架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

 そういえば、最後に旅をしたのはいつ頃のことだったろう。
 二年前に父母を亡くして以来、私は殆どずっと領地にいた。公務で首都に登ることはあっても、一日二日滞在してすぐにまた戻る。結局、カレッジの中等科卒業式には出られず、高等科も一年生はほぼ学校にすら行かなかった。
 そんな自分が今、首都よりもずっと遠い場所に向かおうとしている。目指す先は、世界帝国の中心、あらゆる人々が憧れる夢の街だ…。
「イェシー、イェシー」
「…ん、あれ、私寝ちゃってた?」
「ああ、ぐっすりだよ」
「ステンカ…ここどこ?」
「もうすぐ空港だよ。荷物は先に車で届けてあるから。今から飛行機に乗って、朝にベルンに着く予定だよ」
 私が目を覚ましたのは、古めかしくも豪華な二頭立て四輪馬車の中、そして隣に座る一人の青年の肩の上だった。
 この時代に馬車とは、と訝しむ人は多いだろう。だが、私にとってこれはほぼ唯一の交通手段の一つだ。父母が自動車の事故で亡くなって以来、私にとってそれはひどいトラウマを想起させるものになってしまった。故に、わざわざ古い馬車を倉庫から引っ張り出してきて、現役の交通手段として使っているわけである。
 但し、やはりどうしても遅いものは遅い。流石に領地から馬車を走らせたのでは、軽く一週間はかかってしまう。そこで私達は、首都の中心部までは一旦高速鉄道を利用し、そこから馬車に乗り換えて空港に向かったのだ。
「空港までも電車じゃダメだったの?」
「一応、歴史ある貴族の集いに行くわけですから。多少の威儀は必要なんでしょう…と、父さんが言ってました」
「ふぅん…」
 ガラガラと車の回る音と心地よい馬蹄の音を響かせて、馬車は郊外の国際空港に向かう。そこには、公爵家のプライベートジェットが待機していて、到着し次第ベルンへと立つ手筈になっていた。
「お二人とも、到着いたしました。このまま専用ターミナルへお進みください。そこで、旅の間お世話をする執事とメイドが待機しております」
「ありがとう」
「それじゃ、行きましょうか、『お嬢様』」
「…ええ」
 かくして、私ことリュリス・ヴィシニョヴィエツキと、ステパン・サハイダーチュヌィイは、遥か遠い異国の地に向けて第一歩を踏み出すことになった。
 行く先は文字通り、詩賦や物語でしか知らない場所。世界の頂点に立つ人々を集めた、最も華やかな祭典。そこで何が待っているのか、何を経験することになるのか。私達は、何も知らなかった。
 聖暦1992年4月17日、デニエスタ時間午前八時三十分。ヴィシニョヴィエツキ家の紋章を掲げたプライベートジェットは、ベルン近郊の国際空港に着陸した。割り当てられた駐機スペースは、他にも多くのジェットで混み合っている。
「あれ、あの紋章見たことある気がする」
「あれはガリア貴族のモンセギュール侯爵家の航空機です。確か、モンセギュール侯は製薬業で財をなされたとか」
「きちんと勉強したのね、偉いわ」
「ありがとうございます」
 飛行機から降り、ターミナルの出口に向かう。世話役達は一旦離れて先に車に乗り、滞在先となるホテルに移動する。ここからはまた私とステパンの二人で馬車に乗るわけだ。…尤も、とてつもなく厳ついボディガードが付いて、馬車の前後左右を守ってはくれているが。
「…ところでステンカ」
「なんです?」
「この人達はどうして私達を囲んでいるの?」
「護衛と…後もう一つ。大事な役割があるんです」
「大事な役割って…あっ!」
 道筋を示す為にカーペットが敷かれたターミナルの出口から外に出ると、無数の報道陣が詰めかけていて、私に向けてフラッシュを焚いた。迂闊にもサングラスをし忘れていた私の目は、忽ち強い光に灼かれ、視界が明滅する。
「『たった今、イェスパッシャンのヴィシニョヴィエツキ公爵が到着されました!』」
 そんなことを言っているのだろう。レポーターらしき声と、更にシャッター音が続く。このままではまずい、そう思った時、ボディガード達の巨体が私の身体を光から包み隠したのだ。
「なるほど、そう言うことなのね」
「どうやら、招待主様の配慮の様です」
 そのまま早足でレッドカーペットを歩き去り、私達は馬車に潜り込んだ。前後左右にはバイクと真っ黒に塗られた自動車が護衛として付く。
