聖と俗 エリアーデ
＃１
ルードルフ・オットーの著『聖なるもの』（１９１７）は世界的反響を呼び起こした。それは、今までにない全く独自な視点を示したからだ。彼はこの書で神とか宗教という概念を扱わずに、宗教的経験のさまざまな形態を分析しようとしたのだ。オットーはその心理的洞察力と、神学者および宗教学者としての二重の素養を駆使して、よく宗教経験の内実と固有な特徴を取り出すことができた。
＃２
オットーは宗教における合理的・思弁的要素を排して、何よりも理性の届かない宗教の一面を問題にした。彼は信者にとっての＜生ける神＞とは何であるかを理解していた。それはエラスムスの神のような哲学者の神ではなく、＜理念＞でもなく、抽象概念でもなく、まして道徳の寓意でもなく、かえって神の＜怒り＞のなかに顕れる恐るべき威力であった。彼は聖なるもの、怖ろしい神秘、圧倒的威力をもつかの神威に対する恐怖の感情を見出し、魅惑の神秘に対する敬虔な畏怖を見出す。これらすべての経験をオットーはnuminos[神聖なるもの]（ラテン語numen＝神性、に基づく）と名付ける。この神聖なるものは、一切から隔絶した＜まったくの他者＞である。すなわちいかなる人間的なものも、また宇宙のいかなる現象もこれに比すべきものはない。この神聖なるものに対するとき、人間はみずからが全く無価値なことを感じ、＜一個の被造物に過ぎない＞、あるいはアブラハムが主に言ったように、＜塵灰（ちりはい）にひとしい身＞[創世記]と痛感する。聖なるものはつねに＜自然界の＞諸現実とは種質を異にする一個の現実として顕現する。
＃３
４０年たった今日でもオットーの研究はなお価値をもっている。しかし、本書では別の途を歩む。すなわちわれわれは聖なるものの現象を、その多様な全貌において解明しようとするものであり、単にその非合理的な側面にのみ注目するのではない。われわれの関心は単に宗教のもつ非合理的要素と合理的要素との関係ではなく、聖なるもの全体である。聖なるものの定義はまずそれが俗なるものの対照を成すということに始まる。
＃４
「今やわれわれは、何故―苦悩、死、復活（＝再生）―という同一の加入式図式がすべての秘教において、成年式のみならず秘密結社への入会儀礼に際してもまた、繰り返されるかを理解する。何よりも明らかなことは、「原始社会の人間が、死を、移行儀礼に変えることによって克服しようと努めていることである。言い換えれば、原始人にとって、人間は死により常に、本質的ではなかった生存を捨てるに過ぎない、すなわち人間は何よりも世俗の生命から死去するのである。死は最高の加入式、新たなる精神的生存の始まりと見なされるに至る。さらにそのうえ、出生と死と復活（＝再生）とは同一神秘の三つの契機として把握され、古代人はその全精神力を挙げて、これらの諸契機の間にいかなる断絶もあってはならぬことを示そうと努めたのである。人はこれら三つの契機のなかの一つに止住しようと欲してはならない。運動と復活はいつまでも続く。たとえば子どもであれ、家であれ、精神的意図であれ―物事が成功するようにとて、人は倦むことなく宇宙開闢を反復する。至るところで加入儀礼の宇宙開闢的意味を見出すのはこの故である。」
＃５
加入式と移行儀礼とをやや詳しく取り扱った。宗教的人間（homo religiosus）の理解に重要な一連の社会的宗教的人間像、たとえば君主、シャーマン、祭官、戦士というものをわれわれは省略しなければならなかった。
＃６
「いかなる歴史的連関のなかに在ろうとも、宗教的人間は常に絶対的実存、すなわちわれわれの世界を超越しながら、しかもこの世界のなかに啓示され、それによって世界を浄めかつ真実のものとするところの聖なるものの存在を信ずる。彼は生命が聖なるものに起源をもつことを信じ、人間存在がそのあらゆる可能性を展開するのは、それが宗教的存在であり、したがって実存性に関与する、その程度に応ずることを信ずる。神々は人間と世界とを創造し、文化の始祖たる英雄はその創造を完成した。そしてこれらすべての神的、また半神的所業の歴史は神話の中に保存されている。人間は聖なる歴史を再現することにより、神々の振る舞いを模倣することによって、神々の近くへ、したがって実存と意義あるもののなかへ身を移す。」
＃７
