影の現象学 河合隼雄
＃１
影と言ってもマイナスのことばかりではない。それはマイナスもプラスも共に含むものだ。ただ、厳しい対決と自覚を経ぬ時は、それは思いがけぬ破壊的な効果を与える。影の恐ろしさを感じすぎる人は、それとの接触を回避し、影のもつせっかくのプラスの面を引き出すことができない。影との「つきあい」は危険に満ちているが、その意義も深いのだ。影は「もう１人の私」の存在として自覚されることが多い。
＃２
遠藤周作の著作にはよく「もう１人の私」の主題が見られる。『スキャンダル』における影の問題の追及の深さは感動的だ。
＃３
人間にとって影がどのような意味をもつかは、それに対する未開人の態度について知ることによって、もっとも端的に明らかにすることができるであろう。現代人の目が自我意識によってくもらされているのに対して、未開人の目は、はるかに「影そのもの」を見たのではないかと思われるからである。影はその人間の体の一部のように考えられるか、あるいは、われわれが「たましい」と呼んでいるものに同定して考えられているようだ。しかし後者の点については、影とたましいを単純に等価関係におくのではなく、もう少し分化された考えも存在する。
＃４
子どもたちのする「影踏み」の遊びは、おそらく古代の宗教的儀式から派生してきたものではないかと思われる。
＃５
光と陰という二分法について考えてみると、人間の身体と心、意識と無意識、良心と悪心などのいろいろな二分法が思い浮かんでくるが、影の問題はこれらと深い関連をもちつつ、簡単にはどれかと結びつくものでもないところが興味深い。このために、ユングのいう「影」の問題は複雑で、意味あるものになってくる。
＃６
イメージについて、二様の対立する考えが存在する。つまり、イメージとは外界の模造であるという考えと、内界の状態の反映であるという考え方である。前者は、知覚対象のない場合に生じる視覚像である。これに対して、後者のような考え方の典型を、ユングは、イメージが外的客体の知覚とは間接のつながりしかもたぬもので、むしろ「無意識的空想の活動に基づくもの」であり、内的欲求への適応によって方向づけられると考えている。…夢、神話、投影法の反応などを通じて明らかにされるイメージの世界を探ってゆくのであるが、そのなかで特にユングが「影」と名づけたものを中心にしてゆこうとするのが本書の目標である。人間にとって、イメージとしての影はとても大切である。
＃７
ユングが影をどのように定義しているかは、簡単なようで案外解りにくい。たとえば、彼の言葉を引用すると、「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも常に、直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのこと―たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向―を人格化したものである」と述べている。これである程度のことは解るが、では影と、ユングのよく言うコンプレックスとはどうちがうのか、あるいは、無意識そのものと同じものかという疑問が生じてくる。ところが、夢に現れてくる人物像を、夢を見た人と同性のものを「影」と呼び、異性のものを、「アニマ」（男性の夢の中の女性像）、「アニムス」（女性の夢の中の男性像）と呼んで、「影との出会いが『弟子の仕事』とするならば、アニマ（アニムス）との出会いは『師匠の仕事』である」と述べている点をみると、影はもちろん無意識そのものなどえはないと思われるし、アニマ（アニムス）の問題に比べれば、比較的「容易な」ことなのかとも思われる。しかし、また他のところで彼は、「少しの自己批判力をもって、人は影を―その性質が個人的なものである限り―見通すことができる。しかし、影が元型として現れるときは、アニマやアニムスの場合と同様の困難に出会うものだ」と述べているのである。このような彼の言葉を断片的に見ていると、ユング自身も用語の使用に混乱をきたしているとさえ感じられる。
＃８
ユングは体験を重視する。彼は自分の理論が「経験的に」つくられてきたことを常に強調する。彼の理論を考える時、彼の経験を背後に考えるべき。また、時代という背景も考えるべき。
