Fate/XXI:16
Fate/XXI
ACT16 地獄での『審判』
咆哮が聞こえる。慟哭が伝わる。
行き場無く、彷徨い歩く獣のように。
理由無く、吹き荒れ砕く嵐のように。
その男は狂い吠える。
剣を、槍を、手にしたらば、得物が砕けるまで振るい、目につく限りのものを打ちのめしながら。
愛の届かぬ苦しみを、解き放つために。心を壊すことで、心を死なせぬために。
愛する人を悲しませる己が身を、不甲斐なく思うゆえに。その身を痛めつけ、罰するために。
愛する女性を思い起こす。女としての幸せを許されず、王妃としての役割をそのか弱き身に毅然と背負う、美しい姿を。
愛する主君を思い起こす。自分が愛する女性の夫。そして自分が仕えるに相応しい、かけがえのない、理想の王を。
どちらも決して裏切れない。どちらも決して責められない。
ならばもう、自分自身を呪うしか術がない。
男は狂い続ける。
男は叫び続ける。
騎士の誉れを脱ぎ捨て、ただ一匹の獣のように。
◆
揺り起され、間桐雁夜は目を覚ます。夢の中で聞いた、哀しい叫びは、いまだに耳についていた。女性のために全てを投げ打ち、しかし報われたいという欲望を捨て切れず、誰を責めるわけにもいかず、ただ自分だけを呪い、狂う、男の姿。
雁夜はそれに少しの共感をしながら、しかし自分と彼との決定的な違いを認識する。
一つは、雁夜には憎しみの対象がいること。遠坂時臣。夢の中の騎士が仕えた主とは違い、敬愛の対象などには間違ってもできない男だ。
一つは彼には味方がいること。誰にも相談できぬ悩みを抱えた騎士には望めなかった、大事な仲間が、雁夜にはいた。そう、今目の前に。
「ブチャラティ………?」
雁夜は見知った顔を見つめ、現状を確認する。ここは、ブチャラティたちが用意した自動車の中であり、自分は体力を温存させるために睡眠をとっていた。そして、眠りから起こされたということは、
「………そうか。戦争の時間か」
納得して、雁夜は軋む体を起し、車から降りる。夕焼けの空を映す、未遠川(みおんがわ)が視界に入った。次に、大きな排水溝が見える。
「あの奥に?」
「ああ、アバッキオがあそこまでは突き止めた」
アバッキオは、子供が誘拐された現場とされる場所を調べ、そこで『ムーディー・ブルース』を発動させた。それで拍子抜けするほど簡単に、雨生龍之介は見つかった。殴り倒したくなるほど楽しそうにはしゃぐ姿を再現した『ムーディー・ブルース』を、追ううちに、この排水溝に辿り着いたのだ。
この付近で幾度か『ムーディー・ブルース』を使ってみると、龍之介が何度もここを出入りしていることもわかった。
「この奥が、奴らの隠れ家に違いない」
「そうか………なら潰さなくちゃな」
少し前まで一般人であった雁夜は、子供を殺し続けるキャスターたちに、常識的な人間らしい怒りを燃やす。霊体化していたバーサーカーを実体化させ、雁夜一行は、キャスターの工房へと足を進めた。
◆
「あーあー、つまらんのぉ。退屈だのぉ」
河原に座り、駄菓子屋で子供たちに混じって買った煎餅を齧りながら、ライダーは嘆いた。昨夜の戦いから、負傷したケイネスを回収して帰った後のことを思い起こして、ため息をつく。
あの後、ケイネスは目覚めてから、負傷した自分自身への憤懣に沈み込み、アインツベルン陣営への怨恨を滾らせていた。あまりの激情ゆえに、逆に能面のように無表情になったケイネスに、ライダーさえ口を出しかねていたが、そんな彼に笑顔で声をかけたのがソラウであった。
「そんなに気にしては駄目よ。不運は誰にでもあるわ。今は回復につとめて、次の戦いと勝利に備えましょう」
愛する婚約者の優しい言葉に感激したケイネスは、多少機嫌を直し、今は言われた通り、魔術で傷を癒しつつ、眠りについている。一日体力を温存し、回復に費やせば、万全とはいかないまでも、戦闘は可能になるだろう。
その間、敵陣営の調査などはソラウに任されている。使い魔からの情報をチェックする程度の、簡易な調査ではあるが、今まであまり積極的に動こうとしなかったソラウが、行動を起こしていることに、これまたケイネスは感激している。自分の負傷を心配し、自分のために力を貸してくれていると思っているのだろう。
「しかし、なんか違う気がするのよなぁ」
ライダーは、そんなソラウの行動に違和感を覚えていた。いきなりケイネスに優しくし過ぎる。態度が変わりすぎている。
「何か裏がありそうな………まったくもって面白くない」
ライダーにはやることがなかった。ケイネスが回復している間、戦うわけにもいかず、かといって他に役立つことも無く、小遣いを渡されてどこか行ってろとケイネスに追い出された。ケイネスにとっては婚約者と二人きりになりたいという心理もあったかもしれない。それはともかく、ライダーも街をぶらついてみたいとは思っていたので、二つ返事で承諾した。
しかしソラウへの違和感が気になるあまり、大好きな異邦の探索にも身が入らない。結局、楽しみ切れずに一日が終わってしまった。これはいけないとライダーは思う。
「何かこうパーっとしたことができんものかのぉ」
◆
普通であれば、排水溝を通り、待ち構える番犬や、仕掛けられたトラップを乗り越えて、本拠地へと辿り着くものであるが、ブチャラティたちはそうはしなかった。
「ここだぜ。大体、この辺だ」
アバッキオの『ムーディー・ブルース』の再生によって、龍之介が排水溝へと入り、どこまで歩き、どこで腰を落ち着けるのかまでを調べる。詳細に調べるには、スタンドを追いかけなくてはいけないが、大体どの辺りかまでわかれば、今回は充分だ。
目にしていなくても、アバッキオは自分のスタンドがどの辺りにいるか感覚でわかる。そして、その位置の真上に、雁夜一行は立っていた。
「『スティッキー・フィンガーズ』!!」
ブチャラティが、地面にジッパーを張り付ける。そしてジッパーを開くと、地面に空間の穴が開き、龍之介の動きを再生している『ムーディー・ブルース』が今いる所、すなわちキャスターの工房への、直通ラインの入り口が出来上がった。
「行くぞ!」
「―――――――!!」
まずブチャラティが入り、工房へ通じる道を作り続け、先へ先へと潜行していく。次に吠えるバーサーカーが入り、雁夜、アバッキオ、ナランチャがジッパーの穴に入っていく。狭い空間で、ウイルスによる同志討ちを起こしやすいフーゴは、今回は留守番である。
無明の滑り台を降りて行くように、彼らは敵の本拠地へ向かう。
「ついたぞ。明かりが無くて何も見えないが………」
十秒としないうちに、ブチャラティが目的地に辿り着いたことを告げる声をあげる。
「確かに真っ暗だな………この臭いは……酷く錆び臭い………まさか」
「随分、床が濡れてるなぁ。ここで寝起きしてるんじゃないのかよ?」
アバッキオとナランチャが、その場での印象を口にする。バーサーカーが暴れないところを見ると、敵の気配は無いらしい。キャスターは留守のようだ。
「ナランチャ、ライトを」
「おう」
「みんな………覚悟しておけ。この臭いは、きっと酷いものを見ることになる」
ブチャラティが忠告してすぐ、ナランチャが明かりを点ける。そして、全員が絶句した。
「お、げえええええええ!!」
ナランチャが胃の内容物を吐き戻した。雁夜も、胃に吐くような物が入っていたら、同様にしていただろう。
ブチャラティとアバッキオは、流石と言える冷静さを保っているが、それでも顔は青ざめていた。ただバーサーカーだけが、変わらぬ調子で唸りを上げている。
「なんて、ことだ………」
周囲には、様々な道具が並んでいた。家具が、食器が、楽器が、衣服が、並んでいた。それら全てが、人体を解体し、細工し、創作したものだった。以前、アサシンが素晴らしいと讃えた品々は、雁夜たちにとっては地獄の産物以外の何物でもなかった。
更におぞましいことに、人としての原形をとどめぬまで破壊された中には、まだ微かに身じろぎしている者や、急に点けられた明かりに眩しそうに目を細めている者がいたのだ。
「まだ生きている者もいるが………もう、助けようがない」
ブチャラティの言葉に、雁夜は肩を落とす。こうなってしまったものを癒す力など、彼には無い。もちろんブチャラティたちにも。
「畜生」
力無く呟かれる言葉。うちひしがれる雁夜に、誰も言えることはなかった。彼らにできることは、せいぜい今もなお生きてしまっている哀れな犠牲者に、介錯をしてやることくらいだ。
だがそんな時、
「―――ッ!!」
凄まじい勢いで、バーサーカーが振り向いた。バーサーカーの足元の血が、跳ね飛び散る。バーサーカーの視線の先には、この工房から排水溝へと続くであろう、本来の出入り口となっている通路があった。
「敵か!?」
「あの糞野郎の御帰還か!」
アバッキオとナランチャが、現状における無えよくな自分への苛立ちも上乗せした戦意を立ち昇らせ、臨戦態勢をとる。だが、すぐにはキャスターは現れず、まず聞こえてきたのは、奇怪な咆哮と、そのすぐ後に発せられた気味の悪い断末魔だった。
