アザー サイド オブ ミラー その四 作者:森羅
「『現在、この世界に並列時間帯が発生している』」
二人の長門がそう言った。
今、俺たち(『向こう』のSOS団員四人を含む)は、『こちら』と『向こう』の二人の長門に、この謎の現象について説明してもらっている最中だ。俺が決死の覚悟で上履きでゴキブリを殺した時間から、かれこれ一時間ほど経っている。
あれから俺たちは長門に協力してもらって、『こちら』と『向こう』を繋ぐことに成功し、そして古泉や朝比奈さんにも『向こう』が見えるようにしてもらった(ちなみに、長門は俺と同じで、何もせずとも見えていたらしい)。どうやってやったのかは・・・よく解らん。長門はナントカ時間を操作して『こちら』の世界を切り取り、『向こう』にいる長門の力を借りて無理矢理繋げたとか言ってたな。切って貼り付けたような状態だから長くは持たないらしい。
さて、『向こう』の長門や朝比奈さん、それと古泉を見た感想を言おう。
まずは長門。長門はとにかく長身の大人しそうな、ごく普通(に見える)の男子生徒だった。『こっち』の長門と同じく眼鏡はなしで、物静かに読書にふけっていた。何というか・・・、『向こう』の長門は苛められてはいないのだろうか。
続いて朝比奈さん。はっきり言おう。変わらなかった。朝比奈さんが髪を短くして、北高の男子の制服を着れば、どっちが女の朝比奈さんなのか解らないぐらいに、よく似ていた。実は双子じゃないのか。そして、『向こう』の朝比奈さんはなぜか・・、男なのにメイド服を着せられていた。まあ、それがまたよく似合っていたのだが、生憎、俺には男が女装しているのを見て楽しむ趣味はないんでね。嬉しくもなんともないのさ。
最後に古泉。『向こう』の古泉は、そりゃもう、ハルヒに匹敵するんじゃないかと思うぐらいの美人な女子高生だった。憎たらしいが、『こっち』の古泉はイケメンの域に入っているからな。『向こう』の古泉が美人であっても、それは驚くことではないのかもしれない。言葉遣いもバカ丁寧なのもまったく同じだった。おそらく性格も同じなのだろう。・・・『向こう』の俺ももしかすると、なかなか苦労しているのかもしれない。後でゆっくり語り合うことにする。
と、以上が俺の『向こう』のSOS団員に対する感想だ。キョン子も『こちら』のSOS団員についてイロイロと言っていたが、それはまたキョン子にでも訊いてくれ。
では、二人の長門が「現在、この世界に―――」と言った辺りに戻ろう。
「『並列時間帯』?」と、俺。
「『そう』」と、二人の長門。
わざわざシンクロしてくれなくてもな。一人で充分さ。
『『並列時間帯』って一体何なんだ?』
キョン子が『向こう』の長門―――くそ、まどろっこしいな、『長門♂』と呼ぶことにしよう―――長門♂に訊いた。俺も丁度、長門に訊こうと思ってたんだ。口に出さなくて正解だったぜ。
『並列時間帯とはこの次元空間とは違う次元空間のこと』
長門♂だけが淡々と言う。その言葉にキョン子はやれやれといったようすで、
『さっぱり解らん。もっと解りやすく言ってくれ』
との一言。もちろん、俺も同意見だ。
「パラレルワールド」今度は長門が言った。「あなたたちが存在している世界とは違う世界。あなたたちからの視点では、私たちの世界はパラレルワールド。同じように、私たちの視点から言えば、あなたたちの世界はパラレルワールド」
「その並列ナントカ帯ってのは、キョン子たちの世界だけなのか?」
これは俺だ。
「違う。他にも多数ある。私たちが性転換した次元空間以外には、半獣化した次元空間、何年か経過した次元空間、この次元空間での職業とは別の職業に就いている次元く―――」
「いや、もういい。十分だ」
俺は放っておけば永遠にしゃべり続けるんじゃないかと思うぐらい例を挙げる長門を制した。
それにしても、今長門が言った次元空間?とかいうのは、ほとんど変な趣味を持った奴らにウケそうなものばかりだったな。だが、何年か経っている世界は見てみたい気もするね。自分が将来どうなっているかなんて、誰だって気になるだろ?
