架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

 八月初旬の某日。夕刻の王都タアロア。
 北の大陸全土を揺るがす超大国の動乱は、遥か遠いこの南洋の小国にも暗い影を落としつつあった。波瀾を伴った北風が島々に吹き下ろし、無数の妖言風説の衣を纏ってさらに肥大化していく。
 都の人々は、街へ出ては街頭テレビやラジオに齧り付き、新聞を貪る様に読んでは思い思いに真実のカケラをかき集め、それを燃料に噂の焔を燃え上がらせた。
「超大国ソビエトが崩壊するって本当か?」
「分からない。どうやら反乱が起きているというのはわかるが」
「でも、幾つかの地方が独立したって噂もあるぞ」
 あれこれと想像しては口を開くが、結局のところ確かな真実に辿り着くことなど出来はしない。最も新しい情報を得られる都の人々も、周回遅れの噂しか分からない地方の人々も、結局は同じ様な結論に達するのだ。
「これからどうなるのだろう。お上は何をお考えなのだろうか」
 だが、人々が期待と不安の視線で仰ぐ石の宮殿の主人達こそ、最もそれを問いたかったことだろう。差し当たって自分達の運命を握る人々は沈黙を守っている以上、王国の運命は彼ら自身の手で定めなければならないのだから。

 ポマレ十世の第一王子、クヒオ・キラワオ王子もそうした人間の一人だった。王国軍の中核を成す王室親衛隊、その第一レジマンの指揮官を務める彼にとって、今の状況は不愉快というより困惑の極みである。
 今まで不動の王国と、さらに上に立つ忌々しい諸外国の存在を信じていた彼は、その二つが共に激しく動揺していることも、そうした中で誰に従うでもない、自分自身の判断が求められていることも初めての経験だった。
「(忌々しいリリィめ!この様な時こそ、その浅知恵を発揮してみたらどうだ)」
 きっとその場に本人がいれば、真逆の事を言ったに違いない理不尽な毒を心中で吐き、彼は眼前の空席を睨んだ。
 眩い光彩を放ち、才華によって全てを引っ掻き回す妹は、今は遥か遠方の地に下ってここにはいない。目の前の椅子は主人無きままに、無機質な視線を彼に打ち返していた。
「国王陛下のおなーりー」
 重苦しい沈黙を破り、最後の列席者が顔を出した。全ての者が起立し、最大限の敬意によってこれを迎える。クヒオ自身も例外ではない。
「皆楽にせよ。…これより、摂政の要請に従い…国王列席の臨時会議を行う」
 始まりを告げるその声は、どこか遠い世界の出来事の様に、クヒオの脳裏に響いた。

 「それでは陛下、私よりまずは御前会議の目的を申し述べさせていただきます」
「よかろう、申してみよ」
 国王に次ぐ国政の権力者である、摂政ジョアシャン・リホリホ王子が席を立ち、国王と列席者に対して会議の目的を淡々と述べる。
「ご列席各位もご承知のこととは思われるが、目下、カーリスト大陸の超大国であるカーリスト・ソビエト連邦は、西部の反乱に起因する苛烈な内戦により、国家そのものの存立危機に瀕している。今回の会議の目的は、この危機が我が国に与えるであろう深刻な影響について、どの様に対策を講ずるかの検討である。各位の積極的な討議に期待する」
 「美髯殿下」と渾名される上品な髭を震わせて、ジョアシャンは席に座った。普段は情熱的かつ積極的な指導者として国政をリードする彼も、未曾有の危機に瀕して緊張が隠せない様子で、額には無数の汗の玉が浮かんでいた。
「ジョアシャン」
「はい、陛下」
「会議を招集したのは其方だ。まずは其方が思うところを披瀝しなくてはどうにもなるまい。そうではないか」
「はっ、では恐れながら、私の思うところを述べさせていただきます」
 ジョアシャンは現在の情勢について幾らか分析を述べた。それは簡潔にまとめれば、ソビエトの危機はこの国の安全を大きく揺るがすもので、仮にかの国が「崩壊」することがあれば、今の危ういバランスのもとに成り立っている平和は忽ち消し飛んでしまうだろう、というものだった。
「ジョナ」
「はっ」
「其方はどうだ。王国軍の将として、何か思うところはあるか」
「では恐れながら…」
