頑張れラフェットさん

イザヤールとノインは光り輝く泉を抜け、地上から天使界へと到着した。
地上に赴むくのが数回目のノインは、見慣れた天使界の風景に安心して息をついた。

「本日の修行はこれまでとする」
「はい、ありがとうございました!」

まだ地上から天使界への急上昇に慣れていないらしく、元気よく返事をしながらもノインは少しふらついている。
「あの、お師匠様はこのまま部屋に戻られるのですか?」
足もとがおぼつかないノインを支えてやりながらイザヤールが応えた。
「いや、私はこれからオムイ様と来週の会合についての話し合いがある」
「そうですか。じゃあ今日はもう、これで…」
「そうだな」
「…」
「…」

ノインがあたりをきょろきょろと小さく見渡す。
イザヤールもそんなノインの様子に気づき、照れを隠すように横を向いて咳払いをした。
天使達は皆出払っているのか、ホールはしんとしている。
誰もいない。
「イザヤール様…」
ノインが師の呼び方を変え、その小さな身を寄せた。
イザヤールは黙したまま翼を広げ、それで小さな体を包むようにして隠す。
大きな手でノインの前髪がかき上げられ、そのまま額に祈るようなキスが落とされた。

しばしの沈黙の後、ぱっとノインが身を離す。

「では、お師匠様また明日!」
そう言う頬は、ほのかに桜色に染まっている。
「ああ」
応える方の耳にも少し色が付いていた。

結局二人は、こっそりと柱の影から覗く人影には、気がつかないままであった。

「では、失礼します」

オムイに挨拶をし、イザヤールは天使長の間を抜けた。
来週の会合での議題を書き留めた書録をめくりながら、自室に向かう廊下を歩いて行く。
と、後ろから ひょい、と手の内の書簡が奪われた。

「あら、相変わらずマメな字ね」
「…ラフェットか」
驚かすな、とイザヤールはため息をついた。
「失礼ねー、驚かされたのはこっちよ?」
ラフェットはどうにも堪え切れないといった体で、含み笑いをしながらイザヤールの肩をぱしぱし叩いている。
「? なんの話だ」
「ごめんなさいね、さっき偶然見ちゃって」

あなたとノインが帰ってきたとこ、とラフェットがにっこり笑顔で付け加える。

「!ラっ、ラフェッ…」
イザヤールは顔を真っ赤にして口をパクパクさせている。
「まあイザヤール、茹でた蛸そっくりよ」
ラフェットはこれ以上ないというほどに天使らしい笑みを浮かべている。
昔から事あるごとに生真面目なイザヤールをからかい続けてきたラフェットだ。
このような大きなネタが手に入ったことがよっぽどにうれしいのだろう。
イザヤールはもう言葉も出ない。
さあ、馴れ初めを一から十まで聞かせて頂戴!と意気込むラフェットに、イザヤールは力なく引きずられていった。

「意外とやるわよねぇ。隅に置けないわ」
「ぐ…そのような言い方は止してくれないか…」
結局ラフェットの書斎まで連れてこられてしまった。
並々と茶を入れられ、すっかり逃げられない状況が出来上がっている。
「うふふ、私本当に心配してたのよ。だから安心したわ」
「…何をだ」
「何って、あなたのことに決まっているじゃない!あなた、ずーっと、かなり前からノインのこと好きだったでしょ。ノインだってそうだし。
それなのに二人とも奥手だから、もー見ててじれったくてじれったくて!」

「そ、そんなに筒抜けだったか!?」
「あなたともノインとも仲良いのに、わからない方がどうかしてるって感じよ…」
ラフェットがあきれたような声を出す。

「で、いつから? いつからなの?」
あの初々しい様子じゃ最近でしょう?とラフェットが問い詰める。
「…半年前からだ」
イザヤールがふてくされたようにそっぽを向いて答えた。
「半年前ぇ!?」
驚いたのはラフェットだ。
そんなに前から想いが通じ合っていたのか、という驚きと、そんなに長い間自分は気付かなかったのか、という驚きの両方だった。
「そんなに前から? 全然気付かなかったわー私」
「…それは何よりだ」
天使界は狭いのだ。男女の付き合いをしている天使など、すぐにその関係が周りにばれてしまう。
しかし、半年もの時間があったのに、あの初々しさはどうだろう。ラフェットはそんな疑問を持ったがひとまず脇に置いておいた。
「へえ…あ、どうせノインの方からの告白でしょ?」
「…何故わかる」
「あなたが自分から手を出せるわけないじゃない」
糞真面目なんだから、とラフェットは至極真顔で断言した。
イザヤールは何か言い返そうと口を開いたが、事実その通りなので、結局再び口をへの字に閉じてしまった。
苦し紛れに茶に手を伸ばし、一口ふた口中身を啜る。

