架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

 クリスは時折思うことがある。自らの主人は果たして、大人びている子供なのか、それとも子供の心を持ち続ける大人なのか。
「わぁ、凄い、海が、海が見えるわ!」
「落ち着いてください。口にお肉がついたままですよ」
 口許の食べかすを拭ってやりながら、彼は苦笑いした。こう言うところは、何年も前から変わってはいない。
「む…子供扱いしないでよ、クリス」
「リリィ様こそ、もっと綺麗にお食事ができると良いですね」
 ラピタ王国の王女、リリィとその付き人クリスは、今、祖国の隣国、マウサネシアにいる。間も無く年の瀬の十二月に差し掛かろうと言う時、しかし同じ熱帯のこの国では、寒く厳しい冬とは無縁である。
 二人にとって、長い長い外遊の、最後の目的地であった。

 二人を乗せた高速鉄道は、空港から熱帯雨林を走り抜け、険しい山岳の地下を潜り、首都近郊のリゾート地であるパンガンダランに到着した。熱帯雨林気候でありながら降水量が少なく、真っ青で穏やかな海が広がるこの場所は、意外にも知名度が低い穴場であり、地元の人間の他は殆ど外国人が現れない。
 むしろ、それだから要人である彼女らの宿泊地に選ばれたのであろうか。いずれにせよ、政府はもてなしに手を抜くつもりは全く無い様で、列車から降りた客人を迎えたのは、見事に整備された海岸保養地であった。
「はー、凄いわね。海は綺麗だし、空気も澄んでる。でも、その割に人がほとんどいないわ」
 麦わら帽子の下からリリィは感嘆の呟きを漏らした。着ている服は例によって白のブラウスにロングスカート、後は側に仕えるクリスがデニエスタのテーラーで仕立てたジャケットをいつでも着られる様に持っていた。
「風も気持ちいいですね。湿気がほとんど無い」
 クリスの方も同じ様な服装をしている。白のワイシャツに動きやすい長ズボン、腰に武器は帯びていないが、いつでも連絡できる様にトランシーバーがホルダーに入っている。
「ようこそお越しくださいました!」
 そんな二人を出迎えたのは、明るい笑みを浮かべたまだ若い様子のマウサナ人だった。髪の色は淡い桃色で、顔つきはまだまだ幼い。服装は一応国賓ということに合わせたのか、裾の長い清楚げなワンピースであった。
「本日から、お二人のご案内とお世話を担当します、連邦外務省のソウム・リンと申します!我が国にお出での間は、何なりとお申し付け下さいませ」
「なんと…見事なラピタ語ですよ」
「流石隣国…外交官の訓練も行き届いてるわね」
「では早速、ご滞在頂く宿泊施設にご案内しますね!」
 リンの案内のもと、二人はリゾートの中を歩き、山と海に挟まれたとある場所に行き着いた。そこには、数万枚の鏡を貼り合わせた様な四角形の建物があり、海と空の青空を反射して、さながら風景にそのまま溶け込む様な印象を受けた。
 ラピタではこれ程の建物を建てられるだけの技術はなく、旧態依然のコロニアル様式を墨守している。それだけに、建物を見上げた二人の受けた衝撃は深かった。
「こちらは、最近竣工したばかりの新しいホテルです。今回の為に政府が一棟丸ごと貸し切ったのですよ」
 見事な最新鋭の外装とは裏腹に、古風な大理石とシャンデリアで作られたロビーを抜けて、エレベーターに乗り込む。
「一体どんな部屋に連れて行かれるのか想像もつきませんよ」
「全面鏡貼りだったりして」
「着きましたよ」
 エレベーターを降りると、そこは屋上であった。どこまでも青い空が、水平線で同じ色の海と混じり合う。手前には白亜の砂浜と、見慣れたココヤシの木が風にそよぎ、左右には熱帯雨林の緑色の山々が広がっている。
「パンガンダランの全てを見渡せるところです。こちらへ」
 リンは屋上の一角に案内した。そこには、白い壁で作られた平屋のコテージーいや、広さからして、既に一つの家であるーが建っていて、二人を出迎えた。
