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私は他人より少し頭が良くて、芯が強いだけでそれ以外はただの、凡庸なマウサナ人ですよ。───レイン・ノル氏生前の言葉
レイン・ノル
Lein Nolu
出生日歴1912年(聖歴1882年)7月
マウサネシア連合国、クシャール王国、アンコール県アレコ村
死去日歴1958年(聖歴1928年)2月、享年45
マウサネシア人民共和国、ジャヤカラタ首都特別区
主な経歴マウサネシア人民共和国、初代国家首席
職業革命家、政治家
配偶者なし(政府公式発表)
ラナリ・レン(仮説)
関係者シアネン・レハポーワット(マウサネシア人民共和国、初代首相)



来歴

前半生

日歴1912年(聖歴1882年)7月、アレコという小さな農村のごく一般的な木造高床式住宅で生を受ける。
父親は太陽教の導師(牧師的なの)で、現地の神殿長だった。母親はクシャール王家の分家の血筋(とはいっても、クシャール王家の分家筋はかなり多いので、そこまで珍しいというわけではないのだが、高貴な血とされていた)であると言われている。
当時は今よりも乳幼児が亡くなりやすい時代であり、彼女が産まれる前に、2人の姉は1ヶ月のうちに亡くなっており、彼女が長女である。
幼少期の多くは太陽教の神殿で過ごしたとされ、父親や周辺の人物から教義を学んだが、太陽教において世襲制は禁じられていたため、将来を強制されることなく、自由にのびのびと過ごすことが出来た。
貧しくはあったが、それでも暮らしには困らない家庭で育った彼女だったが、この頃から既に「いくら働いても良くならない」現状に疑問を持っていたとされる。
注:当時のマウサネシアは農村が疲弊しており、農民は生きていくのがやっとの状態であった。

初等学校、中等学校を通して優秀な成績を収め、12歳(飛び級制度はないため、早熟なマウサナ人としては普通)で地元の中等学校を首席で卒業。
国立アンコール大学政治学部に現役で入学し、1930年(聖歴1900年)、17歳で大学院を修士で卒業した。
現在のスカセバリアル条約機構に存在する、サニエル大学への1年間の短期国費留学の権利を勝ち取ったレインノルは、同年、現地に渡り、最先端の政治思想に触れる。
注:当時マウサネシアは資本主義国家であり、科学も重視していたために少数ながらサニエル大学など海外の有名大学への国費留学生が居たようである。

そこで彼は、とあるソルティル連邦出身の共産主義者の演説を聞き、心を打たれた。(当時、ソルティル連邦のインテリ層の中には少なからず共産主義者が居た。そうゆう時代だったのだ。)
太陽教関係者の家で産まれた彼は前述の通り祖国の経済格差について疑問に思っており、マウサネシア連合国は共産主義を禁じていた(後述)ため、思想に触れる機会がこれまで無かったのである。
注:マウサネシア連合国は共産主義を恐れていたようであり、マウサナ人大衆が共産主義に流れることを懸念していたようである。

「あれこそが、わが祖国を幸福にするヒントだった」レインノルは後日、こう述べている。

レインノルは独学で、当時祖国では禁書だったマルクスの資本論やレーニンの著書などを読み漁り、やがて太陽教社会主義の原型を完成させた。
それはマルクスやレーニンの主義を参考にしながらも「マウサナ人にとってのベスト」を追求するという点において、他の潮流とは一線を画していた。

革命運動

帰国したレインノルは、まずはマウサネシア社会党に入党し、その優秀さからそれなりの地位につくことができた。
海外の研究者たちは、配偶者となるラナリ・レンとの出会いはこの頃にあったとしている。
1933年にソビエト連邦に渡り、コミンテルンの大会でイオニア担当の常任委員に選出された。こうしてレインノルは共産主義者となった。

だが、レインノルの伝統を重視する姿勢は、物質主義を重要視するコミンテルンからは異端視され、1930年代のコミンテルン内部のマウサナ人の共産主義者のグループでは、レインノルは権力の中枢から疎外されていた。
このために日常の「実践」活動から外され、「学習」生活を強いられた。

1939年、マルクス主義に反する思想の社会主義者たちがソ連において弾圧され、異端だったレインノルは再びマウサネシアに帰国した。
戦時中は共産主義への弾圧が緩くなったため、レインノルは比較的公に革命運動を行い、支持者を増やしていった。

