神話と日本人の心 ２００３
＃１
自分の物語を見出すということは、アイデンティティの探索とも言うことができるｄさろう。現在使われているような意味で、アイデンティティということを提唱したエリク・エリクソンの言葉で、私が深く印象づけられたのを、次に引用する。「同一性形成は、その大半が生涯にわたって続く無意識的な発達過程である」（鑪幹八郎他共編『自我同一性研究の展望』ナカニシヤ出版、１９８４年）。つまり、アイデンティティは生涯のどこかの時点で「確立された」と完了形で語ることはできないものなのだ。それは、要するに、死ぬまで続くのである。つまり、私の「物語」も、どこかで見つけてきてそれを生きるというのではなく、私の生涯そのものが「物語」なのである。ただ、そのことをどこまで意識して生きるか、が問題であるが。
＃２
八百万とも言われる数多くの日本の神々の中で、際立った地位を占めるアマテラスは、日の女神であった。古代日本の天空に輝く日輪に、日本人は女性をイメージしたのだ。これは世界の数々の神話のなかでも、相当に特異なことと言っていいだろう。イヌイットなどのアメリカ先住民の神話を除いて、ほとんどの民族において、太陽は男性神である。日本の神話全体について考察をおしつつめる最初にあたって、このことにまず注目したいと思う。
＃３
ユングが彼の『自伝』で述べているように、「お前の神話は何か―お前がその中に生きている神話は何なのか」という問いかけがある。ユングは個人の生き方を支えるものとしての神話の重要性に気づき、彼のクライアントが自分自身の「神話」が見出してゆくのを援助しているうちに、自らが「お前の神話は何か」という問いに直面していることに気づいたのである。
＃４
心理療法の現場において、常に神話的な主題に接すると共に、折にふれて世界中の神話を読み、要するに広く言えば「物語」ということが、人間が生きてゆく上においていかに重要であるかを認識することになった。「お前の神話は何か」という自分自身に対する問いかけは「お前はどのような物語を生きようとするのか」という言いかえることができた。このために、私はいろいろな文学作品、特に児童文学にも触れることになった。
＃５
両者（＊ナバホ、ケルト）を通じて言えることは、彼らは極めて「自然と密着した」物語を生きている、ということであった。人間の特徴は、自然の一部でありながら自然に反して生きる傾向をもつことである。まったく自然の一部として―他の動植物のように―生きるのだったら、自分の物語など不要である。人間が他の動物とは異なる「意識」ということを獲得した時に「神話」が生まれたのではないかと思う。その後、人間の文明は発展してきて、現代人はあまりにも自然から切れた存在になりすぎたのではなかろうか。
＃６
もともと児童文学は好きであったが、アーシュラ・Ｋ・ル＝グウィンの『ゲド戦記』三巻（当時。以後五巻まで出版された）は、まさに自分の生きようとしている「物語」としてピッタリという感じがした。我が国では他の専門領域のことを口出しするのを好まない風潮が強いが、あまりに感動したので、「ゲド戦記と自己実現」という題で岩波講座で講演し、それを『図書』（１９７９年９月）に発表した。 『ゲド戦記』と自己実現 河合隼雄
＃７
かつては、人々は生まれる前から存在していた神話を信じ、それによって一生を終えることができた。その人の所属する集団の神話がその役割を果たしていたのである。しかし、現代はそれと異なり、個人はあくまで個人の神話の形成を行なう課題を背負っている。そのことを意識して『神話と日本人の心』を書いたが、もちろん、これは「私の神話」ではない。研究論文としての一般性をもつように書かれているが、単なる「研究」と異なるところは、私自身の生き方とのかかわりをまったく切り捨ててはいない。そうすると血の通わないものになってしまうだろう。そのあたりのことを考慮に入れて、読んで下さると幸いである。
＃８
自分の物語を見出してゆこうとするとき、自分の属する文化のもつ神話が何らかの意味で役に立つことは大いにあり得ることだ。そんな点で、私の日本神話に関する論考も、私個人の物語の形成と大いに関係している。
＃９
