PINKちゃんねる-エロパロ&文章創作板「依存スレッド」まとめページです since2009/05/10

作者:4-263氏


 黒の壁掛け時計が七時三十五分を示す。定時を五分過ぎたのを確認して、俊樹はその黒い電波時計が狂っているのではないかと疑念を抱いた。
 駅からそこそこ近いアパートのそこそこ広い一室。その部屋の主である彼女は、毎晩七時三十分に帰宅する。
 俊樹は卓上の皿を眺めた。一汁三菜を守った食事がこぢんまりと並ぶ。我ながらよくやるものだと思う。
 昨年の今頃ならば、キャンパスとバイト先と飲み屋を往復して、時折家に帰ってはコンビニ弁当をかきこむような生活をしていたというのに。
 全ては部屋の主たる小林柊子の体を慮てのことである。


 俊樹は柊子の事を何一つ知らない。同時に、柊子も俊樹のことを何一つ知らないのだ。
 去年の今頃――正確には、もっと暑くなっていた頃だった――俊樹がサークル仲間とのコンパでぐでぐでに酔っ払い、汗と吐寫物にまみれて転がっていたのが、このアパートのゴミ捨て場であった。
 そして、汗と吐寫物にまみれて転がっていた俊樹に手を差し伸べたのが、他ならぬ柊子だった。



「あなた、大丈夫?」
 心配するというよりは、むしろ突き放すよいな声音に視線を上げた。酔いやら汗やら涙やらで霞んだ視界に若い女性が映る。
 俊樹は、何故そんなことをしたのか未だによく分からないのだが、へらりと笑って「オネーサン、綺麗っすね」と答えた。
 事実、小林柊子は整った面立ちをしていたし、日々キャンキャンと喚く子犬のような女子大生ばかりを見ていた俊樹は、重たげな一重瞼から煌めく落ち着いた黒い瞳に惹かれてしまったのだ。
 柊子は皮肉気に唇を歪めて「そうね、整備の賜物だもの」と呟く。次いで冷たく俊樹を見下ろして、細く白い手を伸ばした。
 整えられたワインレッドの爪を眼前にちらつかされ、俊樹は呆然とする。無為にその爪を眺め続けた後、視線を少しだけ上げると、侮蔑にも似た色を浮かべた目と目があった。
「立てるの?ここ私の部屋だから、休んで行きなさい」

 そうして、なし崩し的に俊樹は柊子の部屋に転がり込んだ。女のもとに転がり込んだ、と聞いて激怒した両親に仕送りも切られ、学生用のアパートも解約してしまった俊樹に、帰る場所は此処しかない。

 しんと静まり返った室内に、携帯電話の初期設定着信音が響く。柊子からだろうか、と明滅するディスプレイを覗き込み、携帯へ手を伸ばした。
 俊樹は「三上次郎」という表示に一瞬手を止めたが、鳴り止む気配ない携帯を手に取り渋々と通話ボタンを押した。

「あーっ!でたでた!」

 きん、と携帯電話が壊れそうな高音が耳を突く。俊樹は眉をひそめた。確かに自分は高校からの友人の電話に出たはずである。これは、誰だ。
「あたし、覚えてる?」
 うるせぇ、名を名乗れ。と言いたいのをこらえて俊樹は努めて穏やかに、そしておちゃらけたようにして答える。

「あれ?次郎じゃないの?」
 おそらく電話の相手は酔っているのだ。甲高い声の背後に居酒屋の喧騒が混じる。携帯電話のマイクから相手の酒臭い息が臭いそうなほどだ。
 案の定、電話の相手は酔っ払い特有の躁じみた笑い声をあげた。

「あたし、あたし。茜。覚えてるっしょ?」

 茜。たしか、同じゼミにそんな名前の女生徒がいた気がする。服も小物も化粧も流行りで固めた女子大生ほど無個性なものはない。
 俊樹の脳裏には、茜の笑ったときに剥き出しになる出っ張った前歯しか浮かばなかった。
「今、ゼミのみんなで飲んでるんだけどさ、俊樹君も来ない?」
 俊樹は苛々とテーブルを指で叩く。思い出した。この茜という女生徒は、何かにつけて自分を担ぎ出したがる。友人曰わく自分に好意があるらしいのだが、俊樹はこういうやり方が好きでは無かった。
 悪いけど、と前置きして俊樹はさも心苦しいような声を作る。
「用事があるから、今晩は無理。ごめん」
 途端に、電話の向こうの温度が2℃程下がった気がした。「だから言っただろ」と友人の聞き慣れた声が微かに聞こえる。
 ふぅん、と茜は鼻を鳴らした。

「あの噂、本当だったんだ」

 どく、と俊樹の心臓は鷲掴まれたかのように脈打つ。
「俊樹君さ、年上の女の人のところに居候してるんでしょ?それって、どうなの?ヒモじゃん」
 頭の中心が火でもついたかのように熱くなる。ぎゅ、と乾いた唇を噛んだ。

「はは、ごめんね。じゃあ、また」

 ――ヒモ、か。
 俊樹は暗い気持ちで携帯電話の電源を切った。柊子の部屋に転がり込んでから、めっきり人付き合いは悪くなった。
 仲間達と大騒ぎするのも嫌いではない。だが、柊子が帰って来るまでに夕飯の準備をしなくてはならない。別に強制されたわけではないが、俊樹は毎日食事を用意している。
 心地良いのだ。柊子のいる空間は時間の進み方がゆっくりとしている気がする。