『半獣化した世界なんてすごく見てみたいです。キョン子ちゃんが何になってるのかが気になるなあ』
朝比奈さん♂が女性のような笑顔で言う。いかん、早速変な趣味を持った連中に仲間入りしそうだ。
朝比奈さん♂の言葉を聞いて、キョン子は頬を紅潮させながら言った。
『な、何を言ってるんですか。朝比奈先輩。あたしなんかより先輩の方が気になります』
それは俺も同意見だが、残念ながら朝比奈『先輩』には興味がない。俺が興味があるのは朝比奈『さん』の方だ。すると、俺の頭の中にネコ耳が生えた朝比奈さんが出てきた。百点満点以外に何がある?
「それよりも、あの、長門さんたちの話を聞いた方がいいんじゃ・・?」
朝比奈さんがそう言うのと同時に、俺の脳内ネコ耳朝比奈さんが一瞬にして消え去った。いや、これでいい。俺は少し夢を見すぎていたようだ・・・・・なーんてね。
『質問をさせてもらってもよろしいですか?』
ふいに古泉♀がファストフード店の店員のような可愛らしい笑みとともに言った。
『なぜ今、並列時間帯が発生しているのですか?原因はハルヒコさんですか?それとも・・・』
古泉♀はそこで一旦言葉を区切ると、鏡の『向こう』からチラリと俺を見てきた。俺と目が合うと、軽く会釈をし、また視線を長門♂に戻す。
『それとも、『あちら』のハルヒコさん―――いえ、涼宮ハルヒさんの仕業ですか?』
その言い方に俺はなぜか少しばかり腹が立ち、ついつい、こんなことを口に出してしまった。
「ハルヒの仕業って何なんだ。確かにハルヒはこんな迷惑を起こすような奴かもしれないぞ。確かに俺だって、最初はハルヒがまた妙なことを思いついてこうなったのかと思ったさ。だが今は違う。これは俺の考察だが、ハルヒもハルヒコも、この現象を起こした張本人じゃない。俺はそう信じるね。今のお前の言い方だと、ハルヒ、もしくはハルヒコだけが原因みたいな言い方じゃないか。もしそうじゃなかったら、お前はどう責任を取るつもりなんだ」
『これは失礼しました。随分とハルヒさんやハルヒコさんを信じているんですね。ハルヒコさんに至っては話したことなんてないはずでしょう?お優しいんですね』
古泉♀が『こちら』の古泉と同じように苦笑する。ちらりと横目で見ると、古泉も困ったような顔で肩をすくめていた。
『ではキョンさん。あなたはなぜ、そのように推測したのですか?』
俺は短く舌打ちした。それから二秒ほど考えたフリをして、
「さあな」
お前らで勝手に想像しといてくれ。
俺がどんな顔をしていたのかは解らないが、古泉♀は表情を苦笑から微笑に変えて、何か確信をもったように、
『そうですか。あなたが原因はハルヒさんではないと言えるのであれば、ボクはこれ以上何も言いませんよ』
「そうかい」
俺は古泉の顔を見た。古泉は相変わらずの、にやけスマイルだった。
今思ったんだが、今こいつ(古泉♀)、自分のこと『ボク』って言わなかったか?いや、俺の聞き間違いだな。
俺は視線を長門に向ける。説明を続けてくれ。
「原因は―――私にも解らない。原因を検索することはできない。それは私とリンクしている並列時間帯の私も同じ」
長門は俺のモノローグが聞こえたのか、変わらない感情のこもっていないような声で言った。続けて、長門いわく『並列時間帯の私』らしい、長門♂が説明する。
『原因について、情報統合思念体はこう推測している。原因は、ない』
「『何だと?』」
俺とキョン子の声が重なった。鏡を見たいところだが、今はそんな場合ではない。
「長門、どういうことだ」
「・・・」
なぜか長門は黙り込んでしまった。長門♂も何も言わない。もしかして長門にも解らないのか?
「そうではない。私と並列時間帯の私は困惑している」
「困惑?」
「そう」
長門は困惑しているようには見えない表情で言った。こいつが困惑する時なんてあるのか?
「あなたが言った『長門』という名称の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースは、現在二種類ある。一つは『長門有希』。もう一つは『長門有紀』」
俺は溜息をついた。俺がどっちの長門に訊いているのかまで言わなきゃならんのか。
「えーっとだな、俺はお前に訊いたんだ。『向こう』の長門には訊いてない。もし『向こう』の長門に何か訊くときは、ちゃんと鏡を見て言うよ」
「了解した」
俺の言葉に長門は二ミリほどうなずいた。これで解ってくれたか。やれやれ。
・・・まさかとは思うが、古泉や朝比奈さんを呼ぶ時までこんなこと言わなきゃならないのか?