かつては、多くの人がその部族やや、宗教集団などのなかで共有される「神話」を生きていた。しかし、今や各人は自分自身の物語を見出してゆく責務を負っている。多くの人に共有される神話はもう今ではそのままでは通用しない。本巻にも引用しているが、神話学者のジョセフ・キャンベルが言うように「これから長い長いあいだ、私たちは神話を持つことができません」ということになるだろう。
＃１０
中村雄二郎さんがその後に提唱する「神話の知」の重要性ということは、本巻中にも論じているが、私の心理療法を支える理論のひとつとして、大いに役立たせてもらうことになった。
＃１１
私（＊河合隼雄）がスイスから帰国した１９６５年頃には、心理療法と神話とを関連付けて考える臨床家などはまったくいなかったのに、だんだんと理解者が増え、１９８９−９２年に金子書房より『臨床心理学体系』を出版したときは、そのなかで、臨床心理学に関連する重要な領域として「神話学」が取りあげられるほどになった。
＃１２
世界的な学者と親しく会話することができたのは、自分の「神話探索」の旅のなかの出来事として実に意義深いことであった。
＃１３
心理療法の実際において、神話、あるいはものごとの神話的理解がいかに意味あるものかは、日々の臨床現場で経験していることである。相談室を訪れる人の姿に、神話や昔話の主人公の姿を重ね合わせて見られることは、よくあることである。
＃１４
箱庭療法においても神話的な主題はどんどん現れるので、心理療法と神話の結びつきは、よく一般に理解されるようになった。１９９９年、カナダのバンクーバで第１５回の国際箱庭療法学会が開かれたときは、私は基調講演として、「創造神話と箱庭療法」という発表をした。世界中の創造神話の理解がいかに箱庭療法を行う上で有用であるかを、箱庭療法の事例をあげながら論じたのだが、会員たちの共感を得たと感じたのであった。
＃１５
私がどうしてこれほど児童文学を好きなのか、その点はこの著作集（☆河合隼雄著作集第�挟�）の第四巻を見ていただくとわかるだろう。私は心理療法において人間の「たましい」ということは、非常に大切なことと考えている。そして「たましいの真実」は「物語る」ことによってのみ伝えることができる。子どもの目は大人のように常識によって曇らされていないので、「たましいの真実」を直裁に見ることができる。それが児童文学に語られているのだ。
＃１６
日本の古典について、明恵上人のことを研究しているうちに、当時の男女関係の在り方を知りたいと思って『とりかえばや物語』を読んだ。すると、これがやたらに面白く、まさにミイラ取りがミイラになる類。日本の古典の物語のなかをさまよい歩くことになった。
＃１７
神話的イメージが相談室に現れるという点では、トリックスターのことを不問にすることはできないであろう。日本の英雄はトリックスター的心性をもっている者が多く、これも日本人には理解されやすいイメージである。本書中にも論じているが、スサノヲやヤマトタケルなど日本神話の英雄は、トリックスター的である。このような点もあって、日本人には理解しやすいだろうと心理療法と神話的イメージについて論じるとき、早い時期に、トリックスターのことを取り上げている。クライアントのトリックスター性のみならず、治療者もクライアントの固い姿勢を崩すときに、意識的、無意識的にトリックスター的なはたらきをするものである。
＃１８
心理療法家として生きてゆく上においてもっとも大切なことは、自分自身がいかに生きているか、ということである。ユングが「変容」の過程を強調し、治療者とクライアントの深い人間関係に着目するとき、クライアントの生き方にかかわる者として、常に治療者自身の生きる姿勢が問われることになってくる。
＃１９
クライアントの心の状態の神話的理解という点で極めて印象的な経験をしたのは、１９６５年にスイスから帰国して心理療法をはじめ、最初に会った不登校の中学生男子の夢に接した時であった。夢の中で、少年は肉の渦に巻き込まれそうになる。渦はまさに「母なるもの」の象徴で、この際はそのネガティブな呑みこむ力を表している。私はこの夢に接したとき、クライアントの苦悩を理解するのみならず、私が日本というグレート・マザーの力のいかに強い国に帰って住むことになったのか、ということを痛感したのであった。これは、私に相当な覚悟をさせると共に、日本において、ユング心理学において難解な「元型」ということを理解してもらうには、まずグレート・マザーの元型のことを例にあげるとよい、と気づかせてくれたのである。
