なぜないのか疑問だった

風と匂い


『龍契士』

龍と特別な契約を結んだ希少な存在。
その身体の一部を龍と同化させ、人と龍という二つの力でもって敵対者を殲滅する。
緑龍と契約したものは、風龍王に仕えて強大な風の力を授かるという。




「はぁー……面倒だなぁ……」

誰に言うでもなく、緑龍契士の少女はぼやいた。
その腕には大量の書類を抱え込み、表情は億劫さを隠そうともしていない。
書類が重いため……というわけでもない。
少女――シルヴィの普段の得物は巨大な戦斧。この程度の重さで根をあげるわけがないだろう。

「渡すならもっと早く渡してよ、もう……」

こうも面倒くさげにするのは、シルヴィがとにかく無駄なことや二度手間なことを嫌う性格だからだ。
一度通り過ぎた場所にまた引き返す、買い物に行って帰宅後に買い忘れに気がついてまた買い物に行く羽目になる……
そういったことを考えるだけで、彼女は憂鬱な気分に陥ってしまう。
今回の場合は、既に通り過ぎた彼女の今の主の部屋に、友人から書類の届け出を代わりに任されたために渋った表情となっている。

「そもそもこれ結構大事な書類なんだから、ちゃんと自分で届けようって気にはならなかったのかな……?」

なお、本当に渋々といった様子ではあるが、基本的にシルヴィは根は真面目であった。
頼まれごとをされてしまうと断りきれず、最終的には仕方なく了承してしまい、そして仕事を完遂する。
故に仲間達からは結構な数の面倒事を押し付けられていたりするのだが、当の本人はそれに気がついていない。
なんとも損な性格の持ち主であった。

「マスター、この前の敵の能力と行動法則をまとめたものを……あれ?」

控えめに目的の部屋の扉を叩くが返事は無く、ドアノブを回せばそのまま開いてしまい、思わず困惑してしまう。

「マスター……?」

以前見たテレビドラマでは、こうして鍵のかかっていない部屋の中では凄惨な出来事が広がっていた。
まさかとは思うが、主人の身になにかあったのではないか?
僅かにシルヴィの顔が険しくなる。

「……」

周囲を警戒しながら、部屋をぐるりと見回す。
荒らされた形跡はない。棚の引き出しは全て閉められ、床に何かが飛び散っている様子もない。
机の上だけは書類やら計算用紙やらが散らばっているが、それはいつものこと。
ベッドの上にはコートが乱雑に脱ぎ捨ててあるだけで、肝心の主人の姿はどこにも見えない。

「……急用でも、あったのかな?」

とりあえずは倒れ伏す主人や強盗などを目にすることがなく安堵する。
しかしその安堵の表情も束の間、シルヴィはすぐさま憂鬱そうな表情へと戻っていく。

「マスター、また洗濯物出し忘れてる……」

つい先ほど一通り済ませたというのに、ここにきて追加の洗い物は非常によろしくない。
脱ぎ捨てられたコートも、このままでは型崩れしてしまうだろう。


――やあ、君がシルヴィかい? このボクに仕えるからには、身だしなみには気を使ってもらうよ。
――いつでもどこでも清潔に。遊びは大切だけど、そのまま汗臭いのは厳禁だからね?


「っ……」

ふと、以前の主人の記憶が蘇る。
彼女とは、既に縁を切った。一方的に切られたと言った方が正しいだろうか。
あの主人が何も言わずに自分の元から去って行ったあの日から、その覚悟は出来ていた筈なのに。
こうして当時の習慣を引きずり、その言葉を思い出してしまうというのは……吹っ切れていない証拠なのだろうか。

「……そんなこと、ない」

無意識のうちに現在の主人のコートを抱きしめる。
息を吸い込めば、鼻腔に土埃と主人の汗の匂いが満ちた。
以前の主人の華のような匂いとは、似ても似つかない。

「んっ……マスターの、匂いだ……」

だがシルヴィは、不思議とその匂いが嫌いではなかった。

――龍王が世界を裏切るなど恥もいいところだ
――シルヴィよ。あ奴に仕えていたのはお前だけだ。お前があ奴を説得し、連れ戻してこい

自らは動かない龍王たちとは違う。

――ねぇねぇシルヴィ、ボク退屈だから何か面白い芸を披露してよ!