 建物は全体の影は台形に造られていて、片方が迫り上がった屋根がもう片方に斜め下がりで作られている。手前には木製の低い階段と手すりが設けられ、縁側に似た空間を作り、奥の扉の脇にはガラス張りの大きな窓が開けられている。
「さあ、中へどうぞ」
 中は外と同じ様に白い壁で造られているが、所々に木が使われていると共に、全体的に解放感と清涼感を演出する設計になっている。
「こちらが、今回お二人にお泊まり頂くお部屋になります」
「これが、部屋ですか…」
「はい。このホテルの最高級ラグジュアリースイートになります。この屋上の庭園や風景、併設プール、諸々含めて全て独占頂けます」
「国賓ってのは凄いのね。何というかこう、ええと…」
「『至れり尽くせり』って奴ですか」
「そうそれよ。マウサネシアの言い回しがすぐには出て来なかったの」
「ありがとうございます」
「あの、ところで、このお部屋はリリィ様が使うんですよね?」
「いえ、お二人でご一緒にお使い下さいませ。では、まずは本日のご予定について確認いたします」
「えっ、あっ、はい…」
 結局のところ、二人にとって最も重要な点は押し流され、早くも仕事の話に叩き込まれてしまった。
「まずはお疲れのところ恐縮ですが、今夜早速連邦国家主席閣下、並びに国家導師猊下との面会と会食のご予定が入っております。外交的にはインフォーマルな物ですので、服装はそのまま、カジュアルな物で結構です。勲章も必要ありません」
「ものすっごく助かります」
「リリィ様ドレスとかお持ちでないですもんね」 「当たり前よ。あんな物着てられないわ」
「閣下、猊下も共に平常の服でいらっしゃいます。また、お食事の会場につきましてはこちらで、マウサネシアの伝統料理を出すレストランをご用意致しました。ちなみに中はこの様な感じです」
「ほうほう…」
「(よかった、思ったより大衆的らしい)」
「では、お時間になりましたらこちらでお声がけ致しますので、よろしくお願いします」
「はーい」
 リンが立ち去ると、二人はまず大きな息をついてソファに座り込み、次いで今更の様に互いの顔を見つめた。
「で」
「で?」
「分かってますよね、私が何を言いたいのか」
「ええ、大体察してるわ」
「じゃあどうしますかこれからの十日間」
「どうするって…まあ、仕方ないんじゃない?というか、今更でしょ私達にとっては」
「今更って…」
「生まれた時から一緒で、何度も同じ部屋で寝て、何ならこの前キスもしたし…」
「あぁもうその辺でやめてください。恥ずかしくなってきました」
 こういうところだ。クリスは赤くなった顔でリリィの顔を見直した。人の心を散々ざわつかせる癖に、当人の精神は信じられないほどに無垢で純粋、こちらのことなどお構いなしにズカズカと入り込まれる。
「取り敢えず、どっちがどの部屋を使うか決めましょう。そこら辺は筋を通さないと、帰った時に王様に殺されます」
「あら、お父様はそんなに厳しい人じゃないわよ?」
「私にとっては、リリィ様共々大切な主人です」
「ふーん?」
 揶揄う様にして彼女は立ち上がり、大きな大きな「部屋」の中を歩き回った。薄型テレビの置かれたリビング、大きな冷蔵庫と台所設備の揃ったダイニング、そして、海に沈む夕日が望める西側に設られた露天風呂。家としては小さいかも知れないが、ホテルの「部屋」としては凄まじい規模である。
「あ、クリス。ジュース飲もう?喉乾いてるでしょうし」
「…頂きます」
 ここで十日間も過ごすのか。彼は心配であった。安全性のことではない、ただ、彼自身に掛けてきた重い重い箍が、いつ弾け飛ぶか。自分自身でもわからなくなってきたのである。

 さて、その日の深夜。リリィは国賓用の列車に乗ってジャヤカルタに赴き、会談を終えて戻ってきた。
「ただいまー!」
 来ているジャケットの左胸には、プレゼントされたばかりの勲章が輝いている。
