「あ、アイビスさん。お疲れ様っス!」
「アラド。お疲れ様」
普段の日課になっている鬼教官直々の厳しい訓練に耐え、
ようやく休憩所に駆け込めたアラドは、其処で良く知る先客を認めると挨拶をした。
アイビス・ダグラス。シミュレーター上で散々にしごかれるアラドの近くで、新たなハイ・マニューバーをモノにするべく、一人特訓に明け暮れていた女性。
現場でも、アラドは偶然、アイビスは甲高い悲鳴を聞いて、お互いの存在に気付いてはいた。
しかしその間、落ち着いて話をする機会は無く、ここでようやく言葉を交わせた訳である。
「今日も賑やかだったね。叫んでいない時間の方が短かったんじゃないかい?」
「叫びたくもなりますって。
 行って早々、『今日から俺に勝った回数だけ、お前は飯を頼んでも良しとする!』
 なんてノルマ掲げてくるもんだから……はぁ」
「相手がアラドならではの脅しだね。
 だけど叫んだからって、相手がカイ少佐だったら怯まないだろう?」
「あれは……自分への気合入れみたいなもんかなぁ」
「へぇ。それで、効果は出たの?」
「……トホホ」
がくりと項垂れるアラドに、アイビスは含み笑いを漏らす。
何となく放って置けない少年。それがアイビスから見たアラド・バランガの印象だった。
どんな時でも喜怒哀楽の感情を包み隠さず表現し、思春期の子供が見せる、根拠の無い強がりが欠片も見当たらない、頭に馬鹿を付けてもいいほどの素直さを持ったお調子者。
彼女にとって大切な仲間である、イルイという名の少女が気を許す友人の一人。
少なくとも悪い感情を懐く理由は無い。
事実、アイビスはアラドに対してある種の親近感を覚えていた。
今でこそ星の海を駆ける船のキャプテンとして、溢れる才覚を揮えてはいるものの、かつては落ちこぼれとして、長らく苦渋を舐めた記憶のある彼女は、中々に大成しないアラドが、どうしても他人だと思えないのだ。
「……それじゃあさ、アラド、今ってお腹空いてたりする?」
「え、そりゃぁもう言わずもがな…………も、もしかして何か戴けたりとか……!?」
「察しが良いね。とは言っても、満足するには全然足りないと思うけど」
「構わない! 全っ然構わないっス!
 良かった〜、このまま何も食えなかったら、おれきっと空腹で死んでたよぉ……」
目に涙を溜めるアラドを見て、大袈裟だなぁと思いながらも悪い気はしなかった。
恐らく自分は、彼に頼られている。
キャプテンの立場からではなく、一人の人間として。
今回こそ食べ物で釣る形になってしまったが、アラドがアイビスと接する際に窺わせているものは、イルイがアイビスに向けるものと同じ類の、嘘も偽りも無い純粋な信頼である。
ここまで来て裏切る訳にはいくまい。アイビスはにこりと笑って少年の期待に応える。
「なら、あたしの部屋に来る? 招待するよ、アラド」
「行く行く、行きます! 這ってでも滑ってでもお邪魔させて貰います!」
目を輝かせて即答したアラドに、彼女はもう一度小さな笑い声を上げた。
「でね、その猫、イルイの頬っぺたに付いたチョコレートをしつこく狙っててさ。
 だけどイルイちっとも気付かなくて、それで部屋を飛び出して行っちゃったんだよ」
「それがこの間の騒ぎに繋がると。
 まぁ何度も顔に飛び掛ってこられたら怖くもなるか……あ、カステラもう一切れ貰います」
「あたしもいい加減助けてあげたかったんだけど、面白がったツグミに止められちゃっててさ」
「んぐんぐっ……イルイも結局最後は仲良くなってたっスからね。
 案外ツグミさんもそうなる事が分かってやってたとか」
「どうだか。ツグミ、時々意味も無く人をからかって遊ぶからね。
 あたしも何度やられた事か……もう数えるのも面倒臭いよ、全く」
乱雑に食べ物が置かれた丈の低いテーブルを挟み、二人は座布団の上でもう長い間歓談に華を咲かせていた。
挙げられる話題はイルイに関する事柄が大半を占めているものの、全く飽きる様子も無く、お互いの話題を出し合っては、部屋に談笑を響かせる。
「ああ、確かにそんな光景を最近見た覚えがあるような……四日前の格納庫で」
「うっ……あ、あれは、テスラ・ドライブの調子が悪かったから、それについて質問したら、ツグミの奴大真面目な顔で、『しらなかったの? これは定期的に砂糖を与えないと駄目になるの!』なんて云うんだよ」
「スレイさんの怒声が凄かったなぁ。一瞬少佐かと思って逃げる準備しましたから」
「『そんな戯言を本気にするな! お前じゃあるまいし!』……だっけ? ……あはは、情けない所見られちゃったな……」
過去に比べれば成長の目覚ましいアイビスだが、現在もこうやって時折ポカをやらかしてしまう事があった。
それはそう珍しい事でもなかったのだが、アラドからその指摘を受けた時、アイビスは今まで感じた事のない類の羞恥を覚えた。
何故だろう……? 自分が未だに至らないのは十分自覚しているのに……。
気不味さを感じて視線を逸らしたアイビスに、アラドは突然身を乗り出して訴えた。
「駄目っス」
「……え?」
先程までの朗らかな空気を一変させた真剣な瞳に、不意討ちもあってかアイビスは思わず圧倒されてしまう。
「アイビスさんが『情けない』なんて言ったら駄目っス」
「ど、どうして?」
「…………そんな事言われたら、おれの立つ瀬が無くなっちまいます……」
がくりと頭を落とす。またもや雰囲気が変わり、アラドの乾いた笑い声が鳴る。
「アイビスさんはチームTDのキャプテンを立派に務めているじゃないっスか。なのにそれ位の失敗で申し訳無さそうにされたら、おれは一体どんな顔してここに居れば良いのやら……はぁ〜〜」
両目から涙を垂らしてアメリカンクラッカーのように打ち付け合うアラド。
その原理はさっぱり分からなかったが、アラドが言いたい事は理解できた。
彼はアイビスを尊敬、少なくとも自分より遥かに凄い人間だと認めており、アイビスの自分を貶す行為は、相対的にアラドをそれ以下に貶める行為になっているのだろう。
普段から高得点を目指し、そこそこの点で自分を叱咤しているのがアイビスなら、万年0点を取り続け、アイビスに羨望を懐いているのがアラド……
流石にこの例えは言い過ぎだろうが、仮に二人がそんな立場にいるのなら、成る程、確かに落ち込むのも納得できなくはない。
昔はアイビスも自分とスレイを比べて、己の不出来を嘆く事が何度もあった。
しかし、優秀であった彼女を羨みつつ、憧れていたのもまた事実……
あの自信に満ちた彼女からは到底考えられない『if』だが、もし当時、スレイに『自分は駄目だ』と落ち込まれたら、アイビスも立場が無かっただろう。
……そこまで考えて、アイビスには新たに気になる事が浮上した。
―― ならアラドは、過去にアイビスがスレイに感じた劣等感を、自分に懐いているのだろうか?
……恐らく、否定。
プロジェクトTDという夢の下、極めて近しい位置で競い合っていたあの頃の彼女達の環境と、現在のアラドを取り巻く環境は全く違う。自分以外にも比べるべき対象は幾らでも居るのだ。
わざわざ自分に固執しなくても、アラドの周りには高い壁ばかりが聳え立ち……
少しだけ可哀相になり、自分の前に置かれていたピザをアラドに勧めると、彼は一瞬で平らげた。
(……ならこの子、もしかしてあたしに憧れてたりなんて……するのかな?)
嫌われていないとは思う。アラドのイメージからして、他人への妬みも結び付かない。
それなら……慕われていたりするのだろうか。もしかして、自分が。
「んで、何か様子がおかしいと思ったら、ゼオラの奴も少佐の計画に一枚噛んでやがってて。もうおれの周りは敵ばかり…………アイビスさん、どうしました?」
「な、何でもないよ。うん、大変だったね」
「分かってくれるんスか!? みんな向こうの味方するもんだから寂しかったんスよ! アイビスさん、やっぱりイイ人だよなぁ。前もおれに発破掛けてくれた事あったし」
「発破?」
「ほら、根拠の無い自信が何とかかんとかって。あ、別に覚えてなくてもいいっスよ。
 でも、あの時は正直おれも落ち込んでたんで……すげぇ励みになりました」
(……そういえば)
いつだったか、らしくなく暗いアラドを見かねて、そんな言葉を掛けた記憶がある。
それを感謝するアラド……これはいよいよ、本気で慕ってくれているのかもしれない。
仮定の域を出なかった想像が、少しずつ現実味を帯びてきた。
アイビスは先程とは別の恥ずかしさ……むず痒い感覚に、思わず身を捩じらせる。
「……アイビスさん? もしかして身体の具合でも……」
「―― へ? ち、違っ……そうだ! レーツェルさんから貰った飛びっきりのお菓子、折角だから出しちゃおうかな! アラドもまだまだ食べたりないでしょう? あたしも凄く楽しみにしてたやつなんだ」
「マジで!? イヤッホー! アイビスさん太っ腹! ……いけねっ、今のは言葉のアヤっスよ!」
「ふふっ、聞き逃してあげるよ。相手があたしで良かったね」
上手く話をはぐらかす事に成功し、アイビスは冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
生菓子の賞味期限は早い。もともとすぐに食べるつもりだったので、仲間とのコミュニケーションを深める為に使うのも、一石二鳥、良い機会だろう。
他にも、一緒に貰った手作りチョコレートを引っ張り出してテーブルに次々と並べていく……。
「……これは……なんと……」
「分かるかい、この芸術が。
 あたし達に滅ぼされるべく完成した砂上の楼閣、その儚さが。それ故の美が……」
「感無量っス……」
―― お菓子の御殿。一般人なら見ただけで卒倒してしまう程の夥しい量だが、そこは無類の甘味好きであるアイビスと宇宙の胃袋を持つアラド、栄華を誇る王国の完成に、揃ってみっともなく涎を垂らし、眼前の光景に釘付けになる。
「……さてと、鑑賞はこれ位にして手を付けようか。
 遠慮無く食べちゃっていいよ。イルイの分は別に取ってあるから」
「んじゃ早速…………美味ぇ。流石食通、やっぱあの人天才だぜ……。おれが今日飯を食えなくなったのは、きっとこの出会いをする為だったんだ……くぅぅぅっ!」
クスハジュースも美味いと断言するアラドに褒められても食通本人は嬉しくないかもしれないが、彼の喜びように、アイビスは出して良かったと素直に思った。良い笑顔だ、悪くない。
(あたしも食べないと。このままじゃアラドに全部持っていかれちゃう)
その飲食ペースに加速を掛けているアラドに追随して、アイビスもテーブルに手を伸ばす。
まずはケーキ……
ナイフで手頃な大きさに切った物を一口含むと、期待に応えてくれた味にアイビスは震えた。
フォークを口に銜えたまま、味覚の楽園に酔い痴れる……と、アラドと目が合った。
両者、暫しの間無言…………先に口を開いたのは、ケーキを呑み込んだアイビスだった。
「……あたし、変な真似してた?」
「いや、あの…………以前にツグミさんから聞かされた話を思い出して」
「ツグミ? 話って?」
「……アイビスさんは子犬に似ているって……そん時は同意したもんか分からなかったけど、今の顔見たら何か納得できたから……」
(…………―― あ、あいつぅぅぅっ!)
自分の知らない所で、何て流言を流している!