「出発!」
 ひひん、と馬が軽く嘶いて歩き出した。向かう先はベルン旧市街に位置する、プリンツ・フェルディナントホテルである。
 ベルンといえばその名は千年近くに渡り、世界に冠たる大都市の名前として知られている。古くは帝国の首都、世界最大の都市であり、現在でも世界的金融センター、および科学技術、文化トレンドの発信地である。世界最大の都市の名前こそ、フリージアやソビエトと言った新興諸国に譲ったが、その重要性は今なお減っていない。
 そして、そのベルンの持つ大切な顔の一つが、今なお鮮明に保存された歴史都市としてのものである。ベルンの南側、人為的に保存された城壁で隔てられた地区は、「旧市街」と呼ばれており、摩天楼の煌めきに満ちた新市街とは対照的に、古めかしく趣ある街並みが広がっている。
「ここがベルン…ルブヌィやヴィシニョヴィエフとは大違いね」
「この街並みは、1890年代、この街で『世紀末ベルン』と呼ばれた文化の花開いた時代をそのまま残してあるそうです。史上稀に見る文化の爛熟した時代の息吹を感じられますね」
「ステンカ?あんまり教養人ぶるのは良くないわ。はっきり言って、あなたの口からそう言う話が出てくると、ちょっと落ち着かないもの」
「そんな!」
「あなたには、ヴィシニョヴィエフやルブヌィの、中世の無骨な街をそのまま残した土地がよく似合うわ。あなたの飾らない天真爛漫なところを、私は買っているのよ」
「…褒められてるんですかね、俺」
 帝室直営のホテル「プリンツ・フェルディナント」は、そんな旧市街の中心部、皇宮や帝国議会、そして舞踏会の会場となる国立歌劇場などが立ち並ぶ「リンクシュトラーゼ」と呼ばれる一角に面している。古くは皇帝の庶子として生まれた、フェルディナントという名の大公のために作られた小離宮であったというこのホテルは、客室数僅か二百、一晩の代金が一般的な賃貸一月分の家賃に匹敵するという高級さと、数百年の歴史を経て洗練されたプロトコールに基づく卓越したもてなしで名を知られている。そして、今回この場所は特別の勅命を受け、舞踏会に参加する百五十組三百人のゲストを迎える宿泊所の一つとされていた。
「リュリス・ヴィシニョヴィエツキ公爵と、そのエスコート、ステパン・サハイダーチュヌィイ殿、確かに承っております。主賓の公爵閣下のお部屋はこちら、殿方はそのお隣となります」
「世話役の使用人たちは?」
「ここからはホテルの者がお世話を引き継ぎます。イェスパッシャン語も解しますのでご安心下さい。あちらの方々にも、宿泊施設を用意する様陛下よりご命令を受けております」
「なら結構。しばらくお世話になります」
「ベルナー・オーパンバルの開幕は二十二時、参加者は二十一時までに会場入りして、お着替えを済ませていただきます様お願いしておりますが、それまではご自由にベルンの街を観光なさっていただいて結構です。宜しければ、案内人もおつけいたしますが」
「それは遠慮しておきます。ただ、観光地図は一部いただけるかしら」
「畏まりました」
 ホテルの部屋に入って荷物を改めた後、私達はこれからの事を少し話し合った。
「ドレスの着付けと、後お化粧のことを考えると、ちょっと早い方がいいわよね」
「確かに。ただ、そうした物の運びは馬車でやりますから、そうなると二十時にはホテルに戻らなきゃいけませんから…観光は旧市街に留めておきましょうかね」
「そうね。舞踏会が終わった後、帰るまで一日あるから、その間に新市街を見てみましょうか」
 そんなわけで、私達はベルン旧市街へと繰り出すことになった。まあ、彼の語学の最終試験がてら、色々なところを回ろう。そう考えていた。
「ところで、服装はそれでいいんですか?」
「いつもと変わらないでしょ?」
「まあ確かに」
 私の服装は、イェスパッシャンにいた頃と殆ど変わっていない。白いシルクのシャツに長めのスカーフ、そして足首には届かないくらいのロングスカートに、革製のブーツ。この上に寒ければ薄手の上着を羽織り、つばの広い帽子で日差しをシャットアウトする。
 何しろ、この身体には日差しが天敵なのだ。
「…まあ、髪の毛が真っ白だからすぐにバレちゃうわよね、私が誰だか」
「やっぱり護衛をつけますか?」
「ううん。問題無いわ。なんたって、この街は世界指折りの治安のいい街でしょ?それに、護身用に匕首も忍ばせてはいるから」