＃９
影という用語は、あくまでイメージの世界から生じてきたものでる。だから、概念的明確さを初めから拒否しているものだといえる。ユング派、イメージと概念を対比して、イメージは生命力をもつが明確さに欠き、概念は明確であるが生命力を欠くものだと述べている。影を明確に把握しようとして白日のもとにさらすと、それはもはや影の特徴を失っているとさえ言えるのである。
＃１０
「宗教体験の本質を解明して、ヌミノーゼという用語をその基礎においた、ルドルフ・オットーは、その用語について、「あらゆる根源的な基本事実と同じく、厳密な意味で定義を下すことができず、ただ論議し得るのみである。相手にそれを理解させる方法は、ただ一つあるだけである。すなわち議論によって、相手を自分の心情との一致点にまで導いてくる。するとその範疇が相手方の心の中で動き出し、活躍し始め、相手方を自覚させるにちがいない」と述べている。これと同様のことが、ユングの言う影のみならず、彼が元型といして述べる他の用語についてもあてはまると思われる。」
＃１１
影は個人に体験されることとしては、まず無意識の全体として体験されると言わねばならない。つまり、影は後に分化されてゆくにしろ、最初は無意識の全体を被うものとして体験されるのである。夢にでてきた人が、既知の誰かである、あるいは、誰かに似ているというときは、それに対する連想を頼りにして、影の内容を分化してゆくことが可能である。このように影は非常に未分化な無意識全体をあらわすような形で体験されるが、それが分化すると、もっと個別的な性質をもち、それがどのような点で、自分の無視してきた側面をあらわしているかが明らかとなってくる。このような場合を、ユングは影が夢を見た人と同性の人物像であらわされ、その性質はわりに把握しやすいものと述べているのである。このように分化がはじまり、無意識の内容がだんだんと意識化されてくると、次に、異性像で表されるような心的内容が生じてくる。ユングは夢にでてくる異性像をアニマ、アニムスと名づけ、影と区別した。
＃１２
影との対決はそれにふさわしい「時」があり、自分の力も省みずに行なう時は、非常に危険なことになることを忘れてはならない。
＃１３
影を抑圧して生きながら、影の反逆をまったく受けていないように見える人がいる。しかし、よく見るとその人の周囲の人が、その影を肩代わりをさせられている場合が多い。他人から聖人、君子のように思われている人の子どもが手のつけられない放蕩息子であったり、犯罪者であったりする場合が、それである。親子関係に一般的な意味で問題がないとしても、親の「影のない」生き方自身に、子どもの肩代わりの現象を呼び起こす力が存在しているのである。それほど劇的でないにしても、子どもは多かれ少なかれ親の影を背負わされるものである。子どもはそれと苦闘しつつ、結局はそれを背負って親とまったく逆の生き方をするか、影を排除しようと努めつつ親と同じ生き方をするか、になってしまうことが多い。親を色々と批判しつつ、子どもは親と同じか、あるいはまったく逆か、のふたつの生き方を選ぶことが多く、親の生き方を適度に修正することは、ほとんど至難のことと言ってよい。そこには、無意識的な影の力が働いているため、意識的な努力に強い慣性が作用しているのである。
＃１４
集団の影の肩代わりの現象として、いわゆる、いけにえの羊（scapegoat）の問題がある。外部のどこかに影の肩代わりをさせるのだ。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちは有名だ。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることで、自分らの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまうのだ。つまり、集団の影をすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学級の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからだ。無意識な程度のひどい人は、いけにえの羊の存在が集団の幸福を乱すと本気で感じている。そして、その羊の存在で自分たちの安価な幸福があがなわれてることに全く気がつかない。
