「教養」Part2

2007/3/17放送「教養」


出演:鈴木謙介、柳瀬博一、仲俣暁生、佐々木敦、斎藤哲也、水越真紀(ゲスト)

※以下の発言まとめは、正確な番組での発言とは異なる場合があります。

MP3その4


鈴木:スタジオには放送から引き続きサブパーソナリティと、ライターの水越真紀さんです。はじめましてー。水越さんはAERAで80年代の話を、「バブル」の回のアンサーみたいな感じで書いていただいて。無理矢理座らせちゃいましたけど、よろしくお願いします。
メール、唐沢さんとか、教養のある人は落ち着きを感じる。塾の講師をやってると予習がないと授業にならない。パニックにならないために教養が必要。メール、教養は物事を客観視するのに役に立つ。直接役には立たないけど、位置づけが分かるようになる。
水越さん、今日の話って、教養が知識とは違うよねって話でしたけど、どう思ってます?

水越:音楽の批評を長年やってるんですけど、90年代のある時期に、レコードレビュー、特にクラブ音楽で、この曲は「使える」「使えない」ってのが大きな基準になって、ほとんどのものがその言葉で済むようになった。他の言葉が要らなくなって。でも、それが長続きしなかったんじゃないかなと思ってて。誰がそれでいいと思ったのか分からないけど、音楽の背景、ネットで調べられないこと、試聴しただけでは分からないことの情報が必要になったんですね。音楽の単行本を出すときでも、数年前は「勉強本」にしてくれって言われたんですけど、そういう入門本、ディスクガイド本でも売れなくなってるという。

佐々木:まったくそうだと思うけど、それさえも売れなくなった、その先にさらに地獄が待ってたみたいなことのような気もする(笑)。レコードガイドが「使える」「使えない」になった理由は、クラブミュージックがこの時期、マーケットとすごい近い場所にあったから、レコ屋で買うためのツールが出てきた、そのときはマーケットで勝つ気だったんだけど、そこで実は客層を狭めてしまったというのがあったんじゃないか。で、クラブ世代がリタイヤしていったら、売れなくなる。クラブミュージック聞く人が世代が上がってる気がするんですよ、で、リタイヤしてってる。

鈴木:あー、それはフジロック高齢化問題と同じでしょ。それはあると思います。次回のJ問題と絡むけど、リテラシーを必要とする洋楽からリスナーが降りていった。DJにも二つ革命的なことがあって、知識のあるDJってのがいなくなっていったんだけど、それはJ-POPをかけてよくなったから。そこでクラブイベントがカラオケの代替物になっていく。それを後押しした二つ目の要因が、CDJの登場ですよね。市販のCDをそのまま持っていけばよくなって、アナログじゃないとかけられないってことがなくなっていく。

佐々木:実際、12インチって売れなくなってるよね。

鈴木:そうそう。なんとかmixをほしいみたいなニーズも減ってるし。教養をバックボーンにした聴き方って言うのが減っていく。
メール、バカと教養は使いよう。ロコモーションとロコローションが似ているのを知ってて許容するのが教養。
そういうのあるよね。加藤ミリヤの「Eyes on You」は「君の瞳に恋してる」のオマージュですけど。

柳瀬:その前はマーヴィン・ゲイ「セクシャル・ヒーリング」でしたね。

鈴木:あれは「ロンリーガール」と「セクシャル・ヒーリング」をサンプリングした「ECDのロンリーガール」のさらにサンプリングでね
。とかってことを知らないで、ああこの曲いいーって言ってるのを微笑ましく見てあげるかんじ。それはアリなような、若干ナシなような(笑)斎藤さん、入門本すら売れない話でいうと、『現代思想入門』って本を編集されたわけですけど。

柳瀬:あれはいい本ですよね。

斎藤:ありがとうございます。「使える」「使えない」話ってのは哲学の話でもあって、竹田青嗣さんの「自分を知るための哲学入門」って本があって、すごい売れたんですよね。その辺りから、哲学・思想を生き方とリンクさせる傾向が一時期あったんですけど、それ以降、図解が入ったようなやさしいものになっていくんですよ。ひたすら平易なものになっていって、それが売れなくなったのが今。生き方と哲学を結びつけるっていうのに飽きたんだと思うんですよ。僕がこの間編集した『現代思想入門』には、その辺はまったく入ってないんですね。結果的には重版もかかって、ある程度受け容れられたのは、皮肉なことだなあと。

