架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

 「ん、あれ、ここは…」
 目覚めた時、リリィが目にしたのは、見知らぬ天蓋と、その向こう側ののっぺりとした白い天井であった。
 横たわるベッドは、ラピタに合わせた薄絹の物ではなく、調度品は何から何まで異国風だ。乱れた寝巻きのまま身を起こすと、耳と頭に疼痛がある。そして、そのまま横を見て、彼女はようやく自分が今どこにいるのかを理解した。
 小さな丸型窓から覗くのは、遥かな雲の海と、その切間から覗く雄大な森と街並みである。彼女は今、上空一万メートル、「空飛ぶ離宮」と渾名される、デニエスタ帝国の専用機の中に居た。
「おはよう、クリス」
「おはようございます、リリィ様」
 寝室から出て洗面室に向かうと、そこでは既に身支度を終えたクリスが髪形を整えていた。リリィと共に空中で夜を明かした初めてのラピタ人の名誉を得た彼は、その歴史的意義には至って無頓着で、ボサボサ髪の彼女がやってくると、すぐに洗面台を譲り、髪を手入れして差し上げる為に櫛を用意した。
「よくお眠りになれました?」
「微妙」
「まあ確かに、ジャヤカルタまで船便、そこからほぼ丸一日飛行機の中というのは、キツイものがあるかも知れませんね」
「約二十時間の空の旅、悪くはないけど、あまり好きにはなれないわ」
「そう言って、ジャヤカルタから飛び立った時や、ラピタ上空を通過する時は大興奮だったじゃないですか」
「髪くらい黙って手入れできないの?」
「はいはい」
 髪の手入れと洗顔を終えたリリィは、一旦部屋に戻って普通の服に着替えると、クリス共々ダイニングルームでの食事に向かった。そこには、彼女をこの旅に招いたホストが、既に朝食の用意を済ませて待っている。
「おはようございます、リリィ王女。空の旅は如何です?」
「終始シートベルト拘束を覚悟していましたが、まさかふかふかのベッドで眠れるとは思いませんでした」
「帝室専用機をみくびってもらっては困りますよ」
 そう言って笑うのは、デニエスタ帝国連邦の皇太弟、ガリアード殿下だ。くすんだ金髪に宝石をそのまま埋めたような鮮やかな色の瞳、顔つきは細く整った美男子だが、内面の苛烈さの影響か、出会う人には猛獣の様な印象を与える青年だった。
 彼は兄である皇帝ルドルフの命令により、二度に渡ってラピタに飛び、一度目は式典の賓客として、そして二度目はリリィをはるばるデニエスタまで「誘拐(本人談)」する使者として、相見えたのである。
「さあ、頂きましょう。ジャヤカルタでのガパオライスほど刺激的な味わいではありませんが」
「ありがとうございます」
 朝食のメニューは至って平凡なもので、サクサクに焼いたバゲットにバターとジャム、シーザーサラダにスタンドに鎮座するのは半熟の茹で卵だ。他にはサツマイモを使った甘い冷製ポタージュに、肉厚のベーコンと大ぶりのジャガイモを並べたシュペックカルトッフェン(意味はそのまま『ベーコンとジャガイモ』)、そして最後には、ーこれはほぼ確実に軍人の皇太弟の好みであろうがージャガイモとソーセージ、ベーコンと玉葱を鍋に入れて煮込んだカトッフェル・ズッペ…否、正確にはアイントプフが大きなスープカップに満たされて鎮座していた。
「…優しい味わいですね、このスープ」
「美味しいです、とても。確か、貴国の家庭料理とか」
「ご満足頂けてとても嬉しいです。その通り、これは我が国の家庭料理で、お出しした物は代々帝室の厨房に伝わるレシピで煮込んでいます。スープのベース、使う具材、煮込む時間までキッチリ決まっていますが、その分味わいは一級です」
 流石に世界帝国というべきか、旅先の朝食ひとつも手を抜かない。スープだけでなく、他のあらゆるメニューは、美味しい物をこよなく愛するリリィをして唸らせるに十分で、茹で卵に至るまで彼女は深い満足を覚えた。
「(それだけ向こうも本気ってことかしら。いや、もしかしたらデニエスタは普段からこのくらい美味しいものを作っているのかも…)」
 ベーコンを噛みながら、彼女は品良く食事を続けるガリアードの姿を観察した。食器を使う所作、食べ方、一切ケチの付けようが無い。一応彼女も西洋式のテーブルマナーを躾けられたが、生まれてからずっとそれで生きてきた彼には、到底及ぶべくもない様だった。
「お食事中に失礼します」
「ジークリンデか。入れ」
 扉が開き、入ってきたのは皇族の身辺を護衛する近衛の制服を着た、若いブロンドの女性であった。彼女は律動的な足音で歩き、そして食事中の三人に敬礼すると、よく通る声で報告した。
「機長より連絡です。今から十五分後に、当機は帝都ベルン郊外の、メッジーロ大帝国際空港に着陸態勢に入ります。ご搭乗の皆様方におかれましては、お支度を願います」
「分かった。…では、朝ごはんはこれで一度お開きです。足りない様でしたら、宮殿にて同じメニューをご用意致します。では」
「ありがとうございます」
 立ち去って行くガリアードを見送りつつ、二人もまた自分の座る席に急いだ。一般的な飛行機でビジネスクラスに相当する座席に腰を下ろし、シートベルトを締める。そして、ポン、という音と共にアナウンスが流れ、飛行機が着陸の態勢に入る。
「ねえクリス、一つお願い」
「何ですか」
「手、握っていて」
「…はい」
 どうやら、着陸の怖さに関しては、素直さが気恥ずかしさを上回った様だった。
 高度を下げた飛行機は、其の儘恙無く滑走路に着地し、動きを止めた。不快感も揺れも殆どない見事なランディングであった。かくして、二人は初めて空の旅を経験し、そして遥か遠いカーリストの土を踏んだ、初めてのラピタ人となったのである。

