自由の国の自由な王様
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otonjji256 2022年07月11日(月) 20:42:48履歴
親愛なるお父様へ
お元気でしょうか、お父様。私が休暇を頂いてから、間も無く一月になろうとしています。このフアヒネ島での暮らしもすっかり慣れて、開国前の平穏な日々を思い出しております。
さて、本日突然にお手紙を差し上げましたのは、ある面白い出来事があり、是非とも内密にお知らせ申し上げたい、そう思ったからなのです…
聖暦1992年7月末。フアヒネ島。
爽やかな風が窓から入り込み、さらに向かい側へと抜けていく。雲一つ無い晴天の青空は、その下限において水平線と混じり合い、真っ青な球状の壁を作り出していた。
この島の主にして、半分高貴な流人の如き暮らしを続けている王女リリィは、長い白髪を風に任せながら、執務室でのんびりと紅茶を傾けていた。
「おはようございます、リリィ様」
「あら、おはよう。クリス。今日は少しお寝坊さんだったのね」
休暇のお供を半ば強いられる形で勤めている付き人、クリスは眠たげなあくびを一度した後その理由を簡潔に報告した。
「実は、男手が欲しいと言って村の方に手伝いに行ってまして。戻ったのは夜明け前なんです」
「そう。お疲れ様。朝ごはんはもう食べた？」
「はい。リリィ様は？」
「…一応食べた」
少し不満げに頬を膨らませると、彼女は立ち上がって側の椅子を持ってくる。おろし立てのロングスカートの裾が揺れて、ほんの僅かに白く細い脚が覗いた。日焼けを極力避けようという、ある種の苦肉の策である。
「どうもありがとうございます」
「どういたしまして…っと。何？ジロジロ見て」
「いえ。今までリリィ様って、上から下まで昔ながらの服装でしたから。洋装もよくお似合いになるなあ、と」
「あら、そう！やっぱりそう思う？」
得意げにリリィはくるんとその場で回ってみせる。白いブラウスとスカーフ、黒い色のロングスカートに革のブーツ。後ろが腰に下げる儀礼刀と、これだけは手放すまいとしているマントを除けば、その様子は異国の人となんら変わらない。
「何でしたっけ、なんとか騎士団勲章か何かをもらった時が初めての洋装でしたか」
「そう。ちなみに正解は『ミッテルベルン親衛騎士団勲章コマンダント』。お父様はそれより格の高い何だったかしら、『フロイント・フォン・メッジーロ騎士団勲章』とかだった気がする」
「適当過ぎません？いやまあ、外国の勲章ですから何ともって感じですけど」
「そんなのどうでもいいのよ。で、似合う？やっぱり私こんなのも似合うかしら？」
「はい、掛け値無しによくお似合いですよ」
クリスから肯定の言葉を引き出すと、幸福げにリリィは笑った。すっかり緩んだ頬は、嘗ての鋭い厳しさを帯びた表情からは考えられない。
「それで、今日は何をなさいます？また村まで遊びに行きますか？」
「ああそうだ。その話をしないと」
ごそごそと彼女は側の引き出しを漁り、ややあって分厚い革の手帳とそばに纏められた直筆の書類の束を取り出した。
「これはなんです？」
「暇だから、今後王国がどこの国を頼るかっていうテーマで考察を纏めていたのよ。尤も、ネタが古いからどの程度当てになるかは知れてしまうけど」
「へぇ…」
本文と思しき流麗な筆記体と、無数に書き加えられたメモ書き、或いはタイプされた外国語の文章と、そこに直筆で入れ込まれた註釈。その量は膨大で、到底一朝一夕の物とは思えなかった。
「これ、見てもよろしいですか？」
「ん、いいわよ。今日はそれについて議論したかったし。あ、手帳の方はダメ。紙束の方はいいけど」
「はい」
クリスはずっしりと重たい束を開き、中身を読み始めた。本ではないので目次の様な洒落たものは無いが、後で読み易い様にある程度国別に纏められている。
「大体マウサネシアの記述がその束の半分、次いでデニエスタとソ連、あとはアルセチアとゴトロス他がちょいちょいちょい、って感じね」
「へぇ…何々、『マウサネシア、隣国故にその関係には特別な注意を要する。地理的政治的にもその影響力は…』」