……いや、そう目くじらを立てる事ではないのかもしれないが、とにかくアイビスは、アラドに対して面白そうにある事ない事を吹き込んでいるツグミを想像し、怨んだ。呪った。
仮にも自分を尊敬してくれている稀少な存在に、冗談の延長でイメージを壊されたら堪らない。
しかも子犬、小動物、頼りなさげな例えだ。
もっとマシな動物、ありきたりだが鷹とか鷲とかの類を引用できなかったのか。
(……これは少し立派過ぎる気がしなくもないけど、せめて空を飛んでる奴をさぁ……)
「でも、良かったっス」
「……良かったって、何を? あたしが子犬に似ているの、嬉しかったって事?」
「そうじゃなくて……アイビスさん幸せそうだったんで、俺も釣られそうになって。この御時世、心の底から喜べる機会ってそんなに多くないじゃないっスか。でもアイビスさんの喜びようを見ていたら、こんな世の中でも楽しむ事って大事なんだって、そう思わせてくれる笑顔でした。見ている誰かまで喜ばせられる笑顔って、良いっスよね」
照れ臭そうににへらと笑うアラド。彼の言葉にアイビスは感心を示す。
―― それは、少し前にアラドを見てアイビスが思った事を、そのまま代弁したものだった。
良い笑顔。アイビスはアラドの中にそれを見付けたが、アラドもまた、アイビスの中にそれを発見したのだろう。
お互いの笑顔でお互いが喜び、それが新たな笑顔の動力源になる……
ロマンチックで、理想的だ。だからこそ夢物語に相応しかった幸福の定理。
「……そうだね。あたしも良いと思うよ、うん」
それでも、信じたっていいだろう。愚直なのが、自分達の取り柄なのだから。
アイビスはそう思い切り、食通新作のチョコレートを一つまみした。少しだけ苦かった。
「……で、酔っ払ったアヤさん、『私だってケーキバイキングいきたい!』……とか叫び出しちゃって。そこでスレイがあたしの食生活明かすもんだから、その後ずっと針のムシロよ」
「あー、おれも似たような事が時々ありますよ。『何でそんなに食べて太らないの!』とか怒鳴られたり……ゼオラ、突然ダイエット始める事があって、そういう時は鉢合わせないように、飯の時間を調整したりとか……」
「ふぅん。アラドも苦労してるんだ……食べても太らないって、確かに利点だと思うけど……逆にあたしはゼオラが羨ましいなぁ」
「羨ましい……?」
「……うん。彼女見ているとね……女としての自信失くすよ」
「…………ああ、むn」
「アラド。太っ腹は許したけど、それ以上は止めときな。不用意な発言は寿命を縮めるよ」
「……スミマセン。以後自重します」
「うう……あの年であのスタイルなのがおかしいのよ。あの子に限らなくても、ここって揃いも揃って凄い人達ばかりだし……」
「……ら、ラトに比べたらマシっスよ! 多分!」
「オッケー、挑発と受け取った」
「今の何がいけなかったんスか!?」
「14歳の子供を引き合いに出すな! ……今のは傷ついた。そっちに悪気がなくても」
「おれだって15っスよ。1歳しか違わないのに……」
「あたしと比べたらもっと差があるでしょ。それで勝ったって虚し過ぎるよ」
「まぁアイビスさんから見たら、おれ達なんてガキ同然なんでしょうけど……もぐっ」
「…………」
ガキか―― アイビスはアラドをじっと見つめる。
……身長は160を超えているだろうが、170には至らないと思う。
丁度その中間辺りではないだろうか。
決して高くはない。しかし、初対面の人間が子供と一蹴する程小さくもない。
でも……子供。アラドの言う通り、アイビス本人は恐らくそう思っていた。
理由は、やはり性格か。
赤の他人ならいざ知らず、付き合っていくとなると、外見よりもずっと重要視されるもの。
アラドは、正直者で、明け透けで、汚れていない、欺瞞を覚えていない。
アイビスは彼の過去を、強化人間候補生のPTパイロット育成機関出身、程度しか把握していない。
しかしその機関がどういう所だったのかは、以前の戦争を通して十分に推測できた。
プロジェクトTDとは全く違い、狡猾な研究者達の策謀が渦巻く腐った世界だったのだろう。
だが、其処からの出身者であるアラド、ゼオラ、ラトゥーニは、悪意に染まっていなかった。
他のメンバーは分からないが、アラドは……持ち前の鈍感さが功を奏したのかもしれない。
とにかく、目の前に居る彼は、良い意味で子供に思えるのだ。アイビスにとっては。
「……童顔なのも無視できないかもね」
「う゛にゃっ!?」
テーブルから身を乗り出し、両手を伸ばしてアラドの頬を摘んだ。
「うわ、柔らかいなぁ……ぷにぷにして赤ちゃんみたい」
両側に引っ張ってみると、餅のように何処までも伸びる。
子供染みた遊戯だが、中々面白い。調子に乗って上下にも力任せに引っ張り始めた。
これにはアラドも堪りかねたのか、身動ぎして抵抗を行なう。
「ア゛、ア゛イビズざん、やめでぐだざい……!」
「あははっ! こら、動くなっ―― て」
―― テーブルも、高さこそ無いがそれなりに広い物だった。
元々無理な体勢だったのだろう。
アラドが動かない事を前提に支えられていた身体は、それを覆された瞬間に崩れた。
アイビスの足が床から浮き、身体がテーブルに落下する。
その下には、お菓子の受け皿、ケーキ用の刃物、多種多様な突起物が――
「だぁぁっ!!」
「!?」
アラドに腕を掴まれて、アイビスは下ではなく横に引かれる。
彼女が飛ぶような姿勢になるのと同時に、アラドは目の前のテーブルを思いっきり睨み付けた。
アイビスを自分の方に引いた事で、逆にアラドの身体には前に動く力が働く。
彼はそれを無意識の内に利用して、片足を支点に力一杯テーブルを蹴った。
テーブルは一度水切りの石のように飛び、その足の一本が地面に付いた瞬間ひっくり返る。
それから間を置かずにアラドは支点にしていた片足も蹴り、テーブルに付いて行かずその場に残ったお菓子や凶器の数々を自身の身体で蹴散らすと、そのままアイビスの下に潜り込んで彼女を受け止めた。僅か数瞬の内に。
「ぐっ…………ふぅ」
その場で息を吐くアラド。対してアイビスはすぐに状況が呑み込めず、暫くの間呆けていた。
「すみません。折角のデザート滅茶苦茶にしちまって……大丈夫っスか?」
「……あ、うん……」
「ならすぐに片付けましょう。割れた物とか散らばってるし、危ないだろうから」
……アラドの声が遠い。酷く遠くて、まるで雑音のように聞き取れなかった。
肉体強化のみに特化して調整された強化人間。まさかここまで人間離れした動きが可能だとは。
『あたしの方こそごめん』……そう謝らなければいけないのに、彼女は言葉が出てこない。
理性が働けば働くほどに、今のアラドの対応がとんでもないものだったと分かり、混乱する。
「……えっと……動けませんか? やっぱり何処か打ってたとか」
……堅い。柔らかな頬とは全く違い、全身で感じるアラドの身体は堅かった。
筋肉だ。どちらかといえば細身の彼は、鍛えられて引き締まった鉄によってできている。
その胸元に触れている手のひらに気付き、優しく撫でるように、指先で感触を確かめた。
「ぁ……あ、アイビスさん……!?」
―― 胸が鳴った。薄く漏れたアラドの小さな悲鳴に、アイビスの心臓が躍動した。
そこから全身に熱い血が注ぎ込まれて、一瞬だけ視界がフェードアウトする。
アルコールにでもやられてしまったように、正常な状況判断ができなくなる。
異常だった。身体中異常に冒されて、異常な欲求が込み上げてくる。
さわさわと、アラドの身体から手を離さずに、右腕を彼の背中に回した。
そこで指を折り鉤爪状にして、爪先を服の上から皮膚に突き刺す。
……何をしているのかと、自分に問い掛けた。黙っていろと、自分は言った。
「ッ……ど、どうしたんスか? 一体何が……」
続けてもう片方の手を、腰の辺りから服の中へと器用に躍らせた。
侵入したそれから直に伝わるアラドの熱……初めて触れる『男』に、アイビスは高揚する。
そのまま裾を捲し上げて、アラドの上半身を露出させると、彼女の顔は妖艶に歪んだ。
対して服を剥がされたアラドは、彼女の笑みを見て得体の知れない恐怖に襲われる。
まるで、丸裸の状態で獣の前に放り出された、頼る物の無い心細い感覚。
彼にようやく焦りが生まれるが、アイビスはその様を楽しんでいるかのように笑みを強くする。
『抵抗してくれた方が面白い』 彼女の瞳がそう語ったような気がした。
「……ぅん」
「い……!」
アラドの胸に口付けて、左手を彼の至る所に伸ばし、撫でて、嬲る。
全く拙い動きだったが、故に力加減の効いていないそれに、アラドは酷く怯える。
そして……気が逸れた所を見計らって、歯を突き立てた。血が出るほどに強く。
「あ゛ッ……!?」
アイビスはそれを、舐めた。綺麗に舐め取って、吸った。赤ん坊のように吸った。
猟奇的とも取れる彼女の行動に、アラドの心の均衡が危うくなる。
少し前まであれ程親しく話をしていた彼女が、今では一匹の飢えた獣。
自分が何かしてしまったのだろうか。彼女を狂わせる何かをしてしまったのだろうか。
……いや、そんな事よりも、今はアイビスを止めなくてはならない。
単純な力勝負なら負けはしないだろうと、アラドは彼女の肩を掴んで力を込める――
と、再び噛み付かれた。胸だけではなく、背中の指にも。
決して離れないという意思表示であるかの如く。
それに怯んだアラド……その隙を突いて、柔らかな左手が彼の腹を滑る。
その先には、腰。指をズボンの間に潜り込ませる。途端、アラドの身体が跳ねた。
下腹部を這う異物に反応したのだろう……アイビスはごくりと生唾を飲んだ。
「ぅぁ、あ、アイビス、さん……くそっ、どうしたってんだ……っ!」
ああ、五月蝿い……急かすな……蕩けた頭でそんな事を思う。
今の彼女には、制止を促すアラドの声も耳障りな騒音でしかなかった。
その口は女のように嬌声だけを上げていればいいのに……仕方ない、止めてやる。
―― この時、極度に高揚したアイビスは、一種のトランス状態にあった。
全能感。自分は何でもできる。何でも思いつく。何でも思い通り。
頭は冴え渡り、良いアイディアが湯水のように沸き上がってくる。
その全てに間違いなど無い。何もかも上手くいく……そう錯覚していたのだ。
アイビスは身体を擦り付けつつアラドの身体を這い登る。
そしてお互いの顔を突き合わせると、静かに笑って、その口をゆっくりと寄せた。
「……は……」
アラドの血によって紅色に染まった唇。それが迫り来る光景に、アラドは……
「……止めろ……これ以上は駄目だ、姉さんっっ!!」
形振り構わない叫び声を至近距離で受けて、アイビスはようやく我を取り戻した。
「…………あ」
行為を止めたアイビスは、砂が水を飲み込むような早さで、自分の行いを振り返った。
途端に生まれ出ずる激しい後悔に、先程までとは違った意味で我を見失いそうになる。
欲望ではなく衝撃に揺さ振られて、彼女の思考は崩壊寸前まで追い詰められた。
……どうしてこんな事を……。
分からなかった。今の彼女では何も分かりそうに無かった。
しかし、何も分からなくても、目の前には現実がある。
自分の暴走した結果が、凶暴な獣の爪痕が、それを揮った記憶が、恐慌の淵に彼女を追い遣る。
「あた……あた……し……!」
―― あたしは、アラドを守るべき立場だったのに。
年上として、似たような境遇に身を置いた者として、頼られる者として、強くなければいけなかったのに。
……傷付けた。取り返しのつかない位に傷付けてしまった。
アラドを傷付けた。無邪気に信じてくれた相手を、自分は最悪な方法で傷付けた。
こうやって……イルイも……イルイさえも、同じように傷付けるのか?
いつかイルイも、今のアラドのように、訳の分からない衝動で傷付けるのか?
大切な存在に寄せられた大事な信頼を裏切って、愉悦しながら傷付けてしまうのか?
たった一時の感情で……自分はこんなに……こんなにどうしようもなく、弱かったのか……!