＃１５
いけにえの羊をつくりだしたり、集団の外部に影を投げかけたりせずに、集団内で影の反逆を防ぐ方策として、人間は影の祭典というものをもっている。ユングも述べているように、ヨーロッパの中世において盛んになった「愚者の祭り」などがその典型であろう。それは中世の秩序を支えているキリスト教の教義をまったく逆転せしめる祭りである。「礼拝式の最中に、グロテスクな顔をしたり、女、ライオン、道化役者などに変装した仮装者たちが踊りをおどり、聖歌隊は卑猥な歌をうたい、ミサを行っている近くの祭壇のすみで、脂っこい食物を食べ、博打までうちはじめ、古皮でつくったいやな匂いの香をたき、強化移住を走ったり跳びはめたりする」というのだから、まったく凄まじい。キリスト教の厳然とした教義によって縛られた民衆にとっては、まさに「影の浄化の祭典」（shadow catharsis festival）というにふさわしい。これによって影の鬱積によって生じる暴発を防ぐことができたと考えられる。日本においても、影の浄化の祭典は多く存在し、盆踊りなどもそのような意味をもったであろうし、現在なお行なわれている、いろいろな「無礼講」がその意味を果たしていることは明瞭だ。
＃１６
影との関連においてどうしても考慮しなければならなのは、永遠の少年の問題である。親の影を子どもが肩代わりする（＃１３）以外に、子どもがその影を親にまったく押しつける場合もよくある。子どもはやりたい放題のことをして、母親はひたすらその尻ぬぐいをさせられる。これは大なり小なり母子のパターンとして生じることであるが、これが年齢が大人になってももちこされたり、程度がひどくなってくると、そこに「永遠の少年」の元型が働いていることが感じられる。少年は自分の影を自分で背負うことをしない。自分の影の存在にすら気づいていないときもある。
＃１７
「『永遠の少年』とは、オヴィッドがギリシャにおけるエリューシスの秘儀の少年の神イアカスを指して呼んだ言葉である。エリューシスの秘儀はデメーテル、コーレの神話を踏まえ、穀物が母なる土を母胎として冬には枯れ、春には芽生えてくる現象を基にして、死と再生の秘儀をとり行なうものである。ここで死と再生を繰り返す穀物の姿の顕現として、「永遠の少年」の神イアカスが登場する。永遠の少年は青年に達するまでに死に、グレートマザーの子宮の中で再生し、再び少年としてこの世に現れる。それは常に少年であって聖人に達することがない。永遠の少年は、英雄であり、神の子であり、皇子であり、あるいはグレートマザーの申し子であり、救世主であり、トリックスターであり、そして、そのいずれにも成りきっていない不思議な存在である。それは、英雄として、救世主として急激な上昇を試みるが、それに成りきる前に突然の落下により、母なる大地に吸い込まれてしまう。しかし、それはまた新たな形をとって再生し急上昇を試みる。このような永遠の少年の元型は、すべての人の心の無意識内に存在している。このような元型と同一化するとき、その人は文字通り「永遠の少年」となる。」
＃２０
「永遠の少年の元型と同一化した人のイメージを、ユング派の分析家たちはみごとにスケッチしている。現代の社会に生きている永遠の少年たちは必ずしも年齢が若いとは限らない。彼らは習慣にとらわれず、直線的に真実に迫り、理想を追い求める姿勢をもっている。ヒルマンが指摘するように彼らの主なテーマは「上昇」であり、理想を求めて急上昇を試みる。しかし、彼らは水平方向に広がる時空間、つまり「現実」とのつながりの弱さにその特徴をもっている。理想を追いつつそれを現実化する力に欠ける。彼らのもっとも不得手なことは待つことであり忍耐である。現実とのつながりを失ったとき上昇は停止し急激な下降がはじまる。大地に吸い込まれてグレートマザーの子宮に帰ると、しばらくは無為の生活が始まる。彼らは自分が社会に適応できないのは、自分の特別な才能が理解されないためであるとか、こんな誤った社会には適応する必要がないのだとか自らに言いきかせて、その無為の状態を合理化している。ところが、ふとある日、彼らは何かにつかれたように人類の救済や、継承をめざして急上昇をはじめる。そのときの力の強さは多くの人を驚嘆せしめ、ときには大きい期待をさえ呼び起こすが、結果としては、おきまりの落下と無為が訪れるのみである。少年が光を求めて昇れば昇るほど、彼の影は母なる大地に大きく投影される。彼らにとって、それは親であり社会であり、国である。それらに向かって彼らは、すべての悪の責任をとることを要求するが、自ら自分の影を背負って立とうとはしないのである。彼らが自らの陰の存在を意識したとき、そこに死が訪れる。その死を、成人式への成長のためのイニシエーションとして迎えるか、母なる大地への単なる回帰とするかは、彼らの自我の強さにかかっている。」