「気をつけてくださいね。俺もジャケットの裏にスタンガンみたいなの入れてますが」
「ま、気にするのも野暮よ。さ、行ってみましょう?」
「はい。…あと、今更なんですが」
「ん?」
「俺と二人で観光するのでいいんですか?」
「……他に相手がいないからよ。何か変な勘違いはしないほうがいいわ」
 私達はまずお腹が空いていたので、どこかで何か食べておきたかった。飛行機の中で一応食べるものは食べたが、雀の涙同然。かと言ってホテルで朝食を取る気にもなれなかった。何故なら、食べに行ったら行ったで、どんな相手と遭遇するかわからないからだ。
 ステパン曰く、私は今夜の「注目の花」の一人らしい。様々な男性が狙っているとかいないとか。その時は単なる与太話として聞き流していたが、実際にベルンにやってきて、参加者の飛行機や車の紋章、さらにマスコミの騒ぎようを見てみると、なんだか恐ろしくなってきたのだ。
 もしも、地位と名誉以外に何もない、頭空っぽの放蕩貴族にでも絡まれたらどうしよう。若い男性貴族の親が出てきて、強引に縁談を申し込まれたらどうしよう。そんな不安が先に立ってしまう。
 そういうわけだから、私は今は参加者とは顔を合わせたくなかった。…決して、ステパンとベルンを観光するのを楽しみにしていたわけではない。
「それで、どこに行きますか?」
「実は当たりをつけていたお店があるの。この通りをこっちに行って…」
 私達が向かったのは、ベルン旧市街の西側、リンクシュトラーセからは外れた当時の下町に位置するあるカフェだった。
「カフェ・ツェントラール、ここね」
「ここってどんなお店?」
「あら、『世紀末ベルン』のことを語る割には知らないのね、このお店のこと」
「え」
「…『世紀末ベルン』のみならず、ベルンに住む人達は昔からカフェが好きなのよ。例えば、ハイナーやゲルシュトナーみたいに、『皇室御用達』のカフェがあるくらいに」
「ふむふむ」
「で、このツェントラールは『世紀末ベルン』の頃に活躍した、多くの文士や学者、芸術家が常連として利用していたの。それこそ、売れっ子小説家から精神分析学者、果てはカリオニアの革命家までね…」
「す、凄いお店だね」
「でも、その割には敷居が低くて値段も良心的よ。少なくとも、あなたのお財布でランチが食べられるくらいにはね」
 雑談もそこそこに、私達は店の中に上がった。内装は当時の雰囲気そのままに、アーチ状の屋根と木製の床が残っていて、あちこちの丸テーブルには諸国の観光客とベルンっ子が入り混じって、食事や雑談、ゲームに興じている。
「『いらっしゃいませ。窓辺のテーブルへどうぞ』」 
「『ありがとうございます』」
「『メニューお決まりになられましたらお呼び下さい』」
 ざわざわと騒がしい店内、その喧騒からは少し離れた場所に私達は座った。幸いにして、気がつかなかったのか、それとも声をかけないのが礼儀と思われたのか、私達に声をかけてくる人はいなかった。
「『コーヒーと…ショコラトルテ。クリームは少なめで』」
「『同じものを』」
「『畏まりました』」
 ウェイターが去ると、改めて私は店内を見回した。店の中はコーヒーの馥郁たる香りと、各国の言語が入り混じる会話で満ちている。それは、時に教養深い文士の会話であったり、或いは日常的な庶民の噂話であったり実に様々だった。だが、やはりその中でも今夜の舞踏会のことは皆気になるらしい。
「『今夜のベルナー・オーパンバル、誰が気になる?』」
「『俺はフリンカのザンクイヌ大公だな。なんでもお妃探しに来てるって言うぜ』」
「『いやいや、なんと言ったってヴィシニョヴィエツキ公だぜ。十六歳で世界指折りの資産家、その上ハッとするような美人だ…』」
「『今年も舞踏会などと言うふざけた催しが行われるのは遺憾ですな』」
「『実に尤も!あの様な上流階級の傲慢なお遊びに、国費に等しい宮廷費が支出されるとは』」
「『それだけでない。国民の象徴、帝国連邦の主人たる皇帝が、国民を顧みず享楽の宴を主催されるのだぞ』」
「『今年もデモをやらねばなりますまい。社会主義連盟、国民生活同盟、労働総連、皆準備が…』」
「どうかしました?」
「ううん。実に色んな考えの人がいるのねぇ、と思って」
「聞き取れるんですか!?」
「大体」
「『お待たせしました』」
