架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

 私の一番嫌いな言葉が、頭から降り注いでくる。
「お美しい公爵様、ご機嫌麗しゅう」
 何がお美しいだ。内心は不気味に思っているくせに。
「真っ白な御髪、まるで新雪の様です」
 老婆の様だとハッキリ言ったらどう?その方がいっそ清々しい。
「誠に心苦しいのですが、公爵様、どうかお助けください…」
 ええそうよ。お前たちはいつもそう。二言めにはそう言うの。くれてやるわ、元より腐るほどあるのだから。
 そうやっておためごかしを言って、媚を売って、おこぼれを食い荒らしたいだけの鼠。私の側には、そんな人間しかいない。私に告げられる言葉なんて、そんなものしか無い…。
「…綺麗ですよ、お嬢様は。この世界で一番、綺麗で、美しい女の子です」
 …でもどうして?あなたに言われると、あなただけに言われると、不思議と信じたくなる。他の人間が一万回言ったとしても、私はきっと信じられないのに、あなたが一度私の耳に囁くだけで、すうっと沁み入ってくる。
「お嬢様、今日は何をしましょうか」
 黙れ。黙って頂戴。あなたの口から言葉が出るたびに、私は諦められなくなるの。
 …あなたが私に笑いかけるたびに、私は、「この世界を諦めきれなくなる」…。

 耳障りな目覚ましの音で、私は目を覚ました。ベッドのすぐ横のスタンド、その根元に目覚まし時計が置いてある。音を止めて、薄く開いた目で時間と日付を確認した。
「1992年、3月16日…」
 ああ、そうだ。今日は余り気が乗らない、だけど行かねばならない行事がある日だ。
 私は無理やり体を起こし、側の鏡台の前に立った。その中には、肩まで伸びた白髪に、薄らと開いた赤み掛りの双眸を持つ、しかめ面の少女がいた。
「酷い顔ね、リュリス・ヴィシニョヴィエツキ。そんなことじゃ、公爵だなんて名乗れないわよ」
 そう言ってやった。目の前の少女から返事が返ってくることは、無かった。
 少し遅れてやってきたメイドに連れられて、私は朝の入浴を済ませたあと、着替えさせられた。シルクのブラウスにロングスカート。首元には気取ったスカーフを巻いて、髪の毛はしっかり整えて。ずっと昔から、私は誰かのお人形さんだった。
 そうしたら、今度はあんまりにも大きい食堂に向かう。何メートルあるかもわからない柱に支えられて、四百年かに描かれた神様が、厳かな顔で天井から見下ろしてくる場所。無数の天使が聖母の昇天を迎え、天なる父が御出でになる神話の一場面を切り取って貼り付けたと聞く。
 私は黙って座った。長い長いテーブルには、私以外の姿は無い。そうして料理が運ばれてくるのを待つ。形だけは豪華、でも身は殆どないボロボロの鶏肉と、ライ麦パンにも劣る白パンが出てくるのを…。
「ごめんなさい、遅れました!」
 場違いな声が鼓膜を震わせた。楽天的で、悩み事など全く無い、世界そのものを愛している様な声がした。其方に目を向ける。向けまいとしても、自然に体が動く。
「遅いじゃない、ステンカ。…五分の遅刻」
「はい、ごめんなさいお嬢様。昨日の夜、夜更かししてしまって…」
 恥ずかしげに笑っているのは、所々寝癖の跳ねた明るい髪の青年。顔つきはずっと幼くて、背丈さえなければ、小学生みたいと思ってしまうような、そんな人。
「早く座りなさい。食事が出てくるわ」
「はい!」
 彼が私のすぐ隣の椅子を引いて座った。冷たい空気を吹き飛ばす温かさが伝わってくる。程なくして料理が出てきた。「よく脂の乗った美味しい鶏肉と、焼きたての美味しい白パン」が。
「ステンカ、食べ終わったら今日の予定を確認するわ。きちんと準備しておいてね」
「はい!」

 私が公爵になったのは、今から二年前のことだ。その経緯は全く取るに足らないことだ…父母の乗った車が事故に遭い、そのまま帰らぬ人になってしまった、それだけ。