 次いで意見を述べたのはジョナ・クヒオ王子である。身長二百センチメートルに達するこの偉丈夫は、国王、ジョアシャンの弟にして王室親衛隊の司令官を務める国防の最高責任者である。
 クヒオの名付け親にもなった彼は、国内では外国排斥を唱える反動派の領袖として信望を集めており、開国の直後にはポマレ十世に代わって彼を王位に付けようという陰謀が巡らされたこともある。
 言うなれば国内の最危険分子であると言って良い彼は、その見た目そのままに過激な意見を唱え、今の情勢は他国に国防を頼った軟弱な政府の責任であるから、直ちにそれをやめて自国による防衛体制を確立すべきだと煽動した。
「我々を守るのはもはや我々自身の他に無い!世界各国の争いに巻き込まれるのはもううんざりだ!」
 宮殿のガラスにヒビを入れるかという程の大声で意見を力強く説くジョナを手で制すると、国王は次いでクヒオを指名した。
「其方も国の守りを担う戦士の一人。何か一言あれば申すが良い」
「で、では申し上げます。私は、ジョナ叔父上と意見を同じくいたします」
「どの様な根拠で?」
「こ、根拠と申しますと、それは叔父様が仰った通り…」
「クヒオよ。何度も私は其方に教えたはずだ。他者の意見に追従するだけでは、何者にもなれぬと」
「……」
「何者にもなれぬ未熟な男に、王位を預ける者がいると思うか」
「未熟を、心よりお詫びいたします」
 国王は、クヒオにとって最も鋭い失望の言葉を投げかけて、そのまま次の者に意見を求めた。力なく座り込んだ彼は、そのまま押し黙って一言も発することができなかった。
 会議はその後つつがなく進み、摂政以下、大蔵卿、外務卿、司法卿などの内閣構成員と、王室親衛隊、大船頭らの軍事関係者を中心に対策案がまとめられ、主に八つの方策が示された。

・ソ連崩壊の危機に際して、ラピタはイデオロギー的中立を維持し、経済的な繋がりのみに留めること
・ソ連後継国の承認を留保し、社会主義諸国との交流を継続すること
・多国籍租借地の開発を推進して、国内における国際対立を緩和すること
・デニエスタ帝国皇太子の訪問を迎え、両国の友好を対外的にアピールすること
・諸国に経済的利益を提示し、イデオロギー的利益(ラピタを自分の良いように作り替える)ことから目を逸らさせること
・一国がラピタの保護国化を目論んでも、他国がそれを牽制する様に外交方針を行うこと
・必要があればソ連系駐留人の継続滞在を認めること
・高騰が予想される石油などの戦略資源を廉価で販売し、ラピタを維持することの利益を諸国に提示すること

 これらの方策はいわばラピタの人々が知恵を絞った結果であり、理論と整合性において国王を満足させるに十分であった。しかし、纏められた上奏文を確認した彼は、何か不足なものがあるかの様に周囲を見渡した。
「…何か、足りぬ点がございますでしょうか」
「いや。これで良い…だが」
「はい」
「あの子がこの場にいたのなら、どの様な策を講じたであろうかと思ってな」
 あの子、そう呟く国王の表情を見て、全ての列席者がその言わんとすることを察した。ある者は納得するかの様に頷き、ある者は苦々しげな表情を浮かべ、ある者は内心の怒りに身を焦がした。
「陛下。善は急げと申します。一刻も早く、勅命を布告なさいませ」
「分かっておる、クヒオ。では、この通り会議を決しー」
「陛下!大変でございます」
 国王が結論を告げようとした時、一人の式部官が部屋に駆け込んできた。
「何事か」
「リリウオカラニ王女殿下より、国王陛下への大至急の上奏文を預かったと名乗る者が、王宮に参っております」
「リリィ殿下だと…」
「あの方はフアヒネ島で休暇中では…」
「リリィが都に戻ったのか」
 厳しさを増す国王の声に対して、式部官は慌てて否定し、自分が取次を頼まれた場には一人青年が居ただけで、王女本人はいなかった。しかし彼がリリィの名を刻んだ翡翠の牌符を見せたことで身分が知れたので、一先ず上奏文を預かって来た、と報告した。
「これがそうか」
「はい。『船中にて起案した物だったので、正規の手続きを踏んでいないことはご容赦下さい』と」