しかし、奇妙なことに戦闘の音は無い。斬られた音も砕かれた音も、燃やされた音も、爆ぜた音も、何も破壊的な音は無く、ただただ、獣の荒ぶる声と、そして悲鳴としか思えぬ悲痛な声が聞こえてくるのだ。
しばらく様子を見ていると、通路の向こうが明るくなってきた。その明かりは炎によるものでも、電気によるものでもない。柔らかな自然の輝きで、赤や青、黄、緑など様々な色を持つ、七色の虹のような光だった。同時に周囲に漂う血の臭いは、通路の奥から広がってくる、素晴らしく甘く、温かみさえ感じられる、良い香りに塗り直されていく。
3分もした頃、凄惨な悪魔の仕事場に、また一人客人が足を踏み入れた。
「何だ? この趣味の悪い駄作の山は? 情が強すぎて雅に欠ける。遊びの域は出ぬな」
作品の邪悪さについては驚くことも無く、ただ作品の出来のみをつまらなそうに評価したのは、金色の鎧をまとい、首にはひらめく長い布をかけた、アーチャーその人であった。
◆
未遠川へと向かう、二つの人影があった。
午前中、既に切嗣たちと一戦を交えた、ウェイバーとランサーである。
「敵はキャスター。様々な魔術的結界やトラップで、防御を固めているに違いない。用心しろよ」
「任せておいてください。我が養父、アンガスやマナマーン・マック・リールと共に過ごしていた経験から、多少は魔術師の守りというものも見知っております。必ずやご期待に答えて見せましょう」
ランサーは、自分を育てた、ケルト神話に残る二柱の偉大な魔術師の名を出して、自信ありげな笑みを浮かべる。
「よし………ん? あれか」
ウェイバーは、目的地である川の排水溝を視認した。
切嗣たちとの戦いの後、今度こそ確実にコトネを警察に送り届けたウェイバーは、次に本来の予定であった、川の水の収集を行った。その水を持ち帰って調べたところ、馬鹿馬鹿しいほど簡単に、川の近辺で魔術を使った痕跡が発見できたのだ。
そして最も強い反応を示した水を汲んだ辺りに、排水溝があることをつきとめ、ウェイバーはキャスターの工房が、その奥にあると見極めた。
その手際に、ランサーは感嘆し、さすがは我が主と褒め称えたが、ウェイバーにしてみれば小学生の算数の問題を解けたことを褒められているようなもので、嬉しいよりも、馬鹿にされているような気になり、面白くは無い。ランサーにそんな意図はないとわかっているのだが。
(むしろ馬鹿なのはキャスターの方なんだけどな。まあ奴がジル・ド・レだとすれば、奴は魔術を学んでいたと伝承されているが、マーリンやメディア、パラケルススなんかみたいに、力ある魔術師として名を残しているわけじゃない。キャスターとしての技術レベルはたかが知れている)
こんな簡単に魔術の痕跡を垂れ流していることを考えれば、結界やトラップにしても、そこまで周到なものができるとも思えない。本拠地は、まず見つからないことが一番重要なのだから。どんな砦であれ、そこに存在しているのなら落とせる可能性はある。だが、砦が見つからなければ、そもそも攻略しようがない。その辺りのことをわかっていない相手なら、どれほど力が強くても、かなりの勝機が見込めるとウェイバーは考えていた。
しかし、その考えが、排水溝を間近で見た瞬間、揺れることになる。
「なんだ………? 排水溝が、七色に輝いているぞ!?」
◆
悠然とアーチャーが歩むたびに、彼の足元が明るく輝く。それは虹そのものだった。彼が歩む一歩手前に、輝く虹の道ができており、虹の上に乗る彼の足は地面に触れてはいなかった。アーチャーが歩むたびに、彼が歩む方向へ虹は伸びていくのだ。
その背後からは、苦しみのた打つ触手が、アーチャーを追って這い出てきたが、やがて力無く動きを止め、細胞が崩れて、元の血となってしまう。召喚された異界へと退去させられたのだろう。そして残った血も、瞬時に清らかな水へと変じてしまう。工房の床を濡らす血も汚水も、見る見るうちに清められていき、血臭もすべて甘い香りにより拭い去られた。
「ふん。雑種の目にも美しく見えるか? 北欧神話において、あらゆる橋の中で最高のものとされている、【揺れる橋(ビヴロスト)】の原形よ。ついでに、魔物どもを退散させたのは日本神話に登場する【十種の神宝(とくさのかんだから)】の内の一つ、【品物比礼(くさもののひれ)】。汚水を清めたのは中国の宝珠【清水珠(せいすいしゅ)】。この香りは、霊力を持った原初の【没薬(ミルラ)】だ」
北欧神話において、神の世界と現世とをつなぐ橋であり、虹と同一視される橋、【揺れる橋(ビヴロスト)】、あるいは【欺く道(ビルロスト)】。
アーチャーの首にかけられて垂れ下っている長い布は、日本神話に伝えられる宝の一つ、悪鳥、悪獣、妖魔を祓い、邪を退ける【品物比礼(くさもののひれ)】。
また【清水珠(せいすいしゅ)】は中国の民話などに登場し、塩水しか湧かない地方ではかけがえのない宝となる、どんな濁った水も、真水に変える珠である。おそらくここに来る前に、水中に放り込んだのだろう。
そして、キリストの誕生において、東方の三賢者から、黄金、乳香と共に贈られた【没薬(ミルラ)】。エジプトではミイラ作りにも使われた香り高い樹木であるが、その最高のものであろう。おそらく現在には無い、神秘の込められた代物だ。
(武器だけでなく、ここまで多様な宝具を持っているのか………!!)
魔術や神話、民話に関する知識が無いブチャラティたちは、何だか凄い物を持っている程度にしかわからなかったが、付け焼刃とはいえ、聖杯戦争に備えて、その手の知識を仕入れておいた雁夜は、そのあまりに豊富なアーチャーの力に、万能性に、戦慄する。
「………なぜここに?」
ブチャラティがいつでも殴りかかれる態勢で質問する。とはいえ、ブチャラティほどの者をして、『スティッキー・フィンガーズ』の一撃が、アーチャーに当たるという光景を、まるで思い浮かべられなかった。英霊という存在は、基本的に人間より格上となる。いくらスタンド使いであろうと、正面からではあまりに分が悪い。
「別に。我が動くに値する戦いが始まるまで暇でな。この街の夜の猥雑さでも眺めてみようと散歩をしていたら、たまたま貴様らが何やら動いているのを見てな。気まぐれに後を追ってみたのだ。貴様ら同様、直接ここまでの通路を作ってもよかったが、二番煎じというのもつまらん。それにこの王たる我が、裏口からこそこそ入るというのも情けない話だ」
アーチャーは、雁夜たちの警戒など知らぬ顔で、素直に喋った。わざわざ丁寧に説明してくれるほど親切な男ではないはずだが、よほど暇だったのだろう。喋ること自体は嫌いで無いらしく、口調は流れるようだった。
「ゆえに、正面から堂々と入ることにしたのだが、この我が足を踏み入れる様な環境ではなかったため、【清水珠】と香水で、水と空気を清め、魔物どもは我が武器を使うまでもなかったから【品物比礼】で浄化した。汚らしい床を踏みたくなかったので【ビヴロスト】の上を歩み、ここまで来たという訳だが………」
周囲を見回したアーチャーはつまらなそうに鼻を鳴らし、
「無駄足だったな。腹立たしい。こんなつまらんところは、いっそ滅ぼしてしまうがよかろう」
呟くと、虚空から無数の武器が溢れ出る。それらをここで放てば、この工房は一切合切消し飛び、排水溝自体も破壊され、この一区画が基盤ごと壊滅することになるだろう。
「ま、待て!!」
雁夜が思わず叫ぶ。アーチャーはさして興味もなさそうに雁夜を見ると、
「何だ雑種。貴様らはこの我に無駄足を踏ませた責任をとって、共に消えよ。狂犬とその飼い主には勿体ないほど、華々しく散らせてやるゆえ光栄に思うがいい」
勝手についてきただけのくせに、無茶苦茶な発言であった。傲慢極まる、しかしそれが許される、そんな力の持ち主なのだ。この黄金のサーヴァントは。
いくらバーサーカーがアーチャーに対し、多少有利なスキルを持っているとしても、こんな狭い中では攻撃をかわしきれないし、何より巻き添えをくうだけで、雁夜たちは簡単に死ぬ。
その迸る王気に気圧されながらも、雁夜は必死な思いで言葉を紡ぐ。
「こ、ここにはまだ生きている子供たちがいる。それを、一緒に殺すつもりなのか?」
その言葉に、アーチャーは少し驚いた顔をした。まさかこの半死人の如きマスターが、すぐに諦めなかったのが意外であったのだろう。
「何か問題でもあるか? どうせ死んだも同然の者、いや、むしろ死んだ方がマシといった者たちだ。構うこともあるまい。つまらぬ命乞いはやめて、潔く我が『審判』を受け、消え去るがいい」
「く………!!」
もはやここまで。自分にはもう打つ手はない。雁夜が絶望に沈む。
(こんなところで死ぬのか? 戦うことさえできずに、もののついでというだけで殺されるのか? 桜ちゃんを助けられず、葵さんを悲しませたまま、ここにいる子供たちを救うこともできず………!!)