 使い古された演劇の様な日々。亡くなった父は、その称号と地位に見合う、いいや、それ以上のものを私に残した。二、三回生まれ変わっても使いきれそうにない財産、千年前から受け継がれる領地と家宝。見たことも聞いたこともない、名誉の目録…「若くして全てを手に入れた」、きっとそう小説には書かれることだろう。
 だけど、それは私からあるものを奪い去った。例え一兆の金貨を積み上げても贖えないものを。…私は、若くして全てを手に入れた代わりに、当たり前の「幸せ」を奪い去られた。
 父は優しかった。母はもっと優しかった。いつも笑っていて、仕事のことなんておくびにも出さずに、普通のお父さんとお母さんみたいに、私を褒めてくれた。思えば、何も知らなかった。突き飛ばされて入り込んだこの世界に、何が待っているかなんて。

 朝食を終えて、私は一旦私室に戻った。このだだっ広い宮殿の中で、唯一心を落ち着けていられる場所だ。物置の様に狭い部屋の中に、ベッドと小さなテレビ、それから勉強机なんかが揃っている。他に何百と部屋はあるけれど、ここが一番落ち着く。唯一、私が私でいられる場所だ。
「よろしいですか、お嬢様」
「入りなさい、ステンカ」
「失礼します」
 ステパンは相変わらず緊張した面持ちだ。一々許可を取って、それでも躊躇いがちに体を動かしている。父母が生きていた時から、彼だけは受け入れてきたと言うのに。時には父さえも入れない聖域に、たった一人許したのはお前だけだと言うのに。
「楽にして良いわ。面倒だから、その肩肘張った敬語もやめて」
「…じゃ、お言葉に甘えて。イェシー」
「…学習したのね、やっと」
「そりゃあね。ファーストネームで呼ぶと君は怒るから…」
「ふん」
 イェシーは正確に言えば父の名だ。父の名前はイェレミーと言ったから、それをミドルネームとして受け継いだ。私はある事情のせいで、リュリスという名前が大嫌いになってしまった。今のところ、それで呼ぶことはステパンにも許していないし、そのつもりも無い。
「今日の予定を説明して」
「まず、午前十時から当主執務室で、新ルブヌィ代官の任命式。次いで、三つの地方議会で補欠選挙がありましたので、その当選者七人の認証式。これには地方テレビの取材も入る。ここまでは良い?」
「了解」
「その後、首都の王立大学の卒業証書の目通しと署名。流石に数千人は無謀なので、直筆署名は各学部の主席と次席、三席の三人まででいいみたい」 
「十六歳の大学総長の署名に何か価値があるのかしらね」
「後は訪問客の予定がいくつか…貴族が五人、実業家が三人」
「会いたくない。反吐が出るわ」
「まあまあ。これが片付いたら、しばらくは何もないから」
 そう言うと、笑いながらステパンは私の頭を撫でた。まるで子供をあやす様なその態度が、本当に気に入らない。
「そうやって図々しく人の頭を撫でるところ、本当に嫌いよ」
「ふふ。じゃ、行こうか」
 この温かな笑みが、どれほど厭わしくて、愛おしいことだろう。屈折して絡み合う感情が心を満たして、荒れた川面の様にざわざわと波立った。

 ヴィシニョヴィエツキ家は千年前から続く名家だ。かつては王国各地に広大な領地を持っていて、掛け値無しにカーリストで一番富裕な貴族と言ったって過言ではなかった。
 そんな私達の先祖の繁栄の残骸が、今も形を留めている。国の中の国、かつては絶対的な権力の対象だった「永代世襲領地」ーオルディナツィア、と呼ばれる土地だ。そこでは形式上、公爵ーつまり私だーが未だに統治権を持ち、五十六ある基礎自治体の首長を「代官」として任命する。尤も、今となっては単に市民の選挙結果を承認する、儀礼の上でしか無い権限だけれど。
 そんな公爵家の領地は、王国中南部の平野部、歴史は古くとも人口希薄な農村が広がる地域にある。今でも凡そ三十万人の人々がそこで暮らしているのだ。私は、そんなちょっとした国のご主人様というわけ。
「ルブヌィ代官選挙の当選者、ジョアン・アルデロス殿、お出でに御座います」
「ご機嫌麗しゅう、公爵閣下」
「アルデロスさん、通算三度目の当選ね。おめでとう」
「大きゅうなられましたな、閣下」
