不幸せな友人たち(27-108)

 アンリエッタとギーシュは、ルイズの処遇について話し合った。目的はルイズを死ぬまで幸せにし
ておくことである。シエスタの提案どおり、才人の死に関する記憶を奪い、彼が元気に生きていると
思わせておく、というのが計画の根幹だった。
「そのためには、ルイズを徹底的に外界から引き離し、なおかつその状況を彼女が不審に思わないよ
うにしなければなりません」
「そこで私の力が必要になるのですね?」
「はい。具体的には……」
 計画自体は既にほとんど完成されていた。だからこそ、アニエスは余計に不安だった。
(陛下は、この計画を強引に変えさせて、ルイズを取り巻く嘘を壊してしまうつもりなのではないか?)
 先ほどのアンリエッタの微笑から、そんな風に勘ぐってしまう。
 だが、傍らでアニエスが聞いていた限り、アンリエッタは計画に対して非常に協力的だった。不安
が残る箇所を指摘し、その穴を的確に埋めてみせたのである。そうして数刻ほどの時間が過ぎ、空が
白み始めたころ、計画は持ち込まれた当初よりもかなり完成度の高い状態に仕上げられていた。
「女王陛下」
 部屋を辞する直前、ギーシュはアンリエッタの眼前に膝を突き、頭を垂れた。その声は細かく震えていた。
「私たちの力だけでは、ルイズの幸福を保つのは困難だったでしょう。ですが、こうして陛下のご助
力を賜った今、それはもはや不可能な話ではなくなりました」
 アンリエッタは労わるような微笑で応えた。
「お気になさらないでください、ギーシュ殿。私はただ、大切な親友の幸福に、少しでも寄与したい
と思っただけなのですから。あれほど愛していたサイト殿を失ってしまうだなんて、可哀想なルイズ……ギーシュ殿、どうか、生ある限り、彼女の幸福の助けになってあげてくださいましね」
「はっ……」
 ギーシュはさらに深く頭を下げた。その肩が小刻みに震えている。泣いているのかもしれなかった。
彼はやがてそっと目元を拭ったあと、立ち上がってきびきびと一礼した。
「それでは、失礼いたします。夜半突然の来訪の上、このような慌しい出立になるのは非常に無礼で
あると承知しておりますが」
「構いません。すぐに準備を整え、ルイズを迎えに行ってあげてください。あまり遅れて、彼女が不
審がってはいけませんから」
 ギーシュは再度礼を述べて、慌しく部屋を出て行った。彼はそのままトリステイン近郊に停泊して
いるというオストラント号に戻り、ルイズを迎える準備に奔走することになっている。
 アニエスと二人だけになった途端、アンリエッタは長く息を吐き出して、椅子に深く身を沈めた。
顔を伏せ、沈黙する。それから、不意に肩を震わせ、低い笑い声を漏らし始めた。その笑いはじょ
じょに大きくなり、ついには全身を揺さぶるほどの狂笑と化した。
 その笑い声から滲み出る強烈な悪意に背筋を強張らせながら、アニエスは慎重に問うた。
「いかがなさいましたか、陛下」
 アンリエッタは狂おしく笑いながら応えた。
「だって、あんまりおかしいんですもの。アニエス、聞いたでしょう? あの子が今どんな様でいる
のかを。ああ、なんて馬鹿なルイズ。愛しい愛しいサイト殿が目の前で死んだこともきれいさっぱり
忘れ去って、よりにもよって彼と幸福な結婚をしたと信じ込んでいるだなんて。でもそうね、あの子
にはそれがお似合いだわ。だって昔から道化だったんですものね、あの子は。ねえアニエス?」