雁夜の心が軋む。死ぬ覚悟はしていた。どうせもう朽ちたこの肉体、せめて大切な人の為に使って死のうと、覚悟していた。しかし、無駄死にの覚悟などしてはいない。何もできずに死ぬのだけは嫌だ。
恐れる雁夜。それを救うように、声をあげた者がいた。
「確かに、俺たちでは救えない。俺たちで無くても、名だたる英雄の歴々であろうと、こうまで破壊された人間を救える者などいないだろう。いくら、王の中の王と豪語する英雄であろうとも、止めを刺すのが関の山か」
「………何?」
ブチャラティの発言に、アーチャーは鋭く視線を向けた。視線に物理的影響力があるのなら、ブチャラティの体は貫かれて風穴が開いていることだろう。しかし、直接向けられていなくてもなお、凍りついたように体が動かなくなりそうな狂眼を相手に、ブチャラティはわざとらしくため息をつく真似をし、肩をすくめた。
「王の中の王であろうと………だと?」
「ああ。この子たちを殺すことなら誰にだってできる。だが彼らを生かすとなれば、それこそ英雄の中の英雄でなければできぬことだろう。しかし、流石にそこまでできる英雄は、ここにはいないようだがな」
雁夜の胃が引き裂かれ、心臓が口から吐き戻されそうだった。ブチャラティは、間違いなくアーチャーを挑発している。けしかけている。表情と仕草で、『がっかりした、期待はずれだった』と、見せつけている。
よりにもよってこのサーヴァントに対して。傲慢を極めた、容赦も自制も全くしない、無双の暴君に対して。冗談など決して通じない、この暴虐の化身に対して。
『彼らを救えないのなら、英雄と言っても所詮その程度だ』
そう、示して見せたのだ。状況を少しでも変えるための打開策なのだろうが、もはやそれは勇気ではなく、愚行である。
雁夜は絶望的な思いで、ブチャラティの無謀を見守った。だが、そこで雁夜は、ブチャラティの目に宿った意志を見てとった。
『もしも交渉が決裂するなら、たとえ無に近しい可能性であろうとも、アーチャーが攻撃を仕掛けるその一瞬前に、アーチャーの首を刎ね飛ばす』
彼は決して諦めていなかった。最後まで、アーチャーと戦いもせず、絶望したりしていなかった。その強い意志に触れ、身震いしながら、雁夜もまた、覚悟を決めた。
『ブチャラティを決して死なせない』『ここでなくても、近いうちに死んでしまう僕のためになど、絶対にこの男を死なせてはならない』『アーチャーを倒し、全員生きて、ここを出る』
たとえどんなに可能性が低かろうが、それでも、そうしなくてはならないのだと、いつでも令呪を使い、バーサーカーの力を振るえるようにと、身構える。
アバッキオ、ナランチャもまた、怯えを噛み殺し、震えを押し込め、アーチャーを睨んでいる。彼らも同じ考えのようだった。
「………ふん」
しかし、雁夜たちの覚悟を前に、アーチャーは何ら警戒も見せず、展開していた武器の数々をかき消し、代わりに子供の頭ほどの大きさの白磁の壺を二つ、出現させる。
「くだらん挑発にのってやって………救ってやるとしよう」
アーチャーがブチャラティに向かって二つの壺を投げつける。咄嗟に受け止めたブチャラティに、アーチャーは既に背を向け、工房を去ろうとしていた。
「一塗りで分かたれた手足をつけ直し、臓腑さえ再生させる【再生薬】と、飲ませた相手が忘れさせたい記憶を、飲んだ相手に忘れさせる【忘却薬】だ。我を前にしての蛮勇に免じて、くれてやる。ありがたく拝領せよ」
一方の壺には軟膏らしき粘液。『イリアス』にて語られる【医薬神パイエオンの軟膏】や、各地の民話に伝えられる神秘の薬の原形だろう。
もう一方の壺には、甘い香りのする水薬。ゲルマンの英雄シグルズが飲まされた【忘れ薬】などの原形と思われる。
中身を確認し、ブチャラティはすぐに軟膏を手に掬い取り、一番近くにいた犠牲者に塗りつける。するとすぐに効果が現れ、ほとんど内と外が裏返ったように、露出した内蔵が、瞬時に腹部に畳み込まれ、何も無かったかのように綺麗に癒える。切断されて跡形も無かった手足が生え換わり、潰れた眼さえ蘇る。まさに奇跡の業だった。
「なるほどな」
ブチャラティはその効果を見て、凄まじすぎる効能に驚きながらも、ただその喜ばしい結果を受け入れる。そして、もう興味は無いとばかりに去っていくアーチャーの背に向けて、
「ディ・モールト・グラッツェ………偉大なる王よ。たとえ気紛れであろうとも、貴方はまさに英雄だ。戦争である以上、貴方を敵と見ないわけにはいかないが、このことは決して忘れない」
最大の敬意を込めて頭を下げ、礼をした。真摯な響きを感じ取ったか、アーチャーは立ち止まって振り向き、
「思い上がるな。貴様らなど敵にさえなるものか。しかしまあ、時臣よりは多少、面白みはある奴らのようだ。今宵は見逃す。その顔、憶えておいてやろう。光栄に思うがいい」
どこまでも上から見下ろすように、しかし先ほどまでは無かった楽しげな気配を滲ませて言い、その姿をかき消した。霊体化したか、瞬間移動の力も使えるのか、判別は付かなかったが、ここからいなくなったのは確かなようだった。
数秒の間、黄金の王が去った後を眺めた後、ブチャラティたちは生きている数少ない者たちを救うため、行動を始めた。
ただ、無事を安堵し、行動する4人の中で、ただ1人、雁夜だけは奇妙に陰鬱な瞳で、アーチャーの薬を見つめていた。
◆
アサシンがその近辺を歩いていたことは偶然であった。確かに、彼はキャスターの工房の位置など、かなり早い段階から知っていたが、別にまたキャスターに会いに行こうとしていたわけではない。
街を出歩いていたのは、出会いを求めてのことだ。昨夜はソラウ・ソフィアリ・ヌァザレという、中々有望な女性と出会うことができた。
(綺礼、キャスター、龍之介、ソラウ………皆、このDIOと共にあるに相応しい悪の持ち主だ。中々順調にいっている。私は今、いい流れにいるようだ。しかし、もっとだ。もっと知らねばならない。この聖杯戦争の渦中にある者たちの、もっと奥底について)
サーヴァントの中でも優位にあるクラスとされる三騎士や、王として名を残したライダー。彼らの力は確かなものだ。それを利用するにせよ、滅殺するにせよ、もっと多くのことを知りたく思う。
そう考えていたとき、アサシンがそれを見つけたのは果たして偶然か、はたまた運命か。
「あれは………ライダーの【神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)】?」
雷をまとい、夜空を駆けるライダーの姿があった。しかし、その戦車には少々おかしなものが乗っている。
「樽………?」
アサシンは首を傾げたが、次の瞬間には笑みを浮かべていた。
「これもまた運命か………追ってみるとしよう」
運命の出会いを、あるいは、運命との出会いを望む、悪の王は、猫科の猛獣のように筋肉をしならせ、ライダーを追って駆け出した。
◆
全ての生き残りを治癒し、つらい拷問の悪夢を忘れさせてから眠らせると、雁夜たちはその数少ない救われた子供たちを工房から連れ出した。ひとまず自動車の後部座席に押し込むと(このため、ナランチャとアバッキオは歩いて帰ることになった)、キャスターたちが工房に帰ってくる前に、その場を離れる。
この子供たちを護りながらでは、不利になるかもしれないという判断だった。一応バーサーカーに暴れさせ、工房を破壊し尽くし、使いものにならなくしてある。
「とりあえず、この子供たちはどこかすぐに発見されそうなところに置いていくとして………雁夜」
運転席のブチャラティが、助手席の雁夜に話しかける。
「その二つの薬、アーチャーが狙ってかどうかわからないが、もうあと一回ずつ使える量が残っている」
雁夜の膝の上には、アーチャーから渡された薬壺が二つ乗っていた。確かに、両方とも底の方に、それぞれ一すくい、一口分だけ残っている。
「それを大事にとっておくんだ。貴方の蝕まれた肉体を癒し、桜ちゃんの心を元に戻すことができる、希望と成るんだからな」
「あ、ああ………」
弱々しく頷きながら、雁夜は自分の動悸が激しくなっていることを感じていた。しかしそれは喜びのためだけではない。それと同じくらい、もう一つ、多大な恐怖が、雁夜を襲っていた。
(確かに………確かにこれなら、僕のこの体を癒せる。この戦いの後も、生きることができる。だが)
横目で、雁夜はブチャラティを見る。彼は、さきほど命を賭けた遣り取りをしたとは思われぬ、いつも通りの態度で、真っ直ぐ前を見て運転をしていた。
(いいのか? そんな希望を持っていいのか? そんな希望を持ったら、僕はもう………こんなにも、死ぬのが怖い――!!)
