「それでね。あたしももう、わーっ! ってなってたから、逃げ出そうとしたとこで、躓いて転んじゃったの」
 それからの数日間は、意外なことにエリにとって非常に幸せに満ちたものとなった。
恋心を寄せる相手を独占し、今までとは比べ物にならないほどの量の会話を交わすことができる。
その上非常に限られた人物しか知らない秘密を共有しているともなれば、
彼に好意を寄せている他の女子たちに対して優越感を持つことさえもできる。
「転んだって…………確か、手にバケツを持ってたんだよな?」
 『彼』は一日中、教授の部屋で監禁されている状態だった。
食事はきちんと運ばれており、シャワーとトイレも部屋に備え付けられているため、日常を送るのに支障はない。
とはいえ、誰かが訪ねてこない限り人と話すこともできないため、かなり退屈しているようだった。
「うん。ばっしゃーんってなっちゃったから、起き上がったら全身ずぶぬれで」
 積極的にダンジョンに潜りたがっていると思われていないエリにとって、
一人の時間を作って『彼』に会いに行くことはそう難しくなかった。
 さすがに一日中顔を見せないともなれば怪しまれたかもしれないが、
朝昼夜の食事にきちんと顔を出している彼女に不審を抱く者はそう多くはなかったのだ。
「くそ! どうして俺はその場にいなかったんだ!」
 時間の隙間を縫い、こまめに会いに行くたびに、『彼』は笑顔でエリを迎えてくれた。
エリが持ってくるクラスメイト達の日常の話題は、『彼』を喜ばせているように見えたし、
互いのことを知るために他愛もない会話をするときには、朗らかな笑顔を見ることができた。
「……え?」
「あ、いや。なんでもない。別にやましいことはこれっぽちも考えてないぞ。うん」
 もちろん、『小波』という人間が二人に増えたことに戸惑わなかったわけではない。
『双子みたいなものだよね』そう自分を納得させていたものの、違和感は常に付きまとっている。
一応、真剣に考えようともしてみたのだが、深く考えれば考えるほどこんがらがってしまったため、
最終的には投げ出してしまった。
「こほん! ……それで?」
「あ、うん。それでね。目の前にいたフッキ―が…………あ」
「ん?」
 とまあ、楽しく他愛のない会話をしていたエリと『彼』だったが、
小さなメロディが流れ出したことで、会話は止まった。
ゆっくりとポケットに手を入れて、エリは手探りでボタンを押して音を止めた。
部屋の時計に目をやると、すでにこの部屋に来て一時間が経過していた――そろそろ、夕食の時間だ。
「そろそろ部屋に戻らないと」
「ああ、もうそんな時間か……で、白瀬がどうなったんだ?」
「うーん……じゃあ、次回に続く! ってのはどうかな?」
「う、微妙に気になってるんだが……」
 エリの言葉に、渋い顔をして『彼』がうなだれる。
少しでもこの時間を幸せな時間を伸ばしたくて、エリは口を開いた。
「えへへ…………あ、ねえ、小波君」
「ん?」
「その、一日中この部屋にいるのって、退屈だよね?」
「あー、たしかにちょっと退屈かも。一応テレビはあるけど……外に一歩も出られないからなぁ」
 視線を宙に浮かべ、指で頬の傷跡をなぞりながら小波が同意する。
『彼』が苦笑を浮かべながら口にした言葉に、どこかもの悲しい気持ちを覚えながらエリは言葉を続けた。
「だ、だからね。その、暇つぶしになりそうなもの、持ってきてあげよっか?」
 とっさに思いついたにしては良い提案だったのではないか。
エリはそう思いながら『彼』の顔を見て、反応を待つ。すぐに浮かんできた満面の笑顔に、心が躍った。
「それは嬉しい…………とはいっても、急に言われてもなんだか思い浮かばないな」
「ご、ごめんね」
「いや……あ、そうだ。ダンベルがほしい」
「だ、ダンベル?」
 予想していた単語――漫画とか、小説とか、ゲーム機とか――とは違ったものが聞こえて、
エリは驚きに目を丸くしながら聞き返した。
「ああ。ここって狭くてあんまり運動できないからさ、せめて筋トレぐらいしたいなって」
 『彼』が微笑みながら言ったことは、エリにとって理解しにくいことだった――退屈だから筋トレをするなんてことは。