＃２０
自分の物語を求めて長い様々の探求を続けてきたが、やはりそのもっとも中核となるものは、日本神話であった。日本神話については、既に１９６５年にユング派の分析家の資格を得るときの論文としてそれを取り上げたのだが、日本で書物として書き上げるには長い年月を必要とした。それを書物として提出するためには、世界の神話について知る必要があったことも、それが長引く一つの要因であった。
＃２１
私（＊河合隼雄）の場合は、現在の地球を支配しているとも言える―それを越える試みはいろいろと行なわれているが―ヨーロッパ近代の自我を支える神話との対決という課題があった。個人の使命はその時代や文化と無関係であり得ない。私個人の神話を求める仕事は、現代において日本人がいかに生きるか、それを支える神話は何か、ということと密接に関わり合うものであった。これに対する一応の答えが、本書に収録されている『神話と日本人の心』である。
＃２２
これらの初期の経験によって、心理療法における神話の重要性を知ると共に、クライアントがそれぞれの悩みを抱えている中で、日本人の誰もが日本文化のなかで生き、それを多少なりとも改変してゆこうとする課題を背負っていること、またその点について言えば、私もまったく同様であることに気づいたのである。そこで「文化の病」とか「日本人という病」などという考えが、私の心の中に生じてきた。私の会う人々は単に個人的な悩みをかかえているというのではなく、「日本人という病」を克服してゆく戦いの尖兵なのである。このように考えると、心理療法という仕事の意義が重く感じられるのである。
＃２３
デーメーテール・ペルセポネー神話における、ハーデスの侵入のテーマにかかわる夢をあげている。これについては、本巻にアマテラスの天の岩戸の神話との関連で詳しく論じているが、これは日本人にとって極めて重要な神話である。
＃２４
ヒルマンさんの「たましい」に関する考えは、その後、学会などでこの言葉を用いる時に、大いに援用させてもらった。また、キリスト教神学者でありながら、Ｎｅｗ Ｐｏｌｙｔｈｅｉｓｍ（邦訳名『甦る神々―新しい多神教』）の著者であるデイビッド・ミラーさんとは、一神教と多神教について、有意義な論議ができた。後に、彼に招かれ、シラキュース大学で明恵の『夢記』について講演したことも忘れられないことである。
＃２５
実際の臨床を行なっていると、人間の無意識的な心のはたらきということを考えざるを得ない。しかし、ここで重要なことは、人間の無意識的な心のはたらきをマイナスのこととしてのみ考えるのではなく、プラスとマイナス両面のはたらきをもつものとして受けとめることである。もっと積極的に言うならば、無意識の心のはたらきを適切に受けとめることによって、人間の心の成長が行なわれるのである。このためには、人間の心の無意識的な内容、そのはたらきについてよく知り、理解することが必要になってくる。
＃２６
「自立」を試みる中年男性の夢に、ギリシャの英雄プロメテウスの主題が明確に示されているのを知ることができた。日本の母性社会に安住せず、そこから何らかの形で抜け出そうとする人々にとって、プロメテウスの神話は示唆するところが大きく、私は相談室の中で、何度も和製プロメテウスに合うことになる。
＃２７
彼（＊ユング）が自分の心理療法の中核として、変容（transformation)ということを考え、その過程においては、患者も治療者も共に人格の変容を体験する、としたことに示されるように、心理療法の過程にはあまりにも個人の深い部分が関与する…
＃２８
夢内容を理解するためには、伝説・昔話・神話に関する知見をもつことが必要と考えるのである。それらは、無意識に関する人類のもつ宝庫とさえ言えるだろう。したがって、それらの研究は心理療法の実際に密接に関連するものである。それによってクライアントの心をよく理解できることもあるし、逆に、クライアントの見た夢に触発されて、それと関連する昔話や神話などを研究することもある。
＃２９
はっきりしていることは、われわれは今更、昔の生活に戻れないということである。ナバホやケルトの物語から多くの示唆を受けるにしても、そのままを生きることは不可能である。そうなると、いったいわれわれはどうすればいいのだろう。