 運ばれてきたクリーム入りのコーヒーとチョコレートのケーキ。どこの国に行こうとも、甘いものだけはどうにも止められない。特に、ドレスを作った後食事の制限をしていた身では。
「大丈夫なんですかね、食べてしまっても」
「しばらく街歩きすれば問題ないわ。あと、これを食べたら夜まで持たせなさい」
「ええっ!?」

 そこから私達は、ゆるゆると徒歩で旧市街を見て回った。流石にベルン、旧市街だけでも見るものには事欠かない。かつて難攻不落の城塞都市だった頃の面影を留める稜堡や城壁、数百年にわたってこの町の変貌を見届けたであろう大聖堂のファザード、世界の叡智、遺産をかき集めて未来へ伝えようとする大博物館等等…語りあげればキリがない。
 とにかく私達は、時間が来るまで暇を持て余すことは一分も無かった。…後から考えれば、ダンスをする体力を計算していなかったのは、随分と馬鹿なことだとは思うけれど。
 二十時三十分。事前に立てた予定通り、私達は会場になる、ネオルネサンス様式の国立歌劇場に入った。既に辺りにはマスコミやデモ隊、野次馬などで騒然としており、これを当て込んだのかちょっとした出店屋台も軒を連ねている。
 警備に守られながら私達は馬車を降り、参加者控え室に入った。ここには、舞踏会参加にあたって必要なあらゆるものが準備されている。令嬢の為にはそれぞれが特注したドレス、あるいは魅力をより引き立てるための化粧道具、髪の毛をセットして形を作るための道具と人員。無論、同じ様なものが紳士向けにも用意されている。
 私は一旦ステパンと別れ、普段着から正装へと着替えに入る。これが少なくとも私にとっては凄まじく面倒なのだ。何しろ、ドレスを脱ぎ着するというのはシャツのそれとは全く異なる手間と時間の塊だ。ドレス以外の付属品、コルセットだの髪型のセットだの、これが特に煩雑だ。
 無論貴族の娘として、ドレスを着たことは一度や二度ではないが、その度に私は暇を持て余していた。将来、私がホストとしてパーティーを催す時には、参加者全員普段通りの服装で来させようとそう誓うくらいには。
 とはいえ、今日だけは、多少その手間に妥協してやってもいい。不思議なことに、そう思えていた。
「着替え終わった?」
「ええ」
 到着からたっぷり一時間後。手早く夜会用の燕尾服に着替えたステパンが入ってきた。私の方はといえば、まだ髪型のセットが残っているが大体着替え終わっている。
「…どうかしら、ステンカ」
「凄い、とても綺麗だよ」
 彼はボーッとした顔でそう言ってくれた。私が着ていたのは、かつて、母が着ていた物を仕立て直した純白のボールガウン。他の貴族のものと比べれば遥かに質素なものだが、それでも私にとっては大切なものだ。
 左胸には女王から親授された勲章を身につけ、両手には肘上まで届く合わせ白のオペラグローブ。純潔と純粋さを象徴する白で統一されたその服装は…
「まるでウェディング…ううん、『雪の女王』みたいだ」
「『雪だるま』と言わなかったことだけは褒めてあげるわ」
 それにしても、私がこんな服を着て、舞踏会に出ることになるなんて、その直前になっても実感が湧かない。本当に昔、それこそまだ十歳かそこらの頃。首都や領地で催される典雅な舞踏会は、私の憧れだった。華やかに着飾った貴婦人、一部の隙もなく固めた貴公子達。彼ら彼女らが互いに手をとって、華やかな音楽に合わせて踊る。
 いずれは自分もそんな社交界に咲く花になり、愛と幸福に満ちた貴族としての人生を送るのだと、ステパン相手に練習を重ねながら意気込んでいた。
 だが、父さんと母さんが亡くなってから、私にとって社交界とは忌まわしい穢れと虚飾の巣窟と化した。笑いの裏には刃を孕ませ、ドレスの下には無数の武器が舌なめずりをしている。内実は庶民よりも悲惨な暮らしを送っているのに、体面のために着飾って、薄っぺらな教養でお化粧をする人々。いつしか私は社交界に出なくなり、仕事を口実にひたすら領地に引きこもった。
 それなのに、今度は自分からそんな世界にまた飛び込もうとしているわけだ。悪魔はおろか、清浄な天使さえも失笑することだろう。
「ねえステンカ」
「ん?」
「あなたはいつだって、私の側に居てくれるのね」
「…そりゃあね。先代の公爵様ともお約束したから」
「なら、信じてもいいかしら。これから、何度私がコロコロ態度を変えたって、あなたは味方でいてくれるって」
「…勿論。君がどんな場所にいても、何を思ってことを運んでも。俺は君の味方でいるよ」