「なんでしょうか、陛下」
「あなたは、私があの子を取り巻く偽りの幸せを、壊すつもりだと考えているのでしょう?」
 実際その通りだったが肯定することも躊躇われ、アニエスはすぐに返事を返せなかった。アンリ
エッタは構わずに、奇妙なほど優しい微笑を浮かべて言った。
「でも、そんなことをするつもりはありません。私は、あの子が一生、サイト殿が生きているという
幻想に抱かれながら生きていく手伝いをするつもりです」
「それは、陛下のルイズに対する友情故でございましょうか?」
 違うと知りつつも、アニエスは問いかけた。案の定、アンリエッタはゆっくりと首を横に振った。
その瞳には、死にかけて痙攣している獲物を面白がって見下ろすような、冷酷な光が宿っていた。
「違うわ。私はねアニエス、表ではあの子の幸福を喜びながら、裏では思う存分あの子を笑ってあげ
るつもりなのよ。私が手に入れられなかったサイト殿の愛情を一身に受けているつもりで、実際には
お節介な友人方がお膳立てした、偽物の幸福の中で無邪気な夢を見ているあの子をね」
 アンリエッタは小さく身震いした。
「ああ、なんて素敵なのかしら! 本来なら、私があの子から哀れまれ、見下される立場だと言うの
に、今やそれは完全に逆転したのだわ。私は確かにサイト殿の愛情を勝ち得ることは出来なかったけ
れど、ただ本当の記憶を持って生きている、あの子が気付かない本物の現実を知っているという点に
おいて、あの子の全てを嘲笑い、見下すことが出来るのだから」
 そうしてまたひとしきり哄笑を上げたあと、アンリエッタは不意に押し黙り、俯いた。
 少しの沈黙の後、彼女の頬を一筋の涙が流れた。
「でも、私がサイト殿の愛情を受けることは、もう二度とない。いいえ、愛情どころか、言葉ですらも」
 ぽつりとした呟きと共に、アンリエッタの頬を滂沱の涙が流れ落ちた。彼女は声を詰まらせながら言った。
「ねえアニエス、あの方の最後の願いを覚えているかしら? あの方は最後にこう言い残したそうね
――『ルイズを幸せに』と。その一瞬、あの方の心を占めていたのはルイズの行く末を案ずる感情だ
けだったでしょうね。きっと、あの方の死を看取ることも出来ず、最後の眼差しの一片すら受けるこ
とができなかった私のことなど、あの方の心には微塵も浮かばなかったことでしょう。私はこんなに
も、この身が引きちぎれるほどに激しく、あの方の愛情だけを求めていたと言うのに」
 震える声は、いつしか悲痛な叫びに変わっていた。
「どうしてあの子だったの? どうして私ではなかったの? 私だって、あの方と一緒にいることさ
え出来れば、あの方の心の片隅にでも存在していることが出来たでしょうに。最後の瞬間まで、あの
方があの子だけに心を奪われたまま死んでゆくことなんて、絶対に許さなかったでしょうに。ああア
ニエス、どうして? 何故なの? 何故私は、こんな遠く離れた場所で、あの方が死んだことも知ら
ずに、帰ることもない彼の帰りを待ち続けていなければならなかったの? どうして、どうして……!」
 その慟哭は、アニエスの胸に陰鬱な痛みをもたらした。
 哀れな恋敵を嘲笑し、己の不幸だけを嘆くアンリエッタのことを、身勝手で無様な女だと軽蔑する
ことは出来ない。
(この方は、ただ他の誰よりも情が深いだけなのだ)
 愛情、優しさ、憎悪、嫉妬。全てが常人の何百倍も強く、また深くもある。アンリエッタはそうい
う女だ。誰よりも女らしい女だ。だからこそ、これほどまでに強くルイズを憎み、愛しい才人の死を
嘆くことが出来る。
(サイト、何故貴様はこの方を残して死んでしまったのだ)
 死人に問いかけても無駄なことだとは知りつつ、アニエスはそう思わずにはいられなかった。
(貴様さえ無事に帰ってきてくれれば、この方の心がこうも深い闇に捕らわれてしまうことはなかっ
ただろうに。貴様がこの方に笑顔を向けてくれさえすればよかったのだ。そうすれば、かつての親友
をこれほどまでに憎悪することもなく、全てが平穏の内に治まったかも知れないというのに)
 だが、その幸福な未来はもはや永遠に幻となってしまった。才人の死は、間違いなくアンリエッタ
の最後の希望を打ち砕いたのだ。
 もう二度と、彼女が他人の愛に期待することはないかもしれない。