鈴木:なんかそれって僕、現代思想ってのがもう歴史になったからだと思うんですよ、単に。現代思想が持っていた80年代の輝かしさや抑圧なんてのがなくなって、だれそれの本を読むためにドゥルーズ=ガタリの話を知っておきたいんだけど、文庫になったとはいえ、今更読む気はしないから、あんちょことしてすぐ理解できるものがほしいという。そういうニーズなのかなと。

仲俣:それはあると思いますよ。抑圧でいうと、僕はサブカルチャーではそういうものない方がいいと思うんですよ。佐々木さんが呼んでくれた「批評家トライアスロン」に、三田格さんが来ていて。彼なんかは、あれだけ知っててもビートルズ聞いたことがないって言うわけでしょ。ホントだと思うんですよ、世代的に。でもその後の世代だと、抑圧もないから普通に聞いちゃう。ビートルズって、共通言語としてよかったっていうのはあるけど、いま、ホワイトアルバムを聞き直すと、色んなことがわかる。教養はとリビアに近いものだけど、大人になると自分の体系ができちゃってるから、そこに素直に入ってくる。たとえば1968年って年は、抑圧的に語られるとすごくイヤじゃないですか。でも普通に子どもの頃に聴いていた音楽の背景に68年革命があると分かると、すごく面白い。これからは若い世代がもっと自由に聞いていけるんじゃないか。

佐々木:割と僕らの世代までの頃って、教養の権威性みたいなものって、意外とはっきりあった。だから抑圧的だったし、あえて読まない、聞かないってのがあった。若い世代はそういうのがないんだけど、陥没したまま残っているってのがあって。僕らと若い世代は全然違うけど、何かを抑圧と感じるメンタリティの世代差ってあると思うんですよ。

鈴木:そうそう。僕、『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』で思ったのがそれ。「鍵のかかった部屋」っていうのは、文壇のような閉じられた場所のことで、これを密室小説の側から解体するという話。でも実際の密室犯罪は、鍵がかかってないから起きるわけですよ。それを知らない外側の人が、その「鍵がかかった部屋」の前で「開かない!開かない!」って言ってる状態のような気がする。

仲俣:文壇なんてないのかもしれないけど、自分の中で抑圧して、頭の中に鍵のかかった部屋を作るわけですよ。だから、僕、まだ後ダールとか全然見られない。見なきゃいけないと思うと見ることができない(笑)最近モーツァルトは聴き始めましたけど。

鈴木:だから教養っていうのは、思春期のある時期に全部ゲットしてしまえるものじゃないんでしょうね。
もうひとつ、今日出た話で、知識と教養の違い。メール、教養というと宮台さん、山形さん。知識が繋がる感覚。生活に繋がってると感じる。この「繋がる」という感じが大事。実学はイマココに断絶されているもの。メール、教養が問われていると感じる。教養では飯が食えないかもしれない、専門技術は必要だけど。最後に面白い質問があって、ところで、高学歴の皆様に質問したいのですが、東大の教養学部や早稲田の国際教養学部は何を学べるところなのでしょうか。
さ、早稲田慶応東大、高学歴がそろい踏みのサブパーソナリティ陣に答えてもらおうか。斎藤さん?

斎藤:東大の教養学部って二つあるんですよ。1、2年はみんな教養学部で、3、4年から分かれていく課程の教養学部もある。

鈴木:駒場・本郷みたいな。

斎藤:そう。で、3年から教養に行くのは、たとえば文三からだとものすごく頭のいい人しかいけないんですけど、そこで教養を倣うかというとそういうわけでもない。一般的なイメージとしては学際的なことを学ぶ。

鈴木:学際的ってのはどのくらいまで学際的なのかな。

斎藤:建前は総合文化学部的なものでしょうけど、実際はそこにいる教授の専門を・・・(笑)