「じゃ、もう当然やっちゃったのよね?」

ぶふぉ とイザヤールが茶を拭いた。
「ななな、なな、な」
「ちょっとお、書斎汚さないでよ」
ラフェットは至って冷静に、で、どうなの?と繰り返す。
「するわけないだろう!! ノインはまだ16だぞ!?」
イザヤールが今度こそ本当に頭まで真赤にしてラフェットに言い返す。
「何言ってるの。天使としてはもう充分大人じゃない」
「大人ではない!ノインにはまだそのような事は早い!」
もっと大人になってからだな…とぶつぶつ続けようとするイザヤールをラフェットが遮った。
ラフェットの胸中に先ほどの疑問がぶり返していた。
なんだか、いやな予感がする。

「え、ていうかちょっと待ってイザヤール…キスはしたわよね?」
「…先ほど、見ていたのだろう?」
「さっきのはおやすみのキスでしょ、ちゃんとしたキスよ」
「………」
「へ?」
ええええええ、とラフェットの気の抜けた驚愕の声が廊下にまで漏れた。

「あなた、半年の間何やってたの…」
「…やかましい」
激しく脱力したラフェットと、激しく精神を消耗したイザヤールが、机に突っ伏している。

詳しく話を聞いてみれば、額にキスをするようになったのも二週間ほど前からだという。
どんだけスローペースなのよ!?と思わずラフェットは心中で突っ込んだ。
周囲にばれないはずである。二人は未だほとんど恋人らしいことをしていないのだ。

イザヤールいわく、そもそもは自分のせいである、らしい。
これまでストイックに師匠として接してきて、ノインも生真面目に弟子としてついてきた。
天使として必要な武術や知識についてはあきれるほどに教えたが、反面、そうでないものについては必要以上教えなかったのだ。
つまり、ノインは男女の付き合いについての知識が、ほぼ皆無に等しい。
イザヤールはイザヤールで、ノインを大事にするあまり自分から手を出さない。
自分がノインよりも上級の天使なものだから、下手をすれば無理強いになると思っているのだ。
結果として半年もの間、二人は何をすることもなく、呑気にニコニコふわふわしていたというのだ。

「あっきれた…前言撤回よ、イザヤール」
このへたれ、とラフェットは付け加えた。
「わ、私達には私達のペースというものがだな」
「ノインがおばあちゃんになっても手を出せないわよそれじゃあ!」
ばん、とラフェットが机を叩き、ぐっ、とイザヤールが喉を詰まらせた。
「ノインが可哀そうよ!さっさと突っ込むなりなんなりしなさい!」
「だあああ!ちょっとは歯に布を着せろ!!」
ぐっと拳を突き出し中指と薬指の間から親指を覗かせるジェスチャーをしたラフェットに、イザヤールが噛みつかんばかりにがなり立てた。
「…とにかく! 余計な口出しはしないでもらおう!!」
ぜえぜえ、と息をつき、イザヤールが茶を一口にあおって立ち上がる。
「あ、こらちょっと待ちなさい!」
「付き合ってられるか!」
バタン!と派手な音を立て、イザヤールはラフェットの部屋から逃げ出した。

「ああ、もう、やっぱり心配だわ!」
ラフェットは頭を抱えた。人間ならば、半年もあれば付き合って別れて、また新しい恋人を見つけていたっておかしくはない。
イザヤールとて、いつまでも我慢できるものではあるまいに。
しかし同時にイザヤールが頑固な性質であるという事は十二分に知っている。なおさら心配にも拍車がかかる。
一人取り残されたラフェットは必死になって思案を巡らせた。
「…ようは、ノインがその気になってればいいんでしょう?」
ラフェットは書棚から怪しげなくすんだ色の本を取り出した。
「び…び…媚薬、媚薬…」
ぶつぶつと不穏な事をつぶやき、ラフェットはその日一晩中ページをめくり続けたという。

≪了≫
2010年02月05日(金) 23:28:41 Modified by khiromax




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