自分の物語を見出すということは、アイデンティティの探索とも言うことができるｄさろう。現在使われているような意味で、アイデンティティということを提唱したエリク・エリクソンの言葉で、私が深く印象づけられたのを、次に引用する。「同一性形成は、その大半が生涯にわたって続く無意識的な発達過程である」（鑪幹八郎他共編『自我同一性研究の展望』ナカニシヤ出版、１９８４年）。つまり、アイデンティティは生涯のどこかの時点で「確立された」と完了形で語ることはできないものなのだ。それは、要するに、死ぬまで続くのである。つまり、私の「物語」も、どこかで見つけてきてそれを生きるというのではなく、私の生涯そのものが「物語」なのである。ただ、そのことをどこまで意識して生きるか、が問題であるが。
＃２
八百万とも言われる数多くの日本の神々の中で、際立った地位を占めるアマテラスは、日の女神であった。古代日本の天空に輝く日輪に、日本人は女性をイメージしたのだ。これは世界の数々の神話のなかでも、相当に特異なことと言っていいだろう。イヌイットなどのアメリカ先住民の神話を除いて、ほとんどの民族において、太陽は男性神である。日本の神話全体について考察をおしつつめる最初にあたって、このことにまず注目したいと思う。
＃３
ユングが彼の『自伝』で述べているように、「お前の神話は何か―お前がその中に生きている神話は何なのか」という問いかけがある。ユングは個人の生き方を支えるものとしての神話の重要性に気づき、彼のクライアントが自分自身の「神話」が見出してゆくのを援助しているうちに、自らが「お前の神話は何か」という問いに直面していることに気づいたのである。
＃４
心理療法の現場において、常に神話的な主題に接すると共に、折にふれて世界中の神話を読み、要するに広く言えば「物語」ということが、人間が生きてゆく上においていかに重要であるかを認識することになった。「お前の神話は何か」という自分自身に対する問いかけは「お前はどのような物語を生きようとするのか」という言いかえることができた。このために、私はいろいろな文学作品、特に児童文学にも触れることになった。
＃５
両者（＊ナバホ、ケルト）を通じて言えることは、彼らは極めて「自然と密着した」物語を生きている、ということであった。人間の特徴は、自然の一部でありながら自然に反して生きる傾向をもつことである。まったく自然の一部として―他の動植物のように―生きるのだったら、自分の物語など不要である。人間が他の動物とは異なる「意識」ということを獲得した時に「神話」が生まれたのではないかと思う。その後、人間の文明は発展してきて、現代人はあまりにも自然から切れた存在になりすぎたのではなかろうか。
＃６
もともと児童文学は好きであったが、アーシュラ・Ｋ・ル＝グウィンの『ゲド戦記』三巻（当時。以後五巻まで出版された）は、まさに自分の生きようとしている「物語」としてピッタリという感じがした。我が国では他の専門領域のことを口出しするのを好まない風潮が強いが、あまりに感動したので、「ゲド戦記と自己実現」という題で岩波講座で講演し、それを『図書』（１９７９年９月）に発表した。 『ゲド戦記』と自己実現 河合隼雄
＃７
かつては、人々は生まれる前から存在していた神話を信じ、それによって一生を終えることができた。その人の所属する集団の神話がその役割を果たしていたのである。しかし、現代はそれと異なり、個人はあくまで個人の神話の形成を行なう課題を背負っている。そのことを意識して『神話と日本人の心』を書いたが、もちろん、これは「私の神話」ではない。研究論文としての一般性をもつように書かれているが、単なる「研究」と異なるところは、私自身の生き方とのかかわりをまったく切り捨ててはいない。そうすると血の通わないものになってしまうだろう。そのあたりのことを考慮に入れて、読んで下さると幸いである。
＃８
自分の物語を見出してゆこうとするとき、自分の属する文化のもつ神話が何らかの意味で役に立つことは大いにあり得ることだ。そんな点で、私の日本神話に関する論考も、私個人の物語の形成と大いに関係している。
＃９
かつては、多くの人がその部族やや、宗教集団などのなかで共有される「神話」を生きていた。しかし、今や各人は自分自身の物語を見出してゆく責務を負っている。多くの人に共有される神話はもう今ではそのままでは通用しない。本巻にも引用しているが、神話学者のジョセフ・キャンベルが言うように「これから長い長いあいだ、私たちは神話を持つことができません」ということになるだろう。