 その事実はアニエス自身の心にも暗い影を落としたが、打ちひしがれている暇はなかった。今もま
だ、アンリエッタは押し殺された声で泣き続けているのだ。
 どうするべきか、アニエスは少し考えた。まさか自分の慰めなどが彼女の心を癒せるはずもないが、
かと言って彼女をこの部屋でずっと泣かせたままにしておくわけにもいかない。
(せめて寝室までお送りしよう。今日の執務はなんとか取りやめにして……)
 考えながら、アニエスは声をかけた。
「陛下」
 泣き声がぴたりと止んだ。
「陛下?」
 アンリエッタが繰り返す。非常に小さかったが、それでも聞き逃すはずないと思わせる、不気味な
迫力の篭った声だった。アニエスの背筋が震えた。
(……なんだ?)
 心臓が早鐘を打ち始める。椅子に座って俯いたまま、微動だにしないアンリエッタが、平坦な声で
問いかけてきた。
「アニエス。今、あなたは私のことを何と呼びましたか?」
 わけの分からぬまま、アニエスは答えた。
「はっ。陛下、と」
「陛下。陛下……そう、そうだったわね」
 アンリエッタの肩が震え出した。続く声音で、泣いているのではなく笑っているのだと知る。
「私は、このトリステイン王国を治める、アンリエッタ・ド・トリステイン女王陛下だったわね!」
 笑い声はじょじょに高まり、部屋全体に反響するほどになった。そのただ中で、アニエスは不意に
眩暈を感じた。足がふらつき、よろめきそうになる。何か、悪夢の中に突然引きずり込まれたような
不快感があった。
 笑い声が止んだ。
「ありがとう、アニエス」
 アンリエッタがにっこりと微笑む。
「あなたのおかげで、私は自分の望みがはっきりと分かったような気がします」
「はっ。左様で、ございますか」
 どう返事をしたものか、アニエスは迷った。
 今、目の前のアンリエッタはとても透き通った美しい微笑を浮かべている。ここ数ヶ月ほど、彼女
の顔に常に付きまとっていた倦怠と悲嘆の色がすっかり消えうせていた。だが、直前までの嘆き様か
ら一転してこの表情である。どう考えても尋常ではない。
「ねえアニエス。私はね、全て分かったような気がします」
 表情を変えないまま、アンリエッタが穏やかな表情で語り始める。
「私の不幸の源が、一体どこにあるのか」
 アンリエッタは己の胸に手を置いた。
「それは、私が女王陛下だから。想い人と共に在ることどころか、心のままに振舞うことすら許され
ぬ、王という人種だから。かつて『王になどならなければよかった』と私が嘆いたとき、マザリーニ
枢機卿は私に言われました。『そう思わぬ王はおらぬものです』と」
 アンリエッタが薄く目を開く。剣のような鋭さだった。
「『王になどならなければよかった』あの頃の思いは、今もなお変わっていません。それどころか、
今日という悲惨な日を経て、より一層強くなったような気がいたします。だからアニエス、私は」
 アンリエッタは強い声音で宣言した。

「私は、王をやめます」
「陛下!?」
 アニエスが目を見張ると、アンリエッタは口元を手で隠して笑った。
「アニエス。まるでこの世の終わりが来るのを知ったような驚きようね」
「同じようなものです。陛下、どうかお考え直しください。陛下なくして、このトリステインは」
 早口に説得しようとするアニエスを、アンリエッタは手の平で遮った。その顔には、澄ました表情
が浮かんでいる。
「落ち着きなさい。何も、今すぐにやめると言っているわけではありません。私なくして、今のトリ
ステインが保たないことは十分に理解しているつもりです」
「では……?」
「つまり、私などいなくてもいい状況を作り出せばいいのです。そのために……アニエス、協力して
くださいますわね?」
 問いかけるアンリエッタの瞳の奥底に、暗い悦びが宿っていた。
(この方は、己の激情をぶつけるべき相手を見つけたのだな)
 アニエスは踵を揃え、背筋を伸ばした。
「分かりました。このアニエス、及ばずながら、陛下のお力になりましょう」
「ええ、お願いしますね、私の隊長殿。まずはね」
 アンリエッタは楽しげな様子で、己の策を語り始める。今この場で考え出したとは思えないほど、
綿密かつ具体的な計画が、歌のようにその唇から流れ出す。
(いや、今この場で考え出したのではない。この方は、今までも同じようなことを取りとめもなく考
えていたに違いない)
 今までそれは、単なる妄想や思いつきの類に過ぎなかった。だが、今や一つの目標のために筋道立
てて並べ立てられ、より洗練され、現実的な計画に仕立て上げられていく。
 その原動力となるものが何なのかがよく分かっているだけに、アニエスは余計悲しかった。
(陛下、憎悪以外の情を全て失くされましたか。ですが、それも致し方ないこと。私は止める術を知
りませぬし、止めようとも思いませぬ。せめてあなたの傍らで、この復讐劇が終わるまでのお供をさ
せていただきましょう)
 アンリエッタの声に相槌を打ちながら、アニエスは心の中で強く決意を固めたのだった。