「ああもう、音読はやめて。恥ずかしいから」
「でも内容が難しいと音読しなきゃ無理ですって」
「分かんなければ訊けばいいでしょ！？」
「えぇ…」
ムキになるリリィに呆れつつ、クリスは束を読み進めていく。無論膨大な文を全て検討する訳にはいかないから斜め読みではあるが、概ね彼女の知見は芯を食っており、中々無視できない示唆を含んでいる様に思えた。
「これ面白い記事ですね。『異種族混合国家のあり方』って」
「それ、確かスカセバリアルかどこかの学者さんが出した論文なのよね。『異なる人種よりもさらに根深い種族間の対立は何によって引き起こされうるか』、という興味深い論題」
「何々、『根深い種族間の対立の淵源は、何と言っても互いを『同格』と心理的に見做す、または無意識的に見做してしまうところから始まる。相手も知性を有する同格の存在であると、心中で承認するが故に、対立は惹起されうるのである』ですか」
「まあ、ど平たく言ってしまうと、『仮に相手を上か下かと思えば対立も起こらない。対立するのは、心のどこかで相手を同格と思っていて、それを拒否したいがための心の本能だ』みたいな感じかしら」
「なるほど。あ、メモ書きが入ってますね。『マウサネシアとアルセチア、及びサハラの事情について特に検討を要す』ですか」
「マウサネシアの事例は確か検討をしたと思うわ。えっと…そう、『文化的洗脳とその中の価値観教育において、マウサナ人種の根本的優位性を確立させたことにより、種族的上下関係を受け入れさせたのではないか』みたいなことを書いたはず。あと、『それらの先鋭的な対立の種を宗教によって緩和した。双方を太陽教の信仰で包み、上下関係という差異性と、同じ教えの信徒という同一性を両立させることによって、種族間対立の阻止と国家的アイデンティティの収斂という難事を成し遂げ得た』的な」
「ああ、ほぼそんなことが書いてありますね」
マウサネシアについて、リリィの論考は鋭くかつ丁寧である。彼女は同国内に住む人間の人々を「生き別れの兄弟」と呼び、彼らが征服されるに至った諸戦役と、その前後の情勢について熱心に考察していた。
「にしても、妙な感じがありますね」
「妙？」
「だって、上下関係を強いつつも、自分達は一つの国民だ、みたいな意識を共有する訳じゃないですか。これってすごく難しいんじゃないですか？」
「んー、実はそうした関係性はありふれてるわよ。家族関係だったり、この国の身分制だったりね」
「そうなんですか？」
「父と母は、子供に『親の言うことを聞け』と説く。それは当たり前に見えて、実のところ親と子の差異を強調して、その間に決定的断絶と上下関係の確立を目指す行動よ。他方、多くの場合において家族は名乗りや住居、土地財産を共有し、助け合って暮らす。その中には内部の厳然たる秩序とは対照的な同一性が含まれているわ。その本質についてもっと深く追求したいのだけど…」
と、ここまで話して彼女は本題から逸れかけていることに気が付いたのか、少し恥ずかしげに頭をかいて話を戻した。
「まあとにかく、マウサネシアにおける種族間の対立はそうした、かなりありふれた本質で緩和されていると言うことよ。双方の上下関係的差異を確立させつつ、アイデンティティの方向性を国家に収斂する。多分続きにもそう書いたはず」
「はい。で、結論としては『マウサネシアとは手を切ることは絶対にできない一方で、文化的・イデオロギー的には極めて厳重な警戒を要す。経済の利益によってその乗り入れを防がねばならぬ。彼らは友ではあるが、父でも母でもないのだから』ですか」
「個人的には、私は彼らが好きなのだけど。それでもあまり良い顔はできないわ。過去の因縁もそうだし、何より思想信条のぶつかり合いには巻き込まれたくないもの」
苦笑いして彼女はまた紅茶を啜り、視線を逸らして窓の外を見る。話の内容に比べて、海は相変わらず平穏そのもの、時間さえ緩やかに流れている様に思われた。
「さて、じゃあ次はアルセチアの事例の検討をしましょうか。ええと、ラシュフォンとガルティアでしたっけ？」
「そうそう。確か二つは…」
「王女殿下、お話中失礼致します」