 目の前に立っているのは、どこか大きな鼠を彷彿とさせる初老の男だ。タキシードを着て正装し、きちんと残り少ない髪を撫でつけてているのが逆に滑稽に思えた。
「こちらが任命書です」
「結構」
 任命書には既に形式に従って事項が記されていて、ただ下の署名欄だけが白抜きになっている。私はそこに、「Lulis Jeremi Wiśniowiecki」とサインした。長い名前だ、と思いながら。
「『国王陛下に認められたるオルディナトの権限に基づき、ジョアン・アルデロスをルブヌィの代官に任命する。聖暦1992年3月16日、ヴィシニョヴィエフのオルディナト、リュリス・イェレミー・ヴィシニョヴィエツキ』」
「謹んで拝命いたします」
 任命書を読み上げて手渡すと、部屋の中に入り込んだ記者達がシャッターを切る。おそらく明日の地方紙の一面にでもするのだろう。もう少しリップサービスでもしてやろうかと思ったが、フラッシュを焚かれたことが気に食わなかったのでやめた。
 その後も政治的な儀礼が続いた。補欠当選議員一人一人に信任状を手渡し、握手とお祝いの言葉を述べる。偽物の笑顔と、心にも無いお世辞。私の暮らしはそんなものばかりだった。本当なんて殆どどこにも無い、そんな日々だ。
「お昼にしましょうか、お嬢様」
「…ん、そうするわ。今日のメニューは何?」
「シュニッツェルのサンドイッチです」
「それ、まさかあなたが作ったんじゃないでしょうね」
「半分は」
「…じゃあ残りの半分だけ頂戴」
「全部適当に混ぜて詰めました!どれがどれだかわかりません!」
「馬鹿!」
「あいたっ!」
 程なくして出てきたボックスの中には、シュニッツェルの他、ポテトサラダやトマトレタスなどを挟んだサンドイッチが詰められていた。量からしてステパンの分もあるのだろう。
「…これ、あなたが作ったやつ?」
「よく分かりましたね」
 私は適当に一つサンドイッチを摘んで口に入れた。サクサクした衣の中から、じわりと肉汁が溢れてきて、ソースと溶け合って旨さを作り出す。十分だ、と言っていいほどの美味しさだった。だが、私にはそれを作ったのが料理番ではなく、彼であることが一口食べただけで分かった。
「シュニッツェルの形が不自然、ソースとキャベツの入れ方も下手くそだから。あと…」
「あと?」
「…なんでもないわ」
 言えるわけがない。「懐かしい味がしたから」などと、恥ずかしいセリフは。
 少しの休憩の後、今度は卒業証書の目通しが待っていた。首都にある王立カルドニア大学は、かつてヴィシニョヴィエツキ家の先祖が全額出資して創設された、王都王立学院の流れを汲む王国最古の大学である。その縁で、現在でもそこの総長は代々公爵家が世襲しているのだ。
「はっきり言って馬鹿らしいわ。なんだって、学歴の上では義務教育を修了したばかりの小娘が、こんな風に一流の学生達に顰めつらしく訓示やら授与やらをするなんて」
「別にそのくらいはいいと思いますよ。お嬢様は地頭もとても良いし、家庭教師から色々教わって、王立大学にも十分入れる力があるじゃないですか」
「お世辞は要らないわ。言っておくけれど、例え何万冊本を読破しても、チェスのチャンピオンになっても、私は王立大学の最底辺の学生にも及ばないのよ。なんたって、それを手に入れるための努力をして来なかったんだから」
「そんなにご自身を卑下されなくてもいいですよ。少なくとも俺よりは頭がいいじゃないですか、お嬢様は」  
「仮にステンカ以下って言われたら、私は公爵家を出て旅に出るわ。その位の屈辱よ」
「えー」
 冗談を言いながら、私は上等な紙に印刷された学位記と卒業証書を改めた。光に当てると透かしが浮き出てくる横書きの証書、それは何万人もの学生達が血を吐く様な努力をもって手に入れようと願うものだ。そして、その殆どは手に入れられぬままに落ちていく。
 果たして、ただ生まれただけの私に、彼らの上に立って仰々しく授与するなどと言う権利があるだろうか。そう思いつつ、私はまた同じサインを書き込んだ。
「だんだん上手くなってますよ」