「ちょっと!そのままソファに飛び込まないでください!」
「えへへー」
 見れば分かる通り、彼女は相当酔っ払っている。顔は赤くなっているし、口調も普段の様に明瞭ではない。表情はだらしなく緩み、体の動きはゆるゆると曖昧である。
「というか、こんな調子で良くあんな謹直な態度作っていられましたね」
「リリィ様の演技力を舐めてはいけないのだー、はっはっはー」
 しかし、こんな調子でも彼女は会談を見事にこなしてみせた。演技と真実をうまく使い分け、笑うべき時は笑い、真面目になるべき時は真面目になった。相手の見たい自分や、相手に見せたい自分、そうしたことを演じ分けることにかけて、この王女は見事な才能を持っていたと言っていい。
「ま、向こうさんは見抜いてたかもしれないけどー」
「国家主席閣下、面白い人でしたね。お酒とおつまみに目が無くて、今回のお店もあの方が選んだとか」
「最後は肩組んで歌謡曲熱唱したね〜」
「はい、お部屋に着きましたよ。お着替えして、少し休んだらお風呂に入って、今日はもう寝ましょう。明日も予定が目白押しですから」
「はーい」
 リリィを部屋に放り込むと、クリスはダイニングに戻り、水道から水を汲んで飲み干した。全く馬鹿げている、一国の元首に面会するのに、どうしてあんなに自然体でいられるのだろうか。彼は自身の左胸にも吊り下げられた、新しい勲章を握りしめた。自分にはこんな物は相応しくない、才能も経験も実績も、唯一の希望である勇気さえも欠けている。
「クソッ…」
 らしからぬ言葉を吐いて、彼はソファに座り、テレビのスイッチを入れた。ご丁寧にラピタ語の字幕まで入っている。そんな異国の言葉に溺れながら、彼はいつの間にか目を閉じていた。
「…リス、…クリス…起きて、クリス…」
「ん、うわっ!」
「きゃあっ!」
「…リリィ様…」
 靄のかかった意識が急速に晴れていく。跳ね起きると、すぐそばには、しどけないバスローブ姿で佇む主人の姿があった。長い髪の毛はしっとりと濡れていて、合わせ目からは首元や鎖骨が艶かしくのぞいている。
「急に起き上がらないでよ…びっくりするじゃない…」
「え、あ、ごめんなさい。自分もちょっと疲れてたみたいで…」
「…お風呂、空いたから入りなさい。それだけ、伝えに来たの」
「はい、分かりました…」
 そう答えて、ふらつきつつクリスが立ち上がる。その時、
「クリス」
「はい」
「…いや、やっぱりなんでもないわ。今日は先に寝る。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい…」
 そのまま駆け足で部屋に戻ったリリィは、ベッドに飛び込み、真っ赤になって脚をばたつかせた。
「なんで、なんであの時の私は…っ!あんな気軽に、キスなんてっ…!」

 さて、翌日。朝食を終えて部屋を出た二人は、再び列車でジャヤカルタに送られた。今日の行き先は、昼間は国立大学を見学し、夜はネオン煌めく繁華街の観光である。
「はぁ〜…これが首都ですか…」
「昨日も見ましたけど、改めて凄い街ですね」
「ふふんそうでしょう。都市圏人口はおよそ三千万人、単独でも一千万近い人口があります」
「いっせんまん…!」
「ラピタの総人口の十数倍ですね…」
 街一つが自国全てを凌駕する。今更ながら二人は、隣国が世界でも指折りの大国であることを思い出した。そして、自国の小ささもまたー。
「うーん、世界って広いのね」
「同感です」
「では、間も無く国立ジャヤカルタ大学です。お昼の間はこちらを見学して頂きます」
「はーい」
 正門の前で車を降りると、出迎えたのは大学というよりは研究所然としたビルの群れであった。建国以来の伝統ある大学とは聞いていたが、どうやらどちらかと言えば最新志向の学校の様で、デニエスタで見た仰々しい古典様式の建物は無く、どこまでも機能的なイメージを与える校舎が連なっている。
「この銅像はどなたの?」
