巣伏の戦い

 桓武天皇の時代になり、本格的な蝦夷征討の体制が整えられる。
 七八九年紀古佐美が征東大使に任ぜられ、いよいよ蝦夷の本拠地胆沢・江刺を中心とする北上盆地南部に軍を進め、衣川を渡った三箇所に逗留した。ところが、約一ヵ月経っても軍に主だった動きはなく、これを知った桓武天皇は進軍の催促をする。
 桓武天皇の催促により、三軍五万二千八百余人のうち、四千の部隊が渡河進攻をはじめた。官軍は北上川の両岸二手に分かれ北に向かい、蝦夷の本拠地で合流し蝦夷軍を挟み撃ちする手筈になっていた。
 このとき初めて、胆沢の賊首として「阿弖流為」(アテルイ)が登場する。
 阿弖流為の住居に至り三〇〇人ばかりの蝦夷が迎撃したが、数で勝る官軍に圧倒され退却した。官軍は蝦夷の人家を焼きながら更に北に向かった。巣伏村に入り前軍とまさに合流せんとき、前軍は蝦夷軍に囲まれ、二千の兵は渡河できず合流できなかった。さらに中軍・後軍の前に八〇〇人の蝦夷軍が現れ衝突した。軍は南に退いたその時、東山から四〇〇人ばかりの蝦夷軍が現れ、官軍の退路を断った。
 初めの三〇〇の兵は奥地にひきこむための囮で、挟み撃ちするはずだった官軍が、逆に蝦夷軍に挟み撃ちになったのである。これにより、官軍の五人の軍鑑が戦死する。
 退路を失った兵は川に逃れるしかなく、戦死するもの二五人、矢にあたり傷を負ったもの二四五人、川に投じて溺死するもの一〇三四人、裸身にして泳ぎ来るもの一二五七人。四〇〇〇の大軍を擁して、わずか一五〇〇の蝦夷に潰走したのである。
 しかし、蝦夷側の損失もかなりのもので、焼き滅ぼされた村落一四村、八〇〇戸。五〇戸一郷とすると一六郷。戦況報告で割り増しされたとしても、およそ一〇郷が焼かれたことになる。
2007年02月10日(土) 09:30:26 Modified by otomisan_




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