 扉が開き、飛行機から降りるタラップを踏んだ時、リリィが最初に感じたのは、北特有の冷たく乾いた空気ではなかった。目の前には真紅のカーペットが敷かれ、それを挟む様にして制服姿の近衛隊が捧げ銃の礼で直立し、隔てられた向こうには取材陣であろうか、カメラを持った人々が鮨詰めの状態でこちらにレンズを向けていた。
「国賓殿は目が弱くいらっしゃるので、カメラのフラッシュは厳禁といたします。違反した新聞社は、直ちに退場、カメラも没収せよとの陛下のお達しです」
 警備の指示に対し、あちこちから不満の声が上がるが、彼らは一切意に介することなく、準備が出来たので降りてくる様に合図を出した。
「時にリリィ殿は、ああいうのは初めてですか?」
「祖国には新聞社は一つしかありませんので」
「リリィ様、あんまり眩しい様ならサングラスを。持ってきてますから」
「助かるわ」
 ガリアードに続いてタラップを降りると、フラッシュの機能が切られたカメラのシャッター音が、さながら虫の音の様に激しく響いた。同時に、テレビカメラのリポーターが、全国に向けて熱弁を振るい出す。
「今、皇太弟ガリアード殿下と、…あちらがリリィ王女でしょうか、ご一緒に飛行機のタラップを降りて参りました…」
「王女様!こちらを向いて一枚お願いします!」
「ようこそデニエスタへ!」
 写真を求める声に対してリリィは多少気前よく応えていたが、ガリアードは少々苦々しい表情を浮かべ、早く行く様にと二人を公用車に追い立てた。
「どうかしたのですか?」
「そもそもこれは非公式訪問ですから。ああしてマスコミに応えてやる必要は無いんですよ。さあ、あんまり遅れると兄様が激怒してしまいますから」
 そのまま車に押し込まれると、足りないと言いたげなマスコミをそのまま振り切って、彼らは帝都の中心に位置するミテルベルン宮殿へと全速力で向かった。
「どんな人なのかしら」
「写真だけは何度も拝見しましたが…お人柄は想像を絶しますね」
「いい人だといいのだけれど」
 そう不安を溢しつつも、彼女は初めて出会う異国の君主に興味を抱いていた。彼に逢えば、わざわざこんな遠くまで自分を招待した理由も分かるだろうか、と。

 ミテルベルン宮殿に入ると、リリィ達はすぐさま皇帝の待つ接見室に案内された。大理石の床を踏みしめ、一面鏡で覆われた廊下を圧巻の面持ちで見つつ、彼女は宮殿の奥へ奥へと歩みを進めた。
「流石にデニエスタの宮殿って感じよね。どこもかしこも細密な彫刻と美術品で溢れていて、いやむしろ、この宮殿自体が一つの大きな芸術よ…」
「言葉が見つかりませんね」
 廊下を始めとした建物内部は、顔が映るほどに磨きあげられた石材と、それを装飾する無数の細かい貴金属の細工で出来ており、高いドーム型天井と合わせて見る者を圧倒する凄みを醸し出していた。これに比べれば、ラピタの宮殿など単なる大きな家の延長に過ぎない、とクリスは感嘆の思いを抱いた。
 また、装飾は単に華美なだけではなく、帝国の持つ技術の精髄を尽くし、気品と流麗さを両立させたもので、「帝王の特権は手間と労力を湯水のごとくに使うこと」という古い諺をそのまま表現していた。壁に彫り込まれた小さな鳥の紋様、歴代皇帝の肖像画を固定する額縁、どれを取っても巨大な手間と卓越した技術の不要なものは無い。
 この宮殿そのものが、帝国の数百年の歴史の象徴であった。
「正直落ち着かない」
「お気持ちはわかりますよ。控室もここまで絢爛豪華だと落ち着きませんよね」
 ソファに座ると、彼女は所在無げに視線をあちこちに向けて、ついで脚をバタつかせた。クリスはその便の悪さを嗜めはするものの、落ち着かない、という感想については否定しなかった。しかし、そんな時間は長くは続かない。
「皇帝陛下がお呼びでございます」
「…では、参りましょうか」
「はい…というか、本当にいつもの服装でよかったのですか?」
「特例です」
 いつの間にかガリアードからは笑みが消えていて、ひりついた鋭い雰囲気を纏っていた。それだけ油断ならぬ相手なのだろうか。二人にも緊張が走る。だが、気持ちで負けるわけにはいかない、どのような形であれ、自分達はラピタの代表としてここにいるのだから。リリィはそう気持ちを奮い立たせて、接見室の中へ入った。
「ラピタ王国国王ポマレ十世が息女、リリウオカラニ、格別のご厚意にあずかり、参上いたしました」
 一部の隙も無い挨拶。ほぼ直角に腰を曲げて頭を下げ、君主に対して敬意を示す。その時、
「よく来られた、リリィ王女…いや、未来の我が皇妃、と呼ぶべきかな?」
 ハッとして顔を上げた彼女に向けて、玉座の男は笑みを浮かべてみせた。輝く様な金髪に、アメジストの如く鮮烈な瞳、世の中のあらゆる女性を虜にする白皙の美顔の内に渦巻く物は何か。
 皇帝ルドルフ・フォン・プロイツフェルンは、目の前の王女を興味深く見つめていた。驚きと戸惑い、そして、拭い去れぬ好奇の感情が浮かんだその顔を見て、彼もまた同じ思いを深くしていた。