「国父レイン・ノル閣下です」
「なるほど」
 リンとその様な会話をしつつ、リリィ達は正門からまずは正面の講堂に入った。既に周りには一限に向かう学生達の姿がちらほらと見え始めている頃だった。

 「えー…この通り、マウサネシアにおける哲学的潮流の発展は…」
 少し後の大講堂。その一番後ろに、この場にそぐわぬ白髪の女性の姿がある。彼女は興味深げに中央の縁談に視線を向けて、時折メモをとりつつ熱心に話に耳を傾けていた。
 誰あろう、リリィである。隣にはヒヤヒヤしながら周りを眺めるクリスと、久々の母校懐かしいなぁ、と言った表情のリンがいた。
「さて、ここまでで何か質問のある者はいるかね」
「はい、プラワンチット公爵の唱えた太陽教改革論と、同時期にカーリストで勃興したウェルセン学派の関連性について…」
「もう既にちんぷんかんぷんですよ、俺」
「あら、なかなか面白い話してるのに。勿体無いわよ」
 目の前で繰り広げられるやりとりに、既にクリスは目を白黒させている。他方リリィの方は、興味深げに学生と教授のやりとりを聞き取っている様だった。この辺り、彼女の頭脳はやはり凡庸ではあり得ない。
「それでは、本日の講義はこれまで」
 一時間ほど経って、教授が講義を切り上げると、一挙に講堂の中の空気が弛緩し、学生達は各々の時間を過ごし始める。講義メモをノートにまとめる者、さっさと帰り支度をして立ち去る者、早くも昼食を始める者、実に多彩である。ラピタの王立学院では、ここまで多彩な行動は見られない。大体の者が食事をしに出て行ってしまうからだ。
 そんな時、ノートをしまい込んで、クリスとの会話に興じていた彼女に、意を決して話しかけてきた者がある。
「あ、あの」
「ん?」
 不器用なラピタ語だった。視線を向けてみると、三人のマウサナ人達が、ひどく緊張した面持ちで彼女を見つめている。
「あなたは、その、間違いでなければ…ラピタ王国のリリィ王女殿下でいらっしゃいますか」
「そうよ」
「本当だ!凄い!」
 答えると、彼女達は嬉しげに笑いあった。それを見て、リリィも微笑ましげに顔を綻ばせる。自分が偶像扱いされることは(母国では)常ではあるが、こう素朴に喜ばれて、やはり嫌な気はしない。その上、ラピタ語を練習してくれたのだ、少しくらいはサービスしてやりたい。そう思った。
「何か聞きたいこととかある?答えられる範囲で教えてあげるわ」
「えっ、えっとですね、じゃあ…サインと、一緒に写真を…」
「お安い御用。サインは、ラピタ文字の方がいいかしら」
 そう言って、サインを書いてやり、一緒に写真を撮る。三人はとても喜び、ずっと宝物にすると約束してくれた。が、話はこれでは終わらなかった。
「おい、あの三人、本当に話しかけた…」
「私たちもチャレンジしてみたら…」
 講堂にいた学生達が、彼女らに触発されて、リリィにアプローチしようと近づいてきたのだ。それを察したリンは、護衛に命じて学生達を遠ざけようとする。しかし、護衛される者の行動は、常識と予想を超えていた。
「行くわよ、クリス」
「えっ、一体どこへ…ってちょっと!」
 俄に彼女は講堂を抜けて、演壇に立つと、マイクのスイッチを入れて言った。
「皆さんおはようございます。ラピタから一日留学で来ました、リリィ・ポマレと言います。本日はどうぞよろしくお願いします!Selēn maeusāna!」

 「一体何考えてるんですかリリィ様は!」
「ごめんごめん、もう怒らないで」
「そういう問題じゃありませんよ!」
 大学のカフェテリアで、クリスは半ば悲痛な声をあげて主人を叱りつけた。他方主人の方は、先ほど飛び込み営業ならぬ飛び込み「講演」をやった時の堂々たる態度は何処へやら、申し訳なさげに縮こまっている。
「まあまあ、学生達も喜んでいましたから。むしろ、ありがたいと思っています」
「そ、そうよ!ホストがそういうなら問題ないわ」