「何事かしら」
「村の漁師達が、何やら面倒ごとがあった様で、御目通りを願っております」
「会うわ。通しなさい」
哲学的議論を一度中断し、リリィは突然の来客を迎え入れた。執務室に入ってきたのは、筋骨隆々、身の丈は二メートルはあろうか、腕と顔に波の模様をあしらった見事な刺青をした三人の島の漁師達だった。
「王女様、突然に失礼します」
「どちらにしても暇してたから、用件を教えて頂戴」
「はい、実はですな…」
彼らの話によれば、ここから南の無人島ロッパ島の辺りに船を出した時、誰もいない筈の島から煙が上がっていたと言う。怪しげに思い、船を寄せると、砂浜に半ば打ち上げられる様にして外国式のヨットが泊まっており、全く知らぬ国の旗が掲げられていたという。
「王女様に教えて頂いたどの国の旗とも違うんでさ。俺たちは外国の人間とは話したこともねえで、王女様に一旦指示を仰ごうってことになりやして」
「遭難者でしょうか」
「そうなんじゃない？」
「……上着を取ってきますね」
「ちょっと！？」
寒い冗談を華麗に無視して、クリスは漁師達と早速出港の打ち合わせを始める。こうした時、彼女が何をしでかすか、長年の勘から彼はほぼ完璧に察知していた。
それより少し後。リリィとクリスは共に船上の人であった。乗るのは古風なオールと帆を備えた大型のアウトリガーカヌー（ラピタ語では『ヴァア』と呼ばれる）、船を操るのは漁師達で、この道数十年のベテラン揃いである。
彼らはフアヒネ島から南へおよそ数時間の距離にあるロッパ島に向けて漕ぎ出した。船には念のため医薬品や食料を満載し、遭難者を島に連れ帰るための二隻目の船も追随させている。
「でも、なんだってロッパ島なのかしら」
「捕鯨船にしては小さ過ぎますしね」
「最近は嵐もなかったはずでさ」
長い王国の歴史において、外国の人々が何らかの事情で漂着したことも絶無ではない。特にクジラの多い王国北部では、周辺諸国の捕鯨船が嵐に巻き込まれて漂着することがそれなりにあり、故にその為のマニュアル的な規定も存在している程だった。
しかし、逆に本土から離れた南の島々ではそうしたことは殆ど無かった。確かに漂流する者がいない訳ではなかったが、航路の多くはそうした王国の辺境域を避ける形で引かれており、「海龍の背中」と呼ばれる大海流を超えて船そのものが侵入してくることは稀であった。
「もしかして、何か明確な目的あってのことなのかしら」
「といいますと？」
「ヨットレベルの推力では、例の海流を超えられない。直線的な侵入では、確実に流されてしまうわけでしょ？」
「ああ、なるほど。確かに」
「もしかしたら、もっと北の方角を。つまり本土を目指して失敗したのかも知れないわ」
「密航者ですか」
「可能性はあるわ」
時間に直すと三時ごろであろうか、陽が西に傾き始めた頃、ようやくロッパ島の姿が見えてきた。
ロッパ島はフアヒネ地方の南、周辺に目立った島もない絶海の孤島というべき島で、面積は0.5㎢にも満たない非常に小さな島である。島には真水こそ湧くが土地は痩せており、ヤシの他に目立った食料足りうる植物は育たず、雨が少ないせいか島の北側のなだらかな丘には草地が延々と広がっている。
特段際立った資源がある訳でもなく、なにか特異な地理的特徴も無い。数百年間打ち捨てられていた無人島というのは、つまりそういうところなのだ。
「あら、確かに見えるわね。あれが件の…」
カヌーが近づいた島の南の浜には、確かに三角帆の小さなヨットが打ち上げられている。多少知識のある者が見れば、おそらくは個人で所有する様な部類の物とすぐに知れたであろう。
「国旗は確かに見覚えがありませんね」
「船の様式からして明らかにカーリスト的なのはわかるけど、一体…あっ！」
「島から人が…こちらに手を振ってます！」
すると、島の薄い林の影から人が現れた。望遠鏡でかろうじて見える範囲では、肌の色は白く年の程はそれなりに行った老人、服装は品が良く乱れては居ない、表情には危機感が感じられず、何処か呑気そうな気配さえ感じられた。
「ひとまず船を付けましょう。砂浜までたのむわ。クリス、上陸の支度を」
「分かりました」