「お待ち下さい陛下!リリィは王命に叛き、呼ばれてもいない会議に口を挟もうとしています。これは叛逆です!」
「そういきり立つなクヒオ。確かに、休暇を命ぜられている中で都に戻ったのなら、それは叛逆である。しかし、その確証が無いなら単に娘が父に宛てて手紙を書いただけのこと。単なる近況の報告かも知れん。…これを届けた者の名は」
「宮廷書記官長補佐官、クリストファー・オウムアムアです」
「その者をこれへ」
「はっ」
 国王は封蝋を切って中の書類を取り出し、眼鏡をかけてじっくりと見つめた。その様子を周りの人間達も興味深げに観察している。そして、暫くして彼は書類を執務机に置き、高らかに笑い出した。
「な、どうかなさったのですか」
「くくく、見るが良い。この手紙はな、リリィが島から本土に戻るまでの3日の内に船内で書いたものだが、何と驚くべきことに、其方らが今しがた会議で出した結論とほぼ同じ方策が記してあるのだ」
「まさか…!」
 ジョアシャンが確認すると、確かにそこには、つい先程決定された政府の方策とほぼ同じものが記されていた。しかも字の癖からして、リリィが全て一人で書いたことは明らかで、他の人間が手を貸した形跡は全く無い。
「これを、彼女が一人で書いたのですか」
「何をどうしてこの報を掴んだのか知らんが、ここまでの旅路に、たった一人でこれだけの方針を示せるというのは、流石と言うべきだ。そうだろう諸君」
「…ははっ」
「陛下、使者の方をお連れ申し上げました」
「入れ」
 列席者が皆項垂れて言葉も失った時、式部官が混乱の原因の到着を告げた。扉が開かれ、中に入って来た青年は、国王並びに列席者に一礼すると、自信の名を名乗った。
「宮廷書記官長補佐、クリストファー・オウムアムア、書記官長閣下の指示により上奏の代行を相勤めさせて頂きました」
「よくもここに顔を出せたな逆賊!貴様は…」
「口を閉じよクヒオ!…クリストファー、いや確か其方はクリスと呼ばれていたな」
「はい、陛下」
「今、あの子は何処に?」
「陛下の御意に従い、都に程近い離宮におります」
「配所から無断で出たのか?」
「恐れながら陛下、陛下は『フアヒネ島に向かい静養すべし。許しあるまで都へ入ることを禁ず』とはお命じになられましたが、『フアヒネ島に流刑する』とは仰られませんでした。故に、王女殿下が在所をお離れになっても何ら問題は無いものと心得ます」
「全く、酷い詭弁だな。…だが、あの子らしい。ところでクリス」
「はい」
「リリィは何か他に言っておらなんだか」
「と、言いますと」
「私の知る限り、リリィは他人と同じ発想に満足する様な娘ではない。何かここに書いていない、とんでもない秘策を其方に託したのではないかと問うておる」
 国王の目がぎゅっと細まると、クリスはこの辺りが潮時と察して話し出した。
「ではこれより、陛下及びご列席の方々に、王女殿下より極秘の提案を申し上げます。これは極めて重大にして急を要することですから、他言無用に願います」
 クリスが策を語り出すと、最初は半信半疑の体で聞いていた出席者の顔色が変わる。話が進むにつれてそれは段々と酷くなり、最後には蒼白で震えるものも居た。
「つ、つまりリリィは…外国を、それも世界第二位の超大国を強請るつもりなのか!」
「正気の沙汰ではない!下手をしたら、戦争になるぞ!」
「陛下、恐れながらリリィ殿下はまだお疲れのご様子、すぐに島にお戻り頂くべきです」
 半ばパニックになった室内で、三人だけが冷静だった。二人はクリスと国王、そしてもう一人はー
「クリスとやら。ひとつ聞かせてもらいたい」
「何でしょう、クヒオ殿下」
「…リリィは確かに、全く伝統やしきたりを顧みぬ、若いオオワシのような妹だ。だが、王国を無謀な賭けの天秤にのせる様な真似はしない。故に聞かせよ、何故にリリィは、その様な提案をした?」
「…御明察です、王子殿下。私の主人は、無謀な賭けを提案する様な人ではありません。今回の策も、成功するかはともかく、少なくとも皆様方の賛成を得る公算あっての提案です」