「本気でそう思ってるですか、殿下?」
「う、ごめんなさい…」
 唐突に始まったにも関わらず、彼女の講演は大盛況だった。時間を追うごとに参加者が増え、二時間ほど経って話を畳んだ頃には、既に三限が始まっていたにも関わらず、多くの学生が講義をサボったり、抜け出したりして聴衆に加わり、大講堂は満員になっていた。
 叱る側の教授陣も、話しているのが外交要人ゆえにどうにも出来ないばかりか、むしろこれを開き直って楽しもうという者もおり、質問者の中に多くがしれっと加わっていた。
「ちなみにこれ、要りますか?」
「なんです、これ」
「急遽作らせた講演録です。学生の何人かが自発的に書記を買って出まして、速記で作られた物を一つ回収してきました。後日検閲と校正の後で、大学出版局の方に回しておこうと思いますが…」
「仕事が早い!!」
「今日一日限定の講演でもよかったのですが、とても面白かったので、惜しく感じたんです」
 悪戯っぽいリンの笑いに負けて、クリスはため息を吐き、これ以上叱るのをやめた。元より暫くの間は自由行動の予定だったのだ、穴は空いていない。
「で、そのお客さんはもうすぐ来るの?」
「はい。ラピタ人初の留学生、是非とも王女様にお目にかかりたいと本人が…あ、来ました!」
「王女殿下に拝謁いたします」
 少し待った末にやって来たのは、久しぶりに見る同国人であった。身の丈はラピタ人特有の高身長で、百九十センチに届くくらいであろうか、体つきは精悍そのもので、引き締まった肉体は吊り橋を支える鉄のロープの様な強さを連想させる。
「ヒロ・カハナモク、貴方は確か王宮で見た覚えがあるわね」
「はい、首席の栄誉を受け、留学に行く前に陛下から銀の指輪を賜りました。お久しゅうございます、殿下」
「そう畏まらなくてもいいわ。立ちなさいな」
 ヒロ・カハナモクー父は一介の技術者から栄達し、外交官としてアリイの称号を受けるに至った人物、本人も愚直な努力でその地位を確保した秀才であるーは立ち上がり、照れ臭そうに笑みを浮かべた。いざ目の前に国民の憧れの的の王女を迎えてみると、何を話せば良いのか吹き飛んでしまった様だった。
「ヒロ、ここでは何をしているの?」
「農業技術を学んでいます。マウサネシアはラピタと環境が近いですから、きっと応用できるだろう、と。いずれ故郷に戻ったら、知識を活かして農業指導者になります」
「故郷は確か…ワイメアの方だったわね。川辺の」
「はい。土壌の関係で畑作は上手く行っていませんが、きっとやってみせます」
「期待しているわ…ところで、今はどんな風に過ごしているの?」
「研究室にご案内します、どうぞついて来てください」
 次第にヒロは調子を取り戻して来た様で、生き生きとした表情で彼女を自身の研究室に案内した。中に入ると、そこは光を遮断する黒いカーテンで仕切られ、厳密に管理調整されたランプの下、無数の棚にサンプルが並べられ、それぞれに細かいラベルが貼られ、生育が調べられていた。
「これは…」
「様々な種類の芋です。ラピタから持ってきた種芋と、マウサネシアの種芋。それぞれの生育の違いを調べているんです。こっちはクマラ(サツマイモ)ですよ」
「なるほどなるほど…」
「品種改良が目標なんです。少ない面積で沢山収穫出来たり、病原菌に強いものを開発すれば、飢える人もいなくなります」
「凄いわね、実現できれば王国の人口は飛躍的に増えるわ」
「目標は近いうちに、最盛期の百万人近い人口を取り戻すことですから。全力で頑張ります」
 彼は力強く約束した。ポマレ三世の御代の繁栄を、過去の栄光ではなく、これからの未来において実現することを。

 大学の見学を終えて外に出た時には、丁度時間は日が暮れて、夜になりつつあった。元々その予定ではあったが、やはり、とても長い時間を大学で過ごしていたのだな、と二人は感じた。
「では、次はジャヤカルタの街に繰り出しましょう。ここからは、護衛と案内付きですが、自由行動ですよ!」