鈴木:そうなんですよね。総合文化学部がなんであるかっていうと、実学をやるんで、今までの先生全部クビにして新しい先生雇いますってわけにはいかないからですよね。何人か実学的な人を雇って、今までの人には同じカリキュラムで教えてもらってっていう。それは別に、大学は会社とは違って、教師が継続していることに意味があったから。早稲田ではどうですか?早稲田の教養の牙城は一文だと思うんですが。

仲俣:でも、もうなくなりますよね。

鈴木:なくなって、07年から文学部と文化構想学部に改組するんですよね。

佐々木:なんですと?!コーソーとは?いかなる字を書くのだ。

鈴木:構えて想うんですよ。

柳瀬:後から送るわけじゃないw

一同笑

佐々木:この四月から教育学部で非常勤やるんですけど、教育学部にも複合文化学科ってのができるんですよ。出た、「総合」に次ぐ「複合」(笑)でも、大学で言うと、僕は半年しか授業出なくて、半年後はずっと8ミリ映画を作ってた。だから授業なんて出た覚えないですよ。学ぼうと思わなかったから行くのを辞めて、独学でできることをやってきた。でも何の因果か大学で教えるようになってくると、もう何を教えたらいいかわからないわけ。何で呼ばれてるのかも分からないし。さっきの一般教養で言うなら、僕が教えてるようなのはまあにぎやかしですよ。色々あってあとひとつ、みたいな。でもだからこそ、自分が大学から何も得たことがないってのがあるから、自分が教えるからには、他にないことを、僕の授業に出会ってなかったら一生出会うことのなかった訳分からん音楽とか映画を聞かせたり見せたりするのが、いいと思ってるわけ。でそれをうわーもう最悪みたいのが反応として大半かもしれないけど、それが本編でも言った、無駄なものとしての「教養」みたいなものって感覚があるんです。
「複合」とか「総合」って言葉で表現されるのも、なんてゆうか、グルメ番組とかで、「わー辛いー、あ、でもそんなに辛くないかもー」みたいな訳分からない感想あるじゃないですか、全部にケアしたくて意味不明の感想になっちゃうような、そういう入り口を広げようってことだと思うんですよ。だからこそそういう必要じゃないものと必要なものをかぎ分けるひとは、僕の授業、ものすごい勢いで途中から来なくなる。すぐ感づくからw

斎藤:佐々木さんとかチャーリーとか仲俣さん、大学で教えてるじゃないですか。そこで聞きたいんですけど、自分の専門を面白く語って、で、学生が、それに出会いさえしなければ、サラリーマンになって、普通の生き方ができたかもしれないのに、佐々木的なものにかぶれてしまったがために、「私も佐々木さんみたいになりたいんです!」って言い出したらどうします?

佐々木:別に僕に限らなくても色々あって、そこで道を踏み外すか、その人の尺度で後から考えて成功だったって思えるようなものになるかは、その人の問題だからね。こっちは別にオルグしてるわけじゃないから。そこはあまり意識したことないんです。でもまあ、「こういう仕事をしたいんです」って言われたら、「よしなさい」って言うようにしてるけど。

鈴木:それはあらゆる職業で言えることですよね。黒沢さんが来たときにも、蓮見さんの話をしてて、でも蓮見さんは大学人としてというか、映画批評化として影響力を持っていたってこと。今日ここにいる人は、みんな自分で文章も書いて、送る側にもいるわけですけれど、「あの文章を読んで憧れました」って勘違いは常に生じますよね。そのとき、別になんなくてもいいんだけど、でも誰もそういうことを言ってくれないと寂しいってのもあるんじゃないですか?水越さんどうですか。

水越:あんまりないなあ。でも言われるとどうしていいか分からないですよね。書いてる人はみんなでもしめしめと思うんじゃないかな。その人に何かが届いているわけですよね。そこは誤解があったとしても、そこはあまり関係がなくて。自分もそうしてきたと思うし。

