鬼切部の戦い

 一〇〇〇年頃、陸奥の北部の郡は俘囚の長が郡司となって、各郡を治めていた。そのうちこのころ勢力を拡大し、奧六郡(胆沢、江刺、和賀、紫波、稗貫、岩手)の郡司を兼任していたのが安倍氏であった。そして、その勢力が胆沢と磐井との境、衣川をいよいよ越えると、当時の陸奥守藤原登任は、「賦貢しない」とか「傭役を果たさない」など理由を付けて秋田城介平重成とともに兵を発する。これを察知した安倍氏は兵を挙げ、鬼切部で官軍と衝突する。
 鬼切部の位置については宮城県鳴子の奧にある鬼首が有力な説だが、位置的に考えると、安倍氏が伊冶城で官軍の兵と衝突せずに、鬼首にたどり着くことは考えがたい。二つ目の候補地として、岩手県一関の鬼越沢が考えられる。ここは衣川の支流真打川の上流に隣接しており、旧道もこの付近にある。
 この鬼切部の戦いに安倍氏は大勝利を治めた。これに驚いた朝廷は陸奥守兼鎮守府将軍に源頼義を選出し陸奥国府に向かった。ところが、この年、国母藤原彰子の大病治癒のため大赦令がでる。これにより、安倍頼良は大いに喜び自ら名を頼時と改め、服従の意を表した。
 普通八逆(謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義)の罪はどんな大赦令が出ても許されることはない。このことから鬼切部の戦いは「反逆」ではなく、藤原登任が挑発したことによっておこった「私闘」だったと解釈される。
2007年02月10日(土) 09:32:51 Modified by otomisan_




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