＃２１
永遠の少年の死の神話は、全世界にひろく分布している。今はそのなかで影との関連を如実に示すものとして、北欧神話のバルデルの死の話を取り上げてみよう。バルデルはひどくあやしい夢を見たので、神々にそれを告げた。そこで神々は会議を開いて、世界のあらゆるものがバルデルに危害を与えないようにすることになった。バルデルの母親のフリッグが、世界のあらゆるもの、火・水・土・石・動物などにバルデルに傷を与えない約束をとりつけた。神々はそこで安心して、バルデルを立たして何でもかでもを投げつけるという遊びを考案した。何があたってもバルデルは傷つかないので、神々はこの遊びに打ち興じた。ところが邪悪な神ロキはこれを見てねたましく思い、フリッグをおだてあげて、結局は彼女が「宿り木」だけはあまりに弱弱しいので、誓いをたてさせなかったことを聞き出したのである。ロキは早速、宿り木を取って持って行き、オーディーンの息子のホルズが盲目であるために遊びからはずれているのを見て、新設ごかしに宿り木を持たし、バルデル目がけて投げるように助けてやる。ホルズは喜んでロキの言葉に従い、それはバルデルに命中して命を奪ってしまう。大きい不幸に神々は呆然とし、ロキは逃走してしまう。このあと神々のロキに対する復習の話がつづくが、それは省略して、少年の神バルデルの死の意味について考えてみることにしよう。
＃２２
バルデルは非常に美しく、彼の姿を目にし、彼が語るのを聞きさえすれば、誰でも彼を好きになったと言われている。これも「永遠の少年」の在り方のひとつである。永遠の少年は影をすべて母親に負わせ、自分はよい子でいられるのだ。全世界のあらゆるものに、わが子に危険を加えない誓いを取りつけることは、もしも可能なら日本中のすべての母親がしたいと望むことであろう。母親フリッグとバルデルの結びつきの強さは明らかである。その強さはユングも言っているように、「永遠の近親相姦の状態」とさえ呼べるものであろう。それを端的に示しているのが「宿り木」である。つまり、宿り木は母なる木に寄生し、それと生命をともにしている。このような類比からみて、宿り木はバルデルの影の兄弟なのである。宿り木はバルデルその人と等価であり、それがロキによって親木から取り去られた時、バルデルの命はもはや終わりとなったのである。かくて、影の一撃はバルデルを倒してしまう。「英雄が英雄的な仕事をやり抜くために、その生命力と意志の強さを欠くときは、影は致命的なものとなる」のである。…バルデルの神話が示唆するように、永遠の少年の取り扱いの難しさは、彼らの背後に常に死の影が存在していることである。彼らの急上昇を無理にストップさせると、それは死につながることが多い。そこで、われわれ心理療法家にとってできることは、少年たちと共に空を飛びながら、徐々に制動をかけることしかない。あるいは、フォン・フランツの言うように、気球を背負って飛んでいる少年のところへ、こちらも気球によって飛んで行き、二人で空中で飛翔をつづけながら、だんだんとその空気を抜いてやるしかないのである。これはまったく辛抱のいることである。しかし、一般の人々は、ときに気球で飛翔する若者に喝采をおくるか、あるいは業を煮やして気球を打ち破るかのどちらかであるようだ。少年と共に空を飛ぶのは、こちらの命も危ないので、多くの人々が地上に足をつけたままで、少年たちをあしらっているのも当然のことかもしれない。永遠の少年たちは、自分の影を意識しないまま、その影を両親や社会に投影し、ひたすら正しく、幸福に生きているが、それにしても、われわれはいつかは自分の影の存在を自覚しなければならない。