「っ!」
―― アラドと目が合った。
押し寄せる後悔と羞恥と恐怖に、アイビスは自分の顔を両手で覆う。
見ないで……。
彼女は逃げたかった。アラドの瞳から、汚い自分を隠したかった。
居た堪れなさの余り、勝手に指に力が入り、自分の頬に突き刺さる。
……その痛みが、心地良かった。
贖罪には全く足りない、しかし罰を受けているという錯覚に、アイビスの心は逃げ場の無い重責から僅かなりとも解放されたようで、気持ち良かった。
……それが良い方向に働いたのか、彼女の中でほんの僅かに余裕が生まれる。
少なくとも―― アラドの異常に、気付く程度には。
「さん…………姉、さん?」
(……?)
「……姉さん、姉さん、姉さ―― ああああああ!?」
アラドはアイビスを見つめたまま、ゆっくりと混乱して……遂には悲鳴を上げた。
そして、まるで怖いものから逃げ出すようにアイビスの下を潜り抜ける。
そのまま形振り構わない体で床を這い、ソファーに行く手を遮られると、アイビスの方に振り向いて、恐怖に震えた。理性を失った瞳で彼女を睨んでいた。
「アラド……」
……これが過ちの結果なのだろうかと、アイビスの胸に痛みが襲い掛かる。
彼女は知らない。自分の『女』さえ知らない彼女に、他人の『男』など分かる筈が無い。
だから、先程の行為がどんな意味を持っていたのか、どんな結末を導くものだったのか、それさえも理解の埒外だった。そうして、今のアラドが当たり前の反応なのだと思った。
百聞は一見に如かず。男はこうなるのだ。男であってもこうなるのだ。
自分の暴走に改めて後悔を覚える……しかし、次の瞬間アラドが呟いた言葉は、
「……ごめんなさい」
「え……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、おれは、おれ、こんな筈じゃぁ……!」
アイビスは分からなかった。何故アラドは謝っているのだろうか。
悪かったのは自分だ。
今まで起きた惨事を第三者が見ていれば、誰であってもそう断定するだろう。
なのに、アラドは謝っていた。必死になって、彼女に許しを乞っていた。
……彼が悪い? もしかして自分は悪くない? 何を馬鹿なとアイビスは頭を振る。
冷静になったのではなく、彼女の中の優先順位が切り替わった。
今は混乱している場合ではない。アラドを落ち着けなくては。彼は何も悪くないのだから。
それも自分の贖罪の一つだ。そう思い恐慌状態のアラドに近寄ると、しゃにむに振り回される腕をものともせず、彼の両肩を押さえてアラドと顔を合せた。
その際にあの力で強打された肩口が耐え難い痛みを訴えたが、無視して彼に言葉を放つ。
「アラド、落ち着いて、アラド!」
「姉さん! 許してくれ、止めてくれ、ごめんなさい、姉さん!」
(……姉さん……!?)
姉さん。アイビスの暴走を止めた際に使われた、アラドの彼女への呼び名。
しかしよく考えてみれば、彼女達の関係で『姉さん』の呼称は不自然だ。
アイビスは思い至る。
もしかしたらアラドは、自分を別の誰かと混同しているのかもしれないと。
そしてそれこそが、彼の混乱の原因になっているのではないか。
つまり、それを元通りに正せば、彼を止められるかもしれない……と。
「姉さんじゃない! あたしだよ、アイビスだよ……アラド、しっかりして!」
一字一句、腹の底から搾り出すように、強く大きくアラドに言い聞かせる。
「駄目だ、近寄ったら駄目―― うわあああっっ!!」
だが、アイビスに誰を重ねているのか、アラドの様子はより一層悪化し、遂には力の加減もせずにアイビスを突き飛ばした。
喉から『あ』と空気が漏れる音を出して、細い身体が菓子に塗れた床を滑る。
そうして静寂が訪れた。アラドは荒い息をゆっくりと落ち着かせて……その惨状を見る。
ひっくり返ったテーブル。滅茶苦茶にばら撒かれた菓子類、食器。
その中で倒れたまま低い声で呻くアイビス。
アラドは自分の手の平を見て、それが誰を突き飛ばしたのか……ようやく理解した。
「アイビスさん……アイビスさん!? しっかりしてくれ、アイビスさん!」
急いで駆け寄り抱き起こす。苦しそうに呻きつつも、アイビスはアラドを見つめ返した。
「……げほっ! けほっ……良かった。元に戻ってくれて……」
「すみません! 何処か痛む所はありますか? 頭の後ろを打ったとか……」
「大丈夫……背中がぶつかって、少しの間息ができなくなってただけだから」
意識をはっきりとさせたアイビスは、思いの他自分が軽傷で済んだ事に気付く。
運良く食器が無い所にぶつかり、食べ物がクッションになったのだろう。
自分の後頭部に手をやると、髪に潰れた苺がくっ付いていた。全く、本当に運が良い。
「……ごめん、アラド。許して貰えないかもしれないけど、あたし、酷い事しちゃった」
「何言ってるんスか。おれの方こそ……おれの方こそ……くそっ! 本当に何やってるんだおれは! おれって奴は……姉さんの時だって……」
「……アラド、姉さんって……」
「!」
「あ、ううん、無理させてまで聞く気はないよ。
 だけど、さっきからずっとあたしの事そう呼んでたから、気になってつい……」
『姉さん』……アラドの混乱と前後して出てきたキーワード。
マイペースを地で行くこの男があれ程取り乱したのだ。アイビスでなくても気にはなる。
アラドは暫く沈黙し……意を決してアイビスを見る。
顔が近かった所為もあってか、その迫力に圧されて思わず息を呑んでしまった。
「……こんな目に遭わされたんだし、アイビスさんには聞く権利って奴がありますね」
「アラド。だから無理して話さなくても」
「いえ。おれも聞いて欲しいっス。やっと思い出せた事なんです。
 多分……多分今を逃したら、きっと誰にも明かせない……。
 ただの不幸自慢だけど、おれ、アイビスさんに聞いて欲しい……聞いてくれますか?」
「不幸自慢って……元々あたしから聞いた事だし」
アイビスの返答にアラドは安堵し、薄く笑った。
自嘲するようなアラドらしくない笑顔に、アイビスは言い得ぬ苦痛を覚えるが、何の言葉も返せなかった。
「姉さんってのは、オウカ姉さんの事で……アイビスさんも知ってますよね?」
「うん、覚えてるよ。昔アラド達の親代わりをやってくれてた人でしょう?」
「おれ、その人と……さっきみたいな事を、させられた事があるんス」
「さっきみたいなって……う、ううん、そうじゃなくて……『させられた』?」
「頭のイカれたババアの、研究なんて嘯いたお遊びで」
苦虫を噛み潰したような顔で、アラドは怒り、それ以上に悔しそうに告げた。
アイビスは、未だに自分がアラドの腕に支えられている事に気付いて、自ら身体を起こすと、真正面から見る。後悔の塊になった小さな少年を。
「ある日目が覚めたら、おれはベッドに磔になってて、その上に姉さんが座ってて。
 お互いに変な薬を何本も打たれてたっぽくて、力も入らないし気持ち悪いし、ホントに何が起きてんのか分からなかった。
 そしたら姉さん、引き攣った笑い顔して、おれの服を破き始めたんスよ。
 別の人みたいだった。あの時の姉さんは、おれの知ってる姉さんじゃなかった。
 でも、やっぱり姉さんだったんスよ……だけどおれ、大切な姉さんを……!」
そこまで言って、床に拳を叩きつけた。
遠慮が感じられなかった。もしかしたら骨が折れてるかもしれない、そう思わせる一撃だった。
「笑えますよ。おれが精通したの、その前の日の夢の中っスよ? プライバシーも何もあったもんじゃなかった。は、はは、本当に最悪だった。姉さんはアギラに脅されていたんだ。
 あの野郎、『従順なラトの方がやり易いか』なんて……くそォっ! 人間だったのかよあれでも! ふざけんな、おれは認めねぇ!」
「アラド……」
「あんな奴、あんな奴、あんな奴…………なのに、おれも屈した。屈しちまった。こっちもゼオラを引き合いに出されました。『姉さんよりもゼオラの方が嬉しいか』って。
 おれも負けじと最悪でした。不安定なゼオラを傷付けるよりも、姉さんを傷付ける方がまだ……なんて思っちまった。
 あの二人を秤になんて掛けちゃいけなかったのに。同じ家族だったのに。
 ……でも! それでもおれは耐えられる立場だったんだ! どんなに身体が束縛されてても、誘惑されても、耐える事ができる筈だった!
 分かってましたよ。子供を作る方法ぐらい。だから、おれはその一線だけでも、何が何でも耐えるべきだった、姉さんの為に。ラトの為に身を差し出した姉さんの為に、おれは死んでも耐えなくちゃいけなかった!」
アラドは、続けて拳を振り下ろす。何度も何度も振り下ろす。
幾ら強化人間であっても、特殊合金製の床を壊す事はできない。壊れるのは彼の手だ。
勿論アイビスは止めたかった。しかし、これは一種の自傷行為、先程彼女が頬を傷付けて立ち直ったように、彼も心の安定を図って行っているものだ。
止められなかった。彼女が出来るのは、痛ましい彼の独白から逃げずにいる事だけだった。
「ゼオラには言えなかった。ラトになんてもっての外でした。そうしておれは……何時の間にか忘れてた。姉さん達をずっと昔に裏切っていた事、ついさっきまで忘れてたんスよ」
「それは記憶操作でしょう? ゼオラ達が受けていたのと同じ……」
「おれもそうだと思います。でなければあの戦いの間、どの面下げて言えたってのか。
 へらへら笑って、『止めてくれ姉さん!』なんて―― 姉さんに言えてたのか!
 へへ。もしかしたら姉さん、心の底ではおれの事軽蔑しきってたのかもしれないっスね。
 だからあんなに容赦なく撃ってこれたのかも。なら全く身分相応――――」
―― アイビスはその時、初めて殺すつもりで人を殴った。
「……何言ってんの、アラド」
「…………」
「アラド。あんたが最悪だったとしたら、それは今、その口で今の言葉を吐いた瞬間だよ! 耐えられなかったのも、信頼を裏切ったのも、軽蔑されるのも、今この時のあんただよ! アラド・バランガは今、絶対に言っちゃいけない言葉を口にした!」
「……だって、これが間違ってる保証なんて、何処にあるんスか……? おれは憎まれて当然だったんスよ……こんな奴、憎まれて当たり前だったんだ……!」
「ラトゥーニが前に言ってた。オウカ・ナギサは、自分達を守る為に命を散らしたって。自分を、ゼオラを、そしてアラドの名前を呼んで、最後まで守ってくれたんだって。それは嘘? ラトゥーニの嘘なの? 答えろアラド! 嘘だったの!?」
「……!」
「逃げるなアラド! あんたはそんなに弱くない! あたしはアラドじゃない。他人だよ。でも断言する。アラドは世界に絶望するほど弱くない!
 それはあたしがずっと見てきたアラド・バランガから判断する。あんたは確かにパイロットしては弱いかもしれない。でも、その心は誰にも負けてない!
 ずっとゼオラ達を取り戻す為に戦ってたじゃないか。それは嘘じゃないだろ、絶対に」
「…………」
「それでも、もし本当に心が折れたのなら……あたしが殺してやる。アラドが負けたその迷いを、弱さを。そして生まれ変わらせてやる。
 あたしが立ち直れたように。フィリオが言った通り、流星が夜を切り裂いたように。だから、馬鹿なら馬鹿なりの誇りを持て! 考えの無い獣でも誇りは持てる!
 思い出せ、自分の事を……罪悪感でゼオラ達を助けようとしたんじゃない、その絶対に崩れなかった馬鹿げた信頼があったから、ずっと諦めなかったんだろう!?」
そうまで言って……そこまで言って、アイビスは自分に対しての嫌悪感を覚えた。
この状況を生んだ原因……それは自分だ。なのに、何を偉そうに語っているのだろうか?
