長老吉彦秀武憤怒

 前九年の役の後、奧六郡の権力を握ったのは源氏ではなく清原氏であった。清原氏は本拠地出羽から衣川に進出し、戦の褒美として賜った安倍氏の女達を妻に迎えた。清原氏も例外無く、安倍氏の女を妻に迎えた。
 それから約二十年後、清原氏に家督相続の問題が起こった。
 清原武貞(貞衡)の先妻の子、真衡。後妻の藤原経清の妻有加一之末陪の連れ子、清衡、そして武貞と有加一之末陪の子、家衡である。通常年長の真衡が嗣ぐべきものだが、真衡には子がいなかった。
 清原武貞死後、清原真衡が家督を継ぎ、海道小太郎成衡を養子に、その妻に源義家の異母妹、多気権守宗基の娘を迎えた。
 事件は養子成衡と義家の異母妹の婚儀の祝いの時におこる。
 婚儀は盛大で、遠く都からの客もいた。真衡はその接待に全精力をつくしていた。折しも、奈良法師と碁を打っていたときである。前九年の役の功労者にして清原氏の長老吉彦秀武が多くの祝いの品を持って館に現れた。
 当然長老として敬すべきであるが、真衡は秀武を待たせた。気が短い秀武は真衡のいる部屋の庭先に行き、朱塗りの盤にうず高く砂金をもり、目の上に自らかかげて待った。しかし真衡はそれを無視し、奈良法師と碁を続けた。
 秀武はこれを屈辱と感じ怒って、かかげていた金の朱盤を庭に投げつけ、門外に出て祝いの品を投げ捨て、武装し出羽へ帰った。
2007年02月10日(土) 09:36:06 Modified by otomisan_




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