 「陛下、今何と…」
「おや、弟から聞いていないのか。ガリアード」
「はい、兄様」
「其方、しっかりと招待の際に先方に話はしたのだろう?」
「は、ラピタ王には予め申し上げ、内諾を受けております」
「しかし、肝心の本人が知らんのでは意味が無いではないか」
「申し訳ありません。告げれば、王女殿がどう思われるか判らず…」
 目の前で繰り広げられるホスト同士の会話に、リリィはすっかり戸惑っていた。それはクリスも同じである。唐突に投げつけられた皇妃、という言葉。まさか外国人の自分を娶るつもりか、いや、それ以前に国王の内諾とは何か。一体何を約束したのだろうか。
 わからないことが次々と湧き出し、脳が混乱に悲鳴を上げ始めた時、ルドルフが彼女の方を見直して言った。
「リリィ殿、弟の説明不足によって、どうやら非礼を犯してしまった様だ。お詫びさせてもらおう」
「い、いえ。それよりも…」
「皇妃のことだろう。分かっている。そうだな…では、これから謝罪と説明を兼ねて、一緒に茶でも飲もう。歌詞と紅茶を持ってくる様に伝えてくれ」
「承知しました、陛下」
 ジークリンデがすぐにメイド達を呼ぶと、彼らは車に乗せて、ポットやケーキタワーなどの茶会セットを運んでくる。
「甘い物がお好きと聞いた。この国の菓子が口に合うといいが」
「…ありがたく頂戴致します」
 ガリアード達を下がらせ、三人だけになると、ルドルフは中庭に座を設させ、手ずから紅茶を淹れて出した。
「さて、リリィ殿。色々と言いたいこともあるとは思われるが、一旦は私の話を聞いていただけないかな」
 彼の物言いは居丈高ではあるが、不思議と不快には感じなかった。むしろ、彼が敬語や謙った表現を用いるならば、それは帝王にふさわしくないと却って批判されるであろう。それ程までに、彼には生まれついての「支配」の才能が備わっていた。
「はい、承ります」
「ありがとう。さて…どこから話したものかな…ふむ…では、事の初めから話そう。貴女をこの国に招くことになった発端は、大臣達が貴女を皇妃の候補の一人として、私に推薦してきたからなのだ」
「なっ…」
「おっと、詳しい理由など、私にも解らぬよ。だが、きっと貴女には覚えがあるだろう、その才幹を活かして、実に様々な功績を立てた。少なくとも、我が国はそうした事を見逃しはしないのだ」
 リリィにとっては単なる衝撃というだけではない。自身がやってきた様々な事が、あり得る話とはいえ他国に監視され、しかもそれが結婚の材料になるとは想像を絶する世界であった。
 また、聞いているクリスも同じである。尤も、彼はまた別の観点からの驚きであっただろうが、彼にしても、デニエスタの皇帝までもがリリィに注目している事は全く予想の外にあり、頭をぶん殴られた様な衝撃であった。
「最初、私も驚いたよ。今まで歴史ある貴族の令嬢とは何度も見合いの機会を持ったが、外国の、それも十年前に存在が確認されたばかりの国の姫君とは。…だが、むしろそれに興味が湧いた。大臣達とて愚かではない。彼らが推すには相応の理由がある筈だ…そう思っていた」
「い、如何でしたか。私はお眼鏡にかないましたか?」
「リリィ様!」
 その問いに対して、ルドルフは会心の笑みを浮かべ、大きく両手を広げて答えた。
「適うもなにも、実に素晴らしかった。あらゆる意味で、貴女は予想を裏切ってきた」
「……」
「その時の驚きを理解してもらえないのがなんと歯痒いことか。この生馬の目を抜く国際社会で、国を開いたばかりの小国が、巧みな外交でここまで生き延びてきた。失礼かもしれないが、私はラピタは早晩マウサネシアの保護国になるか、他国の経済的植民地になってしまうものと思っていた。が、貴女がたは綱渡りの上で飛び跳ねる様な危うい外交戦を切り抜け、巧みに利益で諸国を釣り、支援を引き出しては同じ他国を牽制させた」
「……」
「その結果、ラピタは見事に独立を維持した。…その事実が、私をどれほど高揚させたか。あの魔術の様な鮮やかな外交が、一人の若い女性の頭脳と活力で成し遂げられたと知った時、私がどれほど衝撃を受けたか。…どうか、貴女にも理解してほしい」
「だから、私を皇妃にしようと…」
「無論、他に理由はあるし、すぐに答えを出してもらおうとは思っていない。だが、これだけは忘れないで貰いたい、今まさに、私は貴女に逢えて高揚し、興奮している。初めて貴女の名を聞いてから何年も経つが、その間、どれほど直接会う事を夢見たか」
「…身に余る光栄と存じます」
 リリィとしては、強ばった表情で頭を下げるしかない。そして、それを察したのか彼は少し鼻白んだ表情で、トーンを落とし、
「いや、失礼。熱くなりすぎたな。貴女も突然こんな話をされて困惑しているだろう。…そうだな、貴女がこの国で過ごされる間、様々なところを私自ら案内しよう。この国と私自身とをもっと知って貰う為に。そして、最後の日に、答えを聞かせて貰えればありがたい」
「はい」
 かくして、最初の二人の邂逅は、少々ぎこちないままに終了した。この後どの様な展開が待っているのか、知るのは運命の女神ただ一人である。