鈴木:でもその先のお前の人生までは責任持たないというか。

水越:それはそうですよね。

鈴木:なんでこの話しかたっていうと、役に立つ話でいうと、内田樹さんがずーっとそういうことを言ってるじゃないですか。教育ってのは「役に立つ・立たない」って判断基準を変えるのが仕事なのに、入ってきた段階でそれを判断されて、役に立たないって切り捨てていくのはけしからんって言ってて、まあそのことはいいんだけど、でもそれで君、相手の人生とかってものに対してどのくらい責任持てるのって思っちゃうんですよ。だって実学志向って、不景気で就職がなかったからそうなったわけですよね。単なるリソース配分の問題。「これも大事なんだ」っていうお気持ちは分かるし、僕も教えている側として共感する。でも、そのために必要だった余裕は、大学からも失われている。総合文化学部的なものって、大学人の間ではさげすみの対象ですけど、んなことゆったって、君らも大学教員になったら、違うこと言うんだぜと思う。送り手、受け手の事情を含めて、抑圧ってことが見れるようになるルートがあるといいんだけど、それが崩壊していることが一番大きいのかな。

斎藤:内田さんの本は無自覚なところはありますよね。

鈴木:気持ちは分かるんですけど、ぼやきはぼやきですからね。

柳瀬:今の話で思ったんだけど、慶応の話をしようかなと。いまの変な名前の学部の発端は慶応SFCですよね。

佐々木:僕も春までいました。総合政策学部と、環境情報学部ですよね。

柳瀬:僕が慶応を出た直後に、加藤寛さんが総合政策学部を、相磯秀夫さんが環境情報学部を作るわけですが、どっちも実学マーケットの世界にコネのあるフィクサー的な、異端児的な人だった。アレは結局大学生き残り作戦の一環だったわけですよね。慶応の人脈の中でどこが足りないか。ひとつは政治家・官僚関係。だからそれを養成する場としての総合政策を作り、日本のITのフィクサーである相磯さんが、今のようなウェブ社会が来ることを予見して、色んな大企業と組んで作った、理系でも文系でもない学部が環境情報学部。SFCはプラスマイナス両方言われるけど、色んな先生の話を聞いて思うのは、SFCって単なる実学大学かっていうとそうでもなく、結果として何をやっていいかわからなくて、ICUや東大教養と似た、教養学部になっちゃったってのがあるんですよ。

鈴木:講師陣もそういう人がいるし、あとSFCで大きいのは、実学に近かった、コネがあったので、NPOやりたい、環境運動をやろうってときに一番早かった。それがいいか悪いかは微妙で、運動をやりたいときに「実効的」になっちゃうから、色んな壁にぶつからなかったことで逆に失敗した部分はあると思うけど、なんでもかんでもやろうってときに、それを支えていくベースが「教養をつけなきゃ」って動機からだけ出てくるものではないことは、強調しておいていいですよね。

柳瀬:SFCの面白いところは、僕は三田にいて、あそこほど教養のない世界はないと思ってたけど・・・何せホイチョイ的世界を先導するような場所でしたから。でもその連中を藤沢のド田舎の、牛の肥の臭いがする場所に閉じこめてしまったことですよね。

鈴木:大学も一筋縄ではいかないし、そして社会に出てからの話ですよね。というわけでパート1はここまで、パート2では社会の方の話をしようかな。

MP3その5


鈴木:メール、学生時代の教授の話。専門分野を極めただけでは切り込めない。教養と専門知識は車の両輪。メール、形式知をありがたがる傾向が多いけど、暗黙知が軽視されてる。株投資で言えば、ベテランの経験や知識は立派に教養では?身体知だってそうではないか。
柳瀬さん、株式でよく言う、デイトレーダーが増えたことで、株知識が2ちゃんの祭りとかにすり替わってる、ギャンブルみたいになってる話が紹介されますけど、こういう世界の飛ばし的なもの、変わってるんじゃないですか?