影と言ってもマイナスのことばかりではない。それはマイナスもプラスも共に含むものだ。ただ、厳しい対決と自覚を経ぬ時は、それは思いがけぬ破壊的な効果を与える。影の恐ろしさを感じすぎる人は、それとの接触を回避し、影のもつせっかくのプラスの面を引き出すことができない。影との「つきあい」は危険に満ちているが、その意義も深いのだ。影は「もう１人の私」の存在として自覚されることが多い。
＃２
遠藤周作の著作にはよく「もう１人の私」の主題が見られる。『スキャンダル』における影の問題の追及の深さは感動的だ。
＃３
人間にとって影がどのような意味をもつかは、それに対する未開人の態度について知ることによって、もっとも端的に明らかにすることができるであろう。現代人の目が自我意識によってくもらされているのに対して、未開人の目は、はるかに「影そのもの」を見たのではないかと思われるからである。影はその人間の体の一部のように考えられるか、あるいは、われわれが「たましい」と呼んでいるものに同定して考えられているようだ。しかし後者の点については、影とたましいを単純に等価関係におくのではなく、もう少し分化された考えも存在する。
＃４
子どもたちのする「影踏み」の遊びは、おそらく古代の宗教的儀式から派生してきたものではないかと思われる。
＃５
光と陰という二分法について考えてみると、人間の身体と心、意識と無意識、良心と悪心などのいろいろな二分法が思い浮かんでくるが、影の問題はこれらと深い関連をもちつつ、簡単にはどれかと結びつくものでもないところが興味深い。このために、ユングのいう「影」の問題は複雑で、意味あるものになってくる。
＃６
イメージについて、二様の対立する考えが存在する。つまり、イメージとは外界の模造であるという考えと、内界の状態の反映であるという考え方である。前者は、知覚対象のない場合に生じる視覚像である。これに対して、後者のような考え方の典型を、ユングは、イメージが外的客体の知覚とは間接のつながりしかもたぬもので、むしろ「無意識的空想の活動に基づくもの」であり、内的欲求への適応によって方向づけられると考えている。…夢、神話、投影法の反応などを通じて明らかにされるイメージの世界を探ってゆくのであるが、そのなかで特にユングが「影」と名づけたものを中心にしてゆこうとするのが本書の目標である。人間にとって、イメージとしての影はとても大切である。
＃７
ユングが影をどのように定義しているかは、簡単なようで案外解りにくい。たとえば、彼の言葉を引用すると、「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも常に、直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのこと―たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向―を人格化したものである」と述べている。これである程度のことは解るが、では影と、ユングのよく言うコンプレックスとはどうちがうのか、あるいは、無意識そのものと同じものかという疑問が生じてくる。ところが、夢に現れてくる人物像を、夢を見た人と同性のものを「影」と呼び、異性のものを、「アニマ」（男性の夢の中の女性像）、「アニムス」（女性の夢の中の男性像）と呼んで、「影との出会いが『弟子の仕事』とするならば、アニマ（アニムス）との出会いは『師匠の仕事』である」と述べている点をみると、影はもちろん無意識そのものなどえはないと思われるし、アニマ（アニムス）の問題に比べれば、比較的「容易な」ことなのかとも思われる。しかし、また他のところで彼は、「少しの自己批判力をもって、人は影を―その性質が個人的なものである限り―見通すことができる。しかし、影が元型として現れるときは、アニマやアニムスの場合と同様の困難に出会うものだ」と述べているのである。このような彼の言葉を断片的に見ていると、ユング自身も用語の使用に混乱をきたしているとさえ感じられる。
＃８
ユングは体験を重視する。彼は自分の理論が「経験的に」つくられてきたことを常に強調する。彼の理論を考える時、彼の経験を背後に考えるべき。また、時代という背景も考えるべき。
＃９