無茶な要求をしてきたかつての主人とも違う。
これまでの主人と比較すれば、あまりにも平凡で脆弱な、人間の主人。
だが彼は、異形の龍契士である自分にも分け隔てのない優しさを注いでくれた。

「マスターの匂い、やっぱり、安心する……ん、はぁ、すぅ、はぁ……すぅぅぅはぁぁぁぁ……」

気がつけば、抱きしめたまま顔を埋めていた。
より濃密なものとなった主人の匂いを、深く息を吸い込んで堪能する。
普段の表情の変化が乏しいとまで言われるシルヴィの貴重な笑みは、コートに埋もれて誰も見ることはできないだろう。
当然、嬉しそうにその頬を染めて何度も呼吸を繰り返している様子も。



※ ※ ※ ※ ※


その部屋に響く呼吸音は、徐々に荒くなっていた。
シルヴィの顔はより上気し、桜色に染まっていく。
いけないと思いつつも、もう後戻りができないほどにその匂いは理性を溶かしていたらしい。

「ん、っはぁ……」

ようやく顔が上げられるが、これで終わりなどではない。
この程度では、もう満足ができなくなっていた。

「……んしょ」

少しばかり自分の唾液がしみ込んでしまった事には目を瞑り、シルヴィは主人のコートに袖を通した。
少々大きすぎたようでぶかぶかではあるが、逆にそれが主人が自分よりも大きいのだということを改めて実感させる。

――今日から、ここがお前の帰る場所だ

かつての主人に捨てられ、行く当てを無くしていた自分に差し出された暖かい手。
その手で頭を撫でて貰ったことは、今でも鮮明に思い出せた。

「マス、ター……頭だけじゃ嫌なの、もっと、こうやって……!」

シルヴィはそのまま、自分自身を掻き抱く。
ぎゅうと両腕で押し潰された豊かな胸は、柔らかくその形を変えていた。

「あ、これ……すごい……! マスターに、抱きしめられてるみたいでぇ……!」

主人の匂いで蕩けた思考は、コートを着て自身を抱く行為を主人に抱かれているものと錯覚させた。
後ろから、胸が潰れてしまうほどに、強く激しく、主人に求められている。
所詮は錯覚だが、それはさらにシルヴィを昂ぶらせていく。

「あっ、んぅぅ……! んくぅ……! んむぅ!?」

堪えきれない声を誤魔化すために、コートの袖口を噛みしめる。
するとどうだろうか。染みついた匂いは味となり、嗅覚だけでなく味覚まで刺激してくる。
じんわりと広がる、濃密な主人の味。
こんな真似をしたお仕置きとして、指で舌を引っ張られているような感覚。

――いけない子だな、シルヴィ……

「ん、んふぅぅぅぅ!?」

聞こえる筈のない主人の言葉を聞いた瞬間、シルヴィの身体は大きく跳ねた。
ぞくりとするような震え。しかしそれは恐怖からくるものではない。
既に完全に空想の世界に入ってしまった彼女は気がついていないだろう。
自身の太ももを伝う蜜が、主人の部屋の床に水たまりを作ってしまっていることに。

「マスター……」

ふらふらとおぼつかない足どりで、シルヴィは倒れこむ。

「ん、ああぁ……」

主人のベッドの上に。
力なくうつ伏せに倒れこめば、その身体はめり込むように沈んでいく。

「っ!? ひ、あ、ぁぁぁぁぁぅ……!?」

その瞬間に、再びシルヴィの身体は跳ねた。
当然と言えば当然であろう。倒れこんだのは主人の布団。その匂いの染みつき具合はコートの比ではないのだから。
ましてや興奮状態の彼女にとっては、刺激の強すぎる媚薬であるとさえ言える。
さらに濃い主人の匂いは、シルヴィの思考を麻痺させ、蕩けさせる。

「だめぇ……だめなのに……」

口では駄目だと言いつつ、頭ではいけないことだと理解しながら。
しかし身体は全然いうことを聞かず、布団をめくりあげた。
現れるは主人の使用している枕にシーツ。

「はぁはぁ……」

もう止まることなどできない。
シーツの端から端までを転がるようにして全身に巻き付け、その上から布団を纏う。
そして抱きかかえた枕に、思い切り顔を埋める。
全身余すことなく主人に包まれた、完璧な布陣だ。

「マスターの、匂いで、いっぱいだぁ……」

とろんとした表情のまま、シルヴィの片腕は無意識のうちに動いていた。
主人の匂いを思い切り吸い込んだときから、身体の疼きが止まらないのだ。
自然と擦りあわされる太ももからはにちにちと水音が漏れ聞こえる。


――シルヴィってさぁ、いつも表情が一緒で退屈しちゃうよ
――そうだ、ボクがいいことしてあげる。どんな表情に変わるのか、楽しみだなぁ……!