柳瀬:株の話で言うと、そもそも株投資が一般の人に手が届くようになったのは、この5、6年、ウェブ投資の商品が出てきてからの話。あとは金融規制緩和、ゼロ金利の影響。株投資が、プロとヤクザな人と機関投資家だけのものだったのが、アメリカ並みとまでは行かないけど、資産運用のオーソドックスなものになった。そうすると、一般の人にはまだ、株に対しての、括弧付き「教養」がないんですよ。それは経験に裏打ちされた「株とは何だ」って把握がないんですね。デイトレが増えてるってのはその証拠。
「まっとうな株式投資」って本を来週出すんですけど、著者の板倉さんは、社長で一回失敗してて「社長失格」って本を出したあと、株のコンサルをやってる方。結局。会社を経営者の視点から見るという知識がないと、本当に株って言うのは分からないと。世界で一番有名な株投資家というとウォーレン・バフェットですけど、彼は徹底してロングレンジで持つ。年間で動かしてるのは3割くらい、そんなに大きくない。でもその3割を複利で50年続けるとどうなるかっていうと、世界一になるわけです。彼の運用は、明らかに、人間がどういう生き物か、人を見る目、環境を見る目、市場を見る目がないと、ああいうやり方はできないと思う。
今のデイトレーダーが出てきている状況は、株式マーケットが広がってよーいどんしたときの競争でしかなかった。だからもう収束し始めてますよね。デイトレなんて儲かるわけないんだから。パチンコと一緒か、それ以下。一昨年の株の運用益を見ると、3〜4割上がってるんですけど、某社が管理してるデイトレの運用益って、マイナスだったらしいんですよ。一日中PCの前に張り付いていても。皆さんが大手の投資信託、普通の金融商品買っておけば、勝手に3〜4割は上がったんですよね。だからデイトレってのは、教養のない瞬間に起きるバブルみたいなもので、日本に企業社会を作る上で重要な理解っていうのは、そこで痛い目に遭った人たちが、あと数年たたないといけないのかなと思いますね。

鈴木:経済的なものとか社会的なものとか、そこを生きていくときに、昔の小説でもあったけど、こういう前提だったと思うんですよ。会社に入ると、教養をつけとけよ、本を読んでおけよって言われるんだけど、そういう上司が読んでるのは週刊誌とゴルフの本。つまり、上の世代としたの世代を比べたときに、下の世代の方が教養があるという時代が、ある一瞬の時期に生まれたわけですよ。ところが今って、どう考えても親の方が学歴なり偏差値なりが高いってのが当たり前にあり得る。そういう風になったとき、教養っていうのが、親を乗り越えていくためのビルドゥングスとしては機能しなくなって、そんなのはどうでもいいから、社会をどうやってこうかつに切り抜けていくかっていう風になるのは分かる気がするんですよね。
メールでもらってるのは、資格の話がありましたけど、資格取得に躍起になってるのはいまも変わりませんよ。賃金が低くて労働者が忌避しているだけ。現場の意見ですが。
資格とか、ハケンの品格とか、この世を乗り切っていくスキルってのが必要で、何の資格を持っているとか、何時間研修を受けましたとか、そういうものになってたわけですよね。それをどう評価するのか。教養は一部の恵まれた人だけのものになっていくのか。どうですか水越さん。

水越:そうですよね。役に立たないものは贅沢品だから、その贅沢品ってのが削られていってしまう中で、教養も削られるし。今までの既存の常識に抵抗するために役に立っていたものが、そうならなくなっていくとすれば、ある時期の人が成長するために必要だったという前提も成り立たなくなってしまう。

仲俣:旧来の教養だってそうかもしれないし、ある時期のサブカルチャーだって、少なくとも心理的に、親を乗り越えるための根拠になっていた。でも親の方がよく知ってるってことになると、何を探そうか、と。その時難しいのは、古い体系に対して新しい体系をぶつけられるならいいんだけど、もう、全部データベースになってるでしょ。そうなると、量の多い少ないになっちゃうから、それこそお金の多い少ない、リソースの問題になっちゃう。それが逆に自分の内心に戻って、自分は自分だから、みたいになっちゃうと、すごいきついと思うんだよね。だからそのいっこ前の前の、オーソドックスな教養に何かを求めるっていうのは、自然なことのような気がする。
若い人の本の読み方を見てても、村上春樹は読まなきゃいけない気がするから読む、でもそれ以降は知らない、と。で、太宰とかドストエフスキーに行っちゃう。それは教養主義とは違うじゃないですか。そこから始まる読みには興味があるけど。