「当たり前よ。一日何十回と書いていればね」
「いつか、ご自身の学位記にサインを書き込む日が来るかもしれませんよ」
「…その口、縫い合わされたい?」
「すみませんでした」
 危うくiをyに書き違えるところだった。可読性はどうでもいいとは言え、やはり心臓に悪い。

 目通しと署名の全てが片付いた後。私はまた小さな休憩をとった。それなりに高い紅茶と、焼きたてのクッキーを持ってきて、バルコニーで優雅に嗜む。他方ステパンは、そんなものにはあんまり興味がないらしく、早々と自分の分のクッキーと紅茶を飲み食いすると、陽光の中でうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。
「…間抜けヅラね」
「ん…」
 目の前でコクリコクリと夢現の青年、ただでさえ幼いその寝顔は、眠りに入るとさらにそう見える。まるで赤ん坊がまだ寝足りないと、寝ぼけ眼で母親を見つめる様に。
 私は紅茶を一口飲むと、柵の向こう側に広がる庭園を見下ろした。五百年前に奇特な当主が、当時の国家予算にも匹敵する資金と、十数年の歳月を費やして建設した宮殿だ。豪奢さと美麗さはケルースの大王宮にも劣らないだろう。
 幾何学模様を描く植え込みと、計算されて配置された花畑、そして時折風景に新鮮さを加える噴水。我が国の、いや、世界の宮廷様式の粋を凝らした大庭園だ。しかし、いやだからこそ、私の心は冷え込んだ。お前には作り物の楽園がお似合いだ、一生涯ここで暮らすがいい。誰かにそう言われている気がしてならないから…。

 そして、初めに戻る。私にとって、最も憎むべき仕事の時間だ。一番苦痛で、この世界そのものが嫌いになった大きな理由がこれなのだ。
「応接室にお通ししますね」
「嫌よ」
「え?」
「冗談。早く連れてきて」
「…はい」
 応接室に入ってきた男は、入るや否や相好を崩して口を開いた。
「ああ、麗しい公爵様。お会いできて光栄でございます」
「フルヘンディ伯爵、お久しぶりですね。お席へどうぞ」
「ありがとうございます」
 そいつは恭しく頭を下げて椅子に座ると、下卑た笑いでこちらを見つめている。何を言いたいのかわかるだろう、ええ分かるわ。でもこちらからは一言たりとも言ってやるもんですか。
「公爵様、昨今の世界情勢はご存じですかな?」
「ゴトロスの通貨危機は恢復に向かっている方ですね。ヴィシィ・グループはゴトロスにもホテルやテナントを大量に所有していますから、そこからの収益がまた望めるとなれば、万々歳です」
「おめでとうございます!我が王国を代表する不動産企業のトップがそう仰るのならば、きっとゴトロス経済は安泰でしょう!」
 空疎なやりとりに私は苛々していた。早く本音を言え、時間は有限なのだから。
「それでですな、そのぅ…」
「言いづらいことですか?躊躇わずに仰ってください」
「はい!いや、実はですな、私共フルヘンディ証券は、今後のゴトロスの経済恢復を見込み、さらに投資を拡大する計画を立てているのです。その規模はなんと、十五億リアカードに匹敵する大計画です」
「ほう、それはなんとも豪気な…」
 大体我が家の資産の十分の一前後というところだろう。だがそれにしても凄まじい金額であることに変わりはない。少なくとも、目の前の男が簡単に集められる金額とも思えないが。
「既に三つの侯爵家、七つの伯爵家、その他数十の子爵男爵家が投資に参加するとお答え下さいました。資金も間も無く目標の金額に達しようとしてあります。しかし…」
「足りないわけですか」
「いえいえ!全くその様なことは…ですが、我々は国家の重鎮たるヴィシニョヴィエツキ公爵にお話を持っていかないことへの良心の呵責に耐えきれず、こうして特別に参上したと言うわけで…」
 そこからは聞くに堪えない雑言の嵐だった。ひたすら自分の言いたいことだけを好き放題に喋り散らして、やれ利率がどうの、やれ元本がどうのと馬鹿みたいな話を積み上げて行った。
 父は優れた企業経営者であり、投資家でもあったが、こういう手合いを相手に商売をしていたのかと考えると、その忍耐力には驚嘆を覚える。
