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宮澤賢治とも書く。

概説

岩手生まれの詩人童話作家。生前に刊行された作品は少ない。死後に草野心平らの尽力により多数の作品が刊行された。1896年(明治29年)8月27日生まれ 。1933年(昭和8年)9月21日没。

年表

  • 1896年(明治29年)8月27日、岩手県?稗貫郡里川口村(のちの行政区再編により花巻川口町、花巻町を経て、現花巻市)において、質・古着商を営む宮澤政次郎(1874年 - 1957年)とイチ(1877年 - 1963年)の長男として生まれ、同年8月1日付戸籍上の出生届がなされた。生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に発生した三陸地震津波による震災が、県内に多くの爪痕を残した中での誕生であった。また誕生から5日目の同年8月31日には秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡地域に大きな被害をもたらした。この一連の震災の際に、母・イチは賢治を収容したえじこ(乳幼児を入れ守る籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという*1
  • 1898年妹トシ誕生
  • 1903年(明治36年)、花巻川口尋常高等小学校に進学。
  • 1909年(明治42年)、旧制盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に進学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。同学在学中にも鉱物採集に熱中。「HELP」のあだ名がつく*2
  • 1913年(大正2年)、寄宿舎の新舎監排訴の動きにより退寮となり、盛岡の寺院に下宿。
  • 1914年(大正3年)、盛岡中学校?を卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける*3
  • 1915年(大正4年)、盛岡高等農林学校?(現・岩手大学農学部)に首席で進学*4関豊太郎?教授の指導の下で地質調査研究を行う。
  • 1917年(大正6年)、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア?』を創刊、短歌・小文などを発表。
  • 1918年(大正7年)、3月、得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し卒業*5。4月、同学の研究生となる。卒業で徴兵猶予の特典が無くなったため、徴兵検査を受けて第二乙種合格となる(当時は、第二乙種には兵役は課せられなかった)。 この間、『アザリア』同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で研究生を退学処分となり、以後数年間にわたって保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。 同年肋膜炎を患い、医師の診断を受ける。年末に日本女子大学校?生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。
  • 1919年(大正8年)、トシ回復とともに岩手に戻る。
  • 1920年(大正9年)、研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。10月国柱会?に入信。
  • 1921年(大正10年)、1月23日家族に無断で上京し鶯谷?の国柱会館を訪問。本郷菊坂町?に下宿する。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう*6。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校?(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。
  • 1922年(大正11年)、11月27日、よき理解者であった妹トシ病死。
  • 1923年(大正12年)、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太?を訪問。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。
  • 1924年(大正13年)、4月、心象スケッチ『春と修羅?』を自費出版。辻潤?が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店?』を刊行。この年あたりに『銀河鉄道の夜』執筆開始。
  • 1925年(大正14年)、7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。草野編集の文芸誌『銅鑼?』に詩を発表。12月、花巻の北上川で発見したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学・早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。
  • 1926年(大正15年)、3月末で農学校を依願退職。花巻町下根子桜の別宅にて独居自炊。羅須地人協会?を設立し、農民芸術を説いた。12月に上京し、タイピングやエスペラント?、オルガンやセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの「北アジア」についての講演(日本語)に参加し、ラムステットと会話を交わした。また人文主義者として労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。

その後

  • 1927年(昭和2年)、『銅鑼』『盛岡中学校校友会雑誌』に詩を掲載。3月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成。
  • 1928年(昭和3年)、『聖燈』に詩を掲載。湯本村伊藤庄右衛門主催の農事講演会に出講。6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。
  • 1931年(昭和6年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり、石灰肥料(厳密には肥料ではなく酸性土壌の中和剤)の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動も行った。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。
  • 1932年(昭和7年)、『児童文学』に「グスコーブドリの伝記」、『岩手詩集』『女性岩手』『詩人時代』に詩、『鴉射亭随筆』附録に「石川善助を弔む」を掲載。
  • 1933年(昭和8年)吉田一穂編『新詩論』吉野信夫編『詩人時代』『日本詩壇』(日本書房)『現代日本詩集』(詩人時代社)『女性岩手』『北方詩人』に詩を『天才人』に童話を掲載。9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯独身であった。死の前日、農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。

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