……加熱した心が一気に冷える。それでも、アイビスはアラドから目を逸らせない。
届け。罪人の言葉でも、この気持ちに偽りは無い。そう信じ、願い、彼女はアラドを見る。
流星はとっくに地に堕ちてしまったが、目の前の小鳥には翼がある。
小さな、しかし誇り高い獣の翼がアイビスには見える……
アラドはまだ駄目じゃない。贖罪から彼を救おうとしている自分とは違うのだから。
「お願いアラド……自分の弱さに直面した時、逃げ出したくなる気持ちは分かる。辛い過去に苛まれて、何もかも否定したくなる……昔のあたしもそうだった。
 でも、あたしにとってのフィリオがそうだったように、アラドを想って死んでいった人まで否定しないで。
 疑いたくなるけど。こんな自分が他人に信頼される訳がないって疑いたくなるけど。傷付けた事がそんなに苦しいほど大切な姉さんとの思い出まで……嘘にしないでよ……」
でないと、自分まで辛くなる……
ああ、慰める立場なのに、感化されてしまってどうする。
そう自覚しているのに、アイビスは悲しみを抑え切れない。
それはアラドに対してかつての自分を投影している所為なのか、それとも別の要因があるのか…………ただ、何にしても、自分はもう……

そこまで思って、アイビスは頭を真っ白にさせた。
目の前の男が、黙って彼女の言葉を聞いていた男が、音も無く涙を流している光景に。
「あ、アラド……?」
「…………オウカ姉さん」
「アラド……」
「おれ……何にもできなかった。姉さんが辛かったのを分かっていたのに、傷付ける事しかできなかった。薬の所為で声を荒げて乱れて……それでも、姉さんが泣いてた事に気付いていたのに……!」
思い出すのが苦しいのか、眉を寄せて歯を食い縛って瞳を閉じて俯いて、その反動で目頭と目尻に溜まっていた水の粒が空に舞い、幾つかを浴びたアイビスは、彼の悲しみの熱さを知る。
「ごめんなさい……言い訳してごめんなさい。アギラばあさんなんて関係ない。おれが、守れなくて、ごめんなさい……」
懺悔するアラドは、アイビスが抱く彼のイメージとは懸け離れていて、傷んだ果実のように、何処から触れればいいのか分からない。
どうすれば傷口を触らずに済むのか、これ以上傷付けずに済むのか、全く分からない。
「……アラド。あたしは、姉さんじゃないよ」
「…………すみません」
―― 終始悩み抜いた末、彼女は自分のしたいと思う事をしてみようと思った。
経験の足りない自分では繊細な扱いなどできない。なら、せめて真正面から受け止めてみたい。
心のままに、虚勢も無く、正面からこの少年の相手をしてあげたい。
……そうしてアイビスは、アラドの肩に手を置くと、彼の涙を拭うのではなく、舐めた。
未だほろほろと零れ落ちる感情の結晶を、ぺろりと、優しく舌に乗せて飲み込んだ。
しょっぱい。散々甘い物を含んだ味覚には一際鮮烈な味、だけど、味わってみたかった刺激だった……彼の悲しみの一部でも、共有できる気がして。
「泣くな、アラド」
「アイビスさん……」
「『らしくないぞ』なんて言わない……今は、本当に辛いんだろうから。
 でもアラド……あたしは、何時もの顔の方が好きだよ。何も考えず馬鹿みたいに笑って、怒られて、困って、泣いて、時々真剣になる、アラドはそんな奴でいて欲しい……だからお願い。そんなあたしの為に、笑って。
 一人じゃ押し潰されそうでも、自分が嫌になっても、目の前のあたしの為に。アラド・バランガの笑顔が好きなアイビス・ダグラスの為に、過去と戦って、勝ってよ」
真正面からアラドを射抜いて、アイビスは思いの丈をぶつけた。
アラドは……表情を崩す。涙は止まらず、変な所に皺を寄せて、口元を引き攣らせる。
歪なものに変貌したそれを、それでもアイビスは分かっていた。
これが彼の強さ。彼女の願いを聞いた、アラドの精一杯の笑顔なのだと。
「……アラド、ありがとう」
「へ、へへ…………?」
そんなアラドの顔に、不思議なものを見付けたような驚きが示される。
しかし彼の視界に映るのはアイビスの顔だけで……そこで本人も気付いた。
「え……あ、あれ……?」
―― 自分の頬を、熱いものが伝っている。
手でこすり見てみれば、そこにあるのは透明な雫……涙だった。
「ご、ごめん、おかしいな……あれ、どうしたんだろう……?」
アラドに泣き止めと言った手前、ここで貰い泣きをしていては格好がつかない。
そう思うのに……止まらない。
指で塞き止めようにも、僅かな筈の流水は静まらず、指の隙間から小川のように零れ落ちる。
どうしよう。自分はおかしくなってしまったのだろうか。
混乱するアイビス……その両手を掴み、顔から降ろすもう二本の両手。
「……駄目だよね。あたし……」
申し訳の無さに口を突いて出た言葉に、アラドはゆっくりと首を振る。
そして彼もまた……舐めた。アイビスの頬を、流れる涙を舐め取った。
「……しょっぱいっスね。こりゃ一気飲みはできねぇや」
困った風に笑う。おかしそうにアイビスに笑い掛けて、再び彼女の頬に口を寄せる。
その仕草に、感触に、アイビスの胸が鳴る。痛く感じる程の鼓動を始める。
……踏み込もうとしている。
自分達は今、踏み込んではいけない領域に踏み込もうとしている。
胸の痛みに苛まれながら、アイビスは苦悩する。
駄目だ、ここで踏み止まらなくてはならないのに。
これ以上、自分は何もしてはいけないのに……そうしなければ、引き返せなくなるのに。
だが……止めようとする理性は、頬を舐めるものの感触によって徐々に崩れ、瓦解した。
身体の芯が温度を上げて、全身が暖かくなる。
先程の暴走の時とはまた違う、静かに燃える何かに煽られて、アイビスは決断する。
(ゼオラ…………ごめん)
自分の頬を舐めるアラド、その頬を、アイビスも再び舌で触れた。
「……っ」
二度目だが慣れないのか、アラドのくすぐったそうな反応に、アイビスは胸の鼓動を募らせる。
柔らかかった。アラドの頬は柔らかくて、安物のお菓子よりも美味しそうだった。
実際に感じる味覚は違うのに、その弾力は酷く魅力的で、蠱惑的にアイビスを誘う。
お互いを舐めて、舐めて、舐め続けて……いつしか二人の目が合った。
熱に浮かされて昂った二人は、示し合わせていたかのようにお互いを見つめる。
二人は相手の吐息を感じる。バニラエッセンスの甘い匂い。
そしてそれ以外の、今までこれ程強く感じた事の無い異性の匂いに、頭の中がくらくらと回る。
それに促されるように、どちらからとも無く唇が触れた。
アイビスの五感がその感触に集中する。それは、彼女にとって初めてのキスだった。
もっと近付きたい……。アイビスはアラドの方に身体を寄せる。
その時、床を突こうとした手の平がケーキの残骸を押し潰した。
べったりとくっ付いたそれに、彼女はキスをしたまま、ある事を閃く。
その思い付きのままに、腕をアラドの背中に回し、首の後ろに手の平を宛がう。
「? アイビスさ―― んむ……ぅ……」
おかしな感触に疑問を持ったアラドが、一旦口を離して問い掛けようとするが、アイビスはもう片方の手でアラドの顎を固定すると、もう一度口を付けて黙らせる。
手の平を首伝いに前まで擦り付けていく。
付ける物が無くなれば、もう一度ケーキに手を押し当てて、今度はそれをアラドの身体中に塗りたくる。服の中にも手を差し入れて、とにかく色々な箇所に。
(……こんなに一方的じゃあ、さっきと変わらないかな)
自分のやりたいようにやりつつも、アイビスはそんな事を思ったが、腕の動きは休まらない。
まるでデコレーションでもしているような気分だった。
―― アラドを飾る。あたしという料理人が、あたしというお客の為に。
そう思うと、塗り付ける行為にも加速が掛かった。早く完成させてしまいたい……。
……アラドとケーキのコラボレーションが出来上がると同時に、アイビスは口を離す。
目の前の前衛芸術に似た逸品に、アイビスは言い知れぬ達成感を覚えた。
「あの……顔怖いっス……」
「そんな事ないって。あたしはいつもこんな顔だよ」
「目も心なし輝いているような……」
「気の所為だから。それじゃ……頂きます」
「……ぅ」
アラドの首に顔を埋めて、付着した生クリームを舐め取りつつ、服をゆっくりと剥がす。
これがアイビスの考えた、これから始まる事への準備だった。
ひたすら夢にひた走り、こんな行為とは全く無縁の生活を送ってきた彼女だ。
どんな言葉で取り繕うとも、どんな勢いに押されたとしても、
我を見失いでもしない限り、初めての経験にアイビス自身の抵抗は必ず存在する。
何をどうすればいいのかという簡単な知識はあっても、いざ実行するとなると話は別だ。
羞恥心や戸惑いによって、行為の最中に醜態を晒してしまうかもしれない。
だから、『男』という未知のものを極力意識しないように、アラドを菓子の一つに見立てた。
これなら無心に菓子を頬張るだけで、前戯という準備が行なえる……そう思った末の現状である。
だからアイビスも、勿論アラドも分かってはいない。
これが一種の『プレイ』に該当する、初心者にはお勧めできない特殊な行為の型になっていると。
「えっと……何かすげぇ変な感じがするような……」
「……ごめん。あたし、こうやれば怖くならずにやれると思うんだ」
「ま、待って下さい! 本気なんですか!? おれ、姉さんの時みたいに傷つけちまうかも……」
「今更本気かどうかって問いは……困るなぁ」
「っ……すみません。折角アイビスさんを止められたってのに、おれが変な事言い出したばっかりに、結局大して変わらない結果になっちまって……」
「謝るな少年。あたしはあたしの責任でこうしているんだから。……でも、こっちも今更だけど、その……」
「……なんすか?」
「……ぜ……」
「ぜ?」
「…………ごめん! 忘れて!」
「え―― どわぁ!?」
言葉に詰まり、無理矢理アラドを押し倒す。
彼の言う通り、結局こうなってしまったのかとアイビスは再び自分を恥じる。
しかし……もう駄目だった。あの時、心の中でゼオラに謝罪した時、自分は罪を認めたのだ。
これからあたしはアラドを奪うと……彼女はそう、ゼオラに宣言してしまったのだ。
だから、今更ゼオラを引き合いに出してアラドから拒絶されてしまったら、彼女の決意は無意味になってしまう。しきりに胸を突く衝動も行き場を失くしてしまう。
「続きをしよう……大丈夫、アラドはもう何も気にしなくていいから……」
「なら最後に一つ、おれの方から言っておきたい事があるんですけど……いいっスか」
そんなアイビスの心を見透かしたかのように絶妙なタイミングで、アラドはそう言った。
今度は言葉だけでなく、息まで詰まる。
悪い予想が先行する……不安に駆られた彼女の手が、アラドの服をぎゅっと掴むが……
「アイビスさんにとって、プロジェクトTDって何ですか?」
「…………ど、どういう事……?」
「あ、別に答えなくてもいいっス。だけど、多分それが答えになってると思って」
「答え……?」
「おれにとってのゼオラが、どんな存在なのかって答えに」
「…………」
「あいつは、おれがここまでやって来れた希望みたいなもんです。あいつとの約束がなかったら、おれはここにいなかった。きっと途中でくたばってました。一番大切な奴っスよ。アイビスさんの夢と同じように、他の何にも変えられない……」