佐々木:ホントに実社会で生きていくためのスキルの話と、教養って、番組でも言ったけど、全然カテゴリーの違うものだって気がするわけですよ。ツールとは別に本来は教養っていうのがあった。知識を処理するためのインフラとしても機能していた時代があった。でもそういうものは無駄だって考えが肥大していって、逆に教養が、イメージとしてだけ膨らんでる気がするんですよね。だから仲俣君がいったみたいに、文学全集も読んでて、同時代のものも読んでて、っていうのが教養だったんだけど、割に古典とか、オーソドックスなもの、オーセンティックなものに戻ってる。それが通用するって幻想がある気がする。

仲俣:幻想だけどね。

鈴木:鍵のかかった部屋問題ですよね。オーソドックスって、言い換えると安パイってことじゃないですか。もう少し言うと「大ネタ」。さっきのDJ問題と一緒だけど、オーソドックスで安パイで大ネタなものが教養になったとき、それを押さえてれば何とかなるだろう、みたいなものになってくる。でもそれって教養じゃないよねって言われて困るのは、若い子たちですよね。それ教養じゃないよって言われると、じゃあどうしたらいいんですか、と。

柳瀬:そこでね、みんなのレターを見てて共通していることがあって、それは何かっていうと、「教養はマスト、持ってないといけない」って前提なんですよね。教養が生まれていく過程ってのはマストじゃなくて、勝手に取りに行くもの。そこで「好奇心」って言葉を誰も使ってなかったことが、気味が悪いなと思った。教養の正体ってのは、寝食を忘れて本を読んだり、音楽を聴いたり、探検に行ったりして、そこで自分で音楽を始めたりとか。さっきもオレンジレンジの話があったけど、引用系で言うと、そこで一人いるのが奥田民生ですよね。彼の引用ってすごく教養的であると同時に、好きなんだなあというのが伝わってくる。ビートルズやビーチボーイズからの引用やそこへのオマージュに、すごい好奇心があって、それを組み替えてる。そこがパクリ問題で言われるミュージシャンとの差なんだと思うんですね。
面白ければドストエフスキー読んでもいいし、紫式部を読んでもいい。でもマストアイテムとして教養が消費されることが、新世代の人も旧世代の人も共通してそうなっちゃってるところが、教養の問題の気持ち悪さだと思うんですよね。

佐々木:メールの文章の中で思ってたのは、〜〜のために教養を、って言い方が多いんですよ。でも僕のイメージでは、〜〜のためにって言った瞬間に、それは教養じゃなくてプラグマティックなものになりますよね。

柳瀬:佐々木さんが言ってる「役に立たない」っていうのは、ある意味で、逆に言うと「自分のために役に立つ」ってことですよね。好奇心ということ。そこがね、ひとつとしてなかったのがね。

鈴木:「役に立つ」の代わりに「ためになる」って言い方をしようとは心がけてるんですけど。これは君たちの役に立ちますよっていうのを教えられるようなものは僕はほとんどもってないから。これはためになりますよってつもりで授業では教えるんだけど。ただ教養的なものの抑圧って、親も越えられない、役に立つ知識、経済的な知識だけじゃ世の中渡っていけなそうだってことで、ためになる知識が欲しいとなる。でもその時点で「〜〜のために」になっているってねじれがある。
それはそうなんだけど、出版業界にいると、昨今の新書ブームとか、まさにそういう動機が支えてません?

斎藤:新書ブームはどうなんだろう。昔で言えばあれは出版のデフレ現象だと思うけど。

仲俣:出版業界のビジネスの論理で言えばそうなんだけど、じゃあ自分が古いタイプの新書と、新しい新書のどっちを読んでるかっていうと、中公、岩波は読まずに、新新書読んでるよね。そうすると結果的に質とか定着度はともかく、確実に読まれていて、値段の付いたデジタル情報みたいな形で消費されてることに対して、あんなものはって言えないところがある。ジャンクフードの中にもちょっとくらい栄養があるみたいな。それが出版の論理と同じように動いてる。それは昔もあったと思うんだよね。

柳瀬:僕も、プラスもマイナスもないと思っていて、あれは月刊誌が動かなくなったところに出てきた、「月刊・本」ですよね。

仲俣:新しいビジネスモデルですよね。

柳瀬:前も言ったけど、読むラジオ、語り起こし本ですよね。

仲俣:もっと言うと、新しいタイプの新書を読んで栄養を取れる人たちは、もしかしたら何らかの教養があるからなのかもしれない。あれを読むラジオ、話題作りのために読んじゃうと、それすらも、ってなっちゃう。じゃあ中公新書、岩波新書読むかっていうと、自分ですら読まないけど(笑)