今まで、命も惜しまず戦ってこれたのは、たとえ戦いに勝ち抜こうと、蟲に侵されたこの体では、どうせじきに死ぬという諦めもあったのだ。それが、死ななくてもいいかもしれないという希望が、手に入ってしまった。
(これから僕は、死を覚悟して立ち向かえるのか? どこかで、命を惜しんで、大変な失敗をしてしまうんじゃないのか? 僕は、ブチャラティのようにはなれない。いつか、ブチャラティを、死の恐怖のあまりに裏切ってしまうときが来るんじゃないのか?)
生きられるかもしれないという喜び、死への恐怖、未来への恐怖、そして、弱い自分自身の心への不安。それらがない交ぜになり、雁夜は先ほど、黄金のサーヴァントの前で決めた覚悟さえ霧散させ、一人、混乱した感情を抱えたまま、やがて体力と魔力の消耗によって眠りに落ちていった。
雁夜は自らの苦悩を隠そうとしていたようだったが、ブチャラティは既に見抜いていた。なぜなら、彼自身、雁夜と逆の意味の苦悩を抱えていたのだから。
(雁夜………ひょっとしたら俺は、お前を置いていってしまうことになるかもしれない。フーゴも、ナランチャも、アバッキオも。俺はお前たちを置き去りにしてしまうかもしれない。すべては、俺自身の勝手な我がままのために)
本当に嗤ってしまうと、ブチャラティは思った。
今の自分の行動は要するに、自分の組織が麻薬を扱っていることに怒りを抱いていながら、反抗することもできない弱く臆病な男が、八つ当たりの捌け口を見つけて、それを利用しているようなものだ。
確かに臓硯のやりようは許せないし、雁夜や桜の助けになりたいと思う気持ちもある。だが、それを行えるならもっと自分の近くにある、自分の組織であるパッショーネを憎み、パッショーネの犠牲となっている人々を救おうとすべきなのだ。
そうしないのは、パッショーネが自分の存在の基盤であり、精神的な拠り所だからだ。父が危機に瀕したときに頼りにしたのは、警察ではなくパッショーネだった。パッショーネこそが、この世の正義だとあの日の自分は信じた。それが裏切られてなお、パッショーネに依存する心を持ち続けてしまう弱さ。矛盾する心。矛盾が生む苛立ち。
その苛立ちを鎮めるために、自分は雁夜を利用している。せめて雁夜たちを助けることで、パッショーネを見逃し続ける罪を清算しようとしている卑怯卑劣な自分がいる。
わかっていても、止めることはできない。ここで止まっても、雁夜はきっと勝ち抜けず、死ぬことになる。今更放り出すことはできない。だがいつか、放り出すことになるかもしれない。自分の命を捨てなければ乗り越えられない状況であれば、ブチャラティは命を捨てるだろう。それが、覚悟とは異なる犠牲の道とわかっていても。自分が死した後に、雁夜たちが取り残され、置き去りになってしまうことがわかっていても。
ブチャラティは自分を犠牲にしてしまう。その優しさゆえに。
「何と言う偽善だろうな。雁夜、今更、君に何とわびてもどうにもならない。勝手に恩着せがましく戦いに参加して、状況をかき回し、君の心に余計な苦悩まで与えてしまった。それでもやめることをしない俺は本当の馬鹿だ。けどそれでも、俺は君を護る。君はどう考えているか知らないが、こんな俺より、君の方がずっと価値のある人間なのだから」
間桐雁夜と、ブローノ・ブチャラティ。互いが互いに、自分よりも彼こそが生きるべきだと思い合う二人は、その夜の戦争を終えたのだった。
◆
雁夜一行が、まだ子供たちを治療していた頃、排水溝から川辺の道に上がったところで、一つの対面がなされていた。
一方は、今、キャスターの工房から引き揚げてきたアーチャー。
もう一方は、排水溝の異常を見て、様子をうかがっていたウェイバーとランサー。
「別の雑種と出会うことになろうとはな。さて、貴様が我が相手をするのに、相応しいものかどうかまだ見極めてはおらぬが、ここで会ったのも何かの縁。特別に、我じきじきに葬ってやっても構わぬという気分だ。喜びの内に、死ぬといい」
「馬鹿を言ってもらっちゃ困るな。僕らはこんなところで、最初の脱落者になる気は無いよ」
ウェイバーは精一杯虚勢を張りながら、どうにか逃げ延びる道を模索する。アーチャーの異常性は、最初の戦いでよくわかっていた。雨あられと宝具を投げつけられたら、大抵のサーヴァントはそれでおしまいだ。何とかできるアサシンやバーサーカーの方がおかしいのだ。ランサーにしても、回避くらいはできるが、ウェイバーという足手まといがいてはそれにも限界があるだろう。
(ランサーに時間稼ぎをしてもらっている間に、『幸運のメイク』で逃亡を成功させる運を上げて逃げ、しかる後、ランサーを令呪で避難させる。それがプランだけど………)
問題は、時間稼ぎ自体ができるかどうか、幸運を上げたくらいで逃げ切れるかどうか。
「やるしかないな。少なくとも、正面から倒すなんてのは、流石に無茶だ」
令呪を使い尽くそうが、切り札すべてばら撒こうが、無理なものは無理だ。正攻法ではアーチャーに勝てない。
少しでもより良い手を尽くそうと思考し続けるウィバーだったが、そこに、予期せぬ乱入者が現れた。丁度、最初の夜と同じように。
「AAAAAALaLaLaLaLaie(アァァァァァララララライッ)!!」
ウェイバーたちと、アーチャー。その向かい合う中央に、戦車が激突した。風と雷が迸り、他の音というものを塗り潰す。そして、それらが収まると、周囲は嘘のように静かになった。そんな沈黙の中で、戦車に乗っていた馬鹿は、またいつものように馬鹿なことを言いだした。
「よう! お前ら暇かのう!」
「いやその………これから戦うってとこだったんだけど」
正確には、ウェイバーたちはできれば戦わずに逃げたいところだったのだが、そこは言わずにひとまず突っ込む。
「うむ。なれば戦いをやめれば暇だな? ならば丁度いい! 今宵は一つ、パーっと酒でも呑もうではないか!!」
ウェイバーは、命の危機がまだ去ってはいないことも忘れて、思わず口にした。
「………言ってる事がわからない。イカレてるのか? この状況で」
間桐の今夜の戦争は終わった。しかし、この夜の戦争自体は、まだまだこれからであった。
……To Be Continued
ACT16 地獄での『審判』
咆哮が聞こえる。慟哭が伝わる。
行き場無く、彷徨い歩く獣のように。
理由無く、吹き荒れ砕く嵐のように。
その男は狂い吠える。
剣を、槍を、手にしたらば、得物が砕けるまで振るい、目につく限りのものを打ちのめしながら。
愛の届かぬ苦しみを、解き放つために。心を壊すことで、心を死なせぬために。
愛する人を悲しませる己が身を、不甲斐なく思うゆえに。その身を痛めつけ、罰するために。
愛する女性を思い起こす。女としての幸せを許されず、王妃としての役割をそのか弱き身に毅然と背負う、美しい姿を。
愛する主君を思い起こす。自分が愛する女性の夫。そして自分が仕えるに相応しい、かけがえのない、理想の王を。
どちらも決して裏切れない。どちらも決して責められない。
ならばもう、自分自身を呪うしか術がない。
男は狂い続ける。
男は叫び続ける。
騎士の誉れを脱ぎ捨て、ただ一匹の獣のように。
◆
揺り起され、間桐雁夜は目を覚ます。夢の中で聞いた、哀しい叫びは、いまだに耳についていた。女性のために全てを投げ打ち、しかし報われたいという欲望を捨て切れず、誰を責めるわけにもいかず、ただ自分だけを呪い、狂う、男の姿。
雁夜はそれに少しの共感をしながら、しかし自分と彼との決定的な違いを認識する。
一つは、雁夜には憎しみの対象がいること。遠坂時臣。夢の中の騎士が仕えた主とは違い、敬愛の対象などには間違ってもできない男だ。
一つは彼には味方がいること。誰にも相談できぬ悩みを抱えた騎士には望めなかった、大事な仲間が、雁夜にはいた。そう、今目の前に。
「ブチャラティ………?」
雁夜は見知った顔を見つめ、現状を確認する。ここは、ブチャラティたちが用意した自動車の中であり、自分は体力を温存させるために睡眠をとっていた。そして、眠りから起こされたということは、