 あまり戦うことが得意ではなく、ダンジョンに潜る回数も少ないエリではあったが、
万が一のことも考えて、ある程度のトレーニングもきちんとしている。
だが、それは苦痛だとしか言えないものであり、できればやりたくないものだったからだ。
「ダンベルって、たしか訓練室にあったよね。……あんな重いの、あたし、持ってこれるかなぁ?」
 とはいえ、人の趣味にいちいちケチをつけるほどエリも馬鹿ではない。
『彼』がいつも使っていた訓練器具を思い浮かべながら返事をする。
「ははは。そんなに重いものでもないって。白瀬だってよく使ってるだろ?」
「そ、それはそうだけど……が、がんばってもってくるね」
 実はこの時、エリが思い浮かべていたのはダンベルではなくバーベルだったのだが。
その間違いに気づくものは、誰もおらず。
「ああ、頼む」
「う、うん!」
 和やかな雰囲気のまま、その日の会話は終了した。





「ふぅぅぅ……」
 部屋から出て、扉に鍵をかけると同時に、エリは大きく息を吐きだした。
瞳を閉じてしばらく呼吸しているうちに、緊張感から解放されて、
激しく脈打っていた心臓の鼓動がだんだんと緩やかになっていった。
 男が苦手なエリにとって、狭い個室で二人きりという状況は――さらに相手が、
恋心を抱いている相手なのだから――かなり辛い状況だったのだ。
 もちろん、楽しかったのは間違いない。
だが、こうして部屋から出ると非常に安心するのも事実である。
(……なおした方がいいとは、思うんだけど)
 それが簡単にできれば、苦労はしないんだろうな。
そんな事を思いつつ、大きく息を吸って酸素を肺に入れて、エリは前を向いた。
 と。
「わっ!」
「うひゃああああああ!?」
 突如襲いかかってきた大声に、エリは慌てふためき後退しようとした――――が、
当り前ではあるが、すぐ背後に扉があったため、強く肩を打ち付けてしまった。
さらにそのまま、足を滑らせてしたたかに尻を地面に打ち付けてしまう。
「ふぇ、ふぇ……」
 身体に走る鋭い痛みに耐えきれず、エリの瞳が涙で滲む。
目をこすりながら泣きだそうとしたところで、聞き覚えのある声が彼女の耳に届いた。
「あ、大丈夫?」
 すんすんと鼻を鳴らしながら、エリは声の主を見た。
 いつものようにくすくすと、彼女は笑っていた。
「ふぇ、ふぇ……ひ、ヒナちゃん?」
 エリが名を呼ぶと、彼女――唐沢ヒナコは少し申し訳なさそうに手を差し伸べてきた。
食事を作るのを手伝ったのだろうか。白いフリフリがついたエプロンを身にまとっている。
「ごめんね。すっごく深刻そうな顔だったから、つい脅かしたくなっちゃって」
「も、もう……びっくりしたぁ」
 子供らしくぷっくりとほほを膨らませて怒りを表現しながら、エリはヒナコの手を借りて立ち上がる。
「どこか、ぶつけたりしなかった?」
「う、うん。だいじょうぶ……あれ?」
 ぼこりのついたスカートを軽く払って、エリは前を見る。
ヒナコの向こうにあるテーブルの上に、白いトレイが載っているのに気づいた。
くんくんと、鼻で息を吸ってみる。香ばしい揚げ物の匂いがした。
「ヒナちゃん。小波君にご飯持ってきたの?」
 スカートをひるがえし、テーブルに近寄ってトレイを持つヒナコ。
今日の夕食は……鶏肉と人参の炊き込みごはんに、カキフライ、玉ねぎのリング、海藻サラダ、
お味噌汁――いや、よく見れば豚汁だろうか? つばを飲み込みたくなるほどに、どれも美味しそうだ。
 これを作ったのは、小野か、それとも夏菜か。答えはすぐにヒナコが口にした。
「うん。小野さんが食事の準備で忙しそうだったから」
「そ、そうだったんだ……」
 ヒナコが『彼』の料理を運ぶことは、この数日間の中でもそう珍しいことではなかった。
こんな状況になる以前から、ヒナコはよく研究室にいる教授に差し入れをしていたため、
『彼』に食事を持ってきても、エリや小野よりも怪しまれることがないからだ。
さらに、『彼』が一人で食事をするのは寂しいだろうと、一緒に食事をとることもあるらしい。
(……あたしも小波君と一緒にご飯食べてみたいなぁ)
 そんなことを思いながら――もしそんな状況になれば、