三十分程かけて、船は海岸へその身を横たえた。正しく、未知との遭遇である。
「グーテンターク！皆さん」
「明瞭なデニエスタ語ですね」
「グーテンターク。ヘル…」
「シュヴァルです。ヴァルター・シュヴァル」
老人はにこやかに笑って握手を求めた。頭は年相応に禿げ上がっているが、顔つきは精悍で若々しい活力に溢れている。引き締まった痩身は所々から只者とは思えない雰囲気を醸し出していて、彼の人生がそう平坦なものではなかったことを窺わせた。
「ヘル・シュヴァル。あなたは何処から？」
「デニエスタからですとも」
「デニエスタから入国…」
「ナイン、違いますお嬢さん。私は…」
シュヴァルは不敵な笑みを浮かべ、大きく手を広げてこう叫んだ。
「帰国してきたのです！この島、私の祖国たるフライハイト大共和国に！」
「な、ななな…」
「「何ですってぇ！」」
その言葉を聞いたリリィとクリスは唖然とするより他になかった。何しろ目の前の外国人は、不法入国の罪を犯したどころか、翻ってこの島は自分の国であると主張しているのである。その様子はある種の潔ささえ感じられ、この男が一片の曇りも無くこの島を自分の国であると信じている様に思われた。
「あ、あなた、まさか正気でそんなことを…」
「無論です、お嬢さん。そしてあなた方は、我が国の最初のお客様、国賓としてお出迎えしたいところですが…」
彼はチラリとクリスの方を見て、誠に残念ですが、と言いたげな表情で続ける。
「我が国では一切の武器の持ち込みを禁止しておりますので、そこの紳士のライフルと、お嬢さんの腰のサーベルはお預かりさせて頂きたいのですが」
「えっと…」
「（渡しなさい、クリス）」
「（大丈夫ですか？本当に）」
「（多分）」
そんなアイコンタクトを交わした末に、クリスはライフルを、リリィは腰に下げた刀をシュヴァルに引き渡した。
「ほほー、これはレバーアクションライフルですな。見たところ、一八〇〇年代の非常に古いモデルの様ですが」
「鎖国前では最新式だった物ですね。それを国産品に何とか直して、ちびちびやってきたんです。尤も、弾丸も含めて製造工程が面倒なので火縄銃に負けた訳ですが」
「いやあ、懐かしい。これなら目を瞑っても分解と組み立てが…おっと失礼。ではお嬢さんのサーベルは…ほほ、これも良い物ですなぁ。複雑な彫刻に刀身には綺麗な刃紋が浮き出ている。逸品でしょう、きっと」
「お目が高い」
彼女としては苦笑いする他無い。目の前の男は今まさに取り押さえるべき罪人の筈なのだが、態度に全く後ろ暗いところが無い為に、かえってそのペースに乗せられてしまっているのだ。
「武器は出国の際にお返ししましょう。では、パスポートを拝見致します」
「げ、クリス、私たち身分証持ってたっけ」
「無いと思います。どうしましょうか」
「…まさか、外国に行くのにパスポートをお持ちでない、そんな訳はありませんよね？」
元々うちの国だよ！という叫びを腹の中に収めて、リリィはひとまず自分の身分を示す物が何かないか、カバンやポケットを探った。すると、一つ思い当たる物があり、それを革鞄から取り出してシュヴァルに示した。
「それは…デニエスタのミッテルベルン勲章！」
「逆に何でそんなもの持ってるんです？」
「いやあ、この国の勲章よりは効果あるから…」
「あなたは、いえ、あなた様はこれをお持ちということは、きっと只人ではありますまい。どうぞご尊名を承りたく」
「リリウオカラニ、と言います。一応は王族の末席を汚しております。こちらは私の腹心でクリストファー。身分並びに人格は信頼に値するものとお約束しましょう」
「はは、ではあなた様がご高名なあのリリィ王女殿下。私の『旅行先』でしたデニエスタでも、かねがねお噂は聞いております」
そう言ってシュヴァルは、「大共和国執政官の権限により、二人を国賓として迎える」と厳かに宣告し、執政官直筆の査証を手渡した。ポケットから取り出したポストイットにサインだけを記した査証を手帖に貼り付けると、リリィは一転して真面目な面持ちで問いかけた。
「ヘル・シュヴァル、いえ本来は閣下とお呼びすべきでしょうが、残念ながら私はその立場によって、あなたの地位を承認することはできないのです。何卒ご無礼をお許しあれ」
