大正時代についてまとめるwiki

たけひさ ゆめじ
本名:竹久 茂次郎(-もじろう)
1884年岡山県?邑久郡本庄村生まれ。次男。
画家、デザイナー、詩人
大正浪漫を体現する人物*1

略歴

  • 1899年4月、神戸中学に進学。12月、家庭の経済状況が悪化し退学
  • 1900年、福岡県遠賀郡八幡村に引っ越す。
  • 1901年、東京へ上る。
  • 1902年、早稲田実業学校に入学(18才)
  • 1905年、6月4日、『可愛いお友達』が読売新聞付録に掲載。夢二作品が初めて活字になる。6月20日発行の雑誌『中学世界』に応募し入選したコマ絵『筒井筒』で初めて「夢二」を名乗る*2
    • 7月、早稲田実業学校を退学。
  • 1907年、1月岸たまきと結婚。夢二23才。夢二初期作品に見られる目の大きな女性はたまきがモデル*3
    • 読売新聞に入社。
  • 1908年、2月、たまきとの間に長男虹之助を儲ける。
  • 1909年、5月、たまきと協議離婚。12月、洛陽堂から初の著作『夢二画集 春の巻』刊行。
  • 1910年、8月、たまきと銚子町海鹿島(あしかじま)へ避暑。長谷川賢(かた)という女性と知り合い、『宵待草』詩作のきっかけに。
  • 1911年、5月、たまきとの間に次男不二彦を儲ける
  • 大正元年、11月、京都岡崎の京都府立図書館?で初の個展を開催。近くの京都勧業館で開催されていた文展より人が来たらしい*4。蝋燭をつけて香を焚く等ドラマチックな演出がされていた*5
  • 大正3年、劇作家秋田雨雀?の『埋もれた春』の美術劇場?での上演の舞台美術を担当。
    • 10月、東京日本橋区呉服町二番地に生活雑貨店「港屋絵草紙店」開店。商品のデザインは夢二によるもの。経営はたまきに任された*6。その後、笠井彦乃と知り合う。
  • 大正4年、4月、雑誌新少女?婦人之友社?)の絵画主任に。表紙・挿絵・読者投稿欄のコメント等を担当*7
    • 笠井彦乃(かさい ひこの)と東京復活大聖堂?で二人きりの結婚式を行う。
  • この頃?たまきとの関係が増々悪化し、6才の長男虹之助は夢二の九州の実家に預けられる*8
  • 大正5年、2月、たまきとの間に三男草一(そういち)を儲ける
    • 4月、『セノオ楽譜』のデザイン開始。
    • たまきが彦乃を妻に迎えて一緒に暮らさないかと言い出し、驚いた夢二は11月、逃げるように京都へ移住*9
    • 12月、たまきが東京の家を出る。不二彦は夢二の元へ。草一は養子に。
  • 大正6年、6月、彦乃が京都に来る。次男不二彦と三人ぐらし。
  • 大正7年、1月、岡山市?富田町?北部基督教会で竹久夢二抒情画展覧会開催
    • 9月、彦乃が結核で入院。10月、彦乃の父に面会を禁止され、二度と会うことは叶わなかった*10
    • 11月、再び東京へ移住。
    • 宵待草の楽譜がセノオ音楽出版社から出版。その後流行歌となった*11
  • 大正8年、美術モデルのお葉(よう)と知り合う。
  • 大正9年、1月、彦乃死去(23才9ヶ月)
  • 大正10年、7月、お葉と渋谷で同居し始める。
  • 大正12年、童話劇『春』で脚本・舞台美術・衣装等を手掛けた*12
    • 9月1日、関東大震災
      • 14日、都新聞で『東京災難画信』連載開始
    • 夢二人気は大正期にピークを迎え、震災以降その勢いに翳りが見られる*13
  • 大正13年、現・世田谷区に自ら設計した住宅兼アトリエの少年山荘を建てる。お葉と同居。長男虹之助も来る。
  • 大正14年、夢二の複雑な女性関係が原因でお葉が自殺未遂を起こし*14、夢二の元を去る。

作品

  • 妹尾幸陽?(せのお こうよう)の依頼で楽譜の表紙絵を担当。セノオ音楽出版社?が大正から昭和初期にかけて出した1000冊以上の楽譜のうち夢二が表紙・挿絵を担当したものは300以上を占める*15
  • 1911年〜大正8年、『月刊夢二絵葉書』
  • 大正8年、長田幹彦の小説集『絵日傘』3巻表紙・装丁。執筆・装丁『山へよする』(新潮社?)、夢二と彦野の5年間の愛の記録*16。美人画『黒船屋』代表作*17
  • 大正9年、『長崎十二景』
  • 大正10年、詩集『青い小径』(尚文堂書店?)、『女十題』夢二の代表作*18

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