「いかがでございましょう公爵様、一千万リアカードが、倍の倍に化けるかも…」
「お話は大変結構です。家中で前向きに検討しましょう」
「本当ですか!」
 無論相手も、十六そこらの小娘がまともに資産運用を考えられるわけがないことは知っているだろうし、今現在公爵家の資産の九割九分までは事実上王国政府の管理下にあることも承知の上だろう。私の自由にできる収入も、当座の暮らしに必要なだけの貴族年金と、所有する企業収益のごく一部が与えられるだけ。大方、オルディナトの名前を利用したいというだけの、小悪党めいた発想に過ぎないのだ。
「次は誰?」
「次はモルディン社長です。先代の公爵閣下とお付き合いのあった方だとか」
「何の社長?」
「憚らずに申し上げてよろしいですか」
「言いなさい」
「落ち目の土建屋です」
「やっぱり」
 だが、そんな私の僅かな自由でも奪おうとする人間が後を絶たない。きっと彼らは、十億持っていれば十億、一万持っていれば一万、全てを手に入れようとするのだろう。私が「ヴィシニョヴィエツキ」である限り。
「…次が最後の方ですね」
「どなた?」
「お聞きになりたいですか?」
「……わかった、ミハイロ叔父様ね」
「そうです」
「性懲りも無く…」
 思わず舌打ちが出る。ステパンはぎょっとした表情を浮かべたが、気にしてやるものか。私にとって一番嫌いな人間が目の前に来るのだ、本来なら思い切り蹴っ飛ばしてやりたいところだが、それを我慢して舌打ちで済ませてやっている。寧ろ相手からの感謝すら要求したいくらいだ。
「…ミハイロ・オレクサンドロヴィチ・ヴィシニョヴィエツキ卿、お見えになられました」
「通しなさい。お茶は要らないから」
 少しして応接室に、一人の若い男が入ってきた。髪の毛の色は見事な金髪で、目の色は模範的なブルー。顔の作りは彫像の如く整っていて、今年三十六歳になるとはとても信じられない。
「久しぶりだね、リュリス。元気だったかな」
「ミハイロ叔父様、『リュリス』と私の名前をお呼びになるのは、どうかおやめ下さいと申し上げたかと思いますが」
「いいじゃないか、大切なファーストネームだよ。大事にしてあげないと、イェレミー兄様も傷つくだろう?」
「……」
「まあいいよ。今日は、前に君にした話の答えを聞きにきたんだ。どう、考えてくれたかな?」
「…申し訳ありません。最近忙しかったもので、ちょっと失念してしまいました。なんでしたっけ」
「…後見人と管財人のことだよ。分かるだろう?今、君の正当な権利が奪われてるってことはさ」
「……」
 現在、ヴィシニョヴィエツキ公爵家の有する財産の大部分は、その巨大さと重要さに鑑み、イェスパッシャン王国政府の指示で作られた「公室財産管理評議会」によって管理・運営されている。メンバーは、ステパンの父親であるイヴァン・サハイダーチュヌィイ執事長、ヴィシィ・グループの最高経営責任者アダムズ・ゴールディ、そして家門が所有する美術品などの管理を担当する文化財団の理事達、他オルディナツィア自治体の代官に財務省の官僚などなど錚々たる面々だ。
 そして、彼らは同時に私の共同後見人でもあり、十八歳の成年まで厖大な財産の管理運用と、保護者の代わりとして法律行為の決定権を握っている。私や単独の後見人が下手なことをして、国の貴重な財産を損なわない様にとの、国王陛下直々の配慮によるものだった。
「あの忌々しい管理評議会!あの中に一人だって、ヴィシニョヴィエツキ家の人間がいるかい?後見人なら、分家の僕達の方がずっとふさわしいはずだ。もし一人に任せるのが不安なら、人を集めてこちらも委員会を立ち上げよう」
「叔父様、管理評議会の立ち上げは恐れ多くも国王陛下のご決断です。公爵家は王国貴族の家柄、陛下がお決めになったことに逆らうなど本分に悖ります」
「なんだって?違うぞ、決めたのは議会の奴らだ。賤しい平民どもが、公爵家の財産を無理矢理取り上げるために決めたんだ。あいつら、誰が何リアカード取る、みたいな算段をつけているだろうよ」