緊張の余りパニックに陥るであろうことには気づかずに――エリはぼうっとヒナコを見つめた。
 同時に、胸の内に沸き立ってくるものを感じ、手で胸を押さえる。
 ほんの小さな敵対心と、とても大きな羨望と、怒りが混じったもの。
 それは、『嫉妬』と呼ばれるもの。
(別に、そういうわけじゃ……)
 そんな感情を認めたくなくて、エリはヒナコから視線をそらした。
そもそもエリと『彼』はただの友達関係でしかない。嫉妬を抱くのは、身勝手でしかないだろう。
「くすくす……」
 悶々としていたエリの耳に、再び笑い声が届いた。
見るといかにも『微笑ましい』、といった感じの目つきでヒナコがこちらを見ていた。
それはエリにとって、あまり向けられたくない種類の視線であったのだが、
「心配しなくても大丈夫だよ」
「え?」
「小波君を、とったりはしないから」
 それに嫌悪を抱く暇もなく、エリの思考を止める言葉が耳に届いた。
パニックに陥りそうになるのをすんでのところで堪え、平静を装いつつ聞き返す。
「ど、ど、どういう、意味?」
 平静さのかけらもない、エリの動揺が如実に表れた言葉に、ヒナコは間髪入れずに切り返してきた。
「好きなんでしょ? 彼のこと」
 好き。その言葉が聞こえたとたん、沸騰したようにエリの頬が熱を帯びた。
そして、落ち着いた心臓が再び激しく脈動し、身体中の汗腺から汗がこれでもかと吹き出し、
息を吐き出すのが辛くなって、足の裏がむずむずして、お腹が小さな音をたてて、
そういえば夏休みの宿題にそろそろとりかからないとと思考がしあさっての方向に飛んで。
 つまるところ、わけがわからなくなって。
「そ、そそそそんなんじゃないよう!」
 手と首をぶんぶんと横に振りながら、エリはヒナコの言葉を否定する。
ヒナコはわざとらしく『不思議だなぁ』とでも言いたげな表情を作り、
口元に人差し指を伸ばすポーズをとって、つぶやいた。
「そうなの? お似合いだと思うんだけどなぁ」
「だ、だからその……」
 ヒナコがポツリとつぶやいた言葉に、
熱くなった頬を両手で冷やしていたエリの動きが止まる。
「え?」
 ぽかんと口を開けたエリの口から、『え』とも『へ』とも取れる音が洩れた。
間の抜けた表情になっていることを自覚して、あわてて口を閉じる。
 トレイを持ち替えてカタンと鳴らし、ヒナコは微笑んだ。
「お似合いだと思うよ? 小波君と、白木さん」
「……ほ、ほんと?」
 ヒナコが笑顔を浮かべていることで、発言を確かなものに感じることができず、
エリは疑わしげに聞き返す。聞き返した時点で、
小波のことが好きだと半ば認めているということには、気づいていない。
「うん。ほんとほんと」
 真剣な口調で紡がれた言葉に、エリは途方もなく幸せを感じた。
ヒナコの言葉が世辞なのだとしても、嬉しいことには変わりない。
 頬を際限なく緩ませながら、エリは笑う。
「そうかなぁ……えへへ」
「くすくす……」
 二人の少女が笑いあう中で、
「……そろそろ、わしの分の食事もとってきてほしいんじゃがのぅ」
 教授が小さくつぶやいたが、部屋にある機械の振動音に紛れてエリたちには聞こえなかった。







「あれ、フッキ―だ」
「むぐ?」
 食堂に白瀬芙喜子が現れたのは、エリが食事をもうすぐ終えようとしていたころだった。
エリの位置からは時計を見ることができないため正確な時間はわからないが、
おそらく八時は過ぎているだろう。シャワーでも浴びたばかりなのだろうか、
彼女は乱れている髪の毛を手ぐしで整えながら、気だるげにエリたちのもとへと歩いてくる。
「どうしたのフッキ―? これからご飯ってわけでもないよね?」
 芙喜子がテーブルに近寄ってきたのを見て、エリの向かいに座っていたユイが声をかけた。
基本的に一人を好む芙喜子は、エリたちと一緒に食事をすることは多くない。
時間から考えると今日も例にもれず、彼女はエリたちよりも先に食事を済ませたようだった。
「フッキ―呼ぶな。ちょっとエリに用事があってね」
 ひらひらと手を振り、ユイを適当にあしらいながら、芙喜子がエリに視線を向けた。