影という用語は、あくまでイメージの世界から生じてきたものでる。だから、概念的明確さを初めから拒否しているものだといえる。ユング派、イメージと概念を対比して、イメージは生命力をもつが明確さに欠き、概念は明確であるが生命力を欠くものだと述べている。影を明確に把握しようとして白日のもとにさらすと、それはもはや影の特徴を失っているとさえ言えるのである。
＃１０
「宗教体験の本質を解明して、ヌミノーゼという用語をその基礎においた、ルドルフ・オットーは、その用語について、「あらゆる根源的な基本事実と同じく、厳密な意味で定義を下すことができず、ただ論議し得るのみである。相手にそれを理解させる方法は、ただ一つあるだけである。すなわち議論によって、相手を自分の心情との一致点にまで導いてくる。するとその範疇が相手方の心の中で動き出し、活躍し始め、相手方を自覚させるにちがいない」と述べている。これと同様のことが、ユングの言う影のみならず、彼が元型といして述べる他の用語についてもあてはまると思われる。」
＃１１
影は個人に体験されることとしては、まず無意識の全体として体験されると言わねばならない。つまり、影は後に分化されてゆくにしろ、最初は無意識の全体を被うものとして体験されるのである。夢にでてきた人が、既知の誰かである、あるいは、誰かに似ているというときは、それに対する連想を頼りにして、影の内容を分化してゆくことが可能である。このように影は非常に未分化な無意識全体をあらわすような形で体験されるが、それが分化すると、もっと個別的な性質をもち、それがどのような点で、自分の無視してきた側面をあらわしているかが明らかとなってくる。このような場合を、ユングは影が夢を見た人と同性の人物像であらわされ、その性質はわりに把握しやすいものと述べているのである。このように分化がはじまり、無意識の内容がだんだんと意識化されてくると、次に、異性像で表されるような心的内容が生じてくる。ユングは夢にでてくる異性像をアニマ、アニムスと名づけ、影と区別した。
＃１２
影との対決はそれにふさわしい「時」があり、自分の力も省みずに行なう時は、非常に危険なことになることを忘れてはならない。
＃１３
影を抑圧して生きながら、影の反逆をまったく受けていないように見える人がいる。しかし、よく見るとその人の周囲の人が、その影を肩代わりをさせられている場合が多い。他人から聖人、君子のように思われている人の子どもが手のつけられない放蕩息子であったり、犯罪者であったりする場合が、それである。親子関係に一般的な意味で問題がないとしても、親の「影のない」生き方自身に、子どもの肩代わりの現象を呼び起こす力が存在しているのである。それほど劇的でないにしても、子どもは多かれ少なかれ親の影を背負わされるものである。子どもはそれと苦闘しつつ、結局はそれを背負って親とまったく逆の生き方をするか、影を排除しようと努めつつ親と同じ生き方をするか、になってしまうことが多い。親を色々と批判しつつ、子どもは親と同じか、あるいはまったく逆か、のふたつの生き方を選ぶことが多く、親の生き方を適度に修正することは、ほとんど至難のことと言ってよい。そこには、無意識的な影の力が働いているため、意識的な努力に強い慣性が作用しているのである。
＃１４
集団の影の肩代わりの現象として、いわゆる、いけにえの羊（scapegoat）の問題がある。外部のどこかに影の肩代わりをさせるのだ。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちは有名だ。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることで、自分らの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまうのだ。つまり、集団の影をすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学級の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからだ。無意識な程度のひどい人は、いけにえの羊の存在が集団の幸福を乱すと本気で感じている。そして、その羊の存在で自分たちの安価な幸福があがなわれてることに全く気がつかない。