「・・情報統合思念体がそう推測したのは、涼宮ハルヒや涼宮ハルヒコがこの現象起こすような発言や思考をしていないから」
『それはまた解りやすい理由ですね。確かに現象が発生するようなことを言ったりしていなければ、原因がハルヒさんやハルヒコさんが原因とは考えられにくいでしょう』
古泉♀は肩をすくめた。
「では、並列時間帯は誰かの故意によってではなく自然に発生した・・・ということでしょうか?」
ちなみにこれは古泉♂、つまり『こちら』の古泉だ。
『そう』長門♂が答えた。『しかしそれが真実なのかは解らない。これまでに並列時間帯が発生したことはあったが、それはすべて涼宮ハルヒコ、涼宮ハルヒなど、それぞれの次元空間に存在する情報の爆発を起こした人物が原因だった。だから、自然に並列時間帯が発生することは、まず、ありえない』
なるほどな。この並列時間帯が発生したわけは解らないものの、並列時間帯が発生する原理は大体解った。
「まあ、それは置いといてだな」
俺は、今日何回目か解らない溜息をついて、
「この状況―――キョン子やハルヒコが見えるのは、一体いつまで続くんだ?このままだったらイロイロと困るんだが」
俺は鏡をちらりと見た。鏡には、同じく俺を見ているキョン子が映っている。多分、こいつも俺と同じことを思っているんじゃないか?鏡を見ても自分じゃない奴が映っているのは、あまりいい気分じゃないからな。
「・・・解らない」
長門は俺を見据えたまま言う。
「私では、予測不可能」
俺はそう言った長門の表情を見て何とも言えない気分になる。
長門は困っているのか哀しいのかよく解らん顔をしていた。しかし少なくとも、それはいつもの無表情ではなかったのだ。
「『長門、お前・・・』」
俺の声のほかにキョン子の声が聞こえた。同じセリフということは、『向こう』の長門も『こちら』の長門と同じような顔をしていたんだろうな。
俺はやっとの思いで長門にかける言葉を見つけ、口を開いた。
「『・・・長門』」
『向こう』からキョン子の声も聞こえる。
「『あ・・・、ありがとな』」
なぜかその一言しか言えなかった。もう少し何か言ってやったほうがいいのだろうかとも考えたんだが、俺がこれ以上何か言っても意味はないのかもしれん。キョン子もそう考えていたようだし、これでいいだろう。
長門は俺をじっと見つめて、
「『そう』」
と、長門♂と一緒に言ってくれた。
「さて、それではどうしますか?」
古泉の質問に、俺は眉間に皺を寄せながら訊き返した。
「どういう意味だ」
「そのままの意味ですよ。このままではあなたもキョン子さんも過ごしにくいでしょう?鏡を見る度に笑ってしまうかもしれませんしね」
それはない。
「どうしますか?よければこの学校にある鏡とあなたの家にある鏡を全て破壊しますが」
「アホか。んなこと俺がさせん」
俺は古泉をひと睨みして、
「俺はこのままにしておいてもいいと思うぞ。いや、このままにしておいた方がいいんじゃないか?何か妙な事をして事態が悪化したらいかんだろ」
『あたしも同意見だな』
キョン子が鏡の『向こう』から『こちら』を見ながら言い、それから俺を見た。
『あんたがあたしによく似ててよかったとつくづく思うよ。ハルヒコみたいな傲慢横暴な奴だったらどうしようかと・・・』
「・・・そうかい」
俺もお前がハルヒみたいな性格の奴じゃなくてよかったと思うよ。
今日の活動は古泉♀の『それでは今日はこれでお開きにしましょうか』という一言で終了となった。『こちら』の古泉も『向こう』の古泉も進行がうまくてソンケーするよ。