「行けばいいのに」

 一人しかいないはずの部屋に不意に声が響いて、俊樹は肩を震わせた。玄関へ続くドアに手をかけて、ベージュのスーツを纏った柊子がこちらを見つめていた。
「友達は大事にしないと」
 シャンパンゴールドに染められた爪が、俊樹の携帯電話を指し示す。
 何故か粗相を責められる子供のような気分になって、俊樹は携帯電話を握って隠した。
「いや……、あんまり好きじゃないんです。大人数とか」
 嘘ではない。だが、十分な真実でもない。
 柊子は「そう」と素っ気なく呟くと、ベージュの上着を脱ぎながらリビングを渡り、自室へ向かう。
 歩いた際に揺れた空気が、嗅ぎなれた香りをふわと俊樹へ運んだ。

「柊子さん!」

 とっさに呼び止めると柊子は少しだけ眉を上げて振り返る。
「お帰りなさい。……遅かったですね」
 柊子は少しだけ訝しげに眉をひそめると、次いで緩やかに唇で笑みを形作る。
 俊樹は柊子の笑い方が好きだ。決して歯を剥き出しで笑うようなことはなく、いつも僅かに唇を緩める。
 その笑顔には少しの翳りがある、気がした。

「そうね」

 たった一言を残して、ドアはぱたんと閉められる。
 お預けをくらった犬のように手持ち無沙汰に膝を見つめた後、俊樹は短く息を吐いて食事を温め直しにかかった。
 時折、自分は何者なのだろうかと思う。自分は間違いなく樋田俊樹である。そんなことは分かっている。
 柊子にとって、自分は何者なのだろうか。
 恋人?友人?厄介な同居人?放っておけない年下の坊や?
(或いはヒモ、か)
 考え、自嘲的に笑う。上手く笑えず歯の間から息が漏れて、一層虚しい気持ちになった。

 柊子との間に体の関係はない。それどころか、触れたことすら数度しかない。一年近く男女が一つ屋根の下に棲んでいて、こんなことがあるのだろうか。
 悩んで悩んで尚、柊子のもとを離れられないのは経済的な問題があるからだけではない。
 俊樹は元来思い悩むたちで、高校の時分にはそっちの医者にかかったこともあった。
 人と付き合っていると、自分を偽っているような、仮面を被って接しているような気がして、自分を殺して周囲に迎合する自分に嫌気がさす。本当に自分を殺したくなる。
 だが、柊子には何一つ偽る必要が無かった。柊子は女性であるというのに、酷く口数が少ない。(尤も、女性は多弁であるというのが偏見であるかもしれないのだが)他ではどうなのかは知らないが、無為に表情を作ることもしない。
 人によっては冷たい印象を受けるのかもしれないが、俊樹には気にならなかった。むしろ柊子と接している時だけは、自分が人間である気にさえなった。

 それを、柊子に漏らしたことがある。柊子は彼女にしては珍しく一重の目を丸くして、呆気にとられたような様子であった。
 呆れられただろうか、気持ち悪いと思われただろうか。と俊樹は言わねば良かったと後悔した。だが、柊子は長い前髪を指先で払うと「そう。なんだか、文豪みたいね」と笑った。
 そのときの柊子の動作を、俊樹は全て目に焼き付けている。人差し指で前髪を払い薬指と小指で耳にかけるその動作も、伏せられた睫毛の震え方も。
 その切り返しに並々ならないセンスを感じた、と言ったら言い過ぎだろうか。とにかく、自分はその言葉に少なからず救われたのだ。
 カウンセラーの吐くお仕着せの言葉よりも、医者の出す得体の知れない錠剤よりも、柊子の「そう」の一言の方がよほど俊樹の暗く淀んだ脳髄を揺さぶった。
 とにかく、俊樹には柊子が必要であるのだ。それだけは、俊樹の狭い世界の真理であった。


 ことり、と卓上に茶碗が置かれる。はっとして顔を上げると柊子は不思議そうな顔をした。

「電子レンジ、何度も鳴っていたのに」
「あ、すみません」

 調理が完了すると、中の皿が取り出されるまで定期的にアラームを鳴らし続けるタイプの電子レンジである。どうやら思った以上に思考に耽っていたらしい。
「文豪だもの。仕方ない」
 柊子は茶化すように言うと、ダイニングテーブルにつき箸を手に取る。

「いただきます」

 赤い塗り箸が、白いご飯を掬う。俊樹はそれを眺めながら黒い塗り箸で魚をつついた。
 柊子は細面に一重瞼で、鼻も小作りである。その中に唇だけがぽてりとしていて、そのアンバランスが色っぽい。柔らかそうな唇に触れる箸が羨ましいと感じるあたり、既に自分は異常である。
 俊樹の視線に気付いたのか、柊子は視線を上げる。最後の咀嚼、嚥下を終えて柊子は口を開いた。化粧を落とした唇が、赤い。
「別に、先に食べていてもいいのに」
 いえ、と俊樹は首を振る。
「俺が、柊子さんと一緒に食べたいんです」
 柊子はふうと笑って、前髪を指先で払う。

「そう」

 待ち望んだその返答に、俊樹は自分の顔が勝手に笑むのを感じた。




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