「わーい!」
「危ないことはしないでくださいね、リリィ様」
「分かってるわよ!」
 夜の街へ出てみると、そこは昼の世界とは様変わりしていて、別世界かとさえ思われた。煌々ときらめくネオン、広告の意匠が無言の大音声で道ゆく人に呼びかけていて、天を衝く摩天楼の窓一つ一つから、星の様な光が下を歩く人々を見つめている。街灯の明るさはラピタのそれとは比べ物にならず、日が沈み、月の光さえない中でも、自らの手元までくっきりと浮かび上がった。
「すごい…とても明るいですね」
「そうね…でも、これじゃきっと眠れないわよ?」
 通行人に紛れつつ、リリィ達は繁華街を歩き回った。道行く人の多くはマウサナ人ではあったが、中には少なからず普通の人間ーつまりは、外国人も含まれていた。皆それぞれ、興味深そうな顔つきで街を眺めている。
「…そういえば、覚えてるかしら、クリス」
「はい?」
「開国の折、周りの大反対を押し退けてマウサネシアに渡ったラピタ人が居たわよね」
「ああ、居ましたねぇ。死出の旅とか色々言われてましたが」
「彼らは元気かしら」
「聞くところによれば、元気している様ですよ。この国には、我々と祖先を同じくする人々も住んでいるそうですから、孤独ではないと」
「そう…まあいいわ。はやい内に、外国人の渡航制限が緩められるといいわね」
 そのまま二人は百貨店や本屋など、多彩な店屋を回った。リリィはブランド物については完全に無知であったから、特段何かを欲しがろうとはしなかったが、折角だからと香水を買い、父の妃達へのお土産にした。一方本屋では、積み上げられた無数の書物に大いに関心を示し、割り当てられたお小遣い分の殆どを本代で埋めてしまった。
「全部外国語ですけど読めますか?」
「読める。と言うか翻訳のついでに読む」
 そうこともなげに言い放った彼女は、どっさりと本を詰めた紙袋をクリスに押し付けて、自身はさらに気まぐれの赴くまま、街の探検に戻って行った。

 ちょっとした事件があったのは、そんな中のことであった。リリィがふと、とある街角に足を踏み入れた時、目の前にごくごくありふれたトラブルが現れたのだ。
「てめぇ、舐めてんのかこの野郎!」
「アーアー、ワターシ、外国語わからないーネ」
「あの、どうかなさったんですか」
 見れば、ガタイの良い白人の男性が、身長の低いマウサナ人相手に随分と激しくお怒りの様子で絡んでいた。しかし、絡む方の怒り様に比べて、絡まれる方はヘラヘラと笑っていて、一向深刻さが無い。
「コイツらよ、デニエスタ語もわかんねえしその上…」
 リリィが話しかけた男は、早口で捲し立てた。語学力には自信のある彼女でも、流石に聞き取れない程の。これでは全く事情が分からない。ほどほど困り果てた彼女は、リンに助けを求めた。
「はいはい、じゃあこっちで話聞きますから。お兄さん達ちょっときて」
 リンが当事者達を引っ張って行ってしまうと、ようやくリリィとクリスは辺りを見回す余裕を得た。やけに桃色とセクシュアルアピールを強調した光る看板が並ぶ街角に立ち尽くし、全く未知のそれらを観察する二人だったが、ようやく一人がその正体に気がついた。
「あっ!」
「え、ど、どうしたのクリス」
「戻りましょうリリィ様」
「なんで!?」
「ここは良くない店が集まってるところですから」
「良くない…?」
「分かりませんか、ここは風俗街ですよ。リリィ様には『まだ早い』ところです!」
 これがいけなかった。彼は主人に対する口の聞き方について、もう少し学習するべきだったろう。
「な、なによそれ…」
 強引に手を引かれて通りから連れ出される彼女は、不満げ、と言うよりもむしろ裏切られた様な表情を浮かべて、なすがままになっていた。
 その少し後。二人はいつもの様に宿泊する部屋へと戻った。夕食を終え、交代で風呂にも入り、あとは眠るだけというゆったりとした時間。しかし、風俗街から連れ出された時から、リリィは終始無言のままであった。垂れた髪の毛で表情を隠し、クリスに寄り添う様にして側に居るだけである。