「………そうか。戦争の時間か」
納得して、雁夜は軋む体を起し、車から降りる。夕焼けの空を映す、未遠川(みおんがわ)が視界に入った。次に、大きな排水溝が見える。
「あの奥に?」
「ああ、アバッキオがあそこまでは突き止めた」
アバッキオは、子供が誘拐された現場とされる場所を調べ、そこで『ムーディー・ブルース』を発動させた。それで拍子抜けするほど簡単に、雨生龍之介は見つかった。殴り倒したくなるほど楽しそうにはしゃぐ姿を再現した『ムーディー・ブルース』を、追ううちに、この排水溝に辿り着いたのだ。
この付近で幾度か『ムーディー・ブルース』を使ってみると、龍之介が何度もここを出入りしていることもわかった。
「この奥が、奴らの隠れ家に違いない」
「そうか………なら潰さなくちゃな」
少し前まで一般人であった雁夜は、子供を殺し続けるキャスターたちに、常識的な人間らしい怒りを燃やす。霊体化していたバーサーカーを実体化させ、雁夜一行は、キャスターの工房へと足を進めた。
◆
「あーあー、つまらんのぉ。退屈だのぉ」
河原に座り、駄菓子屋で子供たちに混じって買った煎餅を齧りながら、ライダーは嘆いた。昨夜の戦いから、負傷したケイネスを回収して帰った後のことを思い起こして、ため息をつく。
あの後、ケイネスは目覚めてから、負傷した自分自身への憤懣に沈み込み、アインツベルン陣営への怨恨を滾らせていた。あまりの激情ゆえに、逆に能面のように無表情になったケイネスに、ライダーさえ口を出しかねていたが、そんな彼に笑顔で声をかけたのがソラウであった。
「そんなに気にしては駄目よ。不運は誰にでもあるわ。今は回復につとめて、次の戦いと勝利に備えましょう」
愛する婚約者の優しい言葉に感激したケイネスは、多少機嫌を直し、今は言われた通り、魔術で傷を癒しつつ、眠りについている。一日体力を温存し、回復に費やせば、万全とはいかないまでも、戦闘は可能になるだろう。
その間、敵陣営の調査などはソラウに任されている。使い魔からの情報をチェックする程度の、簡易な調査ではあるが、今まであまり積極的に動こうとしなかったソラウが、行動を起こしていることに、これまたケイネスは感激している。自分の負傷を心配し、自分のために力を貸してくれていると思っているのだろう。
「しかし、なんか違う気がするのよなぁ」
ライダーは、そんなソラウの行動に違和感を覚えていた。いきなりケイネスに優しくし過ぎる。態度が変わりすぎている。
「何か裏がありそうな………まったくもって面白くない」
ライダーにはやることがなかった。ケイネスが回復している間、戦うわけにもいかず、かといって他に役立つことも無く、小遣いを渡されてどこか行ってろとケイネスに追い出された。ケイネスにとっては婚約者と二人きりになりたいという心理もあったかもしれない。それはともかく、ライダーも街をぶらついてみたいとは思っていたので、二つ返事で承諾した。
しかしソラウへの違和感が気になるあまり、大好きな異邦の探索にも身が入らない。結局、楽しみ切れずに一日が終わってしまった。これはいけないとライダーは思う。
「何かこうパーっとしたことができんものかのぉ」
◆
普通であれば、排水溝を通り、待ち構える番犬や、仕掛けられたトラップを乗り越えて、本拠地へと辿り着くものであるが、ブチャラティたちはそうはしなかった。
「ここだぜ。大体、この辺だ」
アバッキオの『ムーディー・ブルース』の再生によって、龍之介が排水溝へと入り、どこまで歩き、どこで腰を落ち着けるのかまでを調べる。詳細に調べるには、スタンドを追いかけなくてはいけないが、大体どの辺りかまでわかれば、今回は充分だ。
目にしていなくても、アバッキオは自分のスタンドがどの辺りにいるか感覚でわかる。そして、その位置の真上に、雁夜一行は立っていた。
「『スティッキー・フィンガーズ』!!」
ブチャラティが、地面にジッパーを張り付ける。そしてジッパーを開くと、地面に空間の穴が開き、龍之介の動きを再生している『ムーディー・ブルース』が今いる所、すなわちキャスターの工房への、直通ラインの入り口が出来上がった。
「行くぞ!」
「―――――――!!」
まずブチャラティが入り、工房へ通じる道を作り続け、先へ先へと潜行していく。次に吠えるバーサーカーが入り、雁夜、アバッキオ、ナランチャがジッパーの穴に入っていく。狭い空間で、ウイルスによる同志討ちを起こしやすいフーゴは、今回は留守番である。
無明の滑り台を降りて行くように、彼らは敵の本拠地へ向かう。
「ついたぞ。明かりが無くて何も見えないが………」
十秒としないうちに、ブチャラティが目的地に辿り着いたことを告げる声をあげる。
「確かに真っ暗だな………この臭いは……酷く錆び臭い………まさか」
「随分、床が濡れてるなぁ。ここで寝起きしてるんじゃないのかよ?」
アバッキオとナランチャが、その場での印象を口にする。バーサーカーが暴れないところを見ると、敵の気配は無いらしい。キャスターは留守のようだ。
「ナランチャ、ライトを」
「おう」
「みんな………覚悟しておけ。この臭いは、きっと酷いものを見ることになる」
ブチャラティが忠告してすぐ、ナランチャが明かりを点ける。そして、全員が絶句した。
「お、げえええええええ!!」
ナランチャが胃の内容物を吐き戻した。雁夜も、胃に吐くような物が入っていたら、同様にしていただろう。
ブチャラティとアバッキオは、流石と言える冷静さを保っているが、それでも顔は青ざめていた。ただバーサーカーだけが、変わらぬ調子で唸りを上げている。
「なんて、ことだ………」
周囲には、様々な道具が並んでいた。家具が、食器が、楽器が、衣服が、並んでいた。それら全てが、人体を解体し、細工し、創作したものだった。以前、アサシンが素晴らしいと讃えた品々は、雁夜たちにとっては地獄の産物以外の何物でもなかった。
更におぞましいことに、人としての原形をとどめぬまで破壊された中には、まだ微かに身じろぎしている者や、急に点けられた明かりに眩しそうに目を細めている者がいたのだ。
「まだ生きている者もいるが………もう、助けようがない」
ブチャラティの言葉に、雁夜は肩を落とす。こうなってしまったものを癒す力など、彼には無い。もちろんブチャラティたちにも。
「畜生」
力無く呟かれる言葉。うちひしがれる雁夜に、誰も言えることはなかった。彼らにできることは、せいぜい今もなお生きてしまっている哀れな犠牲者に、介錯をしてやることくらいだ。
だがそんな時、
「―――ッ!!」
凄まじい勢いで、バーサーカーが振り向いた。バーサーカーの足元の血が、跳ね飛び散る。バーサーカーの視線の先には、この工房から排水溝へと続くであろう、本来の出入り口となっている通路があった。
「敵か!?」
「あの糞野郎の御帰還か!」
アバッキオとナランチャが、現状における無えよくな自分への苛立ちも上乗せした戦意を立ち昇らせ、臨戦態勢をとる。だが、すぐにはキャスターは現れず、まず聞こえてきたのは、奇怪な咆哮と、そのすぐ後に発せられた気味の悪い断末魔だった。
しかし、奇妙なことに戦闘の音は無い。斬られた音も砕かれた音も、燃やされた音も、爆ぜた音も、何も破壊的な音は無く、ただただ、獣の荒ぶる声と、そして悲鳴としか思えぬ悲痛な声が聞こえてくるのだ。
しばらく様子を見ていると、通路の向こうが明るくなってきた。その明かりは炎によるものでも、電気によるものでもない。柔らかな自然の輝きで、赤や青、黄、緑など様々な色を持つ、七色の虹のような光だった。同時に周囲に漂う血の臭いは、通路の奥から広がってくる、素晴らしく甘く、温かみさえ感じられる、良い香りに塗り直されていく。
3分もした頃、凄惨な悪魔の仕事場に、また一人客人が足を踏み入れた。
「何だ? この趣味の悪い駄作の山は? 情が強すぎて雅に欠ける。遊びの域は出ぬな」