＃１０
中村雄二郎さんがその後に提唱する「神話の知」の重要性ということは、本巻中にも論じているが、私の心理療法を支える理論のひとつとして、大いに役立たせてもらうことになった。
＃１１
私（＊河合隼雄）がスイスから帰国した１９６５年頃には、心理療法と神話とを関連付けて考える臨床家などはまったくいなかったのに、だんだんと理解者が増え、１９８９−９２年に金子書房より『臨床心理学体系』を出版したときは、そのなかで、臨床心理学に関連する重要な領域として「神話学」が取りあげられるほどになった。
＃１２
世界的な学者と親しく会話することができたのは、自分の「神話探索」の旅のなかの出来事として実に意義深いことであった。
＃１３
心理療法の実際において、神話、あるいはものごとの神話的理解がいかに意味あるものかは、日々の臨床現場で経験していることである。相談室を訪れる人の姿に、神話や昔話の主人公の姿を重ね合わせて見られることは、よくあることである。
＃１４
箱庭療法においても神話的な主題はどんどん現れるので、心理療法と神話の結びつきは、よく一般に理解されるようになった。１９９９年、カナダのバンクーバで第１５回の国際箱庭療法学会が開かれたときは、私は基調講演として、「創造神話と箱庭療法」という発表をした。世界中の創造神話の理解がいかに箱庭療法を行う上で有用であるかを、箱庭療法の事例をあげながら論じたのだが、会員たちの共感を得たと感じたのであった。
＃１５
私がどうしてこれほど児童文学を好きなのか、その点はこの著作集（☆河合隼雄著作集第�挟�）の第四巻を見ていただくとわかるだろう。私は心理療法において人間の「たましい」ということは、非常に大切なことと考えている。そして「たましいの真実」は「物語る」ことによってのみ伝えることができる。子どもの目は大人のように常識によって曇らされていないので、「たましいの真実」を直裁に見ることができる。それが児童文学に語られているのだ。
＃１６
日本の古典について、明恵上人のことを研究しているうちに、当時の男女関係の在り方を知りたいと思って『とりかえばや物語』を読んだ。すると、これがやたらに面白く、まさにミイラ取りがミイラになる類。日本の古典の物語のなかをさまよい歩くことになった。
＃１７
神話的イメージが相談室に現れるという点では、トリックスターのことを不問にすることはできないであろう。日本の英雄はトリックスター的心性をもっている者が多く、これも日本人には理解されやすいイメージである。本書中にも論じているが、スサノヲやヤマトタケルなど日本神話の英雄は、トリックスター的である。このような点もあって、日本人には理解しやすいだろうと心理療法と神話的イメージについて論じるとき、早い時期に、トリックスターのことを取り上げている。クライアントのトリックスター性のみならず、治療者もクライアントの固い姿勢を崩すときに、意識的、無意識的にトリックスター的なはたらきをするものである。
＃１８
心理療法家として生きてゆく上においてもっとも大切なことは、自分自身がいかに生きているか、ということである。ユングが「変容」の過程を強調し、治療者とクライアントの深い人間関係に着目するとき、クライアントの生き方にかかわる者として、常に治療者自身の生きる姿勢が問われることになってくる。
＃１９
クライアントの心の状態の神話的理解という点で極めて印象的な経験をしたのは、１９６５年にスイスから帰国して心理療法をはじめ、最初に会った不登校の中学生男子の夢に接した時であった。夢の中で、少年は肉の渦に巻き込まれそうになる。渦はまさに「母なるもの」の象徴で、この際はそのネガティブな呑みこむ力を表している。私はこの夢に接したとき、クライアントの苦悩を理解するのみならず、私が日本というグレート・マザーの力のいかに強い国に帰って住むことになったのか、ということを痛感したのであった。これは、私に相当な覚悟をさせると共に、日本において、ユング心理学において難解な「元型」ということを理解してもらうには、まずグレート・マザーの元型のことを例にあげるとよい、と気づかせてくれたのである。
＃２０