鈴木:ラインナップの問題もあるし。僕が気になったのは、雑誌が売れなくなってインターネットに行くって言われてたのに新書だったってことは、なんか別の要因があるんだろうなと。あとは本を作るということでいうと、メール、一般常識対策の試験勉強をしてます。教養と常識の違いも気になるけど、就職の時に聞く教養ってのが大きいと思う。出版で言うと、小説の中に出てくる引用やオマージュを分かることが教養。執筆者が「うひゃひゃひゃひゃ」と笑ってる顔が目に浮かぶ。無前提に「お前、分かるだろう」というのが教養。質問、編集の仕事をする上で必須の教養ってありますか。
うっひゃっひゃ問題、これを理解できて欲しいっていうのは書き手として求めるところですけど、どうすか、編集者の皆さん。

一同笑

仲俣:そんなことはないですね。自慢じゃないですけど僕は、出版社十数社受けて、試験は必ず通るんだけど最終面接で必ず落ちるんです。教養なんかあっても編集者にはなれない。逆に言うと人間的な部分、複雑さ、諸矛盾に耐えられるかどうか。不合理なもの。職業としての編集者は人間関係のマネージが仕事なので、ペーパーだけではなんともならない。

柳瀬:それ、多分その通りだと思いますよ。作家を担当されている人を見てると、不条理も非合理も全部の見込まないとできない仕事ですよね。ある種の天才と付き合う部分で。後は会社のフリクションとか。僕が見るとしたら、そういう不合理さを飲み込んでポジティブに仕事ができるかどうかが見られちゃうんじゃないか。そういう意味で教養は関係ないんじゃないか。

佐々木:前半のうひゃひゃひゃ問題で思うんですけど、小説を例に取ると、これの一行を読むためにはこういう知識がないとだめっていうのがそれだとすると、もうそういうのを書く側が読者に対しての優越性を得るために書いているんだとしたら、そういうものはもう終わったし、それはたいした小説じゃないですよ。何か書こうと思うことがあってとか、ネタフリとか、そういう注釈的なものって、何十年も前に田中康夫が『なんとなく、クリスタル』で解体した訳じゃないですか。音楽でも、元ネタがあるようなものでも、それが分からなくても楽しめるくらいの多重性がないともたないと思うんだよね。わかんない人にもケアしないとだめっていう。

柳瀬:さっきの奥田民生は、元ネタ知らなくても楽しめますからね。

鈴木:それでいいんだと思うんですけど、逆に言うと、何がゆえにとんちんかんな批判が出てくることに苛立ってる人が一部にいるんだと思うんですよ。そのギャップをどうするかってことのような気がします。
最後に、三つくらい質問を頂いたので、それに答えてもらう形で締めようかな。
メール、教養は文化的ソフトに接した時間で測られるとすれば、皆さんはどのくらいの本や映画を見てきましたか。人生に必要なことはすべて幼稚園の砂場で学んだ、で言えば、皆さんはどこで学びましたか、書籍・DVDはどのくらい持ってますか。
佐々木さんからいこうか。

佐々木:僕らの世代って昔のオタクだから、知識をどのくらい持ってるか勝負だったんですよ。かつての映画評論家は、一年間に600本くらい映画を見てたんですよ。どういうことだと。一日二本か三本はかならず見てる。全部見るってことだったんですよ。音楽でもレーベルのCD全部聞くとか年代別に全部聞くとか。そういうのは自分の中での財産にはなってますよね。あと、持ってる量の話でいうとそれはもう大変ですよ。ただ、僕はコレクター的な気質がないので、すぐ売っちゃうんですよ。前引っ越しをしたときに、かなり大量のレコードとCDを売りまして、7桁くらいのカネになりましたね。それで思ったのは、50になったらもう引退して、今まで買ったものをちょっとずつ小出しにして売っていく。時間がたつと共に価値も上がるだろうし。それでやったら、生活していけんじゃないかっていう。

