第17話

 下北沢の真中で不貞寝していると、何人かに踏まれ、何人かに蹴られた。それでも僕は寝つづけようと腐心していると、見覚えのある顔が僕の目の前にあらわれた。見るとそれは七瀬だった。
七瀬は黙って僕を見つめていた。僕もじっと見つめ返した。人間が二人見つめあう時というのは特殊な時間だ。お互いに相手の瞳だけを見つめているということは、その瞬間、二人にとって自分たち以外の周りのものはどうでもいいのだ。瞳は語る。時として、言葉なんかよりも遥かに気持ちを表せる道具になり得るのだ。七瀬の瞳は、道の真ん中で不貞寝をしている僕への疑問と、軽蔑と、そしてある種の諦観が入り混じった微妙な感情を見事に表していた。僕の瞳は、不貞寝という文字からは到底伝わってこない切ない感情を微妙に表していた。
「ハロウ、ストレンジャー」
七瀬は言う。
「オハロウ、アサヒ」
僕は言う。我ながらよく思いついたものだ、オハヨウとハローを組み合わせるなんて。まさしく和洋折衷。国際人だなあ僕は。夜は何て言えばいいかなあ。そんなことを考えていると不意に頬に鋭い痛みを感じた。

気付くと僕は病院らしき場所のベッドにいた。体を起こすと、備え付けの机の上に菊の花が飾ってあった。「菊かよ」と僕は花瓶につっこんでみた。花瓶は「俺かよ」とは言わずに、床に向かって飛び込んだ。花を先に床に叩きつけて、衝撃を和らげようとしたのだろうか。花瓶はどうしても床に着地したくないようだった。しかし、そんな思いも神様には届かなかったのか、遂に床に着地し、かん高い声をあげて飛び散った。
「バイナラ」
僕は花瓶に追悼の辞を捧げると、起きた時から横で寝ている奇妙な物体に声をかけた。
「何でお前がここにいる?」
「ふふふ、平手打ちで気を失う人間なんて生まれて初めて見たわ」
七瀬はそう言いながらゆっくりと体を起こした。
「あなたには見えてないものがあるわ。そして、それはあなたが必ず見なければならないもの、理解しなければならないものなの。それを見るまでにきっとあなたは随分苦労しなければいけないでしょうし、時間もかかるはずよ。でも、それが何なのかあなたが見つけた時、あなたの周りで起こってきた、そしてころからも起こるであろう数々の不可解な出来事が一体何のためであったのかが、理解出来るはずよ。心に従いなさい。たけのこたけのこにょっきにょき」
七瀬は両手を併せてリズミカルに踊りだした。
「これはおまじないよ。辛くなった時思い出しなさい。きっとあなたの力になってくれるわ。フォローユアハート」
そう言うと七瀬は病室から走り去っていった。僕は慌てて飛び起きると七瀬を追ったが、全く追いつくことが出来なかった。病院の外に出た時には七瀬は遥か50メートルは先にある陸橋をうさぎ跳びしながらのぼっていた。もう無理だ。高校時代は100メートルを11秒で走ることが出来た足なのに追いつけないなんてどういうことだ。最近自分の周りには確かに奇妙な出来事が多すぎる。走るのを諦めて立ち止まると、心臓がバクバク鳴っていた。僕はその時七瀬の言葉をふと思い出した。「フォローユアハート」そうだ、心に従おう。僕は夢を食べるというバクに会いに行くことに決めた。
2005年10月12日(水) 23:21:37 Modified by miduki2ishi




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