「……相手は女の子だよ」
「女ですね、無駄に胸もでかいし……いててて! 抓らないで! ……女です。女ですけど……おれは何よりもあいつに幸せになって欲しい。
 絶対にです。何が何でも……例え世界が滅んでも……それがおれ以外の誰かと結ばれる事でも、幸せになるんなら、おれは喜んで送り出します。
 おれに誰かを守る力をくれたあいつが幸せなら、おれがどうなっていたとしても、その辺でくたばっていても、満足できると思います。
 ……これって異性として意識してるって言えるのかな。正直な所自分でも分かってないかも」
「……思ってたよりも悪い奴だね、アラド」
「はい、おれは悪い奴だから、見限るんなら今の内っスよ」
「見限らなかったら、アラドは良いの?」
「……このままじゃおれ、きっと誰も愛せないと思うから。だから……おれも欲しい。姉さんとの過去を乗り越えられる経験が欲しい。
 まぁこの件がばれてゼオラに心底嫌われても、全部自業自得ですから納得できます。その後のフォローも期待しません。アイビスさんこそ、相手は素人同然でも構いませんか?」
「……付き合うよ。あたしもこんな事がなければ、機会は永遠に無かった気がするしね」
……アラドの身体中の生クリームを食べながら、アイビスは一つ分かった事がある。
自分はどうも、舐めるという行為が好きなようだった。
これでは本当に犬だ……しかし、小さな舌を這わせる度にふつふつと湧き上がる興奮、好きなものを舐める―― その魅力には逆らえない。
恥ずかしいと思いながらもアイビスはアラドを丹念に舐め続けて、遂に上半身を露わにさせた。
良い体格をしているが、それ以上に目に付くのが、数えるのも辛い無数の傷痕。
これが肉体強化の代償……その深さは恐らく一生消えないのだろう。
何よりもアラドが、その事を全く気にしていないのが哀しかった。
今この時、もしスクールの強化プランを考えた人間が目の前に現れたら、自分でもどうするか分からない……それぐらいに痛々しい姿だった。
「……んっ……」
そんな静かに滾っていた怒りが、彼女の敏感な所を撫でる舌の感触で霧散する。
アイビスのデコレーション作戦を知ったアラドは、彼女にも同じような真似をした。
現在、二人は舐め合う範囲を頬から全身に広げ、じゃれ合う動物の子供のように絡まっていた。
その最中に二人の位置は何度も変化し、上も下も無く、ただ相手の全身に口付ける事だけを考えて、お互いの舌を這わせ続ける……。
「―― はぅ……んんっ!」
胸が外気に晒されて、すぐさまアラドの責めが始まる。
それはやはり舌を這わせるだけの稚拙な運動だったが、元が敏感なのかアイビスの反応は強く、無意識に背を仰け反らせて逃れようとしている。
当然そんな事で逃れられる訳は無く、アラドは執拗に食い下がり、彼女の胸を攻撃し続けた。
「……ぅ……うんっ……っ……ご、ごめんね……」
ぽつりと呟かれた言葉に、アラドは意味が分からず首を傾げる。
「突然謝られても……あ、アイビスさんが震えるの、可愛いですよ?」
「馬鹿……違うよ。あたしの……胸……」
そこで口篭る。流石に幾度かネタに挙がっていた為、今度はアラドも察する。
「ガキのおれが言うのもなんですけど、女性の魅力ってこれが全てじゃないと思うっス」
「でも無関係でもないでしょう……あたし、明らかに劣ってるし」
(アイビスさん、そんなにコンプレックスなのか……くそっ。おれもおれだ、ゼオラと同じ感覚で胸のネタを使うんじゃなかった……)
アイビスが誰と比べて『劣っている』と言っているのかは一目瞭然だ。
胸についてはゼオラもコンプレックスを懐いていたが、アイビスとは悩みの方向性が違う。
アラドは配慮の足りない自分に苛立ちを覚えるが、悲しそうなアイビスを見て考えを改める。
今はそんな事にかまけている場合じゃない。
自分を立ち直らせてくれたように、彼女の力になってあげなくては……
その一心でアラドは言葉を紡ぐ。普段使わない思考回路を叩き起こして、彼の想いを伝えるべく。
「……アイビスさん」
「なに……」
「おれは……これ……その……」
「…………?」
「…………好きです」
しかし使われていなければ駄目になっているのは必然で、結局アラドは有り触れた言葉しか言えなかった。同時に本気で自分に絶望したくなった。
「……す、すみません! でも……嘘じゃないっス」
「……………………」
つまらない台詞だよな。怒ったかな……そんな事を思いながらアイビスを見る。
すると彼女は、アラドの思った以上のスピードでその顔を紅潮させていき……
(ひいぃぃぃ……!)
「―――― も、もういい」
「っ……え? あ? はい?」
「つまんない事気にしてごめん……続き、して」
顔を赤くしたまま背けられて、アラドは訳の分からないまま放置された。
(……ええい、ままよ!)
とにかく今は攻めの一手あるのみ! これで彼女を満足させる!
アラドは自身の知識、経験を総動員させる。
それこそ……無自覚だったが、オウカとの痛ましい過去さえも思い起こして。
「……ひゃ!? あ、アラ―― うぅんっ、ぅ、く……ぅ〜〜っ!?」
先程までの優しく舐める行為から、打って変わっての激しい責めにアイビスは翻弄される。
揉み、口に含み、吸い、一旦離して、標的を変えて、先を軽く指で潰して、焦らしつつ舐める。
同時攻撃、全体を浅く甘噛み、口の中で舌により嬲り、もう片方をマジ揉み……
しかもその何れもが的確に行なわれ、適度な乱雑さをもって休み無く彼女を襲う。
普段の彼からは考えられない上手さ、ビギナーより熟練者へのクラスアップに、この事態を予期していなかったアイビスは、振り回される自分を支えてくれる何かを欲する。
ベッドのシーツはこういう時の為に必要だったのか……!
そんな事を頭の片隅で思いながら、彼女の腕が掴めたものは、アラドしかなかった。
もう何でも良い……。自分の胸に覆い被さる彼の首に両腕を回し、力を込めて抱き締める。
「むぐぁ!? アイビスさん、待った待っ、むがっ―― むぐううう……!」
「んぅ―― アラドぉ、そんな強くっ……! 息が! 息がくすぐったい……ひうう! だ、駄目になっちゃう……ふわぁ!」
ばしばし床を叩いてギブアップを示すアラド。
しかしアイビスは彼のタップに気付かないばかりか、自分の腕でアラドを胸に押し当てて、彼の抗いを感じては尚力を強めていく。
「うぅああ……い、いきなり酷いよ…………アラド? ……ちょっと、アラド!?」
……結局解放されたのは、アラドが全く動かなくなって暫く経ってからの事だった。
「……船の上から三途の川に突き落とされて、そのまま溺れ死ぬ夢を見ました」
「し、死後の世界でも臨死体験するなんて貴重な体験だったね!」
「船頭はアイビスさんの顔してたんスけど、今みたいな笑い顔浮かべてました……」
「…………ごめん」
部屋の中に立ち込める静まり……そしてそれを打ち破る笑い声。
二人は今までの痴態を笑い合っていた。面白おかしそうに、本気で笑っていた。
「あはははは! 変だね、もっとシリアスになると思ってたんだけど」
「おれもですよ。それがどうしてこんなに間抜けな事やってるんだか……」
……その声も止むと、妙に気まずい沈黙が訪れた。
問題は、これから先の事だ。
既に上半身は脱ぎ掛けの状態、これ以降の戯れは下半身へと及ぶ事になる。
それにはお互い抵抗があるのか、手を止めたまま切っ掛けを掴めずにいた。
「……アイビスさん。やっぱり、この辺で止めませんか」
目を逸らして、そうアラドが呟く。
ここまで来てその台詞は無いだろうと、僅かにむっとしながらアイビスも言葉を返した。
「なに? 怖気づいたの?」
「怖気づいたっス」
挑発はあっさりと受け流される。そして、
「ここからは子供を作る為の方法じゃないですか」
あまりにも重い発言に、アイビスは言葉を失う。
アラドの言う通り、自分達は子供が欲しいからこの行為を行なおうとしているのではない。
本来ならこれは、愛し合う男女の営みの一環として成立されるべきものだ。
少なくとも彼女達の倫理観の上ではそういうものになっている。
それは今も変わっていない……だからアイビスも反論はできなかった。
「……自分でも賛同しておきながら、すみません。でも……その場の雰囲気に流されて後で後悔するよりは、やっぱり……」
正論だが―― アイビスは見抜いていた。
アラドはここで思い直した理由。それは、一旦躊躇してしまったからだ。
やはり彼は過去から来る罪悪感に囚われている。
しかしそれを乗り越えたいと言ったのも彼自身……
何か良い打開策は無いかとアイビスは考える。
考えて考えて考え抜いて、やはり自分は馬鹿だと確信した。
思えば、プロジェクトTDのテストパイロット時代からそうだったじゃないか。
問題を前にして自分ができた事なんて、身体一つでぶつかっていく事だけだったというのに。
「こ、ここまでやっといて後悔しない訳ねぇっスけ―― んぐっ!」
一人言葉を続けていたアラドの唇を再度奪う。体当たりでもするように強引に。
その勢いでお互いの歯は激突するが、幸いな事に、喋っている途中だったアラドの口は開いており、そこに覆い被さるようにアイビスの口も大きく開かれていたので、二人の唇が傷つく事は無かった。
しかしアイビスは、そんな事も全く構わずに両腕で頭をロックする。
……現状で採れる、アラドに女性を意識させる方法。アイビスはそれがキスしか思い付かなかった。
事実、彼女自身の胸中は震えている。
こんな思い切った事をする自分も恥ずかしくて、相乗効果で顔が茹で上がりそうだった。
「うむ、むぅっ、う゛う゛う゛、う゛むごぁ!」
アラドも抵抗の声を挙げようとするが、押し潰れんばかりに押さえつけられた口からはろくな言葉が生まれない。
その力加減と言ったら、歯が支えになってしまい、上顎と下顎も閉じられない状態だ。
(力任せに引き剥がすしかないのか……いや、でもさっきみたいになっちまったら……!
彼女を突き飛ばした光景を思い出し、無理矢理抗うのを躊躇ってしまう。
……その時、アラドはアイビスの顔を間近で見た。
彼の顔を直視できず、力の限り瞳を閉じて、真っ赤な顔で口付けする女性。
優しいキスではない。ましてや激しいキスとも言えない。
不慣れ……不慣れで、懸命なキスをする彼女の顔に、アラドの心が何かを叫んだ。
(…………か、可愛い)
思考回路に浮上する言葉。その覚えの無い感覚に、アラドは自分の置かれている状況を見失った。
途端に抵抗を止めた彼に、それまで拮抗していたアイビスの力が一気に圧し掛かる。
アラドを気遣う余裕の無かったアイビスはその事態に気付けず、キスはキスと呼べないほどに深く入り込み、噛み合わない歯の間で、彼女は未知の感触を受けた。
「……っ!」
その瞬間、アイビスは風を切る勢いで距離を取って、自分の口元に手をやった。
(何……今の、何なの……!?)
両手で唇を覆い、自分が触れたものを推測して、ただでさえ赤かったアイビスの顔が、熱膨張で破裂するんじゃないかと危惧するほどに熱くなる。
舌だった。二人の舌が接触したのだ。
(こんなの汚い……で、でもさっきまで色んな場所舐め合ってたし……だけど舌ってあんなざらっとしてたんだ……唾液もちょっと甘い感じが……えっ!? あたし……アラドの唾液舐めちゃったの……!?)