鈴木:若いときに全部買って、年取ってから全部売れってことですね。

佐々木:あの世まで持って行けないもの。

柳瀬:一人ブックオフみたいですね。

斎藤:僕は、人生に必要な知恵ってのに答えると、本とかCDから学んだことも多いけど、僕が自分を変えたなと思ったのは、中3からずっとボランティアを30くらいまでやってたんですけど、障碍者を解除する仕事で。僕はそれまで障碍者っていうのが、頭では分かってたけど、接したことはなかったんです。そこで、会って、食事をさせたり、下の世話をしたりとかっていう中で学んだことは、ちょっと本からは得られないもの。世界には色んな人がいるんだっていうのは、非常に刻み込まれましたね。

水越:そうですね。文化的ソフトに接した時間で言うと、それは人生に必要な知恵とは違うところがあって。映画を見たり本を読んでばっかりいると、人に会いたくなるんですよね。人と会うために、音楽を聴いたり本を読んだりしているのかもしれない。

鈴木:会いたい人が誰だか分かると。読んだことによって会いたい人が生まれてくる。

仲俣:僕も二番かな。先に量の話をすると、普通の人よりは持ってるけど、お金のないときにCDとかは売っちゃって、相当減ったことがあるんですよ。でもその時に売らずに残した時に、自分の教養があるんだと思う。だから数的なものは関係ないけど、ただ教養に量が必要であることは間違いない。堀江俊之さんと話をしてたときに、本はどのくらいあればいいかっていう話をしたときに、研究するなら5万冊。楽しんで老後を生きていくなら1000冊。それが実感として最近分かってきましたね。僕の所蔵数はその中間なので中途半端なんですけど。

鈴木:中間っても大分広いけどw

仲俣:ただ、人生に必要な知恵をどこから学んだかっていうと、「〆切」ですね。絶対に落とさせない、印刷所に間に合わせるってことで学んだものは大きいし、書く側でも2〜3日遅れますけど(笑)、頼まれた原稿は書く。時間とか、他人の仕事と関わる中で自分の表現をするってことから学んだかな。

柳瀬:僕も2番で。今は読まなくなったんですけど、高校生まで割とブッキッシュなところがあって、うちの爺さんが蔵書家だったんですね。それで本を読むのが好きだったんだけど、大学の時、岸雄二さんという利己的な遺伝子の紹介者の方と出会って、彼と一緒に生物学的な視点から考えるというのと、ある地域の自然保護運動に関わって、全然利害関係が一致しない人びとと一緒にやるってことを通じて、それは今でも学ぶところがありますね。それから社会人になって、僕はビジネス書なんか全然興味なかったんですけど、たまたま編集をやったときに、経営者でちゃんと生き残ってる人たちの教養人ぶり、明治から大正の渋沢栄一、後藤新平のような、行動に移せる人たちの教養の深さに、すごく学びましたね。この仕事をしてて今でも面白いのは、本を作る前の過程で、色んな人に会えるところ。それは仲俣さんに共通するところかな。

鈴木:書を捨てよ、町へ出ようみたいになってますけど、最後僕から手短に。ソフトに接した時間、量は少ないと思いますけど、大学1〜2年の頃がピークで、カネの使い方を知らないので一月に6〜8万円くらいCDを買ってました。今はその時に買ったCDのほとんどは売ってます。いい物に出会うために買わなきゃいけなかったと言うだけで。今でもいい物に出会うために時間は必要だけど、お金は必要なくなってる。書籍も一緒、だんだんちょっと読めば価値のあるものかどうか判断できるようになってきたけど、そうなるまでは濫読しなきゃいけないし。今は人の肩に乗っかってそれができるようになってるから。
人生に必要な知恵は、鉄拳制裁で学んだかな。音楽業界の下っ端にいたとき、理不尽さを散々経験して、コブシじゃなくて伝えられるならその方がいいと思うし。でもそこで学んだことは大きいかな。
なんだ、みんな難しい話したかったんじゃーん。来週は「Jの時代」。3月はずっとウェブ中継もやってますのでよろしく。
2007年03月24日(土) 16:35:47 Modified by life_wiki




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