なぜないのか疑問だった

とあるカフェの風景



本日は2月14日。世間のカップル達がチョコを渡したり渡されたりして盛り合う、そんな日。



「はぁ…」

友人と共にカフェのテーブルに頬杖を付き、物思いに耽った溜息を付く一人の男。その仕草はまるで悩める恋する乙女のようだ。最もその外見は髭面で筋肉隆々の男性だが。

彼の名はヘパイストス。この世界に現れたのはつい昨日の事だ。
当然のことながら彼にはまだ親しい女性はおろか、友人らしい友人も傍らでフラペチーノを啜るサイクロプスのみだった。


そんな悲しいバレンタインを過ごす彼の目に飛び込んできたのは、ガラスの向こうでショッピングモールを歩く桃色の髪の美少女と青年だった。

「ごっ主人さま〜♡ハッピーバレンタインっ♡」
「ありがとう、お前はいつも可愛いな」
「かわっ…も、もうっ!ご主人様ったらぁ!だーいすきっ♡」

笑う青年と彼の言葉に髪色よりも顔を真っ赤に染める少女のカップルは、微笑ましくも見ている方まで照れくさくなってしまう物だ。

暗い面持ちだったヘパイストスは僅かに微笑んだ。


あの桃色の髪の少女は「ヴィーナス」と呼ばれる存在だ。
元の神話において、ヘパイストスとヴィーナスは夫婦関係にあった。しかし醜い姿の為に妻には最後まで愛されることは無く、彼女の浮気により離婚に至ったのだが。

しかしこの世界では神話において不自由とされていた足も動くし、醜いとされている姿も中々の美丈夫となっている。ここまで姿が変わっているのであれば、ヴィーナスも見直してくれるのでは…と少しだけ思った。が結果はご覧の通り。彼の外見の変化が示す通り、この世界の神は元の神話の神とは似て非なる物であり、その生き方も神話に従う必要など無い。つまりヴィーナスにはわざわざ彼を選ぶ理由も無いし、彼がヴィーナスにこだわる必要だって無い。

わかっていた事だったので特に悔しいとは思わない。
彼の心を占めるのは今度こそ自分を愛してくれる女性がこの世界では現れるのだろうか、という期待と不安、自分が成し遂げられなかった分、ヴィーナスを幸せにしてやってくれという青年への願い。そして寂しいバレンタインを過ごす事への絶望だった。



前述の通り、今日はチョコを渡したり渡されたりする日。彼の滞在するそのカフェでもそれは行われている。

「ハッピーバレンタイン、カストル。今年もみんなとこの日を迎える事ができて嬉しいわ」
「ありがとう、ポルックス。今年は上手くいったようだね。去年は湯煎中にお湯が入って悲惨な事になってたけど…」
「ククク…チョコ塗れのアンタレス…普段とは比べ物にならない灼けつくような熱気…いざ!んほおおおおおおおおおお゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!」

「YOUR FIRST TARGET...CAPTURED...BODY SENSOR...EMURATED,EMURATED,EMURATED...」
「らめぇ!!いくらチョコレートみたいな色だからってお尻にコード入れちゃらめっ、んっほおおおおおおおおお゛お゛お゛お゛!!!」

「クラーケン、ハッピーバレンタインですわ。うふふ、今年は趣を変えて私自身がチョコになってみましたの。まあ自分の体にチョコを塗っただけですけれど」
「(さっすが〜!ネル様は話がわかるッ!)」
「え、ここで食べますの?ここじゃ駄目、やめて、ちょ、待って…だめぇっ!きゃ、きゃははは!くすぐったいっ…!ヒッ、ひゃあぁん!ちくび、だめ、あぁ、あああぁああっ!!」

(あいつら精神状態おかしいよ…)

機械を犯す男と機械の老人に犯される老人、そしてイカとの触手プレイを楽しみだした女がカフェをつまみ出されるのを尻目に彼は先程よりも更に大きな溜息をついた。

彼は何も相手がいない、と言うだけでここまで気を悩ませてはいない。
むしろ彼の心に暗い雲を漂わせるのは、右も左もアブノーマルなこの世界で自分はこれからやっていけるのだろうか…そんな悩みだった。

「今の彼らを見たかい、サイクロプス。あれがこの世界の常識だそうだよ……サイクロプス…?」

サイクロプスは答えない。
ふと彼が横を見ると、サイクロプスは手に持った物をヘパイストスに差し出している。

「…サイクロプス?これは…何だい?」

サイクロプスが差し出したのはハンマー…いつも彼が愛用している物よりもいくらか小振りなものだった。
持ってみると非常に軽く、その感触は金属では無く紙の物。そしてほのかな甘い香り…そう、これは…

「チョコレート…友チョコ、という奴か。ハハ、嬉しい事をしてくれるじゃないか…」

ヘパイストスは自分の心の中の暗雲が一気に晴れてゆくのを感じた。自分にはこんなに素晴らしい友人がいる。何も焦る必要なんて無い、ゆっくり馴染んでいけば良いじゃないか…そんな風に思えた。

「ありがとう、何だか元気が出てきたよ」

ハンマー型の箱の中に入っていたのは、中央に薔薇の砂糖飾りが添えられ、周りを苺のチョコレートとホワイトチョコレートで可愛らしく彩ったハート型のチョコレートケーキだった。友達にプレゼントする物にしてはかなり手が込んでいる。

サイクロプスの手作りであろう箱の中の作品をまじまじと眺めるヘパイストスに対して、サイクロプスが耳元でそっと囁いた。

「お前の事が好きだったんだよ」


おわり

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