頼朝の奥州征討と泰衡の死

 泰衡追討の院宣の無いまま、文治五年(一一八九年)七月一九日、頼朝は鎌倉から兵を発する。軍は千葉氏率いる海岸沿いを行く第一隊、比企氏率いる北陸道を迂回する第二隊、そして東山道を頼朝自ら指揮をとる第三隊に分かれて北上した。奥州藤原氏もこれに応じて兵力を三つに分散せざるを得なかった。
 そして八月七日、頼朝の中央軍と泰衡の異母兄国衡が平泉の第一防衛戦阿津賀志山で衝突する。頼朝は畠山氏率いる先遣隊に防塁を埋める作業をさせ、通行の障害を除いた。翌八日、畠山氏は国衡軍に攻撃を仕掛けるが、国衡軍はあっけなく退却する。国衡は阿津賀志山北側の天険の大木戸に陣を布き、二万の精鋭で頼朝軍本軍を迎え討つための退却であった。
 九日、この日は戦闘が無く、その間、小山氏率いる軍勢が阿津賀志山を迂回し大木戸の後方へ兵を進める。翌日、濃霧の中頼朝軍は前後から国衡のいる大木戸に攻め入り、国衡軍は混乱し戦意消失して敗走する。
 頼朝軍は国衡を追撃し、現宮城県大河原町で国衡は大串次郎によって討ち死にする。国衡軍は潰滅した。これを聞いた泰衡は退却する。
 そして一二日、頼朝軍は多賀城国府に到着し、海道を進んだ第一隊と合流する。そして、坂上田村麻呂、父祖である源頼義・義家が布陣した営岡(現栗原町屯ヶ岡神社)に軍を集結し平泉入りを待つ。
 それを聞いた泰衡は二一日平泉の舘に火を放ち北へと逃亡する。その翌日頼朝軍が平泉に入る。頼朝は更に泰衡を追究するため北上する。
 そのころ、現秋田県大館市付近の贄柵に逃れた泰衡は家臣河田次郎に討たれる。
 頼朝は前九年の役で源頼義が布陣した陣ヶ岡(岩手県紫波町)に布陣し、第二隊と合流し、泰衡の首が届くのを待っていた。泰衡を殺害した河田次郎は「主君に叛いた」として斬刑に処せられる。
 泰衡の首が届いた三日後、ようやく七月一九日付けの泰衡追討の院宣が届く。頼朝が鎌倉を発してから二ヶ月弱後であった。
2007年02月10日(土) 09:40:09 Modified by otomisan_




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