「顔をお上げ下さい、フラウ・リリィ・ポマレ。高貴なるあなた様のこと、何某かの事情あってのことでしょう。お話し下さい」
彼の物腰は元首を名乗るものとは思えぬほど柔らかで、謙っている。本当に自分が国の元首であると主張するならば、他国の一使節に対してそうした態度を取る訳はない。しかし、何故か彼はそんなチグハグな態度を止めようとはしなかった。
「大変申し上げにくいことですが、ヘル・シュヴァル。この島は…我がラピタ王国の領土なのです。我が国としましては、貴国の独立を承認することはできません。即刻の退去を要望するものであります」
「…え？」
ぽかん、とした顔のシュヴァルと真面目な顔のリリィ。この取り合わせが余りにも奇妙であったからか、クリスはつい吹き出しそうになったが、慌てて腕を口に当ててそれを防いだ。だが…
「そ、そんな、そんな馬鹿なぁァ！」
シュヴァルが絶望的な表情で膝をついた瞬間、彼もまた限界を迎えた。体を震わせて大笑いしてしまう。
「そ、そんな筈は無い！この地図には、この島は間違い無く無主地と書いてある！」
「大変申し訳ないですが、その地図は今から十二年前に発行されたものとお見受けします。ラピタ王国が開国して世界の承認を受けたのは今から十年前のことですから…」
「おお…神よ…」
力無く項垂れてしまったシュヴァルを見下ろして、リリィは今度は少々の憐憫を感じ始めていた。この老人は決して悪人ではないのだろうし、独立国騒ぎも何か王国に仇成そうとしてやったことでもあるまい。であれば、放っておいてもよかったのではないか。そんな考えさえ脳裏に浮かんだ。
しかし、一応自分は王族である。王国の法と秩序の規範たらねばならぬ。彼女は首を振って感情を追い出し、出来うる限り優しい声を作って彼に告げた。
「今この場に、十分な食料と水を用意しました。どうかそれを受け取り、ヨットに乗ってマウサネシアの方角に向けて国を出なさい。まだ中央政府は知りませんから、ね？」
「くうぅ、私の長年の夢が、遂に叶うとっ、そう思ったのにっ…！」
ギリギリと歯軋りしつつもシュヴァルは立ち上がり、力強く言った。
「ならば止むを得ない。この島は貴国に譲り、私は本土に帰るとしよう！」
ビシッとヨットを指差し、彼は更に続ける。
「領土の引き渡しは明日行う！あなた方は今日はこの島に滞在されると良かろう！後ろの方々にも何かしら振る舞おうではないか！」
言い放ち、スタスタと林の中に入っていく背中を見て、クリスは呟いた。
「ありゃ本物ですよリリィ様」
「何だか面白さと頭痛が同時に来てる」
林の中を抜けて行くと、その中に少し開けた場所があり、中心にテントと焚き火の跡が見られた。どうやら、ここでキャンプ生活を送っていたらしい。
「ようこそ臨時首都へ。あれが、大統領官邸兼公邸兼共和国議会議事堂兼最高裁兼公営住宅第一号です」
チグハグな態度が取れて、一転してシュヴァルの話し方は厳かなものになっていた。半ばやけになっているのか、とクリスは考えたが口に出すことはしない。
「このテントで暮らしていた訳ですか？」
「いずれは恒久的な施設を建てる予定でした。資材も集めていたというのにっ…」
悔しがる彼を宥めつつ、リリィはテントの周りを観察した。防水性の高い天幕の周りには、一押しに使ったであろうマッチの燃えさしや、料理炊飯に使ったであろう鍋や飯盒が置かれている。また、テントのすぐ横にはポールに見立てた木の棒が突き立てられ、紐で国旗が括り付けられていた。
「引渡しの条約は明日ここで調印しましょう。今、あなた方の宿舎をご用意致します」
手早く彼は予備のテントと寝袋を取り出してそばに敷き、組み立て始める。一方、それを唐突に言われた彼女は思考が追いつかなかったが、ややあって結論に辿り着くと、思わず顔を紅潮させ、
「な、それはつまり…！」
「どうかしたんです？」
「分からないの！つまり私たちはあのテントで…」
「ああっ！」
しかし、そうこうしている間にシュヴァルは設営を終えてしまった様で、既に夕食と思しき別のことに取り掛かってしまっていた。ことここに至っては、といった心境でリリィはため息を吐き、茜色の空を仰いだのだった。
