金沢城攻防と清原氏滅亡

 清原氏家臣に推され難攻不落の金沢城に移った家衡は、清衡と源義家率いる連合軍と徹底抗戦をした。金沢城周辺は険しい山と湿地に囲まれた天然の要害で、官軍は苦戦する。その中で「雁行の乱れにより伏兵を知る。」などや「剛の座と臆の座」などの故事が生み出された。
 清原軍の守りは依然難く、清衡・義家軍は攻撃を止め、兵糧攻めの策をとる。睨み合いの中、一騎打ちの戦いや、家衡の乳兄弟千任の源氏への罵倒などがおこる。
 兵糧攻めについに耐えきれなくなった清原氏は、柵内の女子供を場外へと出すが、吉彦秀武の言により出てきたものは斬殺し、生きているものは柵内へと戻した。こうすることで兵糧攻めを徹底的に行うことが出来る。吉彦秀武は清原軍には着かず、清衡・義家軍に参戦している。
 一〇八七年一一月一四日、ついに、金沢城は陥落する。女子供は自害し、兵士は皆殺しされ、逃げ延びた兵士は千万人に一人もいないという。
 清原武衡は城中の池の中に潜んでいたところを発見された。家衡は下郎に扮して間道に逃げようとしたところを発見され討たれる。とらえられた清原氏郎党には、義家の私怨も加わってか非道な仕打ちが待っていた。
 これにより清原氏は滅亡し、家衡等の首級を抱え都へ帰ろうとした義家だったが、この戦は陸奥守が介入すべきではない私闘とみなされ、恩賞もなく、途中で清原氏の首級を捨てた。
 一人生き残った清衡は、父経清の姓「藤原」を名乗り、居城を江刺から衣川の南に移し、藤原四代にわたる黄金文化の礎を作る。
2007年02月10日(土) 09:37:59 Modified by otomisan_




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