつけて輸出した。
これらは全て、ただソティル教とその教会組織によって構成される聖教国が永久であろうとした結果もたらされた偶然の結果であった。

そもそもソティル教そのものが、それまでの暴力と血が支配する悲しみと苦痛に満ちた世界を変えられなかった信仰を昇華させ、神の絶対的支配と道徳的要請によって人々を救おうとする、謂わば世界救済を目指す方針が含まれていた。
その試みはソティル教以前にも存在したが、その多くは永い年月を経ると、それを信奉する民族の民族的遺産として排他的になり、ついに世界宗教になることはあり得なかった。
しかし、ソティル教はそれをなし得る事が出来、今なお大きな影響力を持つに至り、教会を組織して東カーリストの一角に国家(聖教国)を築き上げた。

ソティル教自体は、元をたどればかつての巨大帝国であるレーネの西方からやって来た教えから発展したものだった。
レーネが滅亡し、様々な世俗権力が興亡するなかハリストスが生まれ、彼によって産み出されたそれは、教えが誕生してから1世紀程度経過して、数十万人に信仰されるに至り、もはや無視出来る勢力ではなくなった頃にアクシアの王国に保護された。
その時のアクシアは世俗に於いて大きな影響力を有しており、それはソティル教が拡大する上で大きな足掛かりとなったのである。
(注:この頃のソティル教は現存する物とは異なり、厳格な一神教であった為に、学術的要請からデュシス教として表記される)

アクシアにおける統治下で、ソティル教教会は大小様々な土地を有するまでに成長しつつあった。
それはアクシアの王権と教会が深く結び付きつつあったことを証明し、アクシアの支配圏に司教は教えを定着させた。
そしてついに教会は聖暦243年にアクシアから、それまで各地に存在していた公国や侯国と同様の権利を有する教会領(現ヴェリターライヒ)を与えられた(尤もそれは現状確認に過ぎなかったし、厳格には教会に対する寄進ではなかった)

5世紀後半に入るまで、アクシアと教会の関係は変化することがなかった。
ただ、国際情勢は明らかに変化していた。もうこの頃になるとアクシアは往年の覇権を失いつつあり、教会もまた危機に晒された。その為に教会は傭兵を雇い、半ば独立した勢力になった。生存競争は続いた。より多く、より遠くに教えを広めなければならなかったのである。それはソティル教自身に含まれた世界救済への志向と組合わさり、より活発な活動となって現れた。
ソティル教文化圏で度々見る修道院文化もこの頃に誕生した。神への祈りの為だけに生き、人々に文字を教え貧しい人々を救済した彼らの尽力によって、教会はアクシアの他にデニエスタと言う強力な友を得た。

そしてこの頃、ソティル教の教義にも大きな変化が生まれた。飛躍的に信徒が増え、その範囲が広がるにつれて異教との生存競争が望む望まざるを関わらず発生した。ソティル教はそれらを取り込み、自身を昇華する必要に迫られたのであり、その生存競争の中で多神教でありながら単一の神にのみ帰依し祈りを捧げる特徴的な形に変化したのである。
これは聖暦581年までに行われた三回の公会議によって段階的に行われ、この改革は後に、ソティル教が真の世界宗教になるのに大きな影響を与えたのである。特にアポルエなどで盛んな精霊信仰と競合することなく体系に取り入れることが出来たのだった。

そのような様々な長い歴史の中で、聖教国は数多くの実験を行った。それはソティル教の教義の変更や普通選挙など多岐にわたり、その時々の社会を彩ったが、教会だけが永久であった。
聖教国の安定は貴族と聖職者、そして議会に代表される農民の三者の均衡によってのみ保障された。

様々な法典や歴史的経緯の積み重ねによって聖教国は独特な社会構造を持つようになった。
その大きな特徴として、聖教国全体は如何なる世俗権力も干渉することの出来ない聖界領邦であった。その聖界領邦の内部には、アクシアやそれ以前に設立された幾つかの貴族領が残存していた事は、聖教国の内政がしばしば混乱に陥る原因となった。

それらに拍車をかけたのが聖暦1625年に定められた教会令状第439号であった。その令状によって総司教は名目上であった指導権は実質的な意味を持つようになり、それまでバラバラであった聖教国は真の意味で一つの国家になった。しかし、その聖教国の不可分を約束した令状は大きな矛盾を孕んでいた。
聖職者が聖教国の単一性を訴える法的根拠となったそれは、貴族との妥協のために地方の不統一を約束したのである。そして、貴族の数は分割相続によって年々増えていた事は大きな問題であり続けた。
その根本的問題の為に、教会は人々を自らに引き付けようと様々な努力を行った。貴族に対する強力な同盟者として人々を求めたのであった。

