ーこの香りは…シトラス? シャンプーか何かかしら…。
頭の片隅でそんな事を考えつつ、ヴィレッタは目の前の男の為すがままになっていた。
一緒に映画を見て食事もして、送ってもらったお礼に珈琲でも、と招き入れた自室。
時は深夜、男と女。
相応の覚悟と期待無しではできない行動に、「彼」はやっと応えてくれた。

…時間はほんの少し巻き戻る。

ギリアムの車を下り、部屋のドアをくぐるまでの僅かな間にも、冷気は二人を苛んだ。
冷えきった室内と身体を暖房でほぐし、一心地ついてからヴィレッタは厨房に立つ。
「少し待っていて、豆を挽くから。少佐、モカとブルマンだったらどちら?」
「…ヴィレッタ」
準備を続ける彼女の背中に向けて、緊張に満ちた声が投げかけられた。
彼に名前を呼ばれた事は何度もあった。
けれども今のように、心臓を掴まれるような激しい動悸を感じたのは初めてだった。
「答えになっていないわね。私は選択肢に入って無かったでしょう?」
跳ねる心を押さえ込み、冗談めかして振り返れば、今宵の訪問者はすぐ目の前にいた。
端正な顔は緊張に強ばり、オリンピックにでも出られそうな程の視線の泳ぎっぷり。
(もうちょっと平静を保てない物かしら…まあ、許容の範囲内ではあるけれど)

「それでも…いや、本当は、君が一番…その」
あれこれ呟く彼の手が、何度も彼女の頬を撫でる。
恐らくは無意識の内に行っているのだろうが、普段の彼だったら絶対にこんな事はできない。
緊張を隠し切れていない手が頬を滑る度に、くすぐったさと嬉しさがヴィレッタの内に降り積もってゆく。
「…何? 少佐。きちんと言ってくれないと解らない」
永久に自分の頬を撫で続けていそうなギリアムの手を取り、軽く握る。
それが引き金になったのか、意を決したような表情になると、彼はただ一言を告げた。

「君が、欲しい」

ーそして、ここで冒頭の場面へと戻る。

その言葉が発せられたのと、ヴィレッタが抱き寄せられたのはほぼ同時だった。
伝わってくる温もりに熱くなる顔、期待していたはずなのに混乱する思考。
自分も彼を求めているのに、この場から逃げ出してしまいたい衝動すら沸き上がってくる。
そのせいか、彼女の口から酷く場違いな質問が飛び出した。
「…珈琲は?」
「……は?」
「珈琲。入れるっていったでしょう」
「………ああ。そういえばそうだったか」
ここで「じゃあ頼む」と言い出しかねないのがギリアム・イェーガーという男。
その展開をほんの少しだけ覚悟したヴィレッタだったが、流石に今夜は違っていた。
「また後で頼む。朝食の時にでも」
「…了解。でもあまり味には期待しないでね」
「なら、程々に期待させてもらうさ」
「何それ…って少佐?!」
ギリアムは軽々とヴィレッタを抱え上げると、寝室のドアを目指して歩き出す。

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