マウサネシア共産革命

戦争終盤、レインノルはマウサネシア国軍の重要人物セルテ・ラナ元帥と酒を飲む機会があった。
ラナ元帥はマウサネシア連合国の経済格差について不満に思っており(徴兵された兵士から、農村の窮状や労働者の苦悩に関する話を聞いていたため)、革命運動の第一人者であるレイン・ノルに接触を試みたのである。
レイン・ノルは太陽教社会主義について自らの方針を展開し、ラナ元帥は「これこそ、マウサナ人としてのあるべき経済体制だ」と感銘を受け、以降はレインノルの協力者となる。

戦時中は、戦争によって景気が良くなっていたが、それは更なる格差拡大を招き、労働者どころか、兵士の1部まで不満を持つようになる。
そして戦後、ついに革命が発生する。革命の中心となったのは国軍である。国軍は国民のためにクーデターを起こしたのである。
レインノルは演説して全国での一斉蜂起を呼びかけ、各地の軍は民衆と結託して蜂起した。

「国民を苦しめる現政権を打倒しよう」というスローガンを掲げる国軍はついに議会を掌握しクーデターを成功させた。
マウサネシア連合国の首班の大部分は降伏し、1部は地方に逃れて反革命運動を続行したが、国軍によってこれは鎮圧され、クーデターは終了した。

革命後の対立

マウサネシア革命において国内のあらゆる社会主義者は協力したが、その中には当然ながらマルクス主義者も混ざっていた。
中でも厄介なのはよりマルクス主義に近い急進派太陽教社会主義の勢力であり、複数の勢力に分かれて争うことになった。
しかし、レイン・ノルを筆頭とする勢力は太陽教勢力の後援を受けることに成功し、この内ゲバを有利に進めた。
結果として対抗する派閥は吸収されるか亡命したりして、最終的に、レイン・ノルを筆頭とする『漸進派』太陽教社会主義の派閥が勝利した。
敗北した派閥であっても、粛清は最小限に抑えられた。上位職の多くは公職追放で済ませ、中間職はそのまま留め置かれた。

マウサネシア人民共和国の建国

日歴1948年7月19日、レイン・ノルは満を持してマウサネシア人民共和国の建国を宣言した。そしてレイン・ノルは初代国家主席に就任した。
本来、国家主席は外交の担当であり、仕事量の問題から内政に関しては首相が担当するものである。しかしながらレイン・ノルは例外であり、内政にも助言を行ったという。
内政ではシアネン・レハポーワットに助言しつつ、外交においては彼女から助言を受けるという、二人三脚で初期のマウサネシア人民共和国は運営されたのである。
レイン・ノルの4年間の国家主席としての在任期間のうち、彼女は何ひとつとして不祥事を起こさなかったといい、むしろ彼女に賄賂を渡そうとした人物を窘めたという。

引退と逝去

彼女は自分が長期間、国家主席の座に居座ることを嫌ったため、4年で退任して人民後援大臣に就任した。
このことは、それ以降の国家主席の任期は4年間という暗黙の了解が生まれた。尤も現在のマウサネシアでは4年も務められたら長期政権なのだが。
人民後援大臣としては、彼女は恐らく不本意ながら個人的崇拝の対象となりつつ、助言を行ったり、国民を鼓舞を行うなど、陰ながら影響力を保った。
このことは、レイン・ノル存命中にマウサネシアの核開発が本格的に始まらなかったことが証拠であり、彼女が核兵器に反対していたため、遂行出来なかったのである。

そして彼女は表向きは元気だったにも関わらず、日歴1958年(聖歴1928年)2月、享年45歳で心臓の発作により突然の死を迎えた。
死因は現在でも諸説あるが、晩年は心臓に不調があり、持病の発作が死因であるとする説が有力である。
その後、国葬が行われ、多くの国民が涙したという。革命の英雄は、建国後10年の式典を見ることなく亡くなったのである。