シュヴァルが食事などの支度をしている間に、リリィとクリスは船で運んできた物資を積み下ろさせると、漁師達には一度島に戻り、明日の昼までに迎えに来る様にと指示した。
彼らは得体の知れぬ外国人に王女の身柄を預けたくはない、と反対したが、彼女直々の指示であればと承諾し、密かにこれをと匕首を渡して立ち去った。
「いざとなったらこれで自決しろ、ということかしら」
「むしろそれで喉笛を切り裂けってことじゃないですかね」
「おうい、間も無く夕食ができますぞ！」
老人の呼び声が聞こえたので二人は会話を打ち切り、彼女は匕首をバレない様に鞄にしまうと、クリスを従えて「臨時首都」に戻った。
「お待たせしました」
「おお。ところで先程の部下達はどうなさったかね」
「戻らせました。明日また迎えに来させます」
「そうかね。いや、折角久しぶりの酒を頂いたのだから、礼の一つもしたかったのだが」
シュヴァルは運ばれて来た物資の中からワインの瓶を取り出して、金属のカップに注いで二人に差し出した。
二人はすぐに口をつけたが、彼は自分の手元に注いだワインに対して、
「天にまします我らの主よ、遥か南の地よりあなた様に祈りを捧げます。主よ、私はあなた様の恩寵に感謝を捧げ、常にその御名と栄光を讃え、いついかなる時もその愛の深さを忘れることはありません。願わくば、私たちの隣人に平穏と幸福の報いが齎されますように」
遠い異教の聖句を唱え、彼はワインに口をつけた。それを見て二人は、この老紳士が、例え振る舞いは奇矯なものであったとしても、その心中においてはやはり紳士たるの尊厳や誇りを失っていないことを改めて知り、注がれてすぐに酒にむしゃぶりつく様なことをしてしまった自らを恥じる思いを抱いた。が、
「……かーっ、やはりワインは旨いのう！！」
この老人は、ワインを一口飲み込むや人が変わった様になり、程なくして残りのそれを全て飲み込むと、笑いながら二杯目を注ぎにかかった。
「あ、あの、ヘル・シュヴァル？」
「何だねお嬢さん！お代わりがいるかね？」
謹厳な紳士は、この数瞬の間に大酒飲みの船乗りに転職してしまった様で、顔を薄赤くさせながら周りも巻き込んで酒盛りを始めてしまった。
「さあさあお二人さん、食事と行きましょう。今日のメニューは、私が海で釣った魚のソテーに、あなた方が持って来て下すった保存食のシチューです！」
「…この人、お酒が入ると人が変わるタイプなんですかね」
「まあ、酔って絡むよりはマシでしょう」
そんな困惑のやり取りをよそに、彼は上機嫌で料理をよそうと、お盆に皿を乗せて二人に渡し、ついでにワインのお代わりも用意して、
「プロージット！」
と上機嫌で掲げて飲み干した。その様子を見たリリィは、今ならば建国に至った経緯を詳しく聞くことができるかも知れない、と考え、まずは適当に話を引き出そうと考えた。
「ヘル・シュヴァル、折角です、旅の道連れということで、あなたの人となりをもっと詳しく知りたいのですが」
「おう、よくぞ言って下すった！」
彼は饒舌に自身の過去を話し始めた。第二次世界大戦に少年兵として従軍し、復員した後は軍の情報部で共産主義を防ぐ為に尽力したこと、若くして大佐になり、妻や子供にも恵まれて幸福を極めたこと等々…そこから語られる彼の生涯は、正しく、冒険と功績に彩られた英雄のものであった。
「（ごく普通、あるいは貧しい家庭に生まれ、そこから実力で叩き上げて、遂に名声と幸福とをその手に掴んだ、か。誰もが幸福と信じて、疑わないでしょうね…）」
暫しの間、リリィは彼に好きに話させた。激戦地での死闘、復員した後のささやかな平和、情報部員として敵国のスパイと戦う、騙し騙されの謀略の世界。そんな中で得られた、家族との穏やかなひと時ー秘密と活躍、栄光と真の幸福、複雑に絡み合った人生は、一冊の本を書くに足る程だった。
しかし、そんな中彼女は一つの推理によって、彼が建国という振る舞いに至るまでの結論に、僅かながら手を掛けることに成功した。恐らくは、というその仮説は段々と膨らんでくる。そして、彼女は遂に核心的な質問を投げた。