自分の物語を求めて長い様々の探求を続けてきたが、やはりそのもっとも中核となるものは、日本神話であった。日本神話については、既に１９６５年にユング派の分析家の資格を得るときの論文としてそれを取り上げたのだが、日本で書物として書き上げるには長い年月を必要とした。それを書物として提出するためには、世界の神話について知る必要があったことも、それが長引く一つの要因であった。
＃２１
私（＊河合隼雄）の場合は、現在の地球を支配しているとも言える―それを越える試みはいろいろと行なわれているが―ヨーロッパ近代の自我を支える神話との対決という課題があった。個人の使命はその時代や文化と無関係であり得ない。私個人の神話を求める仕事は、現代において日本人がいかに生きるか、それを支える神話は何か、ということと密接に関わり合うものであった。これに対する一応の答えが、本書に収録されている『神話と日本人の心』である。
＃２２
これらの初期の経験によって、心理療法における神話の重要性を知ると共に、クライアントがそれぞれの悩みを抱えている中で、日本人の誰もが日本文化のなかで生き、それを多少なりとも改変してゆこうとする課題を背負っていること、またその点について言えば、私もまったく同様であることに気づいたのである。そこで「文化の病」とか「日本人という病」などという考えが、私の心の中に生じてきた。私の会う人々は単に個人的な悩みをかかえているというのではなく、「日本人という病」を克服してゆく戦いの尖兵なのである。このように考えると、心理療法という仕事の意義が重く感じられるのである。
＃２３
デーメーテール・ペルセポネー神話における、ハーデスの侵入のテーマにかかわる夢をあげている。これについては、本巻にアマテラスの天の岩戸の神話との関連で詳しく論じているが、これは日本人にとって極めて重要な神話である。
＃２４
ヒルマンさんの「たましい」に関する考えは、その後、学会などでこの言葉を用いる時に、大いに援用させてもらった。また、キリスト教神学者でありながら、Ｎｅｗ Ｐｏｌｙｔｈｅｉｓｍ（邦訳名『甦る神々―新しい多神教』）の著者であるデイビッド・ミラーさんとは、一神教と多神教について、有意義な論議ができた。後に、彼に招かれ、シラキュース大学で明恵の『夢記』について講演したことも忘れられないことである。
＃２５
実際の臨床を行なっていると、人間の無意識的な心のはたらきということを考えざるを得ない。しかし、ここで重要なことは、人間の無意識的な心のはたらきをマイナスのこととしてのみ考えるのではなく、プラスとマイナス両面のはたらきをもつものとして受けとめることである。もっと積極的に言うならば、無意識の心のはたらきを適切に受けとめることによって、人間の心の成長が行なわれるのである。このためには、人間の心の無意識的な内容、そのはたらきについてよく知り、理解することが必要になってくる。
＃２６
「自立」を試みる中年男性の夢に、ギリシャの英雄プロメテウスの主題が明確に示されているのを知ることができた。日本の母性社会に安住せず、そこから何らかの形で抜け出そうとする人々にとって、プロメテウスの神話は示唆するところが大きく、私は相談室の中で、何度も和製プロメテウスに合うことになる。
＃２７
彼（＊ユング）が自分の心理療法の中核として、変容（transformation)ということを考え、その過程においては、患者も治療者も共に人格の変容を体験する、としたことに示されるように、心理療法の過程にはあまりにも個人の深い部分が関与する…
＃２８
夢内容を理解するためには、伝説・昔話・神話に関する知見をもつことが必要と考えるのである。それらは、無意識に関する人類のもつ宝庫とさえ言えるだろう。したがって、それらの研究は心理療法の実際に密接に関連するものである。それによってクライアントの心をよく理解できることもあるし、逆に、クライアントの見た夢に触発されて、それと関連する昔話や神話などを研究することもある。
＃２９
はっきりしていることは、われわれは今更、昔の生活に戻れないということである。ナバホやケルトの物語から多くの示唆を受けるにしても、そのままを生きることは不可能である。そうなると、いったいわれわれはどうすればいいのだろう。
2005年08月05日(金) 15:44:27 Modified by gedo5