彼女が自分に用事があると思いもしていなかったエリは、きょとんと眼を開いて彼女を見る。
「あふぁし?」
「ああ、もう。口にもの入れてる状態で返事しない。
今のうちに癖になっちゃったら、大人になってからみっともないわよ?」
「んむ……」
 芙喜子の言葉に、エリは手を口元に当てて、大急ぎで口の中のものを咀嚼した。
非常に歯ごたえのあった鶏肉が、なかなか噛み切れなかったものの、無理やり飲み込む。
「……ふぅ。うん。わかった。次から気をつけるね」
「そうしなさい」
 簡素に返事をした芙喜子は、明らかに呆れを含んでいる眼差しをしていたのだが、何故か少しだけ上機嫌にも見えた。
考えられる原因としては――――生理が終わったのだろうか? それは喜ばしいことだと、エリは喜びに頬を緩ませた。
「たま―に思うんだけど、フッキーってお母さんみたいなことするよね?」
 エリと芙喜子のやり取りを見て、ユイが笑いながら喋りだす。
それに反応したのは、エリの隣に座っていた南雲瑠璃花だった。
「そうなると……ユイがお父さんですか?」
「えぇー? そりゃないよ! お父さんはフッキ―だって!」
「そうなると……お母さんとお父さんを兼ねることになってしまいますし、少々大変だと思うのですが」
「うーん……そういえばフッキーって、お姉さんっぽいところもあるような気が……」
 少々天然ボケの気があるユイと非常に真面目な性格をしている瑠璃花が組み合わさったことで、
会話が迷走し始める――――少しだけそれに参加するかどうか迷ったが、口を開くことはせずにエリは芙喜子に視線を戻した。
雑談に参加する気はないのだろう。芙喜子はこめかみに指を当て、頭痛をこらえるようなポーズをとっていた。
「ああ、本題忘れるところだった。この前あんたに銃を貸したわよね、返してくれない?」
 エリの視線に気づいたのが、芙喜子が手のひらを差し出しながら、エリに話しかけてくる。
「え? ……ああ! わ、忘れてた」
 思い出すのに数秒の時間がかかったのは、エリが少々間の抜けているところがあるから、というわけではない。
 銃を借りた日、つまり、小波が二人に増え、部屋に監禁されることになった日。
 思い出したくなかったのだ。あの日のことを、全て忘れてしまいたかったのだ。
「ご、ごめんね……」
「まあ、そうでしょうね」
 エリの謝罪の言葉に、芙喜子が手を腰の横に移動させて、ふん、と大きく息を吐き出した。
その動作が怖くて、エリは身を縮こまらせた。彼女が自分に危害を加えることはないのだから、
恐れる必要はない。それはわかっているつもりなのだが。
「いや、まあ、別に今すぐ必要ってわけじゃないからいいんだけどさ。ちょっとメンテしたくて」
 それを見てか、芙喜子が少し目つきを和らげる。
エリは一度大きく息を吸い、気持ちを落ち着かせてから口を開いた。
「そ、そうなんだ。あたしの部屋に置いてるから、後でフッキーの部屋に持っていくね」
「だからフッキーって……はぁ」
 笑顔を作り、返事をしたエリに溜息をつき。
「……そろそろ本気でフッキ―って呼ばれない方法を考えたほうがいいかしら」
 などと小さく呟きながら、芙喜子は立ち去っていった。それを見送って、エリは正面へと視線を戻す。
「ようするに、フッキ―はお母さんとお父さんを兼ねてて、
さらにお姉さん且つ子供が背中に乗るぐらいの大型犬で、そのうえ子猫ちゃんってこと?」
「ええっと……そう、なんじゃないでしょうか」
 エリが芙喜子と会話している間も、ユイと瑠璃花は喋り続けていたようだった。
迷走しすぎた会話は、もはや誰もついていくことはできそうになかった。瑠璃花はどこか疲れた顔をしている。
「その上大家族スペシャルに出るぐらいの……あ、フッキ―帰っちゃった。ざんねん」
「……ごちそうさまでした」
 ご飯茶わんに残っていた米粒を奇麗に平らげて、エリは両掌を合わせた。
トレイの上に食器を一つずつ乗せながら、コップに残っていたウーロン茶を口に含む。
 冷たい液体がのどを通り過ぎるのと同時に、彼女はふと、彼のことを思い浮かべた。
 ――――今、彼は何をしてるのだろうか? ご飯をちゃんと食べたのだろうか?
 一人で寂しくないだろうか?