 一方クリスの方も、いい加減長い長い付き合いであるから、自分が何か彼女の機嫌を損ねることを言ってしまったことは察していた。しかし、どれだけ考えても思い当たる節が出てこない。何か傷つけることを言ってしまっただろうか。
 恐らくは、この辺りが彼の限界点だったのだろう。相手が言葉も不十分な幼児の時から側に仕えているが故に、彼は大切なことを見落としてしまっていた。
「…クリス」
「はい、リリィ様」
「こっち向いて。動かないで」
「え、なっー!」
 気がつけば、彼はソファに押し倒されていた。上にはバスローブ姿のリリィがのしかかり、思い切り体重をかけて彼を押さえつけ、ポツポツと雫を落としながら、真っ青な瞳で見つめてくる。
「な、何をするんですっ!」
「黙って…黙りなさい」
 そして、そのまま彼女は唇を相手のそれに触れさせた。一回、すぐに離して、二回目…今度はより深く、唇だけでない、舌先が相手に触れるほど強いキスをした。
「り、リリィ様…」
「言ったでしょう?子供扱いはしないで、って」
「お、怒っているんですか」
「そりゃ怒るわよ。今まで何年間、あなたに子供扱いされてきたか分かってる?…二十年、二十年経っても、あなたにとって私はずっと、子供のお姫様としか思われない気持ちが、あなたに分かるって言うの?」
「リリィ様…」
「もう、うんざり。私が幾つになったかもわからないのね…あなたが歳をとる様に、私も歳をとるってことを、いい加減教えてあげる」
 三度目のキス。二度目と同じ様に、蹂躙する様な激しい接触。抗うこともできず、彼はひたすらに、主人の感情を受け止めるしかない。怒りと、悲しみと、愛しさの混ざった接吻は、長く続いた。本当は一分にも満たない時間だったかも知れないが、二人にとってはそれだけの長さであった。
「ぷは…分かったでしょう。もう、私は、あなたの掌の中の真珠じゃない。あなたに抱き上げられていた、幼子じゃない…」
「………」
「だから、もう、やめて。私をちゃんと、見て…」
 涙が溢れた。何かが琴線に触れたのか、彼女は堰を切ったように泣き伏した。強さも、激しさも投げ捨てて、ひたすら彼女は泣いた。身を震わせて、彼の胸元で、泣き続けた。
「…リリィ様、申し訳ありません。俺はずっと、『見ない様に』してきたんです」
「…ん」
 少しして、彼は話し始めた。泣き止んだ彼女の頭を撫でながら、ゆっくりと本心を語った。
「ずっと昔、覚えていますか。俺は、一生あなたにお仕えすると、神殿で誓いましたね」
「…分かってる」
「その時俺は、こう誓いました。『私がもしも、あなたに取って代わろうという心を抱いたら、速やかに雷が私を罰します様に。もしも私があなたに刃を向けることがあれば、神々が私の背中を刺し貫きます様に』と」
「…だから、ずっと、あなたは」
「はい。…あなたは主人で、私は下僕です。どれだけ心と体が近くても、決して越えられない壁があると、ずっと思っていました。でも、次第に気持ちが抑えられなくなりました。…あなたが欲しい、あなたの隣に立ちたいという気持ちが…」
「……ずっと苦しかった。身分の壁も、宗教の壁も、何もかも壊して自分の意思を押し通そうと、ずっと努力してきたのに…肝心のあなただけが振り向いてくれなかった。デニエスタさえ振り向いたのに、あなただけが、手に入らなかった」
 リリィはぎゅっとクリスの体を抱きしめた。そして、告げた。
「…好きよ。ずっと前から、あなたが特別で、大切な人」
「…はい、俺もです。分不相応でも、不敬でも、あなたへの想いだけは、断ち切れませんでした」
「ありがとう、クリス…」
「リリィ様、この外遊が終わって、ラピタに帰ったら。きっと、全ての思いに決着をつけるつもりです。誰が立ち塞がっても、きっと、貫いてみせます」