 その夜、宮殿に一室を与えられたリリィは、バルコニーから空を眺めていた。乾いた冷気がひやりと頬を撫で、一つも星が見えぬ夜空には、煌々と月だけが輝いている。
「入ってもよろしいですか」
「クリス?いいわよ」
「失礼します」
 クリスは部屋に入ると、木製の椅子を一つ引き寄せてそこに座った。
「何か用?」
「いえ、特には。ただ、今日一日いろんなことがありましたので、お疲れかなと」
「まあ、それは確かにそうだけど。昼以降は宮殿を見て回るくらいだったから、余り疲れてはいなかったわ。でも、朝のアレがね…」
「ああ、皇妃になるってやつですか」
「物好きってレベルじゃないと思うわ」
「リリィ様本人はどうお思いですか?」
「どうって?」
「つまり、その、あの皇帝陛下のこととか…」
「……個人としていうのなら、良い人に見えた。居丈高で、底は知れないけど…悪い人ではないと思うわ」
「…っ、そ、そうですか」
 ズキンとした胸の痛みを押し隠して、彼は話を続けた。
「では、お受けになるのですか」
「何を?」
 あえて疑問で答えた彼女のその顔は、九十パーセントの困惑と、十パーセントほどの怒りで彩られていた。仄かな怒りが言葉を通じて伝わると、彼は黙って引き下がった。
「…もういいわ。今は下がって、明日に備えて休みなさい」
「はい」
 一人になった部屋の中、彼女はふと、とある歌の旋律を口ずさんだ。
「Das gibt's nur einmal.Das kommt nicht wieder,Das ist zu schön um wahr zu sein…」
 今から百年前のデニエスタの旋律を聞く者は、その場には誰もいなかった。

 翌朝。例によって何時間かの手間暇をかけた朝食を食べながら、ルドルフは今日の予定について嬉々として語った。
「今日はベルンの街を観光と行こう。私が直々に諸君らを案内する!」
「出来るのですか、そんな事が!?」
「出来る!私は皇帝だからだ!」
 その横では、ジークリンデがひどく痛そうに胃の辺りを擦っている。なるほど、肯定の望みを叶えるためにかなり難儀な打ち合わせが行われた様だ。
「どこを回るのですか?」
「やはり旧市街は外せない。帝都の情緒を味わうにはそこだ。ついで新市街の金融センター街もよかろう。帝国の摩天楼の威容を是非見てもらいたい!」
 この時、リリィはふとあることに気がついた。気力を横溢させているルドルフの目元に、ほんの僅かだが隈がある。無論敢えて口には出さないが、彼は実のところ自分と同じお祭り好きなのかもしれない。そう思って、彼女の口元から笑いが溢れた。
 私服に着替えると、三人+護衛役のジークリンデの四人は、宮殿の通用門から街へと抜け出た。ちなみに付き従う彼女も私服に着替えてはいるのだが、いかんせん見事な金髪が風に靡くので、帽子をかぶっている皇帝やリリィよりも遥かに目立つ。
「…これではばれて…」
「私が通るなら大丈夫です」
「クリスさん…顔に刺青が入っているから、サングラスにマスクに帽子…なかなか不審者ですね」
「傷つきますよ」
 尤も、クリス程では無いが。はっきり言って彼に関してはもはや不審者である。顔の刺青によってはっきりそれと分かってしまう為仕方の無いことではあるが、流石にマスクとサングラスの上につば付きの帽子というのは頂けなかった。
「いっそついて行かない、と言おうとしたらですね」
「リリィ殿がお怒りになったのでしょう?」
「ご存じでしたか」
「はい。部屋の外まで、『クリスが来ないなら行かない!帰る!』というお声が聞こえていました」
「…お恥ずかしい」
「さ、早く行くわよクリス。最初は旧市街のシンボル、聖シュテファン大聖堂を見に行くわ!」
「置いて行くぞジークリンデ!」
 従者達の苦労をつゆほども知らない主人二人組は、後ろを振り返ることもなく走り出してしまう。待って下さい、と従者二人組も駆け出す。…帝都観光は、多事多難のうちに幕を開けたのだった。