非宗教的人間は超越性を否定し、＜実存＞の相対性を認める。それどころか彼は生存の意味を疑うことすらありうる。非宗教的人間は近代ヨーロッパ社会に至って始めて完全な発達と遂げた。近代の非宗教的人間は新しい生存の状況を引き受けた。すなわち彼は自己をただ歴史の主体と動因としてのみ見る、そして超越的なものを拒否する。言い換えれば、彼はさまざまな歴史的状況の下において認識されるような人間の状態以外には、いかなる種類の人間性も認めない。
＃８
「近代の非宗教的人間が悲劇的実存を引き受けたこと、彼の実存的選択は決して些少なことではないということだけを確言しておこう。しかしおの非宗教的な人間は宗教的人間から発生しているのであり、彼の祖先が生きていた状況から発展してきたのである。それゆえ彼は本来この非聖化過程の所産である。…俗なる人間は人間存在非聖化の産物である。これはしかし、非宗教的人間があらゆる宗教性、あらゆる超人間的意味を＜脱却する＞よう努めることにより、その先人への対立から形成されたことを意味する。彼は彼の祖先の＜迷信＞から＜解放＞され、＜浄め＞られただけ彼自身となる。換言すれば、俗なる人間は欲すると否とにかかわらず、常になお宗教的人間の態度の痕跡を留めている。ただこれらの痕跡はその宗教的意味を奪われているだけである。彼が何をなそうと、彼は継承者である。彼は彼の過去を終局的に抹消し去ることはできない。というのも彼自身がこの過去の所産であるからである。彼は一連の否定と拒否から成り立っている。しかし彼は依然として彼が拒け、否定したところの実存性につきまとわれている。彼は自分のための世界を欲した。そのために彼の先祖が住んでいた世界を非聖化した。しかしこれをないうるために彼は彼の先祖の振る舞いに逆らわねばならなかった。しかも彼はかの振る舞いが依然として、なんらかの形で彼の存在の奥深くに蘇える力をもっているのを感ずる。しかしながらすでに述べたとおり、全く非宗教的な人間は、最も強度に非聖化された近代社会においてすら稀な現象である。たいていの＜宗教を失った＞人間は、たとい意識しなくとも、依然として宗教的に振舞う。」
ルードルフ・オットーの著『聖なるもの』（１９１７）は世界的反響を呼び起こした。それは、今までにない全く独自な視点を示したからだ。彼はこの書で神とか宗教という概念を扱わずに、宗教的経験のさまざまな形態を分析しようとしたのだ。オットーはその心理的洞察力と、神学者および宗教学者としての二重の素養を駆使して、よく宗教経験の内実と固有な特徴を取り出すことができた。
＃２
オットーは宗教における合理的・思弁的要素を排して、何よりも理性の届かない宗教の一面を問題にした。彼は信者にとっての＜生ける神＞とは何であるかを理解していた。それはエラスムスの神のような哲学者の神ではなく、＜理念＞でもなく、抽象概念でもなく、まして道徳の寓意でもなく、かえって神の＜怒り＞のなかに顕れる恐るべき威力であった。彼は聖なるもの、怖ろしい神秘、圧倒的威力をもつかの神威に対する恐怖の感情を見出し、魅惑の神秘に対する敬虔な畏怖を見出す。これらすべての経験をオットーはnuminos[神聖なるもの]（ラテン語numen＝神性、に基づく）と名付ける。この神聖なるものは、一切から隔絶した＜まったくの他者＞である。すなわちいかなる人間的なものも、また宇宙のいかなる現象もこれに比すべきものはない。この神聖なるものに対するとき、人間はみずからが全く無価値なことを感じ、＜一個の被造物に過ぎない＞、あるいはアブラハムが主に言ったように、＜塵灰（ちりはい）にひとしい身＞[創世記]と痛感する。聖なるものはつねに＜自然界の＞諸現実とは種質を異にする一個の現実として顕現する。
＃３
４０年たった今日でもオットーの研究はなお価値をもっている。しかし、本書では別の途を歩む。すなわちわれわれは聖なるものの現象を、その多様な全貌において解明しようとするものであり、単にその非合理的な側面にのみ注目するのではない。われわれの関心は単に宗教のもつ非合理的要素と合理的要素との関係ではなく、聖なるもの全体である。聖なるものの定義はまずそれが俗なるものの対照を成すということに始まる。
＃４