作品の邪悪さについては驚くことも無く、ただ作品の出来のみをつまらなそうに評価したのは、金色の鎧をまとい、首にはひらめく長い布をかけた、アーチャーその人であった。
◆
未遠川へと向かう、二つの人影があった。
午前中、既に切嗣たちと一戦を交えた、ウェイバーとランサーである。
「敵はキャスター。様々な魔術的結界やトラップで、防御を固めているに違いない。用心しろよ」
「任せておいてください。我が養父、アンガスやマナマーン・マック・リールと共に過ごしていた経験から、多少は魔術師の守りというものも見知っております。必ずやご期待に答えて見せましょう」
ランサーは、自分を育てた、ケルト神話に残る二柱の偉大な魔術師の名を出して、自信ありげな笑みを浮かべる。
「よし………ん? あれか」
ウェイバーは、目的地である川の排水溝を視認した。
切嗣たちとの戦いの後、今度こそ確実にコトネを警察に送り届けたウェイバーは、次に本来の予定であった、川の水の収集を行った。その水を持ち帰って調べたところ、馬鹿馬鹿しいほど簡単に、川の近辺で魔術を使った痕跡が発見できたのだ。
そして最も強い反応を示した水を汲んだ辺りに、排水溝があることをつきとめ、ウェイバーはキャスターの工房が、その奥にあると見極めた。
その手際に、ランサーは感嘆し、さすがは我が主と褒め称えたが、ウェイバーにしてみれば小学生の算数の問題を解けたことを褒められているようなもので、嬉しいよりも、馬鹿にされているような気になり、面白くは無い。ランサーにそんな意図はないとわかっているのだが。
(むしろ馬鹿なのはキャスターの方なんだけどな。まあ奴がジル・ド・レだとすれば、奴は魔術を学んでいたと伝承されているが、マーリンやメディア、パラケルススなんかみたいに、力ある魔術師として名を残しているわけじゃない。キャスターとしての技術レベルはたかが知れている)
こんな簡単に魔術の痕跡を垂れ流していることを考えれば、結界やトラップにしても、そこまで周到なものができるとも思えない。本拠地は、まず見つからないことが一番重要なのだから。どんな砦であれ、そこに存在しているのなら落とせる可能性はある。だが、砦が見つからなければ、そもそも攻略しようがない。その辺りのことをわかっていない相手なら、どれほど力が強くても、かなりの勝機が見込めるとウェイバーは考えていた。
しかし、その考えが、排水溝を間近で見た瞬間、揺れることになる。
「なんだ………? 排水溝が、七色に輝いているぞ!?」
◆
悠然とアーチャーが歩むたびに、彼の足元が明るく輝く。それは虹そのものだった。彼が歩む一歩手前に、輝く虹の道ができており、虹の上に乗る彼の足は地面に触れてはいなかった。アーチャーが歩むたびに、彼が歩む方向へ虹は伸びていくのだ。
その背後からは、苦しみのた打つ触手が、アーチャーを追って這い出てきたが、やがて力無く動きを止め、細胞が崩れて、元の血となってしまう。召喚された異界へと退去させられたのだろう。そして残った血も、瞬時に清らかな水へと変じてしまう。工房の床を濡らす血も汚水も、見る見るうちに清められていき、血臭もすべて甘い香りにより拭い去られた。
「ふん。雑種の目にも美しく見えるか? 北欧神話において、あらゆる橋の中で最高のものとされている、【揺れる橋(ビヴロスト)】の原形よ。ついでに、魔物どもを退散させたのは日本神話に登場する【十種の神宝(とくさのかんだから)】の内の一つ、【品物比礼(くさもののひれ)】。汚水を清めたのは中国の宝珠【清水珠(せいすいしゅ)】。この香りは、霊力を持った原初の【没薬(ミルラ)】だ」
北欧神話において、神の世界と現世とをつなぐ橋であり、虹と同一視される橋、【揺れる橋(ビヴロスト)】、あるいは【欺く道(ビルロスト)】。
アーチャーの首にかけられて垂れ下っている長い布は、日本神話に伝えられる宝の一つ、悪鳥、悪獣、妖魔を祓い、邪を退ける【品物比礼(くさもののひれ)】。
また【清水珠(せいすいしゅ)】は中国の民話などに登場し、塩水しか湧かない地方ではかけがえのない宝となる、どんな濁った水も、真水に変える珠である。おそらくここに来る前に、水中に放り込んだのだろう。
そして、キリストの誕生において、東方の三賢者から、黄金、乳香と共に贈られた【没薬(ミルラ)】。エジプトではミイラ作りにも使われた香り高い樹木であるが、その最高のものであろう。おそらく現在には無い、神秘の込められた代物だ。
(武器だけでなく、ここまで多様な宝具を持っているのか………!!)
魔術や神話、民話に関する知識が無いブチャラティたちは、何だか凄い物を持っている程度にしかわからなかったが、付け焼刃とはいえ、聖杯戦争に備えて、その手の知識を仕入れておいた雁夜は、そのあまりに豊富なアーチャーの力に、万能性に、戦慄する。
「………なぜここに?」
ブチャラティがいつでも殴りかかれる態勢で質問する。とはいえ、ブチャラティほどの者をして、『スティッキー・フィンガーズ』の一撃が、アーチャーに当たるという光景を、まるで思い浮かべられなかった。英霊という存在は、基本的に人間より格上となる。いくらスタンド使いであろうと、正面からではあまりに分が悪い。
「別に。我が動くに値する戦いが始まるまで暇でな。この街の夜の猥雑さでも眺めてみようと散歩をしていたら、たまたま貴様らが何やら動いているのを見てな。気まぐれに後を追ってみたのだ。貴様ら同様、直接ここまでの通路を作ってもよかったが、二番煎じというのもつまらん。それにこの王たる我が、裏口からこそこそ入るというのも情けない話だ」
アーチャーは、雁夜たちの警戒など知らぬ顔で、素直に喋った。わざわざ丁寧に説明してくれるほど親切な男ではないはずだが、よほど暇だったのだろう。喋ること自体は嫌いで無いらしく、口調は流れるようだった。
「ゆえに、正面から堂々と入ることにしたのだが、この我が足を踏み入れる様な環境ではなかったため、【清水珠】と香水で、水と空気を清め、魔物どもは我が武器を使うまでもなかったから【品物比礼】で浄化した。汚らしい床を踏みたくなかったので【ビヴロスト】の上を歩み、ここまで来たという訳だが………」
周囲を見回したアーチャーはつまらなそうに鼻を鳴らし、
「無駄足だったな。腹立たしい。こんなつまらんところは、いっそ滅ぼしてしまうがよかろう」
呟くと、虚空から無数の武器が溢れ出る。それらをここで放てば、この工房は一切合切消し飛び、排水溝自体も破壊され、この一区画が基盤ごと壊滅することになるだろう。
「ま、待て!!」
雁夜が思わず叫ぶ。アーチャーはさして興味もなさそうに雁夜を見ると、
「何だ雑種。貴様らはこの我に無駄足を踏ませた責任をとって、共に消えよ。狂犬とその飼い主には勿体ないほど、華々しく散らせてやるゆえ光栄に思うがいい」
勝手についてきただけのくせに、無茶苦茶な発言であった。傲慢極まる、しかしそれが許される、そんな力の持ち主なのだ。この黄金のサーヴァントは。
いくらバーサーカーがアーチャーに対し、多少有利なスキルを持っているとしても、こんな狭い中では攻撃をかわしきれないし、何より巻き添えをくうだけで、雁夜たちは簡単に死ぬ。
その迸る王気に気圧されながらも、雁夜は必死な思いで言葉を紡ぐ。
「こ、ここにはまだ生きている子供たちがいる。それを、一緒に殺すつもりなのか?」
その言葉に、アーチャーは少し驚いた顔をした。まさかこの半死人の如きマスターが、すぐに諦めなかったのが意外であったのだろう。
「何か問題でもあるか? どうせ死んだも同然の者、いや、むしろ死んだ方がマシといった者たちだ。構うこともあるまい。つまらぬ命乞いはやめて、潔く我が『審判』を受け、消え去るがいい」
「く………!!」
もはやここまで。自分にはもう打つ手はない。雁夜が絶望に沈む。
(こんなところで死ぬのか? 戦うことさえできずに、もののついでというだけで殺されるのか? 桜ちゃんを助けられず、葵さんを悲しませたまま、ここにいる子供たちを救うこともできず………!!)