 四人は最初、旧市街の観光地を周り、帝都ベルンの情緒を楽しんだ。中世以来の大聖堂から産業革命時代の古典建築まで様々な時代の建物が同居する旧市街は、カーリスト大陸全域の建築史を今に伝える生きた史料群である。
 手始めに向かった聖シュテファン大聖堂は、初めてベルンに開かれたソティル教の大聖堂で、百三十メートルを超える巨大な尖塔を中心に配置し、建物の壁面に無数の天使と聖人の像を刻んだその威容は、「天国から移築した」ともあだ名される美しさを誇る。
 そして、内部も無論壮麗に装飾されているだけでなく、中央には主の降誕を描いた三連祭壇画が大きく飾られている。
「はぁー…美しい、美し過ぎるわ…」
「でしょう」
「これを見たらどんな人でもソティル教徒になってしまうかも」
「興味がおありですか?」
「出て来ました」
 大聖堂を出た後、彼らは歩いて帝室美術史博物館へと向かった。敢えて交通機関を使わないのは、その間の屋台での買い食いとカフェでの休憩を間に見込んだからである。
 そして、この辺りの綿密な調整こそが近衛隊の最も苦しんだところであった。
「いらっしゃい」
「シュニッツェルを四人前くれないか」
「はい、六百マルク…っ!?」
「どうした、何かあったか」
「い、いえ!そ、そうだ、おまけして五百マルクで良いですよ!」
「それは悪いな、ありがとう」
 それを見てジークリンデはため息を付いた。彼女の上司たる皇帝には、この様に多少気まぐれなところがあり、近衛隊が血反吐を吐く思いで設定したコースと護衛計画を気軽に破壊してしまう。
 この屋台の店主がたまたま理解ある側の人間だったからよかったものの、もしもここで「皇帝陛下!」などと大声を出されれば目も当てられない。
「こちらジーク、陛下はシュニッツェルを…あ、ありがとうございます。頂きます。もぐもぐ、お買いになられて、もぐもぐ…」
「ジークリンデ中尉、シュニッツェルを食べ終えてから報告するように!」
 近衛隊本部のシュピーレン少将はヘッドフォンを投げて頭を抱えた。どうか皇帝が、予め決めておいたカフェに入ってくれる様にと、彼は信じてもいない神様に祈った。
 結局、その祈りは聞き届けられた。ルドルフはリリィを連れて、無事に手筈の整えられたカフェに入った。そこは客で溢れてはいたが、皆近衛隊かその息がかかった者で、皇帝と王女という奇妙な取り合わせにも声一つあげない。
「ご注文は何になさいますか?」
「えっと…じゃあ、コーヒーを。クリームをたっぷり入れて」
「ケーキも必要だろう?チーズケーキを四つ頼む」
「畏まりました」
 リリィは店の雰囲気をじっと見つめていた。吊り下げられた照明、足に踏む床板の感触、座っているテーブルの仄かな香り。そうか、こういう店もあるのか、と彼女は得心した。その時だ。
「Wein ich? Lach ich?Träum ich? Wach ich?
Heut weiß ich nicht was ich tu…」
 店内のレコードが、急に歌い出した。
「…!」
「どうしたんですかリリィ様」
「…この歌、知ってるでしょ?クリス」
「ほう。デニエスタの曲をご存知か。いや、しかし何故こんな古い曲を…」
「この曲は、ラピタの書記官府の地下倉庫に、一枚だけ残っていたレコードに入っていました。それを、壊れかけの蓄音機にかけて聞いて…」
「思い出の曲というわけか」
「ええ。一人でこの曲をかけて、部屋の中でダンスをしていました。いつか、本当にこれを聴きながら踊れたらって…」
「成程成程…ジークリンデ」
「はっ?」
「一つ行くところが増えた。そのインカムで、シュピーレンに連絡してやるといい」
「なっ…!」
「どうした?まさか、これだけゾロゾロ引き連れて、一つ付け加えることができんとは言うまいな」
 ルドルフは優しいが有無を言わない笑みを浮かべた。それは紛れもない、「皇帝」の笑みであった。
 と、その様な事情で彼らが向かったのは、ベルン下町のとあるレコード店であった。
「ここは私が皇太子時代から通っている馴染みの店だ。きっと貴女の思い出の曲も置いてあるだろう」
「まさか、私の為に?」
「そうだとも…主人、いるか!」
「いらっしゃい…おお、ルドルフの坊主。随分と久しぶりだな」
 レコード店の主人は、店内の蓄音機の針を取り替えながら無愛想に言った。じとりと見つめるその視線は、とても皇帝に対するものとは言えない。だが、ルドルフはそれを笑って受け流すと、リリィに対して、曲の名前を問うた。
「ええと…確か、『ただ一度だけ』っていう名前でした」
「『ただ一度だけ』、なるほどね。最近の嬢ちゃんにしちゃ渋い好みだ。待ってなよ」
 彼は奥へ引っ込んでガタガタと探している様だったが、程なくして一枚のレコードを持って来た。ジャケットには、白黒の写真で歌を歌う女性の姿がプリントしてあった。
「ここにあるのはこの一枚キリだ。何せ古い曲で、他のとこじゃとっくに廃盤になってたろうしな」
「…ありがとうございます。子供の時から、この曲が好きでした」
「アンタの家にはレコードプレイヤーがあるのかね」
「壊れ掛けの代物でしたが。こう、何かを擦るような嫌な雑音が混じって、聞き取れなかったりもしたので」
「そりゃお前さん、針が悪いな。レコード針をきちんと取り替えてやりゃ、すぐに音は良くなるさ。尤も、帝都でそんな古いもの扱ってる店がどれほどあるか」
「いいから、主人。このレコードを買う。それで、一番いい蓄音機で今かけてやってくれ」
「…ふん。そんなもんタダでくれてやるわい。若いのに、サブスクだったかの、そんなものに頼らぬそこの嬢ちゃんが気に入った」
 老人は黙ってレコードを出すと、手入れしたばかりの蓄音機にかけた。ゆっくりとそれは周りだし、増幅機から曲が流れ出す。
「わぁ…」
「いい曲じゃの。ワシにとっても青春の曲じゃ」
 メロディはよりはっきり、より切なく響く。憧れて来た曲の真実の姿は、さらに美しかった。リリィは無意識のうちにリズムを刻み、狭い店内で踊り出していた。
「……ふむ。こいつを、楽団のレパートリーに加えるのも悪くはない、か」
「陛下。これは映画の曲です、権威ある帝国楽団にふさわしいか」
「いいではないか。客を楽しませるのが楽団の仕事だろう」
 そして、曲が終わると、彼女は無意識に踊っていたことで多少赤面したが、レコードを受け取ってルドルフに深く頭を下げた。
「ありがとうございます、陛下。このレコード、ずっと大切にします」
「デニエスタの曲をそこまで愛してもらえて、私も嬉しい。一国民として、貴女にそれを贈ろう」
 その時のリリィの微笑みは、何の混じり気もない、純粋で、輝く太陽の様だった。