次々と認識される状況、キャパシティを超えた現実に、彼女の目が回り始める。
……しかし、ふと目に入ったアラドは、そんなアイビスを見つめたまま呆けていた。
目が合ったというのに何の反応も無く……彼女の背中の背後霊でも見ているかのように。
「……ちょ、ちょっと、どうしたの……?」
自分が変な事をしてしまったのが原因なのだろうかと心配になり、恥ずかしさが抜け切らないままアイビスは顔を近付ける……
と、確かな焦点を取り戻したアラドは、アイビスを認めた瞬間、ぼんっと爆発した。
実際にそんな音がした訳ではない。
ただ、そう表現するのが的確だと思うほどに、一瞬で真っ赤になった。
それを見たアイビスもぴたりと止まり、二人は揃って紅潮した顔を付き合わせる。
……そして、次第に目をとろんと惚けさせていく。お互いに、同じように。
(…………もう、駄目かな……)
何が駄目なのかはっきり分からないまま、アイビスは静かに三度目の口付けをした。
アラドにもう抵抗は無く、目を閉じて乙女のようにアイビスを受け入れる。
(止まれない……)
思い至る諦め。諦めと呼ぶには心地良い覚悟に、アラドは己の身を任せた。
アイビスはもう戸惑いを持たず、整った唇の隙間からアラドの中に侵入した。
「ん……」
最初の接触は、壊れ物に触れるように優しく。
「……ふ……」
二度目は、下から上に舐め上げる。
―― 稲妻を浴びたような衝撃がアイビスの全身を駆け巡った。
舐めるという行為。舌を合わせる未知の感触。汚いと思っていた事を実行している背徳感。
他にも把握し切れない数の刺激に晒されて、今までに類を見ない強い興奮が彼女の中に湧き上がる。
それに促されるように、ゆっくりと深くまで口を繋げる。
三度目は、遠慮しなかった。
相手の舌を舌で押し退けると、口内を一通り一巡させて粘膜という粘膜と接触する。
(あたしとアラドが混ざってる……)
頭から煙でも吹きそうな昂りにアイビスは陶酔する。
しかしこれで満足はしない。滾りを覚えれば、それ以上の滾りを求める気持ちが息をする。
次からは舌の動きもより一層激しさを増した。
混ざり合った粘液がくちゃくちゃと音を立てる。
溢れ出したそれは、隙間無く繋がっていた筈の二人の間から、顎を伝って零れ落ちていった。
勿体無い……そう思ったが、追い掛けて目の前の果実を放って置くのはそれ以上に勿体無い。
……と、それまで受身に徹していたアラドの舌が、小さくアイビスのものと絡んだ。
アイビスはすぐさま顔を離すと、透明な橋が落ちる前に、至近距離からアラドの瞳を覗き込む。
「……今の、気持ち良かった?」
悪さをした猫を咎めるような目を、妖しく笑う顔に載せて問い掛けた。
アラドは黙って赤くなった顔を逸らす……アイビスはその耳元に口を寄せて囁く。
「あたしは、アラドとこうしているの、気持ち良い……」
呪いでも掛ける気分で、アイビスはアラドを翻弄する。
もう一度アラドの正面に顔を合わせると、口を小さく開いて自分の舌を見せてから、口を閉じて唾を飲み込んだ。わざとらしく喉を鳴らして、その事実を見せ付けるように、
「……アラドの、飲んじゃった」
微笑んでそう言った。同時に、アラドの最後の抵抗も完璧に崩れ去った。
「ねぇ、アラドも飲んでくれないの……?」
アイビスのねだりに、アラドは逡巡しつつも素直に従う。
堕ちた―― そうアイビスは確信する。ようやくアラドも、自分と同じ所まで堕ちたのだと。
過去の傷を上回る衝動に押されて、立ち塞がっていた障害を全て乗り越えたのだと。
後は、これ以降の思い出を良いものにすれば、
完全にとはいかなくても、彼のトラウマを払拭できるかもしれない……他ならぬ自分の手で。
その感動の種類も強さも、彼女の人生の中で全く覚えの無いものだった。
何れの真似も初めての経験だというのに、アイビスはアラドを誘惑できた事に嬉しさを隠せない。
アラドがあたしを見ている……他の誰も考えずに、あたしだけを。
そう心中で反復する毎に身体の奥が熱くなり、強い情熱の息吹を上げる。
自分が攻め手に回るなど、今まで考えた事も無かった……ましてやこんな事でなどとは。
アラドはおかしい……イルイと同じように、自分の知らない自分を刺激する……
しかし、そのおかしさが愛しかった。恐らく、もう後戻りできないほどに。
再び二人はどちらからともなくキスをする。
だがそれは一度目とは違う、大人のする深い口付けだった
「……あの、背中痛くないっスか……?」
「大丈夫だって。カーペットもあるし、さっきから何度も上と下変わって貰ってるでしょ……ふぁ……」
「アイビスさんって胸が弱いですよね」
「何よ。そう言うアラドなんて、全身弱い気がするんだけど」
「あれ、アイビスさんの舌遣いが上手過ぎるから……」
「え? ……そうなの?」
「少なくとも姉さ……あ、いや、すみません」
「……許さない」
「っ……! ……や、やっぱり上手い……」
「―― あう……あ、アラドだって手慣れてる感じがするよ。もっと不器用だと思ってたのに」
「……苦しめるだけなのは嫌でしたから」
「……ごめん。今はあたしを見て……」
アイビスに言われて、アラドは床に寝転がった彼女をまじまじと見る。
胸に宛がわれていた部分は既に取り去ったが、それでも未だ半脱ぎのジャンバーが恐ろしく扇情的で、先程からアラドは脱がすのを躊躇っていた。
(…………そういう意味で『見て』って言ったんじゃないんだけどな……)
アラドの視線が恥ずかしくて胸元を隠す……
アイビスはそれがどれだけ可愛い仕草としてアラドに映っているのか自覚していない。
彼の方はといえば、頭がくらくらして、気を抜けば彼女に倒れ掛かってしまいそうだった。
(おれ、本当におかしくなっちまったのか……?)
自分の知っている自分はこんな奴じゃなかった。
これでは薬を打たれた時と同じじゃないか……そう思うが、それとは別の欲求が存在している事も、彼は確かに分かっていた。
アイビスという女性を、知りたい。
とにかくさっきから、アイビスの事を考えると頭がぼうっとしてしまい、何も手に付かなくなる。
急激な運動でもしたように動悸が早まり、彼女の顔が近付くと何も言えなくなる。
そして……知りたい。もっと近付きたい。彼女と色々な事をしたい。
そんな衝動が収拾の着かないほどに暴れ回り荒れ狂い、彼の心を責め苛む。
それでも絶対に傷付けないように、最低限度の注意を払ってアラドは目の前の女性に接する……。
「……おれを信じて下さい」
「アラド……? ―――― きゃうっ!?」
アイビスのショートパンツに入り込む指……華奢な身体が跳ね上がる。
「これ、凝ったデザインしてますよね……」
「つ、ツグミが選んだやつなんだけど……似合わないかな」
「そんな事無いっスよ、ビシっと決まってます……って、おれがこんな事言っても説得力無いか」
「……ううん、そんな事無……あ、うんんん……っ!」
秘部に指が触れる感触に歯を食い縛る。
するとアラドは驚きの顔を見せて、その手をパンツから引き抜くとお互いの前に掲げた。
……濡れている。
「〜〜〜〜っ!?」
その現象を、アイビスはこの時まで全く自覚していなかった。
アラドとの接触により、自分の身体がどう反応していたのか、気遣う余裕すらなかった。
文字通り没頭していたのだ……。
まるで眼前に罪の証拠を示された気分になり、アラドをまともに見る事ができない……。
ちゅぷ……そんな音が耳に届くまでは。
視界の片隅で、アラドはその手を……無心に舐めていた。
信じられない光景に、アイビスの思考回路は断絶する。
叫びたくても言葉が出てこず、金魚のように口をぱくぱくさせる……
その前で、丁寧に彼女のものを舐め取り、舌の上で転がす少年。
口内で散々弄んだ後、それを喉を鳴らして嚥下し……赤い顔で一言漏らす。
「……飲んじまいました」
そこで、アラドのやっている事が先程の自分の物真似なのだとようやく理解した。
理解したが……意趣返しにしては可愛いものだが、別の意味で破壊力が大き過ぎる。
しかもそれを恥ずかしがりながら行うものだから、彼の行為は自主的な羞恥プレイに等しい。
一体自分はあと何回、もう駄目だと思えば良いんだろう……
アイビスは目の前の体躯を抱き寄せる。そして片手を彼の腰に宛てた。
「ず、ズボンはジッパーを下げてくれるだけで大丈夫っス……」
「あたしは……脱がないとできないかな、やっぱり」
「似合ってると思いますけどね……でも、ジャンバーはこのままでも……」
「う、うん。アラドがそれで良いんなら……」
お互いの耳元で囁きながら、二人は相手の最後の砦を攻落しに掛かる。
アイビスは自分のパンツが下着と共にゆっくりと下ろされていくのを感じながら、アラドのズボンに手を掛けて……パンツを下ろし、アラドのモノを外気に晒した。
それを指で撫でる。途端にアラドの動きがぎこちないものに変わったが、自分と同じような状態なのだろうと気にせず触り続けて……次第に血の気が引いた。
「……あ、アラド……?」
「どうしたんスか。急に片言言葉になって」
「ここ、これ……おおお、大き過ぎるんじゃない……?」
「でかくなった状態で比べられた事は無いんで、実際どうなのかは分からないっスけど……」
「……入るの? こんなのが……?」
「あ……こ、怖くなったならここで…………やべぇ、歯止め利くかな……」
「や、止めなくても良いんだけどっ……は、入る……んだよね……」
自分に言い聞かせるように呟く。知識が無いのをこの時ほど後悔した事は無かった。
「……腰、浮かせて貰えますか。あと、爪が食い込んでて……」
「わ、わわわ! ……何やってるんだろう、あたし」
しゅんと項垂れる。その様子を見ながら、アラドは無言で体位を変えた。
彼女の両足の間に潜り込むアラドの身体。
隙間から見えた肉茎は、イメージを上回る凶悪な姿をしている。
赤黒くて凹凸も激しい。まるで拷問にでも使われそうな鉄の杭だ……。
そんな事を考えて、自ら恐怖心を煽ってしまう。
だが、もう下半身を覆い隠す物は何もない……
遂に訪れた本番を前に、アイビスはより一層緊張感を張り詰める。
「力を抜いた方が入り口も狭くならないんじゃないかと……なんて、無理な相談か」
「…………」
ガチガチに固まるアイビス。アラドは、その唇に今日何度目とも分からないキスをする。
「ん……ぁぅ」
「…………こっちに集中してくれれば、気休め程度でも気が紛れると思います。
 それから……思いっ切り噛んじまって下さい。遠慮は必要ないっス」
「遠慮……ん……うぁ……む……」
『噛む』という言葉が何を指しているのか分からないまま、アイビスとアラドはまた混ざり合う。
どろどろの水飴の中に漂う感覚の中、アイビスに伝わる小さな接触。
彼女の秘部に擦り付けられ、宛がわれる何か……それはきっと間違いなく彼のモノで……。
(来るんだ……)
思えば今日この日まで、ずっと縁の無かった行為。
こんな形で果たす事になるとは予想できる筈も無かったが、こうなった事に後悔は無い。
たとえどれほどの苦痛を味わう事になったとしても……後悔なんて、絶対にしない。
―― アイビスの心にそんな決意が刻まれた瞬間、その身体は一気に奥まで刺し貫かれた。
……身体が破裂した。そうとしか語れない痛みに見舞われて、彼女の視界が涙に滲む。
しかし、泣かない。これ位、なんて事はない。
今までの戦いで経験した事に比べれば、蚊に刺されたようなものだ。
「……は……」
小さく口を開き、声にならない声と共に、肺の中の空気が抜ける。
これが子供を作る方法だというのか。確かに生半可な覚悟で挑むものではない。
……と、アイビスの味覚におかしな感覚が伝わった。
少し覚えがある。これは、アラドを傷付けた時に味わった、彼の血の味……
「……アラド!?」
「へ。な、なんふか……ててて」
真っ赤になった舌を出して苦笑いする少年。
それは、キスの最中に激痛を覚えて噛み締められた歯の間に、彼の舌が挟まれていたからだった。
「ば、馬鹿! 一体な―― あうっ! ……にを、か、考えてるの!?」
「ふみまへん…………おれ、女じゃないから、こういう痛みって今一つ実感無くて……。おれも少しぐらい痛くなった方が気が済むっていうか……自己満足っス。付き合わせちまって……」
「あのね……くっ、はぁ……! ……あたし、力の加減、しなかったんだよ……!」
「おれも、あのまま噛み切られるんじゃないかってびびりました。丈夫さにはもうちっと自信があったんスけど、はは、当てにならね……ってぇ……」
揃ってしかめっ面を浮かべる二人……
この子は本当に馬鹿だとアイビスは確信する。そう思う間は多少身体の痛みからも解放されていた。
(耐えろよおれ……以前の二の舞は御免だぜ)
アラドは運動を開始する。上下ではなく横に。
バイブの要領で小刻みに震える肉茎は、アイビスの膣内を引っ掻くのではなく、ぐにゃりぐにゃりと押して回る。
「い、あ、う、あん……っ」
傷付いた襞の痛みは消えないが、最初の貫通した時に比べればまだ我慢できる。
勝手に漏れ続ける声を無視して、目の前の男を頼るように強く抱き締めた。
(……最初はもの凄く痛かったけど、これ位なら……思ったよりも大丈夫かも)
アラドがすぐにピストン運動を行なわないのは、それが女性に大きく負担を掛ける……
とりわけ未経験の相手には激しい苦痛を強いるものだと知っていたからだった。
しかし膣内に異物の侵入を慣れさせる面から見ても、この細かな動作は、お互いの性器を用いた前戯の最終段階だと言えるだろう。
そんな言葉にされない気遣いも相俟ってか、段々とアイビスの身体は順応していく。
動かれる度に突き刺さった苦痛は、熱い霧が腰の奥に吹き掛けられるイメージに挿げ替えられ、
キスをした時のように頭の中を陽炎が立ち込め、声色も自然と変化していく。
「うん、ふぅんっ、ひぃぁ、はあぁ……」
艶めかしく間延びする声は、音となり息吹となりアラドの耳を責め立てる。
(まだだ……まだ、まだ、まだ……!)