 アンリエッタ・ド・トリステインは、トリステイン王朝最後の王となった。
 とは言え、それは同時代のガリア王であるイザベラや『一代王朝』と呼ばれた帝政ゲルマニア・
ツェルプストー王朝の女帝キュルケにしても同様であるから、そのこと自体は特筆するには値しない。
 違っていたのは、ほぼ全ての国において、革命が武器を手にした民衆の武力闘争によってなされた
のに対し、唯一トリステインのみは無血の革命を成し遂げたことである。そのためにトリステインは
国力を損なうこともなく、この混沌とした時代にあっても、一度として国土を他国に蹂躙されること
はなかった。
 この穏やかな政権の譲渡は、アンリエッタ女王が事前にこういった事態を予測し、有力貴族の勢力
縮小や平民の登用などに心血を注いできた、努力の結果であるといえる。彼女は非常に冷静かつ慎重
に事を運び、誰にも気付かれぬまま、全ての準備を終えた。その政治家としての有能さは、同時代の
学者の一人が、彼女を評価した有名な言葉に表されている。
「トリステインの白百合は、剣でも切れぬ鉄の華」
 鉄の華に例えられるほど、彼女は政治の場において無慈悲であり、なおかつ冷静な人物であったと
いうことだ。
 故に後世の人々は、彼女のことを人間的な情とは縁の薄い、冷徹で意志力の強い人物として思い浮
かべることが多い。
 しかし、近年発見された一冊の手記は、そういったアンリエッタ女王像を覆すものとして注目を浴
びている。終生女王の剣としてその傍にあった、近衛隊長アニエス・シュヴァリエ・ド・ミランが残
したとされるものだ。
 以下が、その内容を一部抜粋したものである。

「――アンリエッタ・ド・トリステインは、非常に感情の激しい女性である。多くの者たちは、それ
を知りはすまい。彼らの中に、あの強烈な感情の発露を見た者は誰一人としていないだろうから。
 彼女は実に冷静に政務を遂行している。そのたゆまぬ努力の向かう先が何であるのか、私は痛いほ
どよく知っている。彼女は、女王である自らの手で、長く続いた王政に終止符を打とうとしているのだ。
 だが、それは多くの者たちが評価しているように、時代の流れを見据えているからでもなければ、
彼女が国や民のことを一番に考える政治家の鑑だからでもない。
 私は今、ここに彼女の真の姿を記しておくことにする。
 アンリエッタ・ド・トリステインは、強い意志力を持った優秀な指導者などではなく、魂の奥底ま
でが激しい情に満たされた、どこまでも女性らしい女性なのだ、と。
 彼女の行動は、全てがそのあまりにも人間的な感情に基づいたものである。王政を終わらせ、平民
達に政権を譲渡しようとしているのは、単にそれが王政に対する一番激烈な復讐になると考えているからだ。
 そう、彼女は王政という制度そのものを憎んでいる。王政が自分自身の運命を翻弄し、生の喜びを
全て奪い去ったと考えているからだ。――常に彼女の傍らにあった身としては、その認識はさほど間
違っていないようにも思う。
 王政の象徴とも言える王自らの手で、王政を終わらせること。高々と翻る白百合の旗を地に引き摺
り下ろし、嘲笑いながら自らの手で泥を塗りたくること。それだけが、彼女の望みなのだ。だからこ
そ、あれほど激しい情を持つ女性が、あれほど冷徹に行動できるのである。
 今、私の耳には王政の終わりを告げる鐘の音が聞こえている。おそらく、女王の目論みは完璧に実
現するだろう。トリステインは、平穏のまま革命を終えることとなる。
 それ自体は女王の功績ではない。たまたま、時代の流れが彼女の望みに合致しただけのことである。
彼女としては、無血だろうが多くの血が流されようが、自分を散々苦しめた王政を破壊することさえ
出来れば、あとはどうでも良いのだ。
 一人の女性として運命に愛されなかった女王が、政治家として時代の流れに愛されたというのは、
実に皮肉なことだ。おそらく、これからもそれは変わらないだろう。彼女が狂おしいことに求め続け
た、たった一つの愛を勝ち得ることは永遠にない。
 我が哀れな主の魂が、死後天上でゼロの使い魔と共にあることを、私は願わずにはいられない」

 ――アンリエッタ・ド・トリステインは、各国歴代の王の中でも、最も優秀な政治家として、歴史
にその名を留めている――
2008年02月11日(月) 15:59:16 Modified by idiotic_dragon




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