「今やわれわれは、何故―苦悩、死、復活（＝再生）―という同一の加入式図式がすべての秘教において、成年式のみならず秘密結社への入会儀礼に際してもまた、繰り返されるかを理解する。何よりも明らかなことは、「原始社会の人間が、死を、移行儀礼に変えることによって克服しようと努めていることである。言い換えれば、原始人にとって、人間は死により常に、本質的ではなかった生存を捨てるに過ぎない、すなわち人間は何よりも世俗の生命から死去するのである。死は最高の加入式、新たなる精神的生存の始まりと見なされるに至る。さらにそのうえ、出生と死と復活（＝再生）とは同一神秘の三つの契機として把握され、古代人はその全精神力を挙げて、これらの諸契機の間にいかなる断絶もあってはならぬことを示そうと努めたのである。人はこれら三つの契機のなかの一つに止住しようと欲してはならない。運動と復活はいつまでも続く。たとえば子どもであれ、家であれ、精神的意図であれ―物事が成功するようにとて、人は倦むことなく宇宙開闢を反復する。至るところで加入儀礼の宇宙開闢的意味を見出すのはこの故である。」
＃５
加入式と移行儀礼とをやや詳しく取り扱った。宗教的人間（homo religiosus）の理解に重要な一連の社会的宗教的人間像、たとえば君主、シャーマン、祭官、戦士というものをわれわれは省略しなければならなかった。
＃６
「いかなる歴史的連関のなかに在ろうとも、宗教的人間は常に絶対的実存、すなわちわれわれの世界を超越しながら、しかもこの世界のなかに啓示され、それによって世界を浄めかつ真実のものとするところの聖なるものの存在を信ずる。彼は生命が聖なるものに起源をもつことを信じ、人間存在がそのあらゆる可能性を展開するのは、それが宗教的存在であり、したがって実存性に関与する、その程度に応ずることを信ずる。神々は人間と世界とを創造し、文化の始祖たる英雄はその創造を完成した。そしてこれらすべての神的、また半神的所業の歴史は神話の中に保存されている。人間は聖なる歴史を再現することにより、神々の振る舞いを模倣することによって、神々の近くへ、したがって実存と意義あるもののなかへ身を移す。」
＃７
非宗教的人間は超越性を否定し、＜実存＞の相対性を認める。それどころか彼は生存の意味を疑うことすらありうる。非宗教的人間は近代ヨーロッパ社会に至って始めて完全な発達と遂げた。近代の非宗教的人間は新しい生存の状況を引き受けた。すなわち彼は自己をただ歴史の主体と動因としてのみ見る、そして超越的なものを拒否する。言い換えれば、彼はさまざまな歴史的状況の下において認識されるような人間の状態以外には、いかなる種類の人間性も認めない。
＃８
「近代の非宗教的人間が悲劇的実存を引き受けたこと、彼の実存的選択は決して些少なことではないということだけを確言しておこう。しかしおの非宗教的な人間は宗教的人間から発生しているのであり、彼の祖先が生きていた状況から発展してきたのである。それゆえ彼は本来この非聖化過程の所産である。…俗なる人間は人間存在非聖化の産物である。これはしかし、非宗教的人間があらゆる宗教性、あらゆる超人間的意味を＜脱却する＞よう努めることにより、その先人への対立から形成されたことを意味する。彼は彼の祖先の＜迷信＞から＜解放＞され、＜浄め＞られただけ彼自身となる。換言すれば、俗なる人間は欲すると否とにかかわらず、常になお宗教的人間の態度の痕跡を留めている。ただこれらの痕跡はその宗教的意味を奪われているだけである。彼が何をなそうと、彼は継承者である。彼は彼の過去を終局的に抹消し去ることはできない。というのも彼自身がこの過去の所産であるからである。彼は一連の否定と拒否から成り立っている。しかし彼は依然として彼が拒け、否定したところの実存性につきまとわれている。彼は自分のための世界を欲した。そのために彼の先祖が住んでいた世界を非聖化した。しかしこれをないうるために彼は彼の先祖の振る舞いに逆らわねばならなかった。しかも彼はかの振る舞いが依然として、なんらかの形で彼の存在の奥深くに蘇える力をもっているのを感ずる。しかしながらすでに述べたとおり、全く非宗教的な人間は、最も強度に非聖化された近代社会においてすら稀な現象である。たいていの＜宗教を失った＞人間は、たとい意識しなくとも、依然として宗教的に振舞う。」
2005年07月29日(金) 00:39:36 Modified by gedo5