 その後も四人はベルン各地を回った。美術史博物館の次は劇場、そして新市街の摩天楼を見物した。旧市街の古風な空気とは一転して、新市街は進取の機運に溢れた貪欲な街で、一山当てようとする野心と若さだけを両手に抱えた人々が、あちこちで新聞を貪り読み、市場の行く末を固唾を飲んで見守っている。
 一方、新市街が人を惹きつけるのはこれだけではない。金融センターの西側には、ライブホール、アミューズメント施設などが集まった若者の街があり、そこではこれからのトレンドが日々新たに生み出され、SNSのレールに乗って全世界に拡散されていった。
 新市街とは、金融、流行、企業…あらゆるものの最先端を次々と生み出す、文字通りの「新しい」首都であった。
 そこでもリリィは様々なものを見て回った。最初はおどおどと震える様子もあったが、すぐに目の前のものに興味を惹かれ、クリスとルドルフの手を引いて走り出したり、ジークリンデと共に服屋や装飾品を見繕ったりと、早くも若者の日常に溶け込んだ。
 そして、そんな楽しい時間を文字通り日が暮れるまで過ごすと、四人はヘトヘトになって宮殿へと引き返した。
「楽しかったか?」
「はい、とても。ありがとうございます」
「ふん、まだこれだけではない。貴女がこの国にいる間、毎日楽しいところに連れていって差し上げよう」

 さて、およそ二週間ほどの間、リリィ達は帝国の各地を回り、実に多くのものを見て回った。離宮を拠点に、帝室所有の牧場で馬に乗ったり、巨大な図書館で心ゆくまで読書をしたり、或いは天覧歌劇のご相伴として世界一の劇団の舞台を楽しむなど、普通の人には決して味わえない贅沢に浸った。
 だが、そうしたことを一々述べれば、物語が長くなり過ぎてしまう。その様なわけで、差し当たってひとつ大切な挿話を紹介しよう。
 旅行七日目。その日四人は、帝都ベルンを少し離れた温泉の街、セーチェーニに滞在していた。この地には古代レーネ様式の浴場を備えた離宮があり、昔から歴代皇帝の保養地として利用されて来たが、今回は入浴を一つの趣味にするほど好むリリィの為に、わざわざルドルフが手配したのだ。

 「わぁ…すごい、夢みたい!」
 夜、リリィが浴場に入ると、その広さに上げた声が響き渡った。石造りの浴場は、大きな円柱が建てられて上の梁を支え、屋根は四角く穴が開けられて月明かりと星の光を風呂に取り込むことができるようになっている。
 灯りは単なる電灯ではなく、雰囲気に合う様に外装が工夫され、湯気と共に焚かれた薫物の香りがふわりと駆け上がって行く。どうやら、古代レーネの人々も、それを受け継いだデニエスタの人々も、入浴にかける情熱は並々ならぬものがあった様だ。
「リリィ様、何か御用があればお呼び下さい」
「ありがとう、ジークリンデさん」
「では、ごゆっくり」
 扉が閉められると、彼女はそのまま体を軽く洗い、まずは一度湯船に体を沈めた。湯の中で大の字になり、半ば浮くようにして浸かった経験は、今までそう多くはない。その上、振り仰ぐ異国の夜空は、例え様も無く美しかった。
「ふへぁ…」
 体が温まるにつれ、彼女の体からゆるゆると力が抜けて、思考も徐々に蕩けてゆく。しかし、その中でも彼女から消えないものが一つあった。
「でもなんか、寂しいかもしれない」
 あまりにも広い浴場を独り占め。確かにそれは良いが、一人で入るにはいささか広過ぎる。薄暗く趣深いのは良いが、一人と思うとそれも少し怖く思えてしまう。
「ジークリンデさんでも呼ぼうかな」
 ちゃぷちゃぷとお湯に浮かびながら、彼女がそんなことを考えていた、その時、
「……」
 重い音を立てて、浴場の出入り口の扉が開いた。そして、ペタペタと音を立てて中に入ってくる。湯気の中薄く見えた体の影は、明らかに男のそれであった。
「く、クリス!あなた、遂にやったわね!あれだけダメだと…」
「おや、これは失礼した」
「へ…」
 羞恥で顔を赤く染め、半ば本能的に抗議の声を上げたリリィに対して、驚いた様に返されたのは、彼女の付き人ではなく…ここに彼女を呼んだ主人、ルドルフの声であった。
「いや、申し訳ない。ジークリンデは席を外していた様だ」
「構いません。まあ、そういうこともあるでしょうから…」
 しばらくして、二人は奇妙にも肩を並べて湯に浸かっていた。彼女はルドルフのことをジロジロと眺めるような無礼は働かなかったが、それでもその体が目に入ることは避けられない。見れば、体つきは痩せ型ではあるが、細く貧相というわけではなく、欠かさぬ鍛錬のお陰か筋肉がついて引き締まっている様に見える。
 一方ルドルフの方も、多少の罪悪感はありながらも気になりはするので、気づかれぬ様それとなくリリィの体に視線を送った。肌の色は本当に足の先まで真っ白で、体の線は非常に華奢で細い。かといって弱々しいとか、或いは病弱だとは思われず、敢えて一言で表現するならば「しなやか」という言葉が似合う、生命の強さをその内側に感じさせる肢体であった。
 一方それはそれはそれとして、湯に浸かっていたからか蒸気した頬が薄く色づき、長い髪の毛を湯につけない様に纏めているので、うなじや耳元が外に出ている。そこには無自覚なままの艶かしさがあり、仮に並の男が見たとしたら、その振る舞いと相待って、見せつけるよりも却って情欲をそそられることになったであろう。だが、そこはやはり皇帝であった。
「時に、貴女は男と湯に浸かることが恥ずかしくはないのだろうか」
「母国では、いちいち男女を分けたりしません。昔はそういうこともありましたが、昔の王様がそうした余り重くない禁忌を廃止してからは、混浴も男女の会食も普通に行われる様になりました」
「なんというか、興味深い風習だな…」
「禁忌は神々の信仰と結びついていたので、若しかしたらソティル教に一気に国が置き換わっていたかも知れません」
「そうなっていたら、貴女をここに呼ぶのも少しは楽だった」
「違いありませんね」
「…しかし、では最初に私のことをクリスと思って抗議したのはなぜかね。彼も男だし、なんなら私よりも気心が知れていると思うが」
「…分かりません。確かに、十歳の頃までは彼と一緒に入っていたこともありました。でも…不思議と、気恥ずかしくなって…他の人との混浴は恥ずかしいとも思わないのに、彼に体を見られるのは、すごく…恥ずかしいといいますか…」
「なるほど、そういうパターンもあるか」
 うんうん、と彼は頷いた。一方でリリィは恥ずかしげに浴槽に身を沈める。
「…ところで」
「はい」
「そろそろこの旅行も折り返しになるが、皇妃の件については、少しは考えてもらえたかな」
「………」
 少し考えて、彼女は口を開いた。
「まだ、答えは出せていませんが…この国に住むこと自体は、悪くないとは思っています。でも…」
「でも?」
「…それはつまり、ラピタでしてきた様な、私の仕事をもうやめてしまうということです、それはどうしても、惜しいと感じてしまって」
「それは、君の地元愛からくる感情かね。それとも…『自分自身で働きたい』とする思いかね」
「恐らくは後者でしょう。ラピタは良くも悪くも発展途上です。どうなるにしても、まだまだ王族が率先して働かなければいけません。…私にとって、その仕事は天職とさえ思える程、楽しいのです。そして、この国で皇妃になったとしても、私はそれと同じものを求めてしまうでしょう…でも、それはきっと、この国が積み上げてきたものを否定することに他なりません。…それが少し、嫌なのです」
「なるほど…確かに、一理ある。…この国では、もはや皇族は、政治面では必ずしも必要とされない。敬意を払われ、至尊にして汚してはならない地位ではあるが、政治は議会と内閣が行い、我々はそれにサインをするだけだ。これは確かに、長きに渡るこの国の歴史が積み上げた政治の完成形だが…貴女の様に才智ある皇族にとっては、耐えられまい」
「決して、帝国の歴史を否定するわけではありません。むしろ、大国の統御が皇帝の一存で決まるのであれば、それこそむしろ問題です。そして、帝国は長い歴史の中で自らに合う制度を一から作り上げて来ました。…私は、母国でそんな仕事をまだ続けたいと、そう、まだ未練があります」
「…よくわかった」