＃１５
いけにえの羊をつくりだしたり、集団の外部に影を投げかけたりせずに、集団内で影の反逆を防ぐ方策として、人間は影の祭典というものをもっている。ユングも述べているように、ヨーロッパの中世において盛んになった「愚者の祭り」などがその典型であろう。それは中世の秩序を支えているキリスト教の教義をまったく逆転せしめる祭りである。「礼拝式の最中に、グロテスクな顔をしたり、女、ライオン、道化役者などに変装した仮装者たちが踊りをおどり、聖歌隊は卑猥な歌をうたい、ミサを行っている近くの祭壇のすみで、脂っこい食物を食べ、博打までうちはじめ、古皮でつくったいやな匂いの香をたき、強化移住を走ったり跳びはめたりする」というのだから、まったく凄まじい。キリスト教の厳然とした教義によって縛られた民衆にとっては、まさに「影の浄化の祭典」（shadow catharsis festival）というにふさわしい。これによって影の鬱積によって生じる暴発を防ぐことができたと考えられる。日本においても、影の浄化の祭典は多く存在し、盆踊りなどもそのような意味をもったであろうし、現在なお行なわれている、いろいろな「無礼講」がその意味を果たしていることは明瞭だ。
＃１６
影との関連においてどうしても考慮しなければならなのは、永遠の少年の問題である。親の影を子どもが肩代わりする（＃１３）以外に、子どもがその影を親にまったく押しつける場合もよくある。子どもはやりたい放題のことをして、母親はひたすらその尻ぬぐいをさせられる。これは大なり小なり母子のパターンとして生じることであるが、これが年齢が大人になってももちこされたり、程度がひどくなってくると、そこに「永遠の少年」の元型が働いていることが感じられる。少年は自分の影を自分で背負うことをしない。自分の影の存在にすら気づいていないときもある。
＃１７
「『永遠の少年』とは、オヴィッドがギリシャにおけるエリューシスの秘儀の少年の神イアカスを指して呼んだ言葉である。エリューシスの秘儀はデメーテル、コーレの神話を踏まえ、穀物が母なる土を母胎として冬には枯れ、春には芽生えてくる現象を基にして、死と再生の秘儀をとり行なうものである。ここで死と再生を繰り返す穀物の姿の顕現として、「永遠の少年」の神イアカスが登場する。永遠の少年は青年に達するまでに死に、グレートマザーの子宮の中で再生し、再び少年としてこの世に現れる。それは常に少年であって聖人に達することがない。永遠の少年は、英雄であり、神の子であり、皇子であり、あるいはグレートマザーの申し子であり、救世主であり、トリックスターであり、そして、そのいずれにも成りきっていない不思議な存在である。それは、英雄として、救世主として急激な上昇を試みるが、それに成りきる前に突然の落下により、母なる大地に吸い込まれてしまう。しかし、それはまた新たな形をとって再生し急上昇を試みる。このような永遠の少年の元型は、すべての人の心の無意識内に存在している。このような元型と同一化するとき、その人は文字通り「永遠の少年」となる。」
＃２０
「永遠の少年の元型と同一化した人のイメージを、ユング派の分析家たちはみごとにスケッチしている。現代の社会に生きている永遠の少年たちは必ずしも年齢が若いとは限らない。彼らは習慣にとらわれず、直線的に真実に迫り、理想を追い求める姿勢をもっている。ヒルマンが指摘するように彼らの主なテーマは「上昇」であり、理想を求めて急上昇を試みる。しかし、彼らは水平方向に広がる時空間、つまり「現実」とのつながりの弱さにその特徴をもっている。理想を追いつつそれを現実化する力に欠ける。彼らのもっとも不得手なことは待つことであり忍耐である。現実とのつながりを失ったとき上昇は停止し急激な下降がはじまる。大地に吸い込まれてグレートマザーの子宮に帰ると、しばらくは無為の生活が始まる。彼らは自分が社会に適応できないのは、自分の特別な才能が理解されないためであるとか、こんな誤った社会には適応する必要がないのだとか自らに言いきかせて、その無為の状態を合理化している。ところが、ふとある日、彼らは何かにつかれたように人類の救済や、継承をめざして急上昇をはじめる。そのときの力の強さは多くの人を驚嘆せしめ、ときには大きい期待をさえ呼び起こすが、結果としては、おきまりの落下と無為が訪れるのみである。少年が光を求めて昇れば昇るほど、彼の影は母なる大地に大きく投影される。彼らにとって、それは親であり社会であり、国である。それらに向かって彼らは、すべての悪の責任をとることを要求するが、自ら自分の影を背負って立とうとはしないのである。彼らが自らの陰の存在を意識したとき、そこに死が訪れる。その死を、成人式への成長のためのイニシエーションとして迎えるか、母なる大地への単なる回帰とするかは、彼らの自我の強さにかかっている。」