「……ならいいわ。あなたがそう言ってくれるなら、この舞踏会にも来てよかったと思えるから」
「はい、髪の毛これでよろしいですわ。あとはお時間になりましたら、オペラダンスホールへご案内致します」
「…どう、変じゃないかしら?」
「凄く似合ってる。普段のも好きだけど、今のも綺麗だよ」
「…そう」
 時間は過ぎ、あっという間にやってくる。私は立ち上がって彼の手を取り、オペラダンスホール前のエントランスへと向かう。令嬢達は、そこからエスコート役の男性に付き添われて、列を成して入場するのだ。

 ダンスホールにつながる入り口には、既に何組かのペアが屯していた。皆、それぞれ立ち話に興じている。
「(あれは、旧帝政カリオニア貴族のアレクサンドル・オルドロフスキー公、隣に居るのは…多分妹のナターリアさんね)」
「あっちで話してるのは、ニスカリマのウェンスレーデール伯爵の御子息、リトルホーン男爵だよ。今日はどうやら、従姉妹のアリス嬢と来てるみたい」
「なるほどね」
「おや、貴女は!もしや世に聞こえたヴィシニョヴィエツキ公爵でいらっしゃいますか?」
 唐突にイェスパッシャン語で声をかけられた二人は、ギョッとして振り向いた。後ろには、恰幅のいい髭面の男性と、そこに隠れるようにして立つ茶髪の令嬢がいる。
「あ、あなたは…」
「おっと、これは失礼。私、ガリアから来ましたアルベール・ド・シャンティエール侯爵、こちらにおりますのは、我が娘ジャンヌです」
「…は、はじめまして…わたくし、ジャンヌ・ド・シャンティエールです…」
「『イェスパッシャンのリュリス・ヴィシニョヴィエツキ公爵です。こちらは私のエスコート役で、ステパンといいます』」
「『よろしくお願いします』」
「おお、綺麗なガリア語だ。流石はイェスパッシャン最大の貴族家の当主でいらっしゃる…ところで、そちらのエスコート役の方はどの様なご関係で?」
「彼は父の代理人です。父はご存知の通り二年前に亡くなりまして…以来、執事家の彼と、彼の父母が家族の様に接してくれましたので」
「それはなんとも…悲しいことでございますな」
「ところで、シャンティエール家はどなたをエスコート役にされたのですか?」
「間も無く来るでしょうが、娘の許嫁候補で、モントリエール男爵家の跡取りフランソワ殿です。今回の舞踏会の振る舞いで、結婚を認めるか否かを決めるつもりなのですよ」
 以前にも話題に上げたことがあるが、伝統的にデビュタントは単なる令嬢の顔見世ではなく、その裏では無数の貴族同士での縁談や関係構築が行われている。
 例えば、これはという令嬢を見つけた貴族が、その父親に自身の娘との結婚を持ちかけたり、そのものずばり息子を姉妹のエスコート役に据えてダンスに参加させる家もある。
 貴族の家というのは何よりも、他家とのコネクションが命だ。ステパンの父、イヴァンが私に対してきちんと家柄の釣り合う相手を見繕う、と進言してくれたのは、単なる威儀や見栄のためではなく、それを通じて、いずれ幼い当主が苦労するであろう縁談やコネクション作りの「とっかかり」を作ってやりたいという考えがあったからだ。(あまり想像できないが、デビュタントでの縁というのは後々長く続くものらしい。「誰々のエスコート役を務めた」事をきっかけに栄達したり、結婚相手を見つけた者も少なくないとか)
「『間も無くお時間です!』」
「『方々お並びあれ!』」
 幾人かのご令嬢との世間話をしていると、どうやらもう時間が来てしまったらしい。確かに辺りを見回してみると、白いドレスと黒い燕尾服で満たされている。
 デビュタント達は整然と列になって入場するのがどうやら伝統の様だ。私達二人は、先頭として最奥に陣取るペアの一つに選ばれ、その定位置に着く。そして、ベルの音が響いたかと思うと、扉の向こうから荘厳な入場曲が流れはじめた。
「デビュタントの方々のご入場です!」
 ガチャリ、と思い扉が開き、ダンスホールへの道ができる。ゆったりと優雅に一歩一歩踏み出して、中へ入る。
「わぁ…」
 ホールの中はまさしく別世界だった。前方には貴賓席の設けられた舞台があり、その向かい側から左右に至るまで、古代のコロッセウムの様に三、四階建ての客席がずらっとホールを取り囲んでいる。そこは人で満ち満ちていて、何百何千という視線をこちらに向けていた。