 少しして、二人は風呂から上がると、脱衣所の外で戻って来ていたジークリンデに出くわした。
「お疲れ様で…陛下!」
「ああ、見張りご苦労」
「お疲れ様」
「あ、あの、ま、まさかお二人は…」
「…おいおい、そういきなり話を飛躍させるでない。何も無かった、良いな」
「は、はあ」
 そのまま離宮のリビングまで立ち去っていく二人を、彼女はひどく奇異な目で見つめていた。

 それより先の一週間について、再び詳しく述べる必要はあるまい。リリィ達は再び帝国各地を回り、一生物の経験を数多く積み重ねた。彼女が肌身離さず持っている手帖の殆どは、その旅行の記述で埋め尽くされた。
 また、皇帝も旅行の間政務を弟に委ね、どれほど遠方の地であったとしても、彼女について自分も赴いた。無論その様子はあらゆるマスコミの追い求めるところではあったが、彼の細やかな配慮と調整によって、彼女が煩わされることは決して無かった。
 しかし、そうした楽しい時間というものは、得てしてごく一瞬と思われるほどに短く感じられ、また過ぎ去ってしまうものである。
 二人がこの国を去る時が、刻一刻と迫っていた。

 前夜、明日の出発に備えて、ミテルベルンへ帰還したリリィは、入浴の後リビングルームで寛いでいた。
「リリィ様」
「…あら、クリス。どうかしたの?」
「今風呂から上がったとこです。リリィ様はもうすぐおやすみですか」
「ん、まあそうね…」
 眠いのか、彼女の受け答えは少しゆったりとしていて、曖昧に揺れている。しかし、反対にクリスの方は心中穏やかではない様で、どこか焦慮が滲んだ声で続けた。
「リリィ様。もう、お決めになられましたか」
「何を?」
「はぐらかさないで下さい。皇妃のことです。なるんですか、ならないんですか?」
「……」
 その問いに対して、彼女は答えない。手元に置かれた冷水のボトルからコップに中身を注ぐと、その揺らめきを見つめて、意味ありげに微笑むだけだ。
「リリィ様…!」
「…仮に、なったとしても。それであなたに何の関係があるの?」
「なっ、」
 彼女の言葉は、彼に対して強かな打撃となった。心を抉り取る言葉の一撃が、深く胸に突き立つ。
「仮にあなたが、私に恋でもしていたのなら…私が皇妃になるのを止める権利くらいはあるかもしれない。でも、違うでしょう?あなたにとって、私は単なる主人に過ぎない」
「……」
「主人のことに首を突っ込むのは、臣下の分を超えたことではないかしら」
「っ…」
 思わず音を立てて椅子から立ち上がったは良いものの、その理屈の正しさ故に、彼は反論できなかった。もしも出来るとするのならば、それは、自身が心中に持ち続けてきた、主人に対する分不相応な気持ちを全てぶちまけてしまうことだけである。
「あ、あの、リリィ様」
「何?」
「お、おれ、いや、私は、その…」
 そして、彼は賢明であった。決してひっくり返らないとしても、彼は自分の気持ちを内に秘めておく程、聖人でもなく、愚かでもなかった。
「ずっと前から、あなたのーっ!」
「そこまで。十分伝わった」
 にやり、と笑みを浮かべて、そのまま彼女は踵を返して自室へと引き取って行く。後には、ポカンとした表情の青年が一人、取り残された。