「…ところで、ヘル・シュヴァル。差し支えなければ…あなたがこの地に、自らの国を作ろうとお考えになった理由を、教えて頂けますか？」
「……」
その質問を投げた時、彼の顔から笑みが消えた。代わりにその表情を満たしたのは、何処までも悲しげな思い出の影であり、遥かな過去に秘めた苦渋の記憶であった。
「…もしかして、聞いてはいけないことでしたか？」
「…いや、いいのです。この島の本来の持ち主であるあなたには、必ずお話ししなくてはいけないことですがら」
コップに残ったワインを飲み干して、老人は語り始めた。
「私の妻ーイーリスと言いましたがーは、哲学者でした。国立大学で、若いうちに様々な成果を挙げて、才媛として名声のある立派な学者だった。私が言うのもなんですが、本当に良い妻でした。頭も良く、性格は優しく、子供達を立派に育ててくれた…」
「……」
「そんな妻と結婚できたことは、私の人生で最も幸運なことだったと、今でも信じております。その時私は、皇帝になったと思う程に幸せな心持ちでした」
「それで…」
「ですが、その蜜月は長く続きはしませんでした。言い訳がましいことを言わせてもらうなら、世情が悪かったのです。その頃、帝国はソビエト連邦と厳しく対立し、国内では反共の旋風が吹き荒れていました。『共産主義は悪魔の思想』、『全ての人々から搾取し、指導者が肥太るためのプロパガンダである』と、そんな言説が広がっていました。私はそうした噂をばら撒き、憎悪を煽るのに大きな役割を果たした…まあ、それだけならば向こうも同じですから、それについて後悔はしていません。…しかし、やはり神様は見ていたのです。私は、碌に知りもしない物を憎悪の対象として、差別や怒りを煽った報いを受けたのです」
「……」
「…妻は国立大学で教鞭を取っていました。当時教育界では『赤狩り』、と呼ばれる思想統制が行われ、思想上好ましからざる者、とされた人々は次々と免職にされて行きました。そんな中でも妻は、そうした手にかかることはなく、優秀な学者のままだったのです。しかし、ある日、学内で『共産主義者狩り』なるものが起きた。レッテルを貼られた教授や学生を学内から『排除』するという…そして、私の妻の教え子達が、その嫌疑をかけられたのです」
「まさか」
「はい。中には本当に、地下組織に参加している者がいました。彼らはー今はもう存在しませんがー軍と公安の暗部として、拷問やでっち上げを司る部署に送られました。そして彼らは」
「『自白』してしまったのですか」
「はい。元々疑われていた妻に、より濃い嫌疑がかけられました。しかし、尚悪かったのは、私が情報部の軍人だったことー小さな『嫌疑』でさえも致命傷となるー、私は上から『忠誠の証』を示す様に言われました。私は、決して許されない罪に手を染めてしまったのです」
「ご自身で、奥様を…」
「…公的には単なる事故です。妻は、不幸な交通事故に遭い、そのまま亡くなってしまいました。ですが、例え今の世間が許そうとも、きっと神様は見ておいでだ。そう思っています」
「…では、何故？」
沈痛な面持ちの老人は、まるで孫娘に語りかける様な声で、先を続けた。
「…妻を失ってから、私は何もかもが偽物に見える様になりました。我々が憎悪する『共産主義』も、彼らが憎悪する『資本主義』も。イデオロギーも、倫理も、忠誠も…何もかもが嘘偽りに見える様になりました。そんな中、ある時妻の言葉を思い出したのです。『自由であれ、何者からも』と。それが、私の背中を押しました」
自由でありたい、思想からも、忠誠からも、理性からも、感情からも。何者にも囚われず、唯本当の自分を見つめ直す場所が欲しい。真に「
「国名の『フライハイト』、にはそんな意味があったのですね」
「私は卑怯者です。何もかもから逃げて、今でも子供達は私のことを思って胸を痛めているでしょう。…しかし、それでも私は、自分自身の行いに決着をつける場所が欲しかった。単なる懺悔ではなく、自分自身を根底から変えられる場所を」
「……」
「いや、誠に申し訳ないことをしました。私は、明日にもこの島をあなた方に引き渡して、…いや、お返しして、別の旅路を行きます。もう二度とお会いすることはないでしょうが…」