エピソード

  • 生前、像の類いを作らなかった。「そんなもの作る暇があったら人民の生活に回せ」と話したという。
  • レイン・ノル邸が、建国の英雄の家にしてはあまりに貧相だというので、近所の太陽教勢力が広大な土地を寄贈した。するとレイン・ノル、その土地にベンチを設置して、近所の子供たちの憩いの場としての公園にしてしまった。
  • 自分や身内には厳しく、汚職には全く縁が無かった。どんなにレイン・ノルが嫌いな人でも、金と利権では批判出来ずにいた。
  • 役所の人間が国民に横柄な対応をすることを許さず、厳重に注意した。
  • 最も有名なのは、以下のエピソードである。
レイン・ノルは時々変装して民衆の住宅街に潜入し、市場で物品の価格を調べたり、民衆と世間話をしたり、家庭の食卓をこっそり観察したりしていた。ある時部下が「なぜわざわざそんなことをするのか」と質問すると、彼女は「百聞は一見にしかず。実際に見ないと、人民の生活の質は分からないよ。」と答えた。
かつての側近の話によれば、レイン・ノルは常に人民の生活の向上について考えており、本当に人民思いな人物だったという。

配偶者

現代のマウサネシア政府は「革命の親レイン・ノル(初代マウサネシア人民共和国首席で、現在のマウサネシアでも個人崇拝されている)は、その生涯において誰かと恋愛関係にあったことはなく、結婚もしていない(生涯の全てを労働者と国家と革命に捧げた)」としている。

しかし、ヌナブトやスカセバリアルのマウサナ人を中心とする海外研究では、「実際には、幼なじみで革命の同志であった、ラナリ・レンというマウサナ人と結婚しており子供も居た」という説が主流となっている。(マウサネシア政府はこの説を否定)

人物像

建国の親レインノルは、模範的なマウサナ人指導者とされる

彼は時折、変装して民衆が生活に不自由していないか調べ、市場に出ては価格を調べたという。
また、金に潔癖であり、質素な生活をしていたという。
その人物像は、誠実な善人であった。

レインノルの風貌、また腐敗や汚職、粛清に手を染めなかった高潔な人柄は、民衆から尊崇を集め、そして現在まで愛されている。

諸外国からの評価

とあるカーリスト州の資本主義国家において出版された、共産政権の犯罪を検証した『共産主義黒書』 によると、統一後から現在までのマウサネシアでの粛清などによる死者は100万人に上るという記載があるため、この記述のみを根拠に、資本主義諸国においてはネット上などでレインノルが大量粛清をしていたとする記述も見られる。
実際には、これはマウサネシア革命の誇張された死者数でありこのような粛清の証拠はどこにもないため、数多くの疑問や批判の声が上がっている。

著書

実は彼女は、自伝の類いを一切書き残しておらず、著書はあまり多くない。(論文や手紙などはあるが)

これに関しては、以下の有名な晩年のエピソードがある。
「レインさん、自伝を書かないんですか」多くの同志からそう聞かれたとき、彼女はいつも「いやいや、そんな自伝を書けるほど大層な意見なんて持ってないですよ」と、にこやかに笑って謙遜していた。 ラナリ・レンがレイン・ノルに、何故自伝を書かないのか詳しく聞いてみた時、彼女は「だってめんどくさいじゃん。それにそうゆうのは性にあわないんだよね〜」と言ったそうだ。

このレイン・ノルの謙虚な姿勢は後のマウサネシアの指導者に引き継がれ、以下のように、自分語りは良くないこととされている。
レインさんですら自身の業績を何も自慢せずに亡くなったのに、それに劣る私たちが何を自慢できるでしょうか。

役職

  • マウサネシア人民共和国初代国家主席
  • マウサネシア人民共和国人民後援大臣
事実上の名誉職。彼女は自分が長期間、国家主席の座に居座ることを嫌ったため、4年で退任してこの職についた。

死後

生前、彼女は個人崇拝を避けるために自身の遺体を火葬して川に散骨するように依頼していたが、実際はそうはならなかった。
マウサネシアの政府は彼女を統治に利用するため、遺体をホルマリン漬けにして保存することを決定し、実際にそうなったのである。
ジャヤカラタにはレイン・ノル廟が建設され、遺体はそこに現在でも安置され、維持管理が行われている。
1990年にマウサネシアで改革がスタートした際、レイン・ノルの遺言が一般に公開され、政府は自己批判を行い、レイン・ノルの火葬を行おうとしたが、国民の反対により実現しなかった。
そして現在でも毎日のように多くの人民が訪れ、彼女の前で手を合わせ、かつての革命に思いを馳せるのである。

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