「ほう。では聞くが、何のためにこの様な詐術を提案したのだ。下手を打てば、王国そのものを揺るがしかねんのだぞ」
「…それが、この国が世界と渡り合う唯一の手立てだからです」
「……」
「皆様もご存じでしょう。世界に比べて、この国はあまりにも小さく、未熟で、非力です。それこそ、今まで何故他国の支配に置かれなかったかが不思議なほど。しかし、そんな幸運な時代は終わってしまいました。諸外国は海竜の背を乗り越え、次々に我が国の岸に錨を下ろし、右手を握手のために差し出す一方で、左手では圧倒的な武力を構えて我々の隙を狙っています」
「…確かにそうだ」
「そんな我々が争うにはどうしたら良いでしょうか。我々には、山を吹き飛ばす巨砲を持った戦艦も、街を消し炭にする天の槍も存在しません。国民は故郷を愛し、穏和で日々を楽しむ素晴らしい人々です。しかし、その数はあまりにも少なく、迫り来る敵の脅威に直接武器を取って戦うにも限界があります」
「だから、この様な策を用いると?」
「…それが唯一の道です。力を持たぬ我々が、他国に対してまともに渡り合い、その足元に跪くこと無く自由と誇りを守る、ただ一つの手段です。…国王陛下、王女殿下はこの策に一命を賭けると仰せられました。それは、私も同じです。どうぞ、計画のご認可を願います」
「………」
 重苦しい沈黙の帷。全ての者が固唾を飲んで、主権者の答えを待つ。そしてー

 同日深夜。寝静まった都の夜を、常ならぬ篝火の灯りが照らす。薄ぼんやりと現れたのは、敵を圧するための鮮やかな青色の軍服に、火と月の光を反射して煌めく銃剣。そして、規則正しい軍靴の音が、灯りと共に人々を夢の中から現実に引き戻す。
「第一大隊、集結致しました」
「同じく第二大隊より、都の四方の大門を固めたとの報告が入りました」
「宜しい、では我々は指揮官到着まで…来たか」
 激しい馬蹄の音を響かせて、一人の女性が剣呑な雰囲気の中に飛び込んだ。それを見た兵士達は捧げ銃、の礼で彼女を通す。
「遅かったではないか、リリィ」
「お久しゅうございます、お兄様」
 帽子を脱いだリリィは、その白髪を手で後ろに梳きながら、長兄に笑顔で報いた。

 「では、段取りを確認しようか」
「はい。王室親衛隊は第一レジマンの第一、第二大隊合わせて四百人を動員、第二大隊は都の東西南北の四つの門を封鎖、第一大隊は四つの中隊に分かれて作戦行動に」
「第一中隊は北門から出て港湾を封鎖制圧、第二中隊は外交街一帯に突入して周辺大使館を警護並びに監視、第三中隊は王宮周辺で待機、第四中隊は俺とリリィに続いてソ連大使館を囲め」
「但し、あくまでこの戦いの大義名分は、『混乱に乗じた反動分子からの外交官保護』。故に断じて大使館に銃口を向けてはならない」
「ちなみに仕込みはできているのか?」
「勿論」
 リリィは近くの兵士に命じて、一本の矢とそれに括り付けられた手紙を取り出した。
「ソ連邦の消滅を見越して、同国大使館を混乱に乗じて襲撃しようとする『輩』をでっち上げました」
「悪どいことだな。いくら半分は事実だからと言って、大逆罪にも等しい行為をでっち上げるとは」
「じきに本物をとっ捕まえます。尤も、その前にソ連が崩壊したら詮無いことですが」
「だが、お前の見立ては果たして当たるのか?確かにソ連は今や虫の息だが、すぐに崩壊するとは限らないぞ」
「崩壊しなくても、体制が激変することは避けられないでしょう。少なくとも、現在の党上層部が今後も同じ様な権力を握ることは難しいはず。だから、そこを衝きます」
「…分かった。では俺達は、精々『混乱からの保護』の言い訳ができる様にしておこうか。では、全軍出動!」
 クヒオの命令一下、各中隊が動き出す。大昔の戦列歩兵を彷彿とさせる見事な陣列の構築は、長きに渡って培われて来た王室親衛隊の訓練の成果であった。
 そのまま彼らは指定された配置に着くために動き出す。装備品が擦れる金属音が響き、篝火で起き出した人々を怯えさせる。
「さて、と。私も行こうかしら」
 リリィはラジオに接続したヘッドフォンのスイッチを入れ、時差を利用して外国のニュースを受信する。