＃２１
永遠の少年の死の神話は、全世界にひろく分布している。今はそのなかで影との関連を如実に示すものとして、北欧神話のバルデルの死の話を取り上げてみよう。バルデルはひどくあやしい夢を見たので、神々にそれを告げた。そこで神々は会議を開いて、世界のあらゆるものがバルデルに危害を与えないようにすることになった。バルデルの母親のフリッグが、世界のあらゆるもの、火・水・土・石・動物などにバルデルに傷を与えない約束をとりつけた。神々はそこで安心して、バルデルを立たして何でもかでもを投げつけるという遊びを考案した。何があたってもバルデルは傷つかないので、神々はこの遊びに打ち興じた。ところが邪悪な神ロキはこれを見てねたましく思い、フリッグをおだてあげて、結局は彼女が「宿り木」だけはあまりに弱弱しいので、誓いをたてさせなかったことを聞き出したのである。ロキは早速、宿り木を取って持って行き、オーディーンの息子のホルズが盲目であるために遊びからはずれているのを見て、新設ごかしに宿り木を持たし、バルデル目がけて投げるように助けてやる。ホルズは喜んでロキの言葉に従い、それはバルデルに命中して命を奪ってしまう。大きい不幸に神々は呆然とし、ロキは逃走してしまう。このあと神々のロキに対する復習の話がつづくが、それは省略して、少年の神バルデルの死の意味について考えてみることにしよう。
＃２２
バルデルは非常に美しく、彼の姿を目にし、彼が語るのを聞きさえすれば、誰でも彼を好きになったと言われている。これも「永遠の少年」の在り方のひとつである。永遠の少年は影をすべて母親に負わせ、自分はよい子でいられるのだ。全世界のあらゆるものに、わが子に危険を加えない誓いを取りつけることは、もしも可能なら日本中のすべての母親がしたいと望むことであろう。母親フリッグとバルデルの結びつきの強さは明らかである。その強さはユングも言っているように、「永遠の近親相姦の状態」とさえ呼べるものであろう。それを端的に示しているのが「宿り木」である。つまり、宿り木は母なる木に寄生し、それと生命をともにしている。このような類比からみて、宿り木はバルデルの影の兄弟なのである。宿り木はバルデルその人と等価であり、それがロキによって親木から取り去られた時、バルデルの命はもはや終わりとなったのである。かくて、影の一撃はバルデルを倒してしまう。「英雄が英雄的な仕事をやり抜くために、その生命力と意志の強さを欠くときは、影は致命的なものとなる」のである。…バルデルの神話が示唆するように、永遠の少年の取り扱いの難しさは、彼らの背後に常に死の影が存在していることである。彼らの急上昇を無理にストップさせると、それは死につながることが多い。そこで、われわれ心理療法家にとってできることは、少年たちと共に空を飛びながら、徐々に制動をかけることしかない。あるいは、フォン・フランツの言うように、気球を背負って飛んでいる少年のところへ、こちらも気球によって飛んで行き、二人で空中で飛翔をつづけながら、だんだんとその空気を抜いてやるしかないのである。これはまったく辛抱のいることである。しかし、一般の人々は、ときに気球で飛翔する若者に喝采をおくるか、あるいは業を煮やして気球を打ち破るかのどちらかであるようだ。少年と共に空を飛ぶのは、こちらの命も危ないので、多くの人々が地上に足をつけたままで、少年たちをあしらっているのも当然のことかもしれない。永遠の少年たちは、自分の影を意識しないまま、その影を両親や社会に投影し、ひたすら正しく、幸福に生きているが、それにしても、われわれはいつかは自分の影の存在を自覚しなければならない。
2005年07月29日(金) 10:20:20 Modified by gedo5