「管理評議会には、サハイダーチュヌィイ執事長、ゴールディCEOほか、公爵家に長年仕えた人たちが居ます。信用できないなどと言うことは絶対にありません」
「サハイダーチュヌィイ!ゴールディ!彼らがどうして信用できるんだい?みんな、地位と財産目当ての…」
「叔父様!」
「おっと…失礼した。口が過ぎてしまったな」
「お気になさらないでください、ミハイロ卿」
 思わず口に出た抗議の言葉。しかし、ステパンは特に反応をすることもなく、恭しくアイツに頭を下げた。どうして、自分の生まれを侮辱されたと言うのに、そんな簡単に受け流せるのだろう。
「兎に角だ。公爵家の当主である君が口を開けば、状況は変わるんだよ。お金が欲しいだけの連中から、君の正当な権利を取り戻せるんじゃないか。さあ、どうか協力すると言ってくれ。千年間の歴史あるヴィシニョヴィエツキ家が滅びるかの瀬戸際なんだ!」
「…叔父様」
 この時私は、ほぼ無意識で答えていたと思う。怒りと失望と諦念の入り混じった、玉虫色の言葉を、私は口から吐き出した。
「叔父様、お金が欲しいのはあなたでしょう。ううん、あなただけじゃない、私のところに来る人たちは、みんな二言目にはお金の話。助けて欲しいだの、言いづらいけどだの。そんな風に言って、結局はみんな『お金を下さい』」
「馬鹿な、僕はそんなことは…!」
「それじゃあ、権力?名声?結局、叔父様が欲しいのは私の権利でも、正義でもなんでもない。もしも本当に私のことをわかってくれるなら、私が欲しいものを本当に知っているのなら、絶対にそんなことは言わないはずよ」
「…何だと言うんだ。君は、全てを手に入れられる権利があるんだ。一体、何が欲しいと言うんだ。何が手に入れられないと言うんだ」
「…何も、いらない。それが私の一番欲しいものよ」
「なんだと!」
「ステンカ。叔父様にお帰りいただいて。もう話すことは何も無いわ」
 私はそのまま立ち上がって、部屋を出て行った。叔父様はしばらく私に向けて悪態をついていたけど、直ぐに足音荒く立ち去ってしまった。

 「ほんっとに、何てこと言うんですかお嬢様は!」
「結局帰ったんだからいいじゃない」
 それから少し後。私達二人は、この朝と同じひたすらだだっ広い食堂で夕食を摂っていた。ステパンは少しご機嫌斜めの様で、ぷんすかと息を吐きながら肉を口に放り込んでいる。
「まあ暫くお嬢様の悪口言った後、帰っていきましたけど。本当にムカムカしますねあの人は」
「…あなたのお父様を愚弄させてしまったことは、同じ一族として申し訳ないと思っているわ」
「別に謝らないで下さい。それよりも、俺はあの男にビシッとお嬢様が言ってやったのが気持ちよかったので」
「……むしろ私はそれが悲しいわ。血の繋がった人間まで、ああなってしまうと思うとね。財産や名声、権威を欲しがって、大切なものを放り投げてしまうのが悲しいわ」
「まあ確かに。正直そんなに欲しがるか?って言うのはありますけど」
「ステンカはいらないの?お金とか名誉とか」
「あんまりって感じですかね。そりゃ、あるに越したことはないですけど、自分から欲しい欲しいって言うものかなって…」
「ふうん……」
「な、何ですかその視線は」
「じゃあ、私が成人してもあなたには、一リアカードもあげないわ。要らないんでしょ?」
「…要りませんよ。でも、その代わり欲しいものはあります」
「何かしら」
「成人してからも、お嬢様の側にお仕えさせてください。…それさえ叶うなら、俺は何も要りませんから」
「……」
 結局はこう言うところなのだろう。私がこの世界を、人間というのを諦められずにしがみついていられるのは。
「当たり前でしょう。あなたは私に『借り』がある。それを返すまで、ずっとこき使ってやるんだから」
 「彼の様な人もいるかもしれない」。針の穴よりも小さな希望に、目が眩んだ。

 「お風呂に入ってくる」
「じゃあ、メイドさんを誰か呼びますよ」
「ううん。一人でいい」
「……」