 エリの動きが止まる。
「よーしっ! さて、この後どうしよっか?」
 途端、脳天を揺るがす元気な声を上げながら、ユイが立ち上がった。
そのまま、右こぶしを天井に伸ばして、エリと瑠璃花を見渡してくる。
 非常にテンションが高く見えるユイに、エリは苦笑いを浮かべた。
「えっと、あたしはフッキ―に銃を返しに行ってくるね」
「え? ああ、そういえばそんな話してたね」
 会話を交わしながら、食器を載せたトレイを持ち上げ、エリは立ち上がった。
お茶が入っていたやかんもついでに持っていこうとしたのだが、
トレイの上に空いているスペースがなかったため、断念することにした。
「借りたものは、返さないといけませんからね」
 つぶやきながら、瑠璃花も立ち上がる。
エリが戸惑ったことに気付いたたらしく、やかんを持ち上げて微笑んできた。
 小さく視線で礼を言う。
「そのあとは暇?」
「うん」
「瑠璃花は?」
「私も、特に予定はありません」
 宇宙人と戦うために、親元を離れて基地で生活させられているエリたちではあったが、
基本的に、日々の行動は特に縛られているということはなかった。食事をする時間は、
小野の都合などもあっておおまかに決まっているものの、強制的に何かをさせられることはあまりない。
 もちろん、ダンジョンに潜るという大仕事がある以上、あまり不規則な生活を送る人間はいないのだが。
「そういえば、そろそろ夏休みの宿題に手をつけたほうがいい気がするし、三人で委員長の部屋にでも突撃してみる?」
「あ、それいいかも」
「そうですね。たまにはみんなと勉強するのもよさそうです」
 その中でも、委員長こと神条紫杏は非常に規則正しく生活を送っていた。
エリの知る限りでは、彼女が夜更かしをしたとか、寝坊したということもない。
 そんな生真面目な彼女は、夜に部屋に乗り込まれることにあまり、
良い顔をしないだろうが――――勉強を口実にするのなら、断られることもないだろう。
「よーしっ! それじゃあ、適当に勉強道具もって、委員長の部屋に突げーき!」
 ぶんぶんと手を振りまわしながら、ユイは楽しそうに食堂の出口へと歩いていく。
その表情は、エリがかすかに抱いていた不安がけし飛ぶほどに明るい。
「ま、待ってよー。お茶碗返しに行かないと……」
 その明るさがエリのためのものだということに、彼女は気付かなかった。




 翌日の早朝。
 エリは研究室へ向かっていた。
身体の節々が痛むため、太ももをできるだけ上下させないように心がけながら、ゆっくりと進む。
少し大きめのスリッパが床をなでる、ひたり、ひたりという音が、妙に静かな廊下に響いていく。
 昨日はいろいろとあった結果、三人は委員長こと神条紫杏の部屋に泊まったのだが、
その時にタオルを敷いて床で眠ったのだがまずかったらしく、身体の節々が痛んでいる。
「……ふぁぁぁぁ」
 友人たちと一緒に床についたとなれば、当たり前のように夜更かしをしたのだが、
エリが朝は目を覚ますと、時計の長針は朝四時を指していた。
もう一度眠る気にはなれず、しばらく思案した結果、エリは彼の部屋に向かうことにした。
 委員長の部屋が『彼』の部屋――――つまり、研究室に非常に近いというのも理由の一つではあるが、
寝起きの『彼』の顔を見てみたいという甘い恋心が主な理由でもある。
そして、昨日の夜に友人たちと盛り上がった会話――男の子が聞いたら幻滅しそうな――に出てきた、
『朝起ち』というものを見てみたかったというのも、小さくない理由である。
(こんな理由、小波君には言えないよね……)
 好調する頬を押さえた後、エリはコリを感じる肩を上下させて、大きく欠伸をした。
清涼感に満ちた朝とはいえ、夏は夏ということか。手のひらには濡れた素肌の感触が伝わってくる。
(あ……そ、そういえば)
 素肌。それを意識して、エリの頬が恥ずかしさに少しだけ熱を帯びた。
寝汗が気持ち悪かったため、一度部屋に戻った時にシャワーを浴びて着替えたのだが、
その時に少しだけ冒険した結果、彼女は今、ノースリーブのTシャツを着ている。
エリも今まで、部屋着として何度か着たことはあったものの、
人前――それも、男子生徒が見ることのできる――で着るのは初めてである。
(……恥ずかしいけど、涼しくていいなぁ)
 恥ずかしさと、開放感に心をくゆらせながら歩き続け、エリは研究室へたどり着いた。
入る前に、扉に耳を当てて中の様子をうかがう。
 研究室の一つ目の部屋には、クラスメイトの一員である堤がいることが多い。
エリとしては、彼はあまりかかわりたくない存在である――――男が苦手だからというものもあるが、
堤は非常に頭が良い(とエリは思っている)ため、あまり会話をしてぼろを出したくなかったからだ。
 ともあれ、部屋からは何の音もせず、人の気配もない。
慎重にエリは扉を開けた。朝の精悍な空気にふさわしくないこもった熱気が肌を襲う。
常時作動している機械が二つ目の部屋にあるため、冷房の効きも悪いのだろう。
部屋を隅々まで見渡し、誰もないことを確認してエリは先に進んだ。
途中、何かの部品を蹴とばしてしまったものの、『彼』が眠っているであろう部屋の前にたどり着いた。
ポケットに手を入れて鍵を取り出す。ノックをするかどうか少し迷ったが、何もせずにそのまま扉を開けた。
 そして。
「ん?」
「……あれぇ?」
 部屋に入った瞬間、ベッドに座っている『彼』と目があった。
互いに驚きの表情を浮かべて、数秒ほど見つめあったまま固まる。
「おはよう、エリ。ずいぶん早いな」
 先に口を開いたのはエリではなく『彼』だった。
狼狽しながら目をそらし、エリは後ろ手で扉を閉める。
 ――扉が閉まった瞬間、『彼』が悲しそうな顔をしたのを、エリは見ることができなかった。
「お、おはよう、小波君。起きてたんだ……や、やだ。ごめんね」
「いや。謝らなくてもいいけど。来てくれたのはうれしいし」
「あはは……よかった」
 ぽりぽりと頬を掻き、困った顔で礼を言う『彼』に向ってエリは微笑んだ。
朝早くに個人の部屋に訪れるのは、ルール違反と言えばそうだろう。
 小さな罪悪感で身を縮こまらせながらも、エリは期待を込めて『彼』をじいっと見つめた。
「…………ん?」
 自分の服装について、何か反応してくれないだろうか?