「…ソビエト連邦の混乱は深刻を極め、既に独立を表明した西部の他、首都モスコーウェンを無血占領したと称する自由革命軍が東部諸国の独立を宣言しました。既に中央政府はその機能を喪失したと見られ…また、中部諸国も共同声明を…」
「どうやら、私の見立ては間違っていないらしいわ」
 軍隊に守られて、彼女は出動から三十分後にソ連大使館前に到着した。既に現場は殺伐とした雰囲気に包まれており、飛び出してきた大使館の職員達が猛然と抗議の弁を述べ立てている。
「あなた方は何をしに来た!ここは外交施設だ!直ぐに撤退してもらおう!」
「今に責任者が来る。…いらっしゃいましたか」
「この深夜にお騒がせして、大変申し訳ありません。責任者のリリィです。夜分までご苦労様です」
「…あなたが、この凶事の糸を引いていたとは。賢者たるあなたならお分かりのはずです、このような蛮行は許されませんぞ」
「勘違いなさらないでください。我々は、あなたがたを保護する為に来たのです。都の混乱と、それに乗じた不届き者どもから、ね?」
 彼女は例の矢文と、国王直筆の詔書とを大使館の職員達に示す。それを読んだ彼らは、驚きと共にある種の苦々しさを禁じ得なかった。その余りの稚拙さと、あからさまな裏の意図に気が付いたというだけではない。…児戯にも等しい企てでありながら、反論も否定も挟み込む余地が無く、また彼らは最早その力さえ持っていなかったからだ。
 同じ頃。大使館の二階から、ラピタ王国駐箚大使、アレクセイ・ニコラエヴィチ・コンドラチェフは、目前と階下の兵士達を見下ろしていた。遂にこの時が来てしまったのだ。いずれと覚悟はしていたが、酸味の強い敗北感が彼の口に広がった。
「もはや祖国は応答も無い。家族の帰る場所も、この地に住まう同胞の故郷も…」
 彼は一人の建築家の顔を脳裏に思い浮かべた。同じ街に生まれ、同じ党に奉職し、今も同じ国で働いている。開かれたばかりのこの国に、文明の明かりを灯すために働く親友に対し、彼らは仇で報いようとしているのだ。
「…だが、もはや恨むまい。全ては、無力な私の責任なのだ」
 避難を勧告しても、頑なに仕事に留まった同胞達に心中で詫びながら、彼は有事に備えて引き出しにしまっていた、黒い拳銃を取り出した。中に込められた一発の弾丸、どうかそれだけでことが収まれば良い。そう願って…
「大使閣下!」
「なんだ、騒々しい」
「たった今、ラピタ王国政府からの特使が参っております。国王からの全権委任状を携えて、大使との面談を望んでお出です」
「その者の名は?」
「リリウオカラニ・ティナ・ポマレ王女殿下です」
 その名を聞いた時、彼は目を剥いた。帰って来ていたのか、「白髪の魔女」が。ならば、今起きている全ては、彼女の企みか。いや、しかし…。
 打算と推理、現実と想像が交錯し、明晰な頭脳は混乱状態に陥る。そして、半ば恐慌に陥った頭脳で彼は命じた。
「こちらへお通ししなさい!」
 数分後に現れた、長い白髪の女性は、魅力的な笑顔と共に彼にこう告げた。
「Добрый вечер。親愛なるアレクセイ・ニコラエヴィチ大使閣下…。今日は貴方に、耳寄りなお話を持って来ました」

 翌日の早朝。日付が変わってもなお、幾人かは王宮で事態の推移を見守っていた。玉座に座る国王は、一睡もせずひたすらに娘の帰還を待ちわびている。
「陛下、どうかもうお休みになっては…」
「…我が子が戦っておるのだ。国王が戦場から逃げるわけにはゆかぬ」
「王女殿下がお戻りになられました!王子殿下もご一緒です」
「直ぐにこれへと」
 全ての任務を終え、二人が戻って来たのは、もう東の空が白み始めている頃だった。
「リリウオカラニ、任務を終えて帰還しました」
「同じくクヒオ、勅命を果たしました」
「皆一度部屋から出よ。機密事項ゆえ」
「はっ」
 クリスを始めとした他の臣下を退出させると、改めて国王はリリィ達から報告を聴取した。
「結論から申し上げますと、ソ連大使はこちらの提示した条件を全面的に受け入れました。即ち、『ソ連政府消滅後も外交特権を承認する』、『在留ソ連人を王国政府の名の下に保護する』、『必要があれば彼らの亡命を周旋する』、『王国政府は大使館の有する財産の処分一切に関知しない』。以上、国王全権代理として署名しました」