 天井画の描かれたドーム屋根の下には、私達がダンスを踊るための非常に広い空間がある。イメージとしては、オペラ劇場の一階席を全て取り去った様なものだろうか。この場に揃ったデビュタント達がダンスを踊るのには十分な面積と言えた。
「『続きまして、本席の主催であらせられます、デニエスタ帝国皇帝、ルドルフ・フォン・プロイツフェルン陛下、並びに、フォーゲルヴァイデ大公息女クラリス殿下、ご入来!』」
 そして、令嬢達が並び終わり、真ん中に道を作るといよいよ舞踏会が始まる。音楽隊がデニエスタ皇帝とフォーゲルヴァイデ大公の二人を讃える、「プロイツフェルン万歳」を吹奏すると同時に、扉の向こうから世界最高峰の貴人が姿を見せる。
 右側に立つのは、すらりとした長身にアメジストのような双眸、そして何よりも煌めく様な長い金髪を持つ偉大なるカイザー、ルドルフ。そして、その隣には明るい茶髪に皇帝と同じ色の瞳を持った、あどけない顔の姫君クラリス・フォン・フォーゲルヴァイデが付き従う。
 この二人が今回の舞踏会の主催であった。
「『…それでは諸君、これより、ベルナー・オーパンバルを開会する!』」
 舞台に上がったルドルフがそう宣言すると、爆発する様な拍手と歓呼の声がホールを満たした。決して短くはないこの時間の間、私はただひたすらに驚嘆していた。これこそが、かつて世界を統べた超大国を支配する者の威厳なのか、と。
「『それでは、まずはプログラムに従いまして一曲目のワルツ。こちらは、ご招待客と主催の二組だけで踊っていただきます』」
「これどういう事なんです?」
「…昔から舞踏会では、最初の曲は主催者と最も地位の高い招待客が踊ることになっている…らしいわ」
「『まず、フォーゲルヴァイデ大公息女、クラリス殿下のお相手は…フリンカ国ザンクイヌ大公殿下!』」
「『謹んで』」
「『続きまして…デニエスタ皇帝ルドルフ陛下のお相手は…イェスパッシャン王国、ヴィシニョヴィエツキ公爵閣下!』」
「!!」
 間違いない、今自分の名前が呼ばれた。あんな独特な苗字が他国の貴族にあってたまるか、自分の他にあり得ない。
「お嬢様…」
「あっ、『つ、謹んでお受けいたします』」
 なんて事だ。のっけから危機的状況に立たされてしまった。
 無論私とて、今回の舞踏会を単にステパンと踊るだけの会だと思っていたわけではない。パートナーは変えなくては無礼になるし、そればかりは仕方ないと思っていた。二、三人と適当に踊って、あとはステパン共々壁の花とシミを決め込んでしまおう。別室で適当に食事を摘んで、世間話で時間を潰そう。それでいい、と考えていたのに。
「『凄い名誉だ。皇帝陛下のパートナーとは…!』」
「『そういえば、今の陛下は未婚であらせられる…』」
「『ヴィシニョヴィエツキ家は帝国諸侯の公爵でもあったはずだぞ…』」
「(まずい、進むも退くも地獄だ。ミスなんかもできないし、断ったら家の存続にも関わる)」
「『フラウ・ヴィシニョヴィエツキ。そう緊張なさることはない。気を楽にして踊られるといい』」
「『は、はい』」
「(大丈夫かなイェシー。とてつもなく緊張してるみたい…)」
「『では最初の曲は、ワルツの帝王シュトラウスの作品の一つ、千夜一夜物語から参りましょう!』」
「『宜しくお願いします、陛下』」
「『ああ…』」
 楽団の演奏が始まる。ベルン国立歌劇場付属楽団といえば、少なくともオーケストラの面では名声で並ぶ者が無い。指揮者から奏者まで、世界中から集められた精鋭だ。
「(流石に見事な演奏。初めから終わりまでかっちり組まれた、まるで時計の様な音楽ね)」
「『ふむ…なるほど』」
「『どうかなさいました?』」
「『いいや。良いステップだ、さぞ練習したのだろうな』」
「『恐れ入ります』」
 曲はゆったりと進んでいく。ダンスをしやすい様にリズムは明確に、それでいて典雅なメロディは損なわず。ベルナー・ワルツの長所を十全に活かしている。
 また、踊るダンサーの技量もこの場合人並みではない。近くで踊るフリンカの大公や、その相手役のクラリス殿下。そして、今は自分のパートナーとなっているルドルフ皇帝。いずれも本場の社交界で経験を積んできたのだろう。優美で華やかな踊り方だ。
「『ほぅ、流石ですな。どちらも見劣りしない』」
「『いやぁお見事…』」
 観客からは感嘆の声が聞こえる。だが、ステパンは何も言ってくれない。それが少し不安だった。