話を終えて、二人はあてがわれたテントの中に入った。二人分の寝袋と、寒い時用の布団、そして小さなランプが吊り下げられている。
「一応言っておくけど、いかがわしいことをしようとしたら…刺すわよ」
「しませんって。そもそも、あんな重たい話聞いた後にそんな気分になりませんよ」
「意気地なし」
「はい！？」
リリィは一度寝袋に体を入れてみたが、やはり熱帯の気候にはそぐわぬ様でかなり暑く、すぐに這い出て、断熱シートの上にそのまま横になった。
「いいんですか？寝袋使わなくても」
「やっぱりいいわ。暑いし、あなたに襲われた時に抵抗できないから」
「まだそれ引きずってるんですか…」
ランプを消すと、彼女はクリスと背中合わせになる様に寝転がり、彼もそれに合わせた。互いに背中から相手の気配と体温を感じながら、目を閉じて眠りについた…その時、
「クリス」
ふと彼は、背中側で気配が揺らめくのを感じた。
「リリィ様」
「振り向かないで…そのまま、聞いていて」
彼女はくるりと向きを変えて、彼の背中に手を触れた。そしてそのまま距離を詰めて、しがみつく様な姿勢で耳元に囁く。
「クリス、覚えてるかしら。朝、あなたに見せたあの書類」
「はい、覚えていますが」
「…戻ったら、あれを一切合作燃やすことにしたわ」
「な、何故です？」
「あなたも分かってるでしょ。…あれは、嘘なのよ。みんな、みーんな…」
「……」
「あの人が言っていた。『本当は知らないのに』って。確かに、その通りだった。あれは全部、私が分かる範囲で、誰かの又聞きをさらに自分の考えで歪めたようなもの。尤もらしく見えても、その中身はスカスカで…到底使えるものではなかった」
「じゃあ、どうするんです？俺達は、『真実』まで届くほど腕は長くないんですよ？」
「伸ばす」
「のばっ…」
「だから、決めた。クリス、私はマウサネシアに行く、デニエスタにも、アルセチアにも、スカセバリアルにも、ゴトロスにも。私がみたいと思った国、知りたいと思った人たちに、絶対に直接会ってみせる」
「…どれだけかかるかわかりませんよ」
「十年、いいえ、二十年かけてもやってみせるわ」
「…分かりました。その時は、俺もお供させてもらいますよ」
「あら、奇遇ね。嫌って言っても連れて行くつもりだった」
笑い声が交差した。豆粒の様な小島の、さらにその中の小さなテント。そこからさえも出ない約束が果たされるのは、そう遠い未来のことではない。
翌日の朝。リリィが目を覚まして外に出てみると、全てはほとんど嘘の様に消え失せていた。
「おはようございます」
「ヘル・シュヴァルは？」
「今しがた、荷物の積み込みが終わったところです。朝ごはんの用意もできていますよ」
彼女は半ば何かに導かれる様に、砂浜に向けて歩き出した。林をかき分け、波の音が響く浜辺へ。そこでは…
「ヘル・シュヴァル…」
「おはようございます、王女殿下」
シュヴァルは、何か憑き物が落ちた様に精製した様子で、まさに出航の支度を終えたところであった。
「もう行ってしまわれるのですか」
「…ええ。もうこの島でやるべきことは、終わりましたから」
「…条約は」
「不要でしょう。元々の所有者に、返すだけなのですから。…では、さようなら、二人のお客様。またいつか、私の国でお会いできれば良いですね」
老人はそう言って、船を海に押し出し、そのまま水平線に向けて漕ぎ出していった。
「…無駄になっちゃったわね」
「何がです？」
「ううん。なんでもない」
彼女は小さく首を振って、テントへと戻った。そして、一人ぽつんと残された、「自由の国」の国旗に一度だけ口づけをした。
シュヴァル大佐がどこへいらっしゃったか。私にはもう知る術はございませんし、おそらくはこの世の誰にもそれは叶わぬことと存じます。
しかし、私は心のどこかで信じております。彼が必ず、自由の国を自らの手で、どこかに打ち立てたであろうことを…
P.�� 32 7.30 あなたの娘 リリィ・ティナ
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