「そんな心配そうな顔しないで。だって、前みたいなことはもう無いでしょう?」
 宮殿の奥深くには、大理石造りの大きな浴場がある。昼と夜の光の入り方、照明が作る柱の影まで計算して設計されたその場所は、極論を言えばたった一人公爵の為だけにある。
 服を脱いで体を洗い、お湯に浸かって私は上を見上げた。天井には無論細密な天井画が描かれているが、それだけではない。中心にぽっかりと穴が空いていて、そこから星や月の光が浴室に入る様に作られているのだ。
 私の住む宮殿はかなりの地方、それこそ未だに教会の大聖堂以上の建物が無い様な古びた街並みが残る土地にある。かつてこの場所に都市が築かれた頃、月明かりは単に綺麗なものではなく、現実的な明かりの一つだったことだろう。
 ぱしゃん、と波打つお湯が階段上のヘリに触れて音を立てた。明かりを落とすと、この波模様が光を反射して幻想的な姿をドーム状の天井に描き出す。今は淡く照明を付けているからそうもいかないが。
「もう前みたいなことは無い」
 ここで体を休めていると、いつもある日の風景を思い出す。父母に先立たれて一年後、一度私が全てを諦めようと決めた時のことだ。
 首を吊ろうか、銃で頭を撃ち抜くか。十五歳だった私は、そこまで追い詰められていた。大人達は皆怖くて仕方なかった。その頃まだ残っていた心の瑞々しさが、人の悪意を敏感に感じ取らせていた。
 もう耐えられない。公爵の位も、財産も、名誉も。皆人の悪意を呼び覚ますだけ。誰一人として、私を守ってくれる人はいない!
 重圧と悪意は私を狂わせた。他人に責任をなすりつけて、自己正当化をする太々しさも時に美徳であると、まだ私は知らなかった。
 結局、私は手首を切ることにした。首を吊るとしても、銃を使うとしても、結局は人に見つかるかも知れないし、後始末が面倒だ。幼い時には不思議なプライドがあって、兎に角自分の醜い姿を見せたくなかったのだ。首を攣った後、自重で骨が伸びたり目玉が飛び出したりするのも嫌だったし、銃でこめかみを撃ち抜いて血と脳漿を飛び散らせて倒れるのも嫌だった。
 それなら、せめて自分の裸を晒すくらいなら耐えられよう。そう思って、私は選んだ。
 普段世話をしてくれるメイドから強引にタオルセットをもぎ取って浴場に向かう。その過程で、洗面所に寄って、棚から父の使っていたカミソリの刃を一枚抜き取ってバスタオルの中に隠した。この時、最後の凶器にこれを選んだのは不運だったのか、それとも幸運だったのか。今でも判別がつかないところだ。
 そして、最期だからと体を念入りに洗って、照明を消した。月明かりの中で死のう、そう思って私がタオルに手をかけた時、
「お嬢様!」
「!?」
 乱暴に浴場の扉が押し開けられ、ステパンが飛び込んできた。普段の彼からは想像もできないほどに、その顔は焦りと恐怖に歪み、冷や汗をいっぱいに浮かべていた。
「な、なっ、無礼者!いきなり風呂に押し入るとは…!」
「失礼します」
 彼はヘリに置かれたタオルを手に取って、バサっと広げた。すると、隠していたカミソリの刃が床に落ちて、カツンという金属音を立てて滑った。
「………」
「…お嬢様」
 失敗した。これから先、ずっと私は監視され、機会はもっと少なくなる。悪意に溺れて、生き続けさせられる。彼からの強い怒りを覚悟して、きつく目を瞑った時、予想外の言葉が私にかけられた。
「…お嬢様、申し訳ありませんでした。私の責任です」
「え…」
「俺が誤って、お嬢様の使うタオルにカミソリの刃を紛れ込ませてしまった様です。洗濯物を運ぶ時の不注意だったのでしょう。お怪我が無くて何よりでした」
「何を、言っているの?」
「本当に申し訳ありません。許して頂けるとは思っておりませんが、どうぞお好きな様に罰して下さい」
「ふ、ふざけないで!」
 濡れることも厭わずに跪く彼に対して、私は声を荒げて詰め寄った。
「このカミソリは、私が持ち込んだものよ。私が自分でタオルに紛れ込ませたの。あなたがミスをしたわけじゃない!」