ハルヒはもちろん来なかった(ハルヒコもな)。もしかすると、「やっぱ気が変わったわー!」とか言って部室に登場するかもしれないと内心ヒヤヒヤしていたのだが、今日中にハルヒの機嫌が直らなくて助かったぜ。古泉にはまた迷惑かけるかもしれんが、それはそれでいいとするにしよう。
俺は部室から出る前に長門に言われた言葉を思い出しながら、愛車のママチャリのペダルを必死に漕いでいた。
「もしあなた、もしくは『もう一人のあなた』に何か異常が発生した時は私に連絡して」
何か、ね。
何だか知らんが、今回の騒動は俺にとって疲労を感じさせるものにはならないと思う。なぜかって?あの迷惑を絵に描いたような女の仕業じゃないようだからな。
そんなことを考えているうちに自宅に到着する。汗を拭いながら玄関の扉を開けると、リビングからスナック菓子の袋を抱えた妹が走ってきた。妹は「キョンくん、これ開けてー」と言いやがり、俺に押し付けてきたので仕方なく開けてやる。優しい兄貴だと自分で思うね。
妹の感謝の声を聞きながら自室のドアを開けて部屋に入る。鞄をその辺に放り投げ、砂漠のオアシスを発見した探検家のようにベッドに勢いよく倒れこんだ。
「疲れたな・・・・・」
口からそんな言葉がこぼれ出た。ちなみに疲れたのは精神の方であって、身体の方はあまり疲れてはいない。
このまま晩飯まで寝てやろうかと思い、目をうっすら開けてうとうとしていると、
『あたしもだよ』
思わず飛び上がりそうになった。
俺はベッドから跳ね起きると部屋の中を見回した。今、俺の言葉に相槌を打ったのは一体どこのどいつだ?なんとなく声は聞いたことがあるんだが、どうも思い出せないな。
『おい、どこ見てるんだよ』
再び声がする。俺は首を動かしながら、
「どこって・・、お前どこにいるんだ」
そう言うと、声は溜息をついて不機嫌そうに、
『あんた、もうあたしのこと忘れたのか?』
俺はしばらくの間あちこちを見ていたが、ふと鏡に目が止まった。鏡には俺・・・・ではなく、北高の女子の制服を着たポニーテールの女子―――キョン子が映っていた。なるほど、こいつの声だったのか。
「ああ・・、すまん。頭の中が真っ白でな・・・」
『自分が鏡に映ってなかったら真っ先に気づくと思うけどな』
キョン子は鏡から離れると、鞄の中からカフェオレのパックを取り出してストローを刺した。そういえば俺と会った時も飲んでたな。もしかして『向こう』の俺はカフェオレが好きなのか?
『・・・何だよ。やらんぞ』
いらん。
『じゃあ何かほかにあるのか?あんまり見たら飲めないだろ』
そりゃ悪かったな。別に何でもないさ。
『そうかい』
相槌の仕方も俺と同じだな。こいつがどこまで俺に似てるのか実験したいぜ。
と、ここで俺はふと思ったことを訊いてみた。
「キョン子」
『何?』
「お前、その口調直さないのか」
女子でその口調はあまりいいとは思わないぞ。
キョン子はじとっとした眼で俺を見ながらストローから口を離して、
『生まれつきだからしょうがないだろ。口調を直せって親にも一姫―――ああ、古泉にも言われたけど、直す気はないよ。弟がお揃いだねーとか言ってたが、別にお揃いでも嬉しくないね』
俺の妹は『向こう』では口が悪いのだろうか。
「・・・弟は嫌いか」
『特に何とも思ってないさ。どっちかと言えば好きな方だが、あたしのことを『キョンちゃん』と呼び出した瞬間からアイツは敵だ』
「もしかして『お姉ちゃん』と呼んでもらいたかったのか?」
『当たり前だろ。弟に何で『ちゃん』付けで呼ばれなくちゃいかんのだ』
まったくもって同感だな。妹に『キョンくん』と呼ばれるのは何だか寂しい。
鏡の『向こう』でキョン子が再びストローを咥えた。そのまま一気にカフェオレを飲み干す。そういえば、こいつは晩飯を喰ったのだろうか。飯の前に何かを飲むのはマズイんじゃないか?