雁夜の心が軋む。死ぬ覚悟はしていた。どうせもう朽ちたこの肉体、せめて大切な人の為に使って死のうと、覚悟していた。しかし、無駄死にの覚悟などしてはいない。何もできずに死ぬのだけは嫌だ。
恐れる雁夜。それを救うように、声をあげた者がいた。
「確かに、俺たちでは救えない。俺たちで無くても、名だたる英雄の歴々であろうと、こうまで破壊された人間を救える者などいないだろう。いくら、王の中の王と豪語する英雄であろうとも、止めを刺すのが関の山か」
「………何?」
ブチャラティの発言に、アーチャーは鋭く視線を向けた。視線に物理的影響力があるのなら、ブチャラティの体は貫かれて風穴が開いていることだろう。しかし、直接向けられていなくてもなお、凍りついたように体が動かなくなりそうな狂眼を相手に、ブチャラティはわざとらしくため息をつく真似をし、肩をすくめた。
「王の中の王であろうと………だと?」
「ああ。この子たちを殺すことなら誰にだってできる。だが彼らを生かすとなれば、それこそ英雄の中の英雄でなければできぬことだろう。しかし、流石にそこまでできる英雄は、ここにはいないようだがな」
雁夜の胃が引き裂かれ、心臓が口から吐き戻されそうだった。ブチャラティは、間違いなくアーチャーを挑発している。けしかけている。表情と仕草で、『がっかりした、期待はずれだった』と、見せつけている。
よりにもよってこのサーヴァントに対して。傲慢を極めた、容赦も自制も全くしない、無双の暴君に対して。冗談など決して通じない、この暴虐の化身に対して。
『彼らを救えないのなら、英雄と言っても所詮その程度だ』
そう、示して見せたのだ。状況を少しでも変えるための打開策なのだろうが、もはやそれは勇気ではなく、愚行である。
雁夜は絶望的な思いで、ブチャラティの無謀を見守った。だが、そこで雁夜は、ブチャラティの目に宿った意志を見てとった。
『もしも交渉が決裂するなら、たとえ無に近しい可能性であろうとも、アーチャーが攻撃を仕掛けるその一瞬前に、アーチャーの首を刎ね飛ばす』
彼は決して諦めていなかった。最後まで、アーチャーと戦いもせず、絶望したりしていなかった。その強い意志に触れ、身震いしながら、雁夜もまた、覚悟を決めた。
『ブチャラティを決して死なせない』『ここでなくても、近いうちに死んでしまう僕のためになど、絶対にこの男を死なせてはならない』『アーチャーを倒し、全員生きて、ここを出る』
たとえどんなに可能性が低かろうが、それでも、そうしなくてはならないのだと、いつでも令呪を使い、バーサーカーの力を振るえるようにと、身構える。
アバッキオ、ナランチャもまた、怯えを噛み殺し、震えを押し込め、アーチャーを睨んでいる。彼らも同じ考えのようだった。
「………ふん」
しかし、雁夜たちの覚悟を前に、アーチャーは何ら警戒も見せず、展開していた武器の数々をかき消し、代わりに子供の頭ほどの大きさの白磁の壺を二つ、出現させる。
「くだらん挑発にのってやって………救ってやるとしよう」
アーチャーがブチャラティに向かって二つの壺を投げつける。咄嗟に受け止めたブチャラティに、アーチャーは既に背を向け、工房を去ろうとしていた。
「一塗りで分かたれた手足をつけ直し、臓腑さえ再生させる【再生薬】と、飲ませた相手が忘れさせたい記憶を、飲んだ相手に忘れさせる【忘却薬】だ。我を前にしての蛮勇に免じて、くれてやる。ありがたく拝領せよ」
一方の壺には軟膏らしき粘液。『イリアス』にて語られる【医薬神パイエオンの軟膏】や、各地の民話に伝えられる神秘の薬の原形だろう。
もう一方の壺には、甘い香りのする水薬。ゲルマンの英雄シグルズが飲まされた【忘れ薬】などの原形と思われる。
中身を確認し、ブチャラティはすぐに軟膏を手に掬い取り、一番近くにいた犠牲者に塗りつける。するとすぐに効果が現れ、ほとんど内と外が裏返ったように、露出した内蔵が、瞬時に腹部に畳み込まれ、何も無かったかのように綺麗に癒える。切断されて跡形も無かった手足が生え換わり、潰れた眼さえ蘇る。まさに奇跡の業だった。
「なるほどな」
ブチャラティはその効果を見て、凄まじすぎる効能に驚きながらも、ただその喜ばしい結果を受け入れる。そして、もう興味は無いとばかりに去っていくアーチャーの背に向けて、
「ディ・モールト・グラッツェ………偉大なる王よ。たとえ気紛れであろうとも、貴方はまさに英雄だ。戦争である以上、貴方を敵と見ないわけにはいかないが、このことは決して忘れない」
最大の敬意を込めて頭を下げ、礼をした。真摯な響きを感じ取ったか、アーチャーは立ち止まって振り向き、
「思い上がるな。貴様らなど敵にさえなるものか。しかしまあ、時臣よりは多少、面白みはある奴らのようだ。今宵は見逃す。その顔、憶えておいてやろう。光栄に思うがいい」
どこまでも上から見下ろすように、しかし先ほどまでは無かった楽しげな気配を滲ませて言い、その姿をかき消した。霊体化したか、瞬間移動の力も使えるのか、判別は付かなかったが、ここからいなくなったのは確かなようだった。
数秒の間、黄金の王が去った後を眺めた後、ブチャラティたちは生きている数少ない者たちを救うため、行動を始めた。
ただ、無事を安堵し、行動する4人の中で、ただ1人、雁夜だけは奇妙に陰鬱な瞳で、アーチャーの薬を見つめていた。
◆
アサシンがその近辺を歩いていたことは偶然であった。確かに、彼はキャスターの工房の位置など、かなり早い段階から知っていたが、別にまたキャスターに会いに行こうとしていたわけではない。
街を出歩いていたのは、出会いを求めてのことだ。昨夜はソラウ・ソフィアリ・ヌァザレという、中々有望な女性と出会うことができた。
(綺礼、キャスター、龍之介、ソラウ………皆、このDIOと共にあるに相応しい悪の持ち主だ。中々順調にいっている。私は今、いい流れにいるようだ。しかし、もっとだ。もっと知らねばならない。この聖杯戦争の渦中にある者たちの、もっと奥底について)
サーヴァントの中でも優位にあるクラスとされる三騎士や、王として名を残したライダー。彼らの力は確かなものだ。それを利用するにせよ、滅殺するにせよ、もっと多くのことを知りたく思う。
そう考えていたとき、アサシンがそれを見つけたのは果たして偶然か、はたまた運命か。
「あれは………ライダーの【神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)】?」
雷をまとい、夜空を駆けるライダーの姿があった。しかし、その戦車には少々おかしなものが乗っている。
「樽………?」
アサシンは首を傾げたが、次の瞬間には笑みを浮かべていた。
「これもまた運命か………追ってみるとしよう」
運命の出会いを、あるいは、運命との出会いを望む、悪の王は、猫科の猛獣のように筋肉をしならせ、ライダーを追って駆け出した。
◆
全ての生き残りを治癒し、つらい拷問の悪夢を忘れさせてから眠らせると、雁夜たちはその数少ない救われた子供たちを工房から連れ出した。ひとまず自動車の後部座席に押し込むと(このため、ナランチャとアバッキオは歩いて帰ることになった)、キャスターたちが工房に帰ってくる前に、その場を離れる。
この子供たちを護りながらでは、不利になるかもしれないという判断だった。一応バーサーカーに暴れさせ、工房を破壊し尽くし、使いものにならなくしてある。
「とりあえず、この子供たちはどこかすぐに発見されそうなところに置いていくとして………雁夜」
運転席のブチャラティが、助手席の雁夜に話しかける。
「その二つの薬、アーチャーが狙ってかどうかわからないが、もうあと一回ずつ使える量が残っている」
雁夜の膝の上には、アーチャーから渡された薬壺が二つ乗っていた。確かに、両方とも底の方に、それぞれ一すくい、一口分だけ残っている。
「それを大事にとっておくんだ。貴方の蝕まれた肉体を癒し、桜ちゃんの心を元に戻すことができる、希望と成るんだからな」
「あ、ああ………」
弱々しく頷きながら、雁夜は自分の動悸が激しくなっていることを感じていた。しかしそれは喜びのためだけではない。それと同じくらい、もう一つ、多大な恐怖が、雁夜を襲っていた。
(確かに………確かにこれなら、僕のこの体を癒せる。この戦いの後も、生きることができる。だが)
横目で、雁夜はブチャラティを見る。彼は、さきほど命を賭けた遣り取りをしたとは思われぬ、いつも通りの態度で、真っ直ぐ前を見て運転をしていた。
(いいのか? そんな希望を持っていいのか? そんな希望を持ったら、僕はもう………こんなにも、死ぬのが怖い――!!)