「ええ。そうしましょう…私も、あなたと一緒なら、どこへだって行けるもの…」
 かくして、夜は明けていく。二人が互いの思いを知り、心を通わせたことを、他に知る者はいたであろうか。いたとするならば、それは二人の直ぐ側にいた者ではあるまい。遠い故郷の地で、同じ星空を見上げた、一人の父親であろうー…。

 翌朝。クリスは目を覚ましてみると、自分の腕の中で白いさらさらした塊が寝息を立てているのを見つけた。どうやら、昨日話し込んでいる内に、二人ともソファで寝入ってしまったらしい。
「リリィ様、リリィ様…」
「ん…あれ…わたし、寝ちゃってた?」
「おはようございます」
 温もりを惜しみつつも、彼は主人を揺さぶり起こした。彼女はむくりと体を起こし、ソファから降りて伸びをする。
「ところでクリス。昨夜のことだけど」
「はい」
「泣いたことは忘れて。でも…」
「でも?」
「…言ったことは忘れないで」
「はい」
 少しして、リンがやって来た。着替えて朝食を食べる時には、既にリリィは普段の態度を取り戻していて、悠然とフレンチトーストを口に運んでいた。

 そこから数日、概ね彼女は満足する日々を過ごした。首都だけでなく、その周辺の名所や旧跡を周り、珍しい生き物や体験を想うままに楽しんだ。
 特に彼女が感銘を受けたのは、マウサネシア周辺に住む魚や海・川の生き物を集めた水族館であり、大水槽に張り付く様にして、泳ぎ回る魚達を眺めていた。
「凄いわね、これ。こんな風に魚が泳ぐのをみたのは、人生で初めてよ」
「サメもガラス越しなら怖くありませんね」
「ホントね」
 元々海の民である彼女は、そうした水の生き物を見るのが好きだった。が、それだけではない。体質のせいで塩がひどく体に沁みるせいで、彼女は海に入ることができないのだ。それ故か、ガラス越しとはいえ、実際に海の中を自分の目で見るという経験は、彼女に深い印象を刻みつけずにはおかなかった。陽光がカーテンの様に踊り回り、永遠に続くかと思われる水色の中を照らし出す。底の砂地には、色とりどりの珊瑚やイソギンチャク、そして花を散らした様な魚たちが泳ぎ回っているのだ。
 開国が無ければ、彼女が命ある内にこれを見ることは、決して無かったであろう。
「リコ王女も、憧れたのかしら…水底の風景に…」
「かもしれません。『ティナ』の名前を持つ人の中で、ここまで深い水の底を見届けたのは、リリィ様が初めてだと思いますよ」
 もしかしたら、この美しい海から永遠に引き離されることが、白髪と才華の代償なのかも知れない。だとしたら、その全てを手に入れた自分から、神々は何を奪うのだろう?
「…?どうかしました?」
「ううん、何でもない」
 彼女はその考えを一旦心の底にしまい込み、見学を続けた。不安も恐怖も、今は忘れて、幸せの中に浸りたい。そう思っていた。

 そして、時間はあっという間に過ぎ、帰還の日が訪れた。大勢の見送りを受けながら、二人は故郷へと戻る船に乗り込み、マウサネシアの岸を離れた。
「長かった外遊も終わりね」
「久々のラピタですが、いかがですか?」
「…そうね、寂しくもあり、嬉しくもあり。そんな感じかしら」
「と言いますと?」
「行く前は親友がいたけど、帰り道にはいない。でも、行く前にはいなかった、恋人がそばに居る」
「…はい」
「約束、覚えているでしょ?ラピタに帰ったら、決着をつけてくれるって」
「はい。お約束しました」
「楽しみね。壁も、我慢する理由も無くなったあなたが、一体どんなケダモノになるのか」
「…なりませんよ。でも、我慢しなくていいのなら…何をするか、わかりませんよ?」
「ふふ、望むところ…ねえ、クリス」
「はい、リリィ様」
「愛してるわ」
「俺もですよ」
 間も無く船は、ラピタ島に。二人の心と共に、戻ってくる。

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