実際に反応されたら逃げ出すことはほぼ確実ではあったが、
エリは丸出しの肩をさりげなく揺らしたり、手のひらで扇を作って胸元に風を送ってみた。
「俺の顔に何かついてるか?」
 そんな言葉を不思議そうに言われて、エリは肩をがっくりと落として、小さく溜息をついた。
考えてみれば、『彼』もユイやほかの女子が着ているのを何度も見ているのだろうから、
特に新しい反応が無くても不思議ではない。落胆を隠すように、急いで口を開く。
「えっと、目と、鼻と……口が二つ?」
「……いつの間に改造されてたのか? 俺」
 何故か口元を撫でて、エリには意味のわからないことを呟きながら、
『彼』はうっすらと消えかかっている頬の傷をいじっている……
「小波君も、早起きしたの?」
 自分がボケたことを言ったことには気づかずに問いかける。
その質問は、大した意味のないもののはずだったのだが。
「いや、昨日はなんかろくに眠れなくてさ。気づいたらこの時間だった」
「そ、そうなんだ」
「ああ……ふぁ」
 瞳を閉じて生あくびをする『彼』の眼の下には、よく見れば薄いクマができていた。
眠れない、というのはあまりよいことでないだろう。心配になってさらに問いかける。
「どこか、具合でも悪いの?」
 エリの言葉に、『彼』は口元と眉間を小さく歪ませた。
何かを耐えるように拳を握りしめ、エリから視線をそらして、下を向く。
数分後――エリが、そろそろ別の話題を振るべきかと思い始めたころ、『彼』は口を開いた。
「怖いんだ」
 吐き捨てるように呟かれた言葉は、エリが思いもしなかったものだった。
「……え?」
 聞き間違えたのではないか。そう思うのと同時に、『彼』が顔をあげる。
 エリが今まで見たことのない表情を浮かべていた
 ひどく疲れた、笑顔だった。
「俺がこの先どうなるかを考えたら、すごく怖くて。……それで、眠れなかったんだ。
……怖くて眠れないなんて、子供みたいだよな。ははっ、情けない」
 『彼』の瞳の眼尻に、光るものが見えた気がして、エリは瞬きをした。
幸いなことに、それは錯覚だったらしい――――倦怠感を振り払うためだろうか?
指で頬をつねり始めた彼の瞳に涙は見えない。
「情けなくなんて、ないと思うけど」
「…………そうか?」
エリの慰めの言葉を、『彼』は素直に受け取ることができないようだった。
 無理もないよね。そう心の中で呟く。
この問題を丸く収める解決方法はおそらく存在しないのだろうし、
宇宙人のように、明確な悪というものが存在するわけでもない。
 どうにかして励ましたいとは思うのだが、その方法は見つからない。
「眠れないと、嫌なことを考える。……たぶん、最低なことを」
「…………」
『最低なこと』それが何を意味するのを、エリは知っていた。
数日前に彼が漏らした言葉だ――――最低であるかどうかは、
人によって分かれるかもしれないが、決してほめられることではないだろう。
 人の死を、願うということなのだから。






「おお。そういえば、言うのを忘れるところじゃった」
 『彼』が教授の部屋に幽閉されることが決まった次の日。
部屋に置いていた荷物をとりにきた教授が、突然そんな言葉を口に出した。
 約束通り部屋に訪れていたエリは『彼』と他愛のない会話を交わしていたが。
一旦話を中断して、二人してきょとんと眼を開いて教授を見る。
「もし、今の小僧がダンジョンで倒れたら、オートリピートシステムは作動しないことにしたぞい」
「……どういうことですか?」
 教授の言った言葉の意味を、『彼』が理解していないとは思えなかった。
冷ややかな声に若干の恐怖を覚え、エリは『彼』を見たのだが、
鋭い視線で教授を射抜く『彼』の眼に、疑問の色はなかったのだ。
 それなのにわざわざ質問したということは――――わかりたく、なかったのだろう。
「何、わざわざ代わりを起こす必要もないじゃろ? そういうことじゃから、気を落とさんようにな」
 笑いを含んだ声で、決して笑えないことを言いながら、教授は手早く荷物をまとめ、部屋から出ていった。
 途端。
「ふざけるな!」
 小さく音を立てて扉が閉まると同時に、『彼』は勢いよく立ちあがり、大声で叫んだ。