それでも、こんな小さな運動だからこそ、アラドにはじれったい気持ちが募る。
もっと強く、本能のままに動きたい。そこにはどんな痛みと快楽が待っているのだろう……
そんな自分本位の考えが浮かぶ度、頭を振って追い払う。
勝手をする訳にはいかない。自分に優しくしてくれた女性を壊すのは……もう絶対に許せない。
アラドの指が二人の腰の間に伸び、アイビスの秘部の上部分に触れた。
「は、あああぁぁぁっっ!!」
彼女の背中が橋のように上がる。アラドの身体も共に持ち上げるほどの力で。
クリトリス。それが指に狙われた部位の名前。
アイビスの予想以上に強い反応に、アラドは逸る気持ちを落ち着かせる。
(ほら見ろ、こっちにはちっとも慣れてねぇじゃねぇか。
 焦るんじゃねぇ……よし、全部ひっくるめて刺激してやる。気張れよ、おれ……!)
……それがどれだけ続いただろう。
弄られる度に性器から頭に向かって放たれる雷に何度と無く打たれ、アイビスの全身から吹き出る汗は、彼女の周囲を湿地地帯のようにぐっしょりと濡らしていた。
(あたま……へんに……)
断片的な思考しか許されず、それさえも時折刺激の荒波に呑まれては掻き消えていく。
「……や……あぁん」
自分でも聞いた事の無い弱々しい悲鳴。
散々叫び過ぎた所為で、満足に声も出せなくなってしまった。
帯びる色気に目を瞑って、そう自分に言い聞かせるが……
(でも、むず痒いような、切ないような、変な気分……)
アラドが全く動かなくなると、寂しさと焦慮が勝手に募り、肌の上をアラドが動くと、それは僅かなりとも解消され、解放感から快感へと通じる。
アイビス自身、非常に遅々としてはいたが、自分の感覚の変貌を悟り始めていた。
しかし彼女は、それを素直に受け止める事ができないでいた。否定したがっていた。
「ぁ……アラ、ドぉ……」
「どうしたんスか。おれ、厭な事でもやっちまいました?」
「ごめんね……あたし、おかしくなっちゃったみたいだ……このままじゃ、幻滅、させちゃう……ごめん」
「いきなりそんな事言われても、どういう意味でおかしくなったのかさっぱり……」
「……くすぐったい。身体中……ううん、身体の中がくすぐられてるみたい。何か……して欲しいみたいな、だけどそれが何なのか分からないから、辛い。あたし、どうしちゃったんだろう…………あああぅ、うぁ、ぁぁぁ……!」
喋っていた最中にアラドの活動が再開されて、否応無くアイビスは嬌声を上げた。
裏声でも出そうに無い声色のそれは、まるで自分の声では無いようで、把握できない不安に一人怯える。
「こんな事言いたくないのに……訳が分からなくて……怖いよ」
「……なら、消し飛ばします」
「ぁぅ……あ、ふぅ、んんん……!」
直後にアイビスは今までと全く違う刺激……膣内が引き摺られる感覚に晒された。
「は……う、動いて……る」
横ではなく縦に……そこまでは言葉が続けられなかった。
身体が、筋肉が、骨が、電気ショックでも当てられたようにびくりと動く。
アイビスの意の外で、その感覚に苛められたように、その感覚を待ち望んでいたように。
「やあああ……」
最初こそ巨大な異物の侵入にされるがままだった性器は、
長い慣らしの間にその存在を認めていたのか、離れていく肉茎を名残惜しそうに締め付けた。
幾つもの襞が絡み付いて亀頭を撫でる感触に、二人は消えかかる理性を必死で掴み続ける。
(う……心のモヤモヤが晴れてく……でも、このまま抜かれるのはや……え……な、何考えるの、あたしったら……!?)
無意識の内に力が入る下半身……
その事に気付いたアイビスは、何度目か分からない忸怩たる想いに駆られた。
精神的に責められている彼女を知ってか知らずか、その脇の下から両腕を回すアラド。
がっしりと彼女の身体を固定すると、耳を舌で撫でて、反応した彼女に向けて囁く。
「一回無茶やりますから、おれの身体掴んでて下さい」
「……無茶?」
ここでもアラドの言葉が理解できないアイビスだったが、
湧き上がる高揚感に鈍った頭はろくに回転しないまま、結局彼の言葉に大人しく従った。
……アラドの呼吸が止まる。その流動を耳で感じていたアイビスも息を詰まらせた。
「や、やだ……これからもの凄い事されそうな気がするんだけど」
苦笑いを交えた呟きに、真剣な眼差しが返される。
(普段は子供の癖に、時々大人になっちゃう子って……卑怯だ……)
……そのギャップにあっさりと踊らされてしまう自分は、
馬鹿正直と罵られても仕方ないかもしれないけど。
逸る胸の鼓動に気付かない振りをして、
それっきりアイビスはアラドの言う『無茶』とやらを黙って待つ事にした。
「……いきます!」
「え―― あああああぁぁぁぁっっ!!?」
その掛け声と共に、アラドの分身がアイビスの膣内を再び穿った。
最初の時と同等の勢いでそれは彼女の最深部に到達するが……今度はそこで止まらない。
開かない扉に無理矢理ドリルを突き刺された。アイビスにとってはそんな感覚だった。
アイビスの最奥、壁のようにあった行き止まり、子宮口が肉茎の圧力に耐え切れず、決壊したのだ。
本来は伸び縮みをする筈の膣だが、アラドの肉茎はそれを上回る大きさを有していた事に、知識の浅い二人は気付いていなかった。
「ぐっ……全部……入った……」
「う……か……あ……」
意識が爆ぜる。瞬間的にだが、事実として何度か手放していただろう。
その度に真っ白になる視界、それでも持ち堪えようとする意識との綱引き。
ただただ腕の中にいるアラドに寄り縋り、その暴虐に等しい快感が引くのを待った。
そう、快感……アイビスはその瞬間、紛れもなく絶頂に達していた。
荒れ狂う痛みの中で、とても快楽とは思えないものだったが、彼女はそれを経験した。
その身からありとあらゆる力が抜け落ちていく……
呆然と涙に濡れた瞳を彷徨わせる彼女に、歯切れの悪い言葉でアラドは言った。
「長引かせちまいましたけど……これでお終いっス」
腰に力を入れる―― その微動だけでも今のアイビスには信じられない刺激になった。
強引に引き戻された意識のまま、彼女は全身全霊を懸けて訴える。
「んんあ、う、動かないで、ううぁぁ……! し、死んじゃう……!」
「す、すみません! ……待ちます、辛いけど……」
(辛いって、辛いのはこっち…………辛い?)
彼女の状態からすれば、聞き逃しても全くおかしくはなかった言葉。
しかしその余りにも現状にそぐわない意味を持つそれは、疑念を抱くのにも十分なものだった。
「……アラド」
「なんスか、今気が逸れるのはかなり不味くて……」
「あたし……もしかして、気持ち良くなかった……?」
その一言に、それまで必死で自制心を働かせていたアラドはアイビスを見る。
激痛を耐えるので必死だった余裕の無い顔から一転して、今にも泣き出しそうな表情がある。
流石のアラドでも何を誤解しているのかは一目瞭然だった。
(……ああもう! 何だ、何なんだこの人は!?)
可愛い―― 尊敬の念を忘れた訳ではない。しかしどうしても、どうしようもなく可愛い。
アラドは思った。この人は反則だと。
何故彼女がツグミ達チームTDのキャプテンを務めているのかが分かった気がした。
これは惚れ込む。頼れて格好良い上に可愛くて、欠点を露わにされても好感が増すばかりだ。
(イルイがあんなに懐くのも分かるよな……)
おまけにこんなに優しければ、心の底から憎める人など居る筈がない。
子犬……誰が言い出したのか、これ程的確な表現もそうはないだろう。アラドは一人納得する。
「あの……逆、なんで」
「……逆って、何が?」
「気持ち良過ぎてヤバイって意味で。
 さっきの一気にいった時も、アイビスさんすげぇ収縮するもんだから限界近くまできてて。
 さっさと抜かないとおれまでイッちまいそうだったから、それじゃ耐えた意味無いし……」
何とかこちらの事情を説明しようと口を動かす。
たった一突き二突き程度で射精するなど男としてどうかと思われるかもしれないが、アイビスの膣の中は、そして悶える姿もそれに見合うだけの破壊力を秘めていた。
少なくともアラドが、我を忘れて腰を振り動かしたいと数え切れないほど思う位には。
「あとちょっとで……分かりますか? 何となく小さくなってきたの。
 もう暫く辛抱して貰えれば簡単に外せますから……なんかこれセクハラ臭い言い方っスね」
だがこんなアイビスを見れば毒気も抜かれるというもの。
少し遅かったのかもしれないが、やっと落ち着く事ができたとアラドは安心する。
「……どうして我慢したの」
しかしそれを聞いたアイビスは、アラドを敵でも見るように睨み付けた。
今すぐにでも許さないと言い出しそうなその態度は、回答が不服だったとしても釣り合わない、それだけの憤りを含んでいる。
どうしてそんな目で見られなければならないのか、分からないアラドは混乱した。
「ど、どうしてと言われても。さっきは有耶無耶になったけど、本気で子供作る訳にはいかないし……」
「それでも、あたし達がこんな事をしている理由は何だった? あたしは覚えてるよ。アラドの理由は、過去を乗り越えられる経験が欲しい、だったよね」
「だからそれは、今のアイビスさん見て達成できたと思ったから。おれが勘違いしてなければの話ですけど、痛み以外にも感じたものがあったんだろうって。喜んでくれたなんて自惚れてはいないっス。でも、昔みたいに滅茶苦茶にはしなかっ……」
「……もういい! ならあたしも勝手にする!」
痺れを切らしたアイビスは、
動かないアラドの上半身を押し退けて、、床に手を着くと力を振り絞って上体を起こした。
その動作の最中にも、アイビスの眉間に何度も皺が寄る。
絶頂を迎えたばかりで一物も刺さったままだというのに、彼女のやっている事は明らかに無理があった。アラドは慌てて制止する。
「ちょ、ちょっと、無茶しないで下さい! すぐ抜きますから!」
そう口にした瞬間、アラドが腰を引き離そうとする前にアイビスの足が絡み付いた。
「―― 抜くな! 今抜いたら、一生許さないから!」
突然の怒声に身を竦ませるアラド。
その隙にアイビスはアラドの片腕を掴んで自分の方に引き、同時に床に置いた手にも有りっ丈の力を込めて、一気に全身を回転させた。
「うううんっ! ……くふぅ……はぁー、はぁー、はぁー……」
二人の上下が逆になる。俗に言う騎乗位と呼ばれるものだった。
アラドを腰に収めたまま、アイビスは崩れ落ちそうになる上半身を両腕で支えている。
殆ど残っていなかった力を振り絞っての強行に、否応無く彼女の肺は収縮を繰り返す。
それでも……そんな苦しい状態にあってもアイビスは不敵に笑い、アラドに言った。
「これで……あたしが納得するまで、逃げられない……」
「っ……本当に何で……何をそんなに怒ってるんスか……」
「まるで今まであたし一人が馬鹿をしていたみたいじゃないか。アラド、あたしは自分の事で精一杯だったかもしれないけど、自分だけが気持ち良くなれば終わりになるだなんて思ってなかったんだよ……」
「おれは……十分でした。だからどいて下さい。
 どけないならおれがどかします。アイビスさん位の重さなら楽勝でいけます」
「楽勝? 本当に……?」
既に勝ち誇ったアイビスの顔に、アラドは何も言えなくなる。