 そして、曲は佳境に入る。複雑なステップ、ターン、その他テクニックの連続。技量ではある程度の自信があった自分でも、うまく相手に合わせられるか自信が無い。
「(むしろ、下手くそなステンカに合わせてきたせいか、相手が巧者だと違和感がある…!)」
 そんな時だ。
「『違う…』」
「え?」
「『ああいや、何でもない。お気になさるな』」
「『陛下、殿下、そして御二方。お見事なダンスをありがとうございました!』」
 わあっ、と拍手が上がる。しかし、私の中には最後に皇帝が呟いた、「Nein」の言葉が反響し続けていた。どういう意味だろう、何か無礼があったのか。あまりにも不安で仕方がない。半ば夢遊病者の様な感覚で、ステパンの元に戻ろうと歩く。すると、
「『公爵閣下、次は是非私と踊って下さいませんか?』」
「『陛下とのダンスなんてお羨ましい、末代までの名誉ですわ!』」
「『今年の栄光はイェスパッシャン貴族が手にしたぞ!』」
「え…」
 無数の手と、期待に目を輝かせる人々が、私の前に大きな大きな壁を作ってしまった。彼らは口々に私を褒め称え、羨ましがり、次のダンスをとせがんでくる。そして、その中にステパンの姿は無い。
「ステンカ…」
「『閣下?』」
「『さあそれでは、次の曲目は、『我が愛しのインスブルック』、皆さまご一緒に踊るパートナーは見つかりましたかな!』」
「『閣下、是非私と』」
「『いいえ、私と…!』」
 目も眩む様な煌めきと、熱に浮かされた様な朦朧とした意識の中、私は目の前に差し出された誰の者ともわからない手を取った…。

 俺の差し出した手は届かなかった。イェシーの前に作られた人間の壁は、あまりも分厚かった。物理的にも、身分的にも。
 二曲目が始まった時、俺はその衝撃に囚われて何もすることができなかった。彼女が、名前もよくわからないカリオニア貴族と腕を組んで、楽しげな笑顔で踊るのを見ることしかできず、たった一人壁のシミとして立ち尽くすしかなかった。
 三曲目、今度こそ行けるかと思ったが、そこでもやはり阻まれた。次にその手を取ったのは、ガリアの大貴族だった。一召使の手など、彼らにとっては机の上の埃も同然、払い落とすのになんらの躊躇いも努力も必要ないわけだ。
 俺は隅の壁にもたれかかって、側に置かれた客用の白ワインを一杯貰った。品は上等、だがその味は塩辛かった。
「…イェシー」
「どなたをお探しですの?」
「わっ!」
 唐突な声が意識を貫いた。その方に首を捻じ曲げると、そこには茶色の髪に紫の瞳をした、美しい少女が立っていた。
「『あ、あなたは…く、クラリス・フォン・フォーゲルヴァイデ殿下…!』」
「イェスパッシャン語で構いませんよ。多分今のは東部の方言、ソルターヌィ語でしょう?」
「ご、ご賢察通りです」
 にやり、と彼女は笑った。そして、意味ありげな視線をホールの真ん中に向ける。
「どなたかお探しですの?」
「いえ、そんなことは」
「嘘をおっしゃらないで。視線がずっと、誰か恋い慕う人を探している、そんな色をしていますわ」
「分かるのですか?」
「勿論」
 くすくすと笑うクラリス。その笑みには後ろ暗いところや、何かをうちに秘めた様な色は無い。ただ純粋にこの場所を楽しんでいる、そんな笑みだった。
「ねえ、貴方。次のワルツは、私と踊って下さらない?」
「そ、そんな恐れ多い!」
「あら、別に構わなくってよ。元々今日は、父のフォーゲルヴァイデ大公が来る予定だったのを、代理で来ただけですの。男同士で踊ると思って、気安くなさって」
「そ、そんな…!」
「『さあ、四曲目、四曲目でございます。五曲目が終わりましたら一度長めの休憩といたします…ご一緒に組む方は見つかりましたか…』」
「…どうしますの?貴方に振られてしまったら、私は別の方と踊りますけど。このまま、壁のシミをお続けになりますか?」
 俺は躊躇った。彼女は一体何を考えているのだろう。その瞳からは、何も読み取れない。だが、この手を取らなければ、何も変わらない。それどころか、自分の大切なものを失ってしまいそうな気がする。そんな第六感が、俺の背を押した。
「お受けいたします、殿下」
「嬉しいわ。それじゃ、踊りましょうー」
 四曲目は「皇帝演舞曲」、またの名を「カイザーワルツ」と呼ばれる、ワルツの帝王シュトラウス二世の晩年の傑作だ。この曲は当時の皇帝の長寿を記念するものであることから、デニエスタの宮廷夜会では定番の曲目だ。