そのあまりに突然の豹変に、エリは強い恐怖を感じた――――目と鼻が急速に熱を帯び、歯の付け根が震え始める。
「そんな、そんなこと! 素直に喜べるわけないだろうが! …………くそ!」
 エリがそばにいることを忘れたのか、『彼』は憤怒を隠そうともしなかった。
勢いよく拳をシーツに叩きつける『彼』。
 怖れに縛られながらも、エリはそれとなく『彼』と距離をとろうとした。ゆっくりと腰を持ち上げようとして。
 ぎしり、とベッドのきしむ音。
 『彼』がエリを見る。
「……ごめん。エリ。取り乱したりして」
 エリのほうを見たその瞬間は、『彼』は激しい怒りが伝わってくる、険しい表情をしていたのだが、
エリがおびえているのを見てか、『彼』はすぐさま悲しそうに顔を歪めて、謝罪の言葉を口にしてきた。
「ぐす……こ、怖かったよぉ……」
「…………ああ、ほら、ハンカチ」
 涙をぽろぽろとこぼし始めたエリを見て、『彼』が眉間にしわを寄せながら――余裕がなくて、
苛立っていたのだろう――ポケットからハンカチを取り出し、エリに渡そうとする。
 受け取るか、受け取らないか。なぜか少しだけ迷ったが、
震える手を伸ばし、エリはハンカチを掴もうとした。
「あっ……」
 指先に『彼』の体温を感じ、エリは急いで手をひっこめた。
つかみ損なったハンカチが『彼』の手から離れ、床に落ちる。
ちょうどエリと『彼』の間に落ちてしまったため、二人して様子を見てしまう。
 エリが恐る恐る手を伸ばすと『彼』は大きく溜息をついて、
エリから視線をそらし、部屋の中を見渡す――――
「あ、エリ。そろそろ瑠璃花と約束があるんじゃなかったか?」
「すんっ。……え?」
 ――――そして、部屋の一点で視線を止めた『彼』がつぶやいた言葉に、エリは戸惑いを舌に乗せた。
確かに朝食の席で南雲瑠璃花と約束していたし、それを彼に話もした。
だが、まだもう少し時間に余裕があると思っていたのだ。
慌ててポシェットから携帯電話を取り出して、スライドさせて液晶画面を表示する。
時刻は、約束の時間の三十分前を表示していた――――やはり、まだ余裕がある。しかし。
「…………あ。うん。そうみたい」
 『彼』が一人になりたがっているのを感じて、エリは無理矢理に笑顔を作って嘘をついた。
「そうか。じゃあ、遅れないようにしないとな」
 『彼』が安心したように頬を緩ませたのを見て、その選択が間違っていなかったことを知る。
「じゃ、じゃあ、あたし、行ってくるね。……ま、また夕方に来るから」
「え?」
 『彼』が驚いたのはなぜか。
積極的に過ぎるからか。それとも空気が読めていないとでも思っているのか。
どちらでもいい。たとえ嫌だと思われていてもいい。そうエリは思う。
 一人で考える時間も大切なのだろうが、誰かと話す時間も必要なはずだ。そう思ったからだ。
 そして、それは自分にしかできないことなのだと、エリは錯覚していた。
「ま、またね!」
 転がるように扉へと向かい、部屋から出ていくエリの耳に、小さな声が届いた。
「あぁー……ホント、最低だな」
 背筋が痺れるほど暗い声だった。振り返ることはせずに、部屋を出る。
 何が最低なのか。その時は深く考えようとしなかった。
 だが。






「小波君」
 悲しみに身を震わせながら、エリは『彼』の名を呼んだ。
『彼』は反応する様子を見せずに、鍵のかかった窓――――曇りガラスで、
外の様子は見えない――をじっと見つめている。その眉間に深いしわができているのを見て、
エリは自分もそっくり同じように、眉間にしわを寄せていることに気づいた。
 きっと『彼』も、悲しいのだろう。自分とは比べ物にならないほど、悲しいのだろう。
できることなら、その悲しみを消してあげたい。そう思う。
「あ、あのね。小波君。あたしはその、えっと、だから……あの、ええっとぉ……」
 何を言えばいいのか分からないまま喋り始めたため、
全く意味のない言葉の羅列が、エリの口から洩れていく。
「あ…………ううぅ……」
 それに声に反応して、『彼』が窓から視線をそらしてエリのほうを向いたことにより、
彼女の混乱はさらに深まってしまい、目頭も熱くなってしまう。