その教会の姿勢は、近世に入り他国に先駆けて啓蒙的統治を行った事に代表される。『何事も人々の為に、何事も教会によって』と言う聖職者の精神はすべての農民を土地から解放し、そして普通教育を完成させた。それはこの後に待ち受ける産業革命の下地を生み出すことに成功したが、それは教会の絶対的支配と引き換えであり、特に教育の権利が教会から奪われたことは大きな損失であった。

それらの改革によって、聖教国には新しい身分を生み出した。その身分とは官僚であり、それは民族的でも宗教的でもなかった。官僚は何者でもない国家の奴隷であり、彼らは真にレーヴ人であった。
彼らは自身の所属する省庁の権益を拡大することに努めたから、それは貴族の乱立と相まって更に内政の滞りを発生させたのである。

他国で発生した産業革命の波は、一連の改革を終えた聖教国にも襲い掛かった。しかし、その進展は他国と比べ遅々として進まなかった。この頃の総司教はまだ世俗にも絶大な権力を行使出来たから、聖教国の徹底的中央集権を推し進めようとし、聖職者はこれを支持したのに対して貴族が猛反発を行った。それまでの不安定な平穏は、それを望んだ総司教自身によって破られた。

そしてその権力闘争は農民を巻き込み、尤もその結果の利益を得たのは彼らであった。農民は既に普通教育で教化されていたため、自身の政治的欲求を正しく理解して、憲法の制定に成功したのであり、その憲法によって総司教は名目上の元首に追いやられたのであった。

総司教は自身の世俗に於ける立場をほぼ喪失したものの、しかし貴族の徴税権などを回収し、中央集権国家を打ち立てたのだ。
聖職者と貴族の争いの結果として、貴族は上院を構成し政治的権益を拡大した代償に数々の特権を喪失し、大土地所有者となった。一方の聖職者は総司教の世俗的権威こそ喪失したが、それは彼らがイニシアチブを握る構造の為には許容することのできる代償であった。

そして、ここまで頑強に対立した聖職者と貴族であったが、ただ1つ聖教国の存続と言うことのみは双方が求めていた。
聖教国が聖教国である限り、彼らにはデニエスタの無条件的な保護の下にあった為であり、政治的観点からも貴族が聖教国から独立することは、あり得なかった。だからこそ、総司教は、例えどのようなことがあったとしても聖教国から追放されることはなかったし、貴族はデニエスタとの伝統的結び付きを維持することのみを総司教に求めていた。

そして、一連の憲法制定を発端とした権力闘争が終了した頃になると、産業革命の暗い側面が既に知られるようになっており、それによってソティル教教義と産業革命が鬩ぎ合い、必要最低限のみの近代化が実施された。
そして、その近代化を行うことのできる技術も資金も聖教国には存在していなかった為、それらはデニエスタ企業によって行われた。

聖教国が近代化と伝統的教義の矛盾に苦しむ中でも時代は容赦なく進み、二度の大戦が勃発した。その頃にあっても聖教国のあらゆる物は近隣の国家と少なくとも半世紀以上の遅れがあり、それは大戦による技術の飛躍的な発展によって更に広まっていった。

聖教国はまだ国際社会の舞台で微笑んで他国に対して慈しみを与える事が出来ているが、それは聖教国自身の強さによって担保されているわけではなかった。中世から近代までの積み重ねとその神聖さによって保たれているわけでもなかった。
それはただデニエスタを筆頭としたソティル教国との繋がりによってのみ担保されていた。

国内に於いても、産業革命とその後に続く技術の取り入れが進まなかった結果、様々な分野で取り残されていた。それを聖職者は教義にかなった理想郷として宣伝し、それは国際社会で資本主義社会と言う大きな過ちの結果生まれた地球に対する傷が問題となっていた事と組合わさり、工業化の立ち遅れとして残された多くの自然によって、国内の改革が必須であることを惑わした。

最早、時代遅れとなった非常任理事国の聖教国は改革が行わなければならない。そして、それは貴族によってでも聖職者によってでもなく、市民によって行わなければならない。
そして、それは国家構造の矛盾と支配層の分裂から、恐らくそう遠くない日々に行われることだろう。

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