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ninmu

任務完了にて帰宅に及ばず              

 
 亀崎茂夫の知っている男で実に気の毒な男がいます。

 36年間、見たところ随分と一生懸命にやっていたんですが、その男が最近、養子先から返されて実家に戻って米を作ることにしたのです。
 「何で?」と話を聞くと、この男、23歳のときに「結婚してほしい」と頼まれて、結婚することにしたところ、1ヶ月くらいすると電車で3時間くらいの田舎から父親が「話がある」と出てきて言った事は「養子として来てほしい」だったのです。この男、それまでの生まれたときにもらった「氏」に別段、こだわりも無かったから「養子でも良い」と返事しました。
 父親の希望で「一旦、養子として父親の戸籍に入った後で、その戸籍の中の娘と結婚する」、いわゆる「特別養子」として迎えられることになったのです。
 このときに「普通養子より特別養子の方が遺産相続が簡単に済む」と説明があったそうです。
 それから36年間、この男は炊事、洗濯、家事、育児、ゴミ出し、子供の保育園への送り迎えなどをやりました、近所の人が娘に「結婚するならあんな人をもらいなさい」と言われるほどこまめに動いていました。
 子供も何とか大きくなって、孫も何人か生まれた頃の60歳の時に、運悪く例のリーマンブラザーズの倒産から始まった世界的な不況のあおりで、それまで働いていた某国際空港の会社を解雇されたのです。

 解雇され収入のなくなったご養子さんほど惨めなものはありません。
 いつ行っても建物に入りきれないほどの失業者が溢れるハローワークに毎日のように通って仕事を探しましたが、なにせ60歳ですから「1日、4時間の仕事、それも週に3日、3ヶ月間限定」などの求人に50人もが応募するような状況ではとても新しい職にはあり付けそうにありません。

 そんな中、働いていた頃の半分の失業保険の給付もそろそろ終わるという日に「任務完了にて帰宅に及ばず」の手紙が届いたのです。
 ですがこの男が言うには「この手紙をもらってホッとした」そうです。
 「正直、これで家に帰らなくても良い」と思ったようで、こんな養子先ですから居心地がよろしくなかったようです、10年くらい前からこの家には「住めないな」と感じていたそうです。
 それで、財布の中には千円札、5枚くらいと健康保険証、パソコン、着替えなどわずかな荷物をまとめて実家に戻ったのです。
 実家に戻る時、愛知県と岐阜県の境のうつつ峠を登るときに思わず後ろを振り向くと、いつもながらの見慣れた風景を見たそうですが、その晴れ晴れとした気分は何と表現したら良いか、それは困難な仕事をやり終えて、重い肩の荷物を下ろしたような感じ、とでも言うような気分だったそうです。
 この男はうつつ峠を越えながら、これからは「意地と怨念」で生きて行くことに決めたそうです。
 よくよく考えれば意地も怨念も悪いことばかりではありません「よくもコケにしやがって、ヨッし!、こうなったら生きてやるぞ」という様な感じでしょうか、これからは誰に頼ることも出来ません、わずかな年金をたよりにやりくりして。良くても自分、悪くても自分です、早寝早起、健康第一に考えて生きて行くことにしたのです。

 程なく、この男は二度と行くことも無い、養子先の85歳で亡くなった父親の眠る小高い丘の墓前に「あなたの夢と希望は実現されました、安らかにお眠り下さい」と報告に行ったそうです。
 考えて見ればこの父親も何の因果か、ここの「家」の長男として生を受け、子供の頃から「跡取りだ、跡取りだ」と聞かされて育てられ、生死をさ迷った満州の戦地にも一兵卒として赴き、命からがら生還できたものの年老いた年寄りを抱えて家業を守りながら「氏」を死守することは困難の連続であったろう。
 きっと、この父親も「家」を守ると言う意地と使命感で生きて来たのですから「長男の鏡」と言って差し支えないと思うのですが、この男は父親から辛かった話など1度も聞いたことは無く、酒を飲むと豪快に笑う父だったと言うのです。

 この男の話だと、父親の葬儀では喪主である長女の手には代々この家に伝わる黒水晶の数珠が光り、喪主の両横には2人の妹が控え、その後ろには妹の子供たち、その後ろにはひ孫たちが並びました。
 それは確固とした「家の総帥」としての凛とした姿は「氏を守る」と言う、まるで鬼が乗り移ったかのような姿を見て、この4男として生まれたポジションの男には未来永劫、同化できない別世界を見たそうです。