 せめて小波君が女の子だったら、こんなに慌てないのになぁ。
 そんな馬鹿げた考えさえ浮かぶほど、エリはパニックに陥っていたのだが。
「…………う」
 『彼』が何事かを口にした気がして、エリは喋るのを止めた。
いつの間にか瞳を閉じていた『彼』が、少しだけ身を小さくした。
 次の瞬間、
「うがあああああーー!!」
 突如猛獣のような叫び声を上げて、両の腕を天に伸ばし、
『彼』は跳ね上がる様にベッドの上に立ち上がった。
「うひゃあああああ!!?」
 驚きに、エリも叫びながらベッドから転げ落ち、扉へと両手両足で這い寄った。
いつでも逃げることのできるようにドアノブに手をかけながら振りむく、と。
 『彼』は今までの暗い表情が嘘であったかのような、明るい笑顔を浮かべていた。
「いや、ちょっと叫びたくってさ。驚かせちゃったか?」
「ぐすっ……すん……うん……」
「ごめんごめん。」
 謝罪の言葉を口にした後、『彼』はゆっくりと起ちあがってエリのほうに近寄ってきた。
手を差し伸べられる。震えながらも、迷わずにその手をつかんだ。
「愚痴るだけ愚痴ったら、少し楽になったかな。ありがとう」
 手をひかれてベッドの端へと――――端と端の距離じゃないと、
エリが緊張してしまうためだ――――案内される。
 ゆっくりと腰をおろし、手渡されたタオルで涙を拭いて、エリは微笑んだ。
「…………えへへ、どういたしまして」
 その笑顔を見て、『彼』がさらに頬を綻ばせる。
喜びの感情に心躍らせて、エリは安堵の息を吐き出した。
「それで…………眠れそう?」
 その質問は、『彼』を刺激してしまうのではないか。
そんな懸念も生まれたのだが、問いを投げるのをやめることはできなかった。
 少しだけ眉を傾けて、苦笑しながら『彼』が返事をする。
「……どうだろう? 無理して眠らなくてもいいんじゃないかって気はするけど」
「そ、それはだめだよ! 寝る子は育つって言うし!」
「まあ、それはそうだけど。眠くないしなぁ」
 困り果てたように頬を掻く『彼』は、暗い雰囲気はないものの、少し疲れて見えた。
 眠れない。眠りたい。眠るためには。
 そんな風に自問しながら、エリは答えを求めるように部屋をさっと見渡す。
視界に入ったのは、窓、テレビ、畳まれている洋服ぐらいだ。
その中の一つ、暗いテレビ画面を見て、エリはあることを思い出した。
 そういえば、あたしも昔、怖い映画見て、眠れなかったっけ。
 若いころ……というよりも、幼いころといったほうが適切だろうか?
さすがに今は、怖くて眠れなくなるなんてことはそう多くは無いが。
(……あのときはどうしたんだっけ?)
 胸の内で自問自答すると、その答えはすぐに浮かんできた。
 たしか……
「……あ、あのね。小波君。ちょっと待っててくれる?」
「うん?」
「その、いい案が浮かんだかもしんないから」
 名案――――惑いは迷案だろうか?
過去の記憶が生んだ考えは、馬鹿げた、あるいは危険なもののように思えた。
だが、彼の力になりたいという強い願いと、『彼』が自分に好意を抱いてくれるかもという、淡い願いがエリを動かす。
 立ち上がり、スカートを軽く払う。
「す、すぐ戻るから!」
「ちょ、おい、エリ!?」
 エリは一瞬だけ彼に微笑んだ後、どたばたと身体を動かしながら、
エリは部屋を出ていった。





 二時間後。
「う〜〜〜……どうしよぉ……」
 エリは研究室の一つ目の部屋で、小さく唸りながら悩んでいた。
部屋に戻り、今日二度目のシャワーを浴び――いつもよりかなり念入りに
身体を洗い――、髪を乾かして、お気に入りのおしゃれな洋服を着て、
思いつく限りの身支度を整えて、ここに戻ったのが三十分ほど前になる。
これからのことを考えると、どうにも踏ん切りがつかないのだ。
 下手したら――いや、上手くいったら、今日が初体験の日になるのかもしれないのだから。
(……きゃー! きゃーー!!!)
 今ここに、ベッドがあったら迷わずに飛び込んで転がっているだろう。
そんな事を考えながら、エリは両手で頬を押さえて、エリは部屋の中を歩き回る。
何をしているのだろう。そんな事を思わないでもないが、興奮は収まりそうにない。
「いたっ!」