 提出された合意書を一瞥して、彼は重々しく頷いた。
「して、代わりに何を得た?よもや、全く無条件でこれを履行するほど、其方はお人好しではあるまい」
「…あくまで、『ソ連大使殿の忘れ物』ですが。こちらを預かっております」
 リリィは封印された封筒の中から、一冊の報告書の束を取り出した。その表紙には、「機密」の赤い印鑑が押した上で、「ラピタ王国における敵対的諸国の諜報・工作活動に関する報告書」と記されている。
「書類上、この書籍はかの政府が定めた『有事における機密廃棄プロトコル』に従って『焼却処理』されたことになっています。これの他は一切情報が残っている気遣いはございません」
「左様確かか」
「…全ての処理は私の目の前で行われましたので。あるとすれば彼らの本国の記録庫でしょうが、公開されるにしてもかなり後のこと。活用の術はいくらでもあるかと存じます」
「…結構。私としても、この辺りが限界であると考えていた。よもや、自国の情報を引き渡すほど、彼らも恥知らずにはなれまいて。中は確認したか」
「はい。資本主義陣営、またはソ連と対立する各国が国内外で展開している、対ラピタの合法非合法の活動の諸々が重要度と真偽評価付きで載っています。ソ連の諜報機関という最高級のフィルターがかかっていますから、信頼度は折り紙付きかと」
「好かろう。では、この資料に関しては我々『大人』が引き継ぐこととする。上手く利用して、利益なり支援なりに繋げて見せよう」
「ありがとうございます」
「クヒオ。其方もようやってくれた」
「妹の策に従ったのみ、お褒めの言葉は不要に存じます」
「いや、裏を取るには表がしっかりと立っていなくてはならぬ。其方がいなければ、彼らはこの取引そのものに乗ってこなかったであろう。…では、下がって休むがよい。二人ともご苦労だった」
「はは」
「ありがとう…存じ、ます…」
 国王が退出を許した瞬間、ふらり、とリリィの体が揺れ、力が抜けると共に床へ倒れ込む。
「危ない!」
 クヒオが慌てて支えると、既にその腕の中で彼女はすやすやと寝息を立てている。
「扉の後ろに、この子の付き人が控えておる。クリス、そこにおるか!」
「はっ!」
 直ぐにクリスが御前に現れ、国王に用件を問う。
「すまぬが、この子を寝室まで運んでやってくれ」
 そう命が降ると、クヒオは抱き上げたリリィをそのまま引き渡し、自らも休む為に目の前を辞去する。
「不器用なことだ。眠っていても素直にはなれぬと見える」
「では、私も失礼致します」
「うむ…ああ、もしもリリィが求めるなら、目が覚めるまで側にいてやってくれ。知っての通り、この子は寂しがり屋だからな」
「分かりました」
 クリスが部屋から去ると、国王は自身も大きなあくびをして、彼女が持って来た報告書を開いた。そして、その1ページ目にリリィの字で「最終報告書」が挟み込まれているのを見ると、ニヤリと笑みを浮かべる。
「やはりな、まともな交渉であるわけがない。…何しろ、この私の子供なのだからな」

 九月八日に至って、リリィが予測した通りソビエト連邦は正式に解体された。僅かひと月弱の間に、世界第二位の大国がこの地上から消滅したのである。
 同日王国政府は、ソ連大使の有する信任状の失効と外交特権の消滅を宣言。以降は王国政府の責任によって在留する同国人、並びに資産の保護と管理を行う勅令を発布した。
 これに伴って旧ソ連大使館は王国軍により接収、また飛行場建設に携わる技術者団、外交官とそれに随行して来た医師団の身柄は一旦王国首都近郊の離宮に集められ、後継国の信任状捧呈に至るまで「保護されること」と定められた。
 その他にも王国政府は、国内に残る超大国の遺産を活かすべく影に日向に方策を取ったが、介入できるはずの諸外国は、その殆どに対し沈黙を守り続けた。これらの裏でいかなる暗闘が繰り広げられたか。年代記は伝えていない。

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