 この男の話だと、父親の葬儀では喪主である長女の元で「氏」を引き継いだ5人の内孫と5人の外孫、それにひ孫たちによって納棺され、棺は孫たちに軽々と持ち上げられて霊柩車に移され、霊柩車は長いホーンを聞いたところで参列者の合唱の中を静かに動き出しました。
 この男は、これを見て「父親の夢」だったのかも知れないと話しているのです。
 間違いなく「いらん子」として生まれた4男は、戸籍のどこを探しても「長男」としか解らない、実の子供として戸籍に記載されながらも、36年間の時間を消費しながら「氏」を守る意地と使命感を共有することが出来ませんでした。

 この男は岐阜県の実家に戻り米つくりの農作業をやりながら考えたそうです。
 この男が養子として迎えられたのは「養子」としてこの男を戸籍に入れないといけない理由があったはずです、では、この養子に期待された任務とは何かです。
 ご養子さんの任務は「代々、続いた氏を継承させる」または「財産を次の代に継承させたい」などが考えられますが、この男を養子として迎えた家には財産らしい財産が無かったのです、有っても不良資産のたぐいで処分もできないような建物とか土地で、有るがために管理する費用がいる資産だったのです。

 ですから、ただただ父親のメンツで氏を継承させたいだけで「養子に来てほしい」と言ったのです、財産の無い家に入ったご養子さんほど惨めな養子はありません、もともと養子を迎える「家」としての気分的な資格はあったのですが物理的な資格が無かったのです。
 この男はいろいろ考える中で財産の無いご養子さんの存在価値は必然的に変化することに気が付きました。それはこの家の労力として重宝され、さらに働いて得た給与の一部は生活費に算入されました、ですから養子に行ったときに貯めていた虎の子の150万円もいつの間にか消えてなくなりました。
  この男は酒も飲まず、タバコもやらず、賭け事嫌い、旅行嫌い、テレビ嫌い、野球見るの嫌い、人の集まる所嫌いで趣味と言えば、ボーッと海を見ていることくらいで、手間のかからない男でした。

 さらに、この男が言うには、自分は世間知らずで知らなかったが結婚した相手は世間の人は知らない人はいないと言うほどの「大女優だった」と言うのです。
 それはそれは着物の似合う背の高い女で、どこに行っても目立って「何て!いい女を連れているんだ」などと言われたものです。
 しかし、この大女優さんも小さい頃から「跡取りだ、跡取りだ」と言い聞かされて育ったから「将来は養子をもらって生まれた氏を継ぐんだ」と決めていたのです。
 おりしも、NHKラジオで大女優の大原麗子さんが孤独死で発見されたニュースを聞きましたが、4年間、結婚していた歌手の森進一さんが所属事務所を通じて「4年間の楽しかったことを思い出します、ご冥福をお祈りします」との談話を発表したことを聞いて、この男は「女優と結婚して楽しかった?、うそだ!、女優なんて遠くから見るもので結婚するものではない」と思ったそうです。

 この女優さんは20歳を超えた辺りから周辺の男を見ると「あの男なら養子に来てくれるかも」などと、結婚相手は「養子に来てくれる男」を必須第1条件に考えて、養子に来てくれそうにない男は結婚相手から除外していたのです。
 そこで目を付けられたのが「お人よし」で「世間知らず」、「4男」、「どうにもなりそうで、こだわりが無い」、「低い方へ低い方へ流れるような人生」「白でも黒で黄色でもよい」、簡単に、端的に言うと「馬鹿な男」がたまたま見つかり、名誉ある「ご養子さん」としてターゲットに選定されたのです。
 で、今でもありますが名古屋市港区の築地交差点角のビルの2階の喫茶店に「話がある」と言うから行く「結婚してほしい」と言うのです、そこでこの男が「断ったら」と言うと、この長女は「断られると他に頼む人がいないから困る」と言ったそうです。
 ですからもともと、仲良く人生を生きて行こうなどと考えていたのではなく、ただただ「養子をもらって跡を継ぐ」ことが自分の責任であって、生まれた目的だと、勘違いと錯覚、思い込みから出てきた発想でした。
 それは2人にとって実に不幸な勘違いと錯覚、思い込みでした。
 確かに父親の「氏の継承」と言う夢は実現されましたが、今、誰かがこれを聞いたら「それがナンボのモンや」と言う程度のものです、そんなつまらないことにこの男とこの女優の人生の大半はかく乱されたのです。

 この「家」にとってこの先、このご養子さんは60歳ですから介護や扶養などお荷物か厄介者としての負担感が日増しに増加することは確実です。
 そこで「使い捨てカイロ」「テッシュペーパー」か「産業廃棄物」のように、さらに解りやすく言うと本体ロケットの横のブースターロケットが爆薬で切り離された感じでしょうか、早い話が「賞味期限の切れたインスタントラーメン」ってとこでしょう、まさに「任務完了にて候」となったのです。
 動機と結果、それに損得勘定で考えれば至極(しごく)当然な成り行きでした。世界の自動車メーカー、トヨタの「看板方式」のごとく「必要な時に必要な量だけを持って来いよ」と言うような感じでしょうか。