今まで、命も惜しまず戦ってこれたのは、たとえ戦いに勝ち抜こうと、蟲に侵されたこの体では、どうせじきに死ぬという諦めもあったのだ。それが、死ななくてもいいかもしれないという希望が、手に入ってしまった。
(これから僕は、死を覚悟して立ち向かえるのか? どこかで、命を惜しんで、大変な失敗をしてしまうんじゃないのか? 僕は、ブチャラティのようにはなれない。いつか、ブチャラティを、死の恐怖のあまりに裏切ってしまうときが来るんじゃないのか?)
生きられるかもしれないという喜び、死への恐怖、未来への恐怖、そして、弱い自分自身の心への不安。それらがない交ぜになり、雁夜は先ほど、黄金のサーヴァントの前で決めた覚悟さえ霧散させ、一人、混乱した感情を抱えたまま、やがて体力と魔力の消耗によって眠りに落ちていった。
雁夜は自らの苦悩を隠そうとしていたようだったが、ブチャラティは既に見抜いていた。なぜなら、彼自身、雁夜と逆の意味の苦悩を抱えていたのだから。
(雁夜………ひょっとしたら俺は、お前を置いていってしまうことになるかもしれない。フーゴも、ナランチャも、アバッキオも。俺はお前たちを置き去りにしてしまうかもしれない。すべては、俺自身の勝手な我がままのために)
本当に嗤ってしまうと、ブチャラティは思った。
今の自分の行動は要するに、自分の組織が麻薬を扱っていることに怒りを抱いていながら、反抗することもできない弱く臆病な男が、八つ当たりの捌け口を見つけて、それを利用しているようなものだ。
確かに臓硯のやりようは許せないし、雁夜や桜の助けになりたいと思う気持ちもある。だが、それを行えるならもっと自分の近くにある、自分の組織であるパッショーネを憎み、パッショーネの犠牲となっている人々を救おうとすべきなのだ。
そうしないのは、パッショーネが自分の存在の基盤であり、精神的な拠り所だからだ。父が危機に瀕したときに頼りにしたのは、警察ではなくパッショーネだった。パッショーネこそが、この世の正義だとあの日の自分は信じた。それが裏切られてなお、パッショーネに依存する心を持ち続けてしまう弱さ。矛盾する心。矛盾が生む苛立ち。
その苛立ちを鎮めるために、自分は雁夜を利用している。せめて雁夜たちを助けることで、パッショーネを見逃し続ける罪を清算しようとしている卑怯卑劣な自分がいる。
わかっていても、止めることはできない。ここで止まっても、雁夜はきっと勝ち抜けず、死ぬことになる。今更放り出すことはできない。だがいつか、放り出すことになるかもしれない。自分の命を捨てなければ乗り越えられない状況であれば、ブチャラティは命を捨てるだろう。それが、覚悟とは異なる犠牲の道とわかっていても。自分が死した後に、雁夜たちが取り残され、置き去りになってしまうことがわかっていても。
ブチャラティは自分を犠牲にしてしまう。その優しさゆえに。
「何と言う偽善だろうな。雁夜、今更、君に何とわびてもどうにもならない。勝手に恩着せがましく戦いに参加して、状況をかき回し、君の心に余計な苦悩まで与えてしまった。それでもやめることをしない俺は本当の馬鹿だ。けどそれでも、俺は君を護る。君はどう考えているか知らないが、こんな俺より、君の方がずっと価値のある人間なのだから」
間桐雁夜と、ブローノ・ブチャラティ。互いが互いに、自分よりも彼こそが生きるべきだと思い合う二人は、その夜の戦争を終えたのだった。
◆
雁夜一行が、まだ子供たちを治療していた頃、排水溝から川辺の道に上がったところで、一つの対面がなされていた。
一方は、今、キャスターの工房から引き揚げてきたアーチャー。
もう一方は、排水溝の異常を見て、様子をうかがっていたウェイバーとランサー。
「別の雑種と出会うことになろうとはな。さて、貴様が我が相手をするのに、相応しいものかどうかまだ見極めてはおらぬが、ここで会ったのも何かの縁。特別に、我じきじきに葬ってやっても構わぬという気分だ。喜びの内に、死ぬといい」
「馬鹿を言ってもらっちゃ困るな。僕らはこんなところで、最初の脱落者になる気は無いよ」
ウェイバーは精一杯虚勢を張りながら、どうにか逃げ延びる道を模索する。アーチャーの異常性は、最初の戦いでよくわかっていた。雨あられと宝具を投げつけられたら、大抵のサーヴァントはそれでおしまいだ。何とかできるアサシンやバーサーカーの方がおかしいのだ。ランサーにしても、回避くらいはできるが、ウェイバーという足手まといがいてはそれにも限界があるだろう。
(ランサーに時間稼ぎをしてもらっている間に、『幸運のメイク』で逃亡を成功させる運を上げて逃げ、しかる後、ランサーを令呪で避難させる。それがプランだけど………)
問題は、時間稼ぎ自体ができるかどうか、幸運を上げたくらいで逃げ切れるかどうか。
「やるしかないな。少なくとも、正面から倒すなんてのは、流石に無茶だ」
令呪を使い尽くそうが、切り札すべてばら撒こうが、無理なものは無理だ。正攻法ではアーチャーに勝てない。
少しでもより良い手を尽くそうと思考し続けるウィバーだったが、そこに、予期せぬ乱入者が現れた。丁度、最初の夜と同じように。
「AAAAAALaLaLaLaLaie(アァァァァァララララライッ)!!」
ウェイバーたちと、アーチャー。その向かい合う中央に、戦車が激突した。風と雷が迸り、他の音というものを塗り潰す。そして、それらが収まると、周囲は嘘のように静かになった。そんな沈黙の中で、戦車に乗っていた馬鹿は、またいつものように馬鹿なことを言いだした。
「よう! お前ら暇かのう!」
「いやその………これから戦うってとこだったんだけど」
正確には、ウェイバーたちはできれば戦わずに逃げたいところだったのだが、そこは言わずにひとまず突っ込む。
「うむ。なれば戦いをやめれば暇だな? ならば丁度いい! 今宵は一つ、パーっと酒でも呑もうではないか!!」
ウェイバーは、命の危機がまだ去ってはいないことも忘れて、思わず口にした。
「………言ってる事がわからない。イカレてるのか? この状況で」
間桐の今夜の戦争は終わった。しかし、この夜の戦争自体は、まだまだこれからであった。
……To Be Continued
2012年09月18日(火) 16:21:39 Modified by ID:/PDlBpNmXg