畳み掛けるように彼女は続ける。まるで勝利宣言だと言わんばかりに。
「アラドは……あたしの頼みを無視できるの?」
「…………アイビスさん」
「……ごめんね、ずるい事言って。アラドが本気で、絶対に死んでも嫌だって思ってるなら、ここで止める。だけど……違うと思うんだ。アラドは……あたしと最後までしたいって、思ってない?」
「……できれば、そう思った理由を教えて下さい」
「多分あたし達、似た者同士だから」
馬鹿な所とか特に。そう続く筈だった言葉は、引き寄せられて奪われた唇からでは放つ事も叶わなかった。
「……おれ、アイビスさんにはこれから先も敵いそうにないな」
「そっか。ならこれ幸いに滅茶苦茶しちゃうけど、いい?」
「そりゃもう望む所、さっきの仕返しをするつもりで。おれ、丈夫なのが取り柄ですから」
「仕返しか、それはあたしも大変そうだけど、アラドの困った顔でチャラにするね」
アイビスは指を結合部に持っていくと、アラドの局部に零れ落ちていた愛液を掬った。
透明な中に赤く滲むものを認めて、彼女は感慨深そうに呟く。
「あたし……アラドに全部獲られちゃったんだね」
その時、縮み始めていた肉茎が自分の中で躍動したのをアイビスは見逃さなかった。
どうやらアラドは肉体よりも精神面での責めに弱い。今までを顧みてそう判断する。
ならそちらに比重を置けば、今度こそアラドも……アイビスは作戦を開始する。
標的はアラド。目的は撃墜。敗北条件は……自分が果てるまで、だった。
腰を押し付けて、自分に無理の無い程度で回転する。
実感する、陰部から愛液が溢れ出ていく感覚……
痛みを覚えつつも、今度こそ彼女は快感と呼べるものを見付け出した。
それはまだ小さいものだったが、一度分かってしまえばそれに集中できる。
両手をアラドの上半身に這わせながら、アイビスは快楽を意識しつつ言う。
「アラド、これからどうして欲しい……?」
「……分からないっス」
「じゃあ、これからアラドはあたしの身体をどうしたい?」
「……うぐぁ……!」
びんびんと胎内で打ち震えるアラドの分身に、奇妙な愛しさが込み上げてくる。
自分の言葉に逐一反応してくれるのが嬉しいのか、それとも嗜虐心をそそられているのか。
「何となく分かってきたよ。この硬いのが……」
その気持ちに駆られるままに、腰を肉茎の中間が露出する程度まで持ち上げて、
「平行に擦られると、おかしくなっちゃうんだよね……!」
落とす。局部に文字通り突き刺さるような激痛が走る。
しかしもうアイビスにとって、そんな事は大した問題にはならなかった。
この、苦悶と快感の狭間で揺れる少年の顔を見れば、それ以上の悦びが込み上げてくるから。
(……あ、アラドの……大きくなってきた……)
次第に内側から圧迫されていく。届く位置も段々上に昇り……またも彼女の子宮口を打った。
「ふううううぅぅぅぅぅ!!」
何度目からのぶつかり合いの中、一際甲高い叫び声が上がる。
「アイビスさ……今の……!」
「だ、大丈夫……! お願、あたしに集中……うううんん!」
まだまだ大きく、アラドのモノは際限なく膨れ上がっていく。
これでは再び子宮に刺さるのも時間の問題……
ああなってはまた身動きが取れなくなってしまう。
そう考えた彼女は腰をある程度まで持ち上げて、そこから上下に動き始めた。
こうすればまだ時間を稼げる。その間にアラドを何としても絶頂に導く算段だった。
でなければ……早くしないと、この位置でも自分が達してしまうのはそう遠くない。
「アラドぉぉぉ……んん、んあっ、き、気持ち……いい?」
「お、おれ……も、もうこれ以上……!」
アラドも達するのか……そう思った直後に、アイビスは稲妻を受けた。
目の前がチカチカと点滅する。消えかかる意識を掻き集めて、彼女は今起こった事を理解する。
……アラドが動いた。それだけの事だった。それだけで神経が焼き切れそうになった。
(やっと……動き出したの? そんな……!)
ずん。二度目のパイルバンカーに、アイビスの上半身は耐え切れずアラドの上に落ちた。
しかしそれにより膣内の向きと子宮の位置が変わったのが不幸中の幸いだったのか、単純に真上へと振り動かされるだけの肉茎は、
元の入射角がずれた為に、子宮口には当たっても破壊するまでには至らない。
(…………なん、とか……持ち堪えた……!)
前傾姿勢のまま、思考回路がまだ働く事を確認する。
だがそう長くは持たない……異常なほど溢れて流れ出る愛液が、彼女の限界を示唆していた。
もうこれ以上どうすれば良いのか分からない……ひたすら荒い息を注いで、胡乱な頭で呆然とする。
……ぺろり。アラドの胸を真っ赤に熟した舌が這った。
「ん、ぅん……アラド、喉渇いた……くは、ぁ……」
「い、今そんな事言いますか……!」
「……アラドの、欲しい」
小さな呟きと共に、答えを聞かずにアラドと口付ける。
強引に口内へ押し入ると、相手の舌を捕まえて絡め獲り、滴る液体を喉に運ぶ。
搾取される側も、相手から流れ落ちて来るそれを同じように呑み込み、再度相手に還元する。
自然と重ねられる両手。張り付いた身体は二人の汗さえも一つに溶け合わせる。
「「んくっ、んくっ、うく、ぅむ、ふぅん、んぐっ……んくぅっ」」
ぴたりと重なる二人の動き。そして……アラドの肉茎が、最大までに巨大化した。
爆発する。そう悟ったアイビスは、口も両手も離さずに、腰だけをアラドのモノの真上に、全力で持ち上げる。
最後は上と下から激突するだけ―― アラドはアイビスを突き破り、その中で逞しく弾けた。

「「―― ああああああああぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!!!」」

絶叫が木霊する。跳ねる肉茎、吐き出される精液がアイビスの子宮を余す所無く汚していく。
彼女の膣もぎゅっと締まり、襞も一斉に蠕動してアラドの全てを搾り出そうと妖しく蠢く。
お互いの腰は隣接したというよりもめり込んだ状態であると説明した方が正しいほどで、
最も深く繋がった位置で絶頂を迎えた後も、相手を圧迫し、締め付け続けていた。
「んぁ……アラド……まだ、出てる……」
「……アイビス、さん……も……」
もう胎内には納まり切らないほどの精液が噴出しているというのに、アイビスの収縮とアラドの膨張が邪魔をして、一向に精液は流れ出てこない。
二人は……疲れ果てていながら、それでもおかしそうに何時までも笑い合っていた……。

「これでまた、地球もしばらく見納めね」
窓から外を眺めながら、ツグミは万感の想いを込めてそう呟いた。
「そうだな。次は……次こそは誰にも邪魔されずに道中を進みたいものだが」
「あら、昔からは考えられないくらい平和的な意見」
「そっちこそ何を言う。私はもともと平和的だぞ」
気分を害したのか、ふん、とそっぽを向いたスレイが面白いのか、ツグミの顔が綻ぶ。
それに益々機嫌を悪くするスレイ……そろそろ話題を変えようと、ツグミは別の話を持ち出す。
「あ〜あ、それにしてもゼオラを獲得できなかったのは痛いわ。
 あまつさえセレーナと一緒に置いていくだなんて……染められちゃったらどうしよう」
「本気だったのか、彼女を引き入れるという話は……」
「まぁ今回はイルイが立候補してくれただけでも良しとしなくちゃね。ふふふ。あの子も可愛いわよね。今度帰ってくるまでにチームTDに入る訓練をしておくだなんて」
「ああ。『足手まといにはなりたくない』……未来を見据えた良い判断だ。ずっと色々なものに縛られてきた彼女なら、宇宙に飛び立つ資格も十分に有している」
「我らがキャプテンなら今回から付いて来て欲しかったんでしょうけどね。
 我慢しなくちゃ駄目よ、あの子も大人になり始めているんだから。アイビス」
「うん……分かってるよ、ツグミ」
気の無い返事……ではなく、仲間の言葉を受け止めた上での、落ち着いた答えが返って来る。
スレイとツグミは音も無く近寄ると、彼女に聞こえないよう小声で会話を始めた。
「……やっぱり急に貫禄ついてない?」
「うむ。以前のキャプテンならもっと慌てて否定していたな。しかし……なんだ。今のあいつを見ていると、胸がムカムカするんだが」
「そう? 私は小鳥が大きくなってくれたみたいで純粋に嬉しいんだけど」
「確かに頼りになるのは良い事なんだが……誰かに大切な物を獲られたような、あいつに先を越されて悔しいような……」
「……それって昔の事を引き摺ってるだけじゃないの?」
「あ、当て嵌まるが、そうじゃなくてだな……いや、もういい。自分でもよく分からん」
「ふぅん……アイビス、そろそろコクピットに座ったら? 見送ってくれたみんなももう見えないし、宇宙に出たら自動操縦モードは切り替わるんだから。機械任せよりも自分の腕で動かした方が楽しいんでしょう? 何だったら今からでも……」
「ごめん。もう少しだけ良いかな?」
「無理に言ってるわけじゃないし、別に構わないけど。……アイビス、もしかして具合が悪いのに無理してるんじゃ……」
「あはは、違うって。ただ、来なかったなぁって……」
そんな事を言いながらアイビスが眺める視界の片隅に、何かが輝いた。
すぐにツグミとスレイも気付く。
俄かに緊張感に包まれる彼女達だが、良く知ったその姿を見ると揃って警戒を解いた。
「……ビルトビルガーか」
「姿が見えないと思ったら、あれでお見送りって事ね。こんなのがあるなんて聞いてなかったから、案外勝手に持ち出してたりして。
 ……うん、加速の仕方は中々。直線的な動きが目立つけど、ゼオラのパートナーしているだけあってテスラドライブにも慣れてるわ」
「…………」
二人の夢は違う。だからこそ今いる場所も違うのだ。
よく居る一般的な恋人の関係を作るには、二人共に背負うものが多過ぎていた。
だけど、それでもとアイビスは思う。
こうやって相手の夢を応援して、心の底から祝福するのは間違っているのだろうかと。
アラドがアイビスの旅立ちを見送るように、彼女も彼の未来が素晴らしいものに彩られる事を祈るのは、いけない事なのだろうかと。
「そういえば……あの高機動形態に密かにある名前って知ってる?」
「そんなものがあるのか? 初耳だな」
「一部の開発者が勝手に付けた名前らしいんだけどね。なんでも『WILD FLUG』って言うらしいわ」
「……英語か?」
「ビルトビルガーの百舌と同じ、独逸語よ。何でも『奔放な飛翔』って意味みたい」
「奔放か……なるほど、それらしいな……」
『頑張れ』と言われて、自分を追い詰めてしまう人達はいる。
きっとこれほど無責任な言葉はそんなに多くない。誰でも割と簡単に使ってしまう台詞だ。
しかし……その単純な励ましで、本当に無理を通してしまう人間もいる。
そういう馬鹿な連中は……馬鹿なりに輝いているのではないか。そう信じたいと彼女は願う。

「……頑張れアラド。あたしも頑張るからさ」

次に会えるのは明日か、それとも一年後か。
お互いの時間の流れの違いから、年齢も追い抜かれているかもしれない。
そんな二人の過ごした時間を、何時かまた一緒に笑い合えたら良いなと、優しい気持ちで彼女は想った。

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