 そこで、仕方ないですから、名古屋から車で1時間ほどの実家に戻りました。
 36年前に養子に行った息子が「戻りました」と実家に帰っても、すでに親はなく、兄弟もいろいろで実家にはおらず、しばらく親戚を転々としていましたがヒマなら作り手がなくて困っていた「実家の田んぼを作れヤ」という話になりました。
 実家では農業機械を置く物置のトラックターを外に出して、コンバインと田植え機の間にテントを張って寝泊りして、自炊しながら8反(2400坪)の田んぼで米を作ることにしたのです。

 実家の田んぼで米を作ると言っても、作り方が解りませんから、組合員でもないのに農協の支店長にうっとしいほど聞いたり、近所のおばさんにクドクドと聞きながら農作業をやりました「となり百姓」の見本のような米づくりで隣周辺を見てワケも解らず同じような作業をやっていたのです。

 ですが「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったものです。
 近所のおじさんやおばさんたちが実に親切、丁寧に米の作り方を教えてくれるのです、ここのおばさんたちは70歳、80歳ですから、高齢でやれない作業がけっこうあります、そこでこの男が気楽にやってやるとびっくりするくらい喜んでくれます、太い木を切るとか、腰が痛いが野菜に水をやりたいと言うからジョロで水をかけてやる、医院に薬を取りに行きたいと言うから軽トラに乗せて行ってやる、雨どいがゆがんで雨が落ちて来るから直してやる、硬い土手に溝を掘ると言うからスコップで掘ってやるなど、この男は周辺のおじさんやおばさんのやれない仕事をやってやるから「良い人が来た」と人気者になったのです。

 子供の頃からの顔見知りがいつも姿を見るから不思議に思って「家に帰らないのか」と聞くから「36年間、養子としてがんばったつもりだが養子先から返された」と話すと「ワッハハハ」と笑って「あっそー」と言って恐る恐る寝泊りしているテントを見に来るそうです。
 うれしいのは、近所の人が畑で採れた野菜を持って来てくれたり、野菜の苗をくれたり、野菜の作り方を親切に教えてくれるのです。
 田んぼを作り始めて周辺をよく見ると、70歳、80歳の人がほとんどで文字通り「労骨にムチ打つ」という感じで農作業をやっているのです、60歳のこの男は解雇された空港の会社では老人扱いでしたがここでは坊や扱いに変わりました。
 日本の農業、特に米は作れば作る程、赤字ですから若い世代は興味がありません、毎年毎年、必ず赤字ですが作り続けるという世界でも稀(まれ)な商品です、日本ではどこでも似たり寄ったりの農村事情なのに国会では政府答弁で農林水産大臣がまじめな顔して「食糧の自給率を上げることは至上課題」などと答弁しているのを聞いて、この男は「国が滅びるまで言ってろよ」と思ったそうです。

 問題はこの地域は標高が高いために冬は零下15度にもなり寒い地域です、物置のテント暮らしでは寒過ぎます、そこでこの男は米の収穫が終わって秋のかたつけを早目に終えて知多半島の海の見えるみかん山の農機具置き場で寝泊りしながら田んぼの氷が解ける春を待つことにしたそうです。
 みかん山の管理者は元競輪選手だったそうですが、こんなワケの判らない男にたとえ物置とは言え「春まで貸してほしい」と言われて、2回か3回会っただけで「ハイ貸します」という話です、みかん山は広大な面積でしかも夜間は無人ですから「あんたが来てくれたらありがたい。いい人が来た」と言っているそうです。
 うれしい事にみかんは食べ放題らしいのです、この辺のみかんは稲作と同じで出荷すればする程、赤字で大半のみかんはカラスの餌になっているようです。 
 最後の失業保険金のお金が入った夜、お金を入れた封筒の裏に「力不足ですいません、これからは良い人が来てくれたと言われるところで生きて行きます」と書いて夜中の玄関に置いて実家の物置に帰りました。
 帰るときに「人生ってこんなもんだろう」と自分に言い聞かせながら、軽トラでうつつ峠を越えながらラジオのスイッチを入れると美空ひばりの「川の流れのように」が流れていたそうです。   2009年9月5日

(注意)上記の文章は亀崎茂夫が得意の空想と妄想の中で作り上げた文章ですので、実在の人物、団体などたとえ同じ名前があったとしても関係がありませんので、その辺を勘案の上でお読み下さい。
(追伸)こんな長い文章を、最後まで読んでいただき感謝します、上記、自称・農民は近所の老人から田んぼを借りて面積を拡大して、14反の面積で米を作ると張り切っているそうです、09年11月。
2009年12月07日(月) 21:38:49 Modified by abcsigeo




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