「っ……!」

再び、かつての主人の記憶が蘇る。
こういった行為をすると、嫌でもあの頃を思い出してしまう。
表情を変えるためだと、散々にこの身体は弄ばれてきた。

「んうっ!」

だが、今は違う。
身体は前と違って弄り倒されてなどいない。ほとんど触れていないと言っていい。
それでも、下着はかつての時以上に湿り、蜜を滴らせていた。

「やっ……あっ、あっ!」

下着越しに、割れ目を指で往復しながらなぞりあげる。
かつての主人に嫌でも覚えさせられたその動きのたびに、ぐちゅぐちゅと淫靡な水音が溢れ出た。

「マス、ター……ッ!」

拭い切れていない過去の記憶。
それでもシルヴィは、今の主人の名を呼んだ。
こうして主人の匂いで包まれていると、安心すると同時にまるで彼に触れられているようにさえ思える。
かつての主人の動きを模して蠢かすこの指すら、彼の指も同然であった。

――もうこんなにとろとろだぞシルヴィ?

下着をずらして指を侵入させれば、秘裂はすんなりとそれを受け入れた。
かつてはこうはならなかった。もう少し、窮屈であり抵抗があったはずだ。

「ちが、うの……これは、マスター、だからぁ……!」

幻の主人の言葉に反論をする。
そこに偽りは無い。確かに、主人の匂いに包み込まれることでかつてない程の興奮を得ているのだ。
このような経験はシルヴィも初めてであった。

「マスターッ……もう、い、いっちゃう……!」

指の動きはさらに激しくなり、溢れ出た蜜がシーツも布団も汚していく。
後の言い訳などしようもないが、そんなことはもはや頭から抜け落ちている。
今のシルヴィは、ただただ主人の指で快楽を貪りたいだけだ。

「い……くぅ……! い、んむぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ……!! んぅぅ!!」

やがてシルヴィは絶頂を迎えるが、声を漏らさないように枕に顔を埋めて噛み締めた。
だが再び広がる主人の味に、火がつき昂ぶりきった身体はそれだけで新たな絶頂を迎えてしまう。
声を出すまいと堪えれば堪えるほど、より強く匂いを感じて達してしまう、連続絶頂の状態だ。

「――ッ! ――――ぁ! ――――!!!」

主人の匂いに包まれたまま、何度も何度もその身体は跳ねた。
一人しかいないというのに、ベッドは幾度も軋む。

それはシルヴィの体力が完全に底を尽くまで続いたという。



※ ※ ※ ※ ※


「はぁー……はぁー……んぅっ……すぅぅぅ……」

荒い息を吐き出しながら、気だるげにシルヴィは起き上がった。
だが、その腕には枕を抱いたまま。酸素を補給するための呼吸も枕越しに行われる。

「はふぅん……」

あれだけの絶頂を迎えた後であるため、流石にまた匂いだけで逝ってしまうということはない。
改めて主人の匂いを思い切り吸い込んだシルヴィは満足げな笑みを浮かべるのであった。

「……マスター」

だが再びシルヴィは憂鬱な表情を浮かべてしまう。

「匂いだけじゃなくて……本当に抱きしめてもらえたらなぁ……」

幸福への欲望は際限がない。
コートを嗅ぐだけが、いつの間にか着てしまい、最終的に布団に潜り込んで痴態を晒してしまう程になった。
確かに幾度と無く絶頂を迎えられたが、それでもなおシルヴィは満足しきれていないのだ。
下腹部の奥底の切なさが、とれない。

「きっと、そうすれば――」

過去の記憶も、今度こそ振り切れるかもしれない。
今度は匂いだけではなく、主人の肉体でもってこの身体を包み込んで欲しい。
そして、塗りつぶして欲しい。

「でもこんな私なんかじゃ、マスターは……」

生まれでた欲望は口にすることない。

「うん、今はまだ……この匂いに抱かれているだけで幸せ……」

再び枕を抱き直し、シルヴィは主人のベッドへ倒れ込んだ。
瞳を閉じ、束の間の幸せを噛み締めながら、ゆっくりと微睡んでいくのであった。









急用で出かけていた主人が戻ってきたのは、そのすぐ後のことらしい。

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