「お上手ですのね」
「主人によく仕込まれましたので」
「どなたかにお仕えしていらっしゃるの?」
「ええ、まあ」
「…ふうん。身分違いの恋というやつかしら」
「まさか!そんな烏滸がましい…」
「烏滸がましいなんてことはありませんわ。そうなってしまったら、デニエスタやレーヴの皇帝は、鏡に映った自分を、『カイザーリン』とか『アウグスタ』と呼ばなきゃいけませんもの」
「…なるほど」
「極論、恋や愛というものは、何かを超えて結ぶものですのよ。身分なり、性別なり…それを超えられるかどうかは、その人の強さによりますわ」
「…よく覚えておきます」
 ワルツが終わる。一旦全てが静かになったタイミングがやってくる。俺と手を離した瞬間、クラリスは大きな声で言った。
「『どなたか、次は私と踊って下さいませんか?』」
 効果はすぐに現れた。恐らくは、イェシーに向かおうとしていた列が揺れ動き、大きく二つに割れた。そして、忽ち多くの誘いがクラリスの元に殺到する。「壁」は遥かに薄くなっていた。
「そうか、そういうことか!」
 俺は走った。いや、正確には走っていたわけではない。礼儀を失わない様に歩く、だが心は千里を駆ける騎手だった。そして、高貴なる黄金の壁を遂に乗り越えて、俺は誰よりも前に手を差し伸べた。
「どうか、私と踊ってくださいませんか、公爵閣下ー」

 四月十八日、午前一時。ベルナー・オーパンバルのグランドフィナーレが終わった後、私達は深夜のベルンの街を馬車に乗って駆け回っていた。きっと今夜は徹夜の気概なのだろう、街のあちこちには舞踏会の余慶に預かって、ビールやワインで乾杯する人々がいたり、はたまた俺たちの戦いはこれからだとばかりに、デモを続ける人たちがいる。
 薄暗い旧市街を馬車はあえて迂回し、時間をかけて走っていた。
「楽しかった?イェシー」
「どうかしら。あの五曲目…『我が人生は愛と喜び』から、誰かさんが休憩中も離してくれなかったから…」
「も、申し訳ありません…」
「謝らなくていいわ。面倒な貴族様に絡まれなくて済んだから」
 結局、あの後ステパンは私を文字通り独り占めした。五曲目を踊り終わって、長い休憩に入った後も、彼はさも親か夫かの様にピッタリと側に付いて、他の貴族たちが誘いをかける隙を与えなかった。
「彼らも、クラリス殿下と踊るほどの男なら、と手出しできなかったみたいですよ」
「……」
 実のところ、クラリス・フォン・フォーゲルヴァイデ殿下と彼が踊っていた時、私の心は文字通り凍りついた。他の男と心ならずもダンスをさせられている時に、彼は他の女性、それもこの場で最も身分の高い女性と時間を過ごしていたと分かって、裏切られたという理不尽な思いが心に満ちていたのだ。
 だが、その後すぐに彼は帰って来てくれた。いや、クラリス殿下の助けを借りて私を連れ戻しに来てくれた。この時ようやく、殿下が私とステパンの為に一芝居打ってくれたことに気がついたのだ。
「…クラリス殿下と、どんな話をしたの?」
「えっ」
「あの方と踊ってからでしょう、貴方の態度が様変わりしたのは」
「…いやぁ、それは」
「何よ、言えないようなことなの?」
「け、決していかがわしい事では…」
「なら話しなさい」
「…護衛なら、護衛らしくなさい、と」
 顔を真っ赤にして、それだけを彼は言った。
「…そう、貴方は、あの場では私を守ってくれる護衛のつもりだったのね」
「なんかやけに含みのある言い方じゃないですか」
「別に。ただ…」
「ただ?」
「…やっぱり何でもないわ!」
「ええっ!」
 私はぷいとそっぽを向いて、クッションに顔を埋めた。おろおろと悩む彼の気配を背後に感じる。
「…ステンカ」
「は、はい」
「……ありがとう。貴方のおかげで、楽しい夜になったわ」
「……はい」
 こうして、私の社交界デビューは終わり、またイェスパッシャンでの日々が戻ってくる。久しぶりに領地を離れ、首都の学校に戻る。議会も開会して、これからはますます忙しくなるだろう。
 だけど、その日々はきっと、これまでのような暗黒の鬱々とした時ではなくなる。晴れやかな青空には及ばなくても、故郷で見た星月夜の様な、そんな日々に…。

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