「いいえ、間違いありません。俺のミスです。先程カミソリが一枚足りないことに気がついたことが幸運でした。本当に申し訳…」
「違う、違う!私は、私は自分でカミソリを、それを使って、それで…!」
 死のうとしていた。そう言おうとした時、私の口は強引に塞がれた。彼が立ち上がって、私の身体をぎゅっと抱きしめたのだ。裸のままの肌に、彼の温かさが伝わってくる。力強い腕で私を守る様に引き寄せ、手で優しく頭を撫でてくれる。早鐘を打っていた鼓動は、彼のものと共鳴して沈静化していき、それと呼応する様にして涙が溢れた。
「…お嬢様。どうか全て、『俺のせいに』して下さい。いいんです、それでいいんですよ」
 その言葉が、どれだけ私を救ってくれたことだろう。冷たい孤独の闇の中に、温かく明るい光が降りてきて、私を連れ出してくれた。もう1人きりじゃないと、教えてくれた。
「そう、確かに全部あなたのせい。今私が生きていられるのも、明日もまた生きようと思えるのも」
 普通に考えれば、きっと幾つかの偶然が重なった結果なのだろう。昔から側にいる彼には、きっと私の心身の変調がすぐに分かったはずだ。そして、そこにカミソリの刃が一枚足りないことが追い打ちをかけて、すぐに結論を導き出したのだろう。
 だが、それを言うのは野暮だ。彼が自分のミスだと言うのなら、きっとそうなのだろう。例え問い詰めたとしても、彼は決してミスだと譲らないはずだ。
 なら、それに甘えよう。それを利用して、好き放題にしてやればいい。きっとこの罰はつけさせてやる、それまで絶対に離してやらない。
「…生半可なことじゃ、許さないわ」

 お風呂から上がり、バスローブを着て私室に戻ると、ステパンが手紙や届き物の類を整理していた。
「お疲れ様です。お嬢様」
「ええ」
「もうご就寝ですか。新聞とかまだありますけど」
「明日でいいわ。…一面に見たくない人の影があったから」
「あはは…ところで、一つ大切なお手紙が」
 そう言うと、彼は一枚の小さな手紙の封筒を渡してきた。宛名は丁寧なデニエスタの綴りで、「リュリス・ヴィシニョヴィエツキ公爵閣下」、裏には紅色で双頭の鷲の封蝋がされている。
 開いてみると、流麗なデニエスタ語で文章が書かれていた。
「ベルナー・オーパンバル…デビュタント舞踏会への招待状ね」
「ベルナー・オーパンバルって、デニエスタ皇帝が主催する、世界最高のデビュタント舞踏会じゃないですか!各国の王族クラスが招待される様なすごい集まりですよ!?」
「どうやら、今年は王家に招待該当者が居ないらしいから、それでうちに枠が回ってきたみたいね」
「でも凄い名誉ですよ。イェスパッシャン人の臣下としては、殆ど例が無いはずです。もしかしたら陛下からもお話があるかも…」
 ステパンは顔を紅潮させて、腕をぶんぶんと振り回している。これでリュリス公爵も名実ともに、一人前と認められるはずだ、とでも思っているのだろうか。
 少し気に入らない。何が嫌って、私よりも自分が大人だと思っていることだ。私よりも子供っぽいところがあるくせに。
「…でも、ステンカ。この招待状によれば、この舞踏会には男女のペアで来なきゃダメって書いてあるわよ」
「え…あ、確かに…」
「残念ね。私には貴族はおろか、同年代の友達なんていないし、そもそも海外に一緒に行ってくれる様な仲良い人も…」
 ちらりと視線を向けてみる。さあ、言え。「皆自分のせいにしろ」、と言ったのはあなた。それなら、そうなる様にあなたがそうするべき。でしょう?
「…も、もし、よかったら。ええと、その、とても恐れ多くて釣り合わないかも知れませんが…」
「……」
「自分に、ステパン・サハイダーチュヌィイに、護衛役をやらせて頂けませんか」
「…喜んで、お願いするわ」
 この出来事が、どんな結果を生み出すかはわからない。でも、きっと何かを大きく変えるものになる。私は、そう確信していた。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Wiki内検索

メンバーのみ編集できます

メンバー募集!