 「やあ、お戻りかね」
「陛下、お待たせしてしまいましたか」
 部屋に戻ってみると、誰あろう、ルドルフが扉の脇に立って待っていた。
「中へどうぞ。もう支度が済んでいるので、荷物が少し邪魔かも知れませんが」
 リリィは彼を部屋の中に招き入れた。中へ入ると、テーブルには飲みかけのワインと、お供として頼んだチーズやサラミの皿が置きっぱなしになっている。
「良いのか?夜に未婚の王女が、男を部屋に招き入れるなど」
「陛下にそのおつもりがおありでなければ、何を憚ることがあるでしょうか」
 クスクスと笑い、彼女はベランダの手すりに身を寄りかからせた。下には、幾何学模様を描く庭園が広がっている。
「リリィ殿、今私がここにいる理由は、もう既にお察しのことと思う」
「…陛下」
 ルドルフの顔は酷く謹直なものになっていて、柄にもない動揺がありありと現れていた。そして、それは彼女も同じである。全ての障害、全ての虚飾を取り払って、彼女は今、一つの問題に真摯に向き合おうとしていた。
「では、僭越ながら、私の方からお答え申し上げたいと思います」
「承ろう」
「すぅ…陛下、私を皇妃の候補として挙げて頂いたこと、身に余る光栄に存じます。しかし、その申し出をご辞退することを、お許し願います」
「………」
 リリィは小さく頭を下げた。多くは語らない、謝罪もしない。それが、彼女なりの流儀であった。
「…そうか、先を越されてしまったな」
「はい、敢えて先に申し上げました」
 否定的な恋の答えを聞いた時、普通ならば落胆か、悲しみの表情を浮かべるであろう。しかし、ルドルフは違った。彼は、どこか納得した様に、莞爾とした笑みで応えた。
「実は、私も言おうと思っていたのだ。貴女を皇妃にすることはできない、とな」
「……実のところ、既に拝察しておりました」
「流石だ」
 リリィの方も小さく笑った。互いを振るというのに、その心の内は親しく付き合った仲のように以心伝心なのだ。おかしみを感じない方がおかしいと言うものである。
「一週間前のあの日から考えた。貴女をこの国に迎えることが、本当に良いことなのだろうかと。却って貴女の自由を奪うのならば、それはすべきことなのかと」
「……」
「そして、突き詰め倒して、ようやく気がついた。私が惹かれていたのは、何処までも自由で、何処までも遠く駆け抜けて行こうとする貴女の姿だったと。…そう気がついた時、私は、私がそれに惹かれている限り、貴女を皇妃にはできないと知ったよ」
「…お気持ちは、心から嬉しく思います。私も、陛下のことはとても大切に思っております。お優しく、気高く、どこまでも君主たろうとするその姿に」
「なら、それで良いと思うことにした。何も、夫婦になるだけが、情愛の結びになるわけでもない。互いに、惹かれた姿のまま、どこまでも行こう。私は、自由を失って飼い慣らされた貴女など見たくはないし、貴女も、弱々しく、他人に依存する私など見たくはなかろう」
「……」
「…とまあ、ここまでだ。これが、私と貴女の結論というわけだ。…だが」
「はい」
「ここまでの話を外に漏らされては叶わない。皇帝が振られたとなれば、それは国の恥だ。何か適当な理由をでっち上げなくてはならないな」
「まあ」
 自分で言ったジョークが気に入った様で、ルドルフは声を上げて笑った。そして、思いついた様に、彼女に言った。
「…こう言うのはどうだろうか。『私が愛したいのは、側にいて守ってやりたくなる様な、そんな女だ。だから貴女には応えられない』とな」
「宜しいのではありませんか。きっと、世の中の女性はそうしたセリフに、心をときめかせることでしょう」
「そうだろう。私も、今考えて、これほどまでに良いセリフもなかろうと、そう思ったのだ…」

 翌日、空港に停められた特別機の前で、リリィとルドルフは最後の別れを交わした。
「次は、私の結婚式に国賓として招待しよう。そして、その後は…友人としてゆったりと、時を過ごそうではないか」
「はい、喜んで。またお会いできる日を楽しみにしています」
 彼女が飛行機に乗り込むのを見届けると、彼は空港のターミナルへ戻って行く。窓からその後ろ姿を、二人は感慨深く見つめていた。
「…デニエスタともお別れですね」
「…そうね」
「まだこの度は続きますが、それでも感慨深く感じます」
「あら、あなたにとってはいいんじゃない?この国にいる間、ずっと熱い嫉妬の視線を感じてたわ」
「そんなこと…っ!」
 刹那、クリスは何が起こったかわからなかった。自身の唇が、同じくらい柔らかい別の唇に塞がれていた。温かく、甘い感触の後、悪戯っぽい笑みを浮かべた主人の顔を見て、彼はようやく、全てを理解したのだった。
(終わり)

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