俺がキョン子にそのことを訊くと、
『まだだけど』
という返事が返ってきた。やっぱりな。俺が喰ってないのに、こいつが喰ってる訳ねえからな。
俺が親切に飯の前に何か喰うのはあまり良くないということを言ってやろうとすると、
『飯の前に何か食べるのは良くないとか、母親みたいなこと言うなよ』
先に言われてしまった。透視能力でも備わってるんじゃないか。いや、一応『俺』なんだからそんなことないだろう。実際、俺にはそんな能力ないからな。
俺が自分に本当に透視能力がないのか箪笥をじっと見ていると、妹がいきなり俺の部屋のドアを開けた。マズイ、妹にこの会話を聞かれていたかもしれん。
横目で鏡を見ると、『向こう』でも同じこと―――『向こう』の場合は『弟』だが―――が起こっているらしく、キョン子が鏡から視線を逸らし、部屋の入口らしき方向を凝視していた。
「♪キョンくん、ご飯だよーぉ」 『♪キョンちゃーん、ごっはんっだよーぉ』
妹と『向こう』の妹(つまり弟だ)が自作の歌を歌いながら俺とキョン子の部屋に入ってくる。はっきり言って、二人の歌はかなりヘタクソだ。耳が痛い。
「解ったから、入る時はノックしろ」
俺は鏡から妹に目を向けて手元にあった携帯を素早くを取り、耳に無理矢理押し当てた。妹は俺が今携帯を手に取ったとは気付かずに、
「あれぇー?キョンくん電話ぁー?」
と、舌足らずな言葉で訊いてきた。俺は表情を変えずに、
「ああ。だからさっさと出て行け」
携帯を肩に挟み、妹をドアの方へ追いやる。妹は「ねぇ、だーれぇ?ハルにゃん?」とか言っていたが、俺が黙止しているとさっさと諦めて一階へ下りて行った。
俺はドアを閉めて溜息をついた。さて、俺は今日溜息を何回ついたことになったのか、時間が腐るほど余っている人は数えてみてくれ。
『おい、大丈夫か?・・・・キョン』
鏡から俺のあだ名を呼ぶ控えめなキョン子の声が聞こえてきた。どうやら『向こう』の俺も俺のことをあだ名で呼ぶことにしたらしい。ま、その方が気が楽でいいのさ。
「なんとかな。妹は俺が電話してると思ったらしい。ん?そもそもあいつ、俺が何か言っていたのを聞いたのか?」
『さあね。聞こえてないと思うけど。あたしの弟もあたしが携帯を耳に当ててたら電話してたって勘違いしたらしい。単純な弟でよかったよ』
キョン子が褒め言葉なのかそうではないのかよく解らないことを言った。『単純』と言うより『素直』と言った方が聞こえはいいと思うぞ。
ともかく。
「入ってきたのが妹で助かったぜ。オフクロだったらどうしようもなかったな」
俺の言葉にキョン子が頷く。
『同じくだよ、まったく』
俺は思わず苦笑した。ここまで気の合う奴はどこ探してもいねえよ。
ふいに。鏡の端の方に何かついているのが目に入った。埃ではないようで、それは小さなキズにも見える。
だが、おかしい。俺はこの鏡をあまり使っていない。触ったことすらあまりない。なのに、なぜだ?
「何だ、コレ」
俺はおそるおそるキズらしき部分に右手を伸ばし、触れた。
次の瞬間。
「んな・・・っ!?」
ぐにゅりと、鏡の中に手が入った。慌てて引き抜こうとするが、ものすごい力で引っ張られていて抜けない。逆に引き込まれていく。
『キョン!?なあ、どうしたんだよ!?』
キョン子の声が耳元で聞こえる。マズイぞ。引き込まれる。
「引き込まれてたまるかよ!」
足に力を入れる。もう右肩まで見えなくなっていた。
「うおおおおおおっ!」
さらに足に体重をかけ、左手で近くにあった箪笥の角を掴もうとするが届かない。左手は空を切った。
顔が半分引き込まれ、左足が床から離れる。
「ぅ・・むっ!?」
口が塞がれて何も言えなくなってしまった。そのまま顔全体が鏡に引き込まれ、左肩も鏡にめり込む。
何も見えない。何も聞こえない。自分が立っているのかさえも解らない、まさに無重力状態だ。
俺は一体どうなっちまうんだ?鏡に吸い込まれてわけわからんまま人生終了しちまうのか?おいおい勘弁してくれよな。俺はまだやりたいことがあるんだよ。
そんなことを考えていると、目の前が急に明るくなった。目の前には―――。
「は?キョン・・?」
キョン子が口を開けて俺を見ていた。
どうなってやがる。俺はさっきまで鏡に映ったキョン子を見ていたはずだ。だが今は、俺本人がキョン子に直接会って見ているじゃないか。
キョン子の目線は俺を見上げているようでもなく、見下げているようでもなく、真っ直ぐだった。
と、いうことは。
何が何だかよく解らんまま、俺とキョン子は思いっきりぶつかった。
2009年10月05日(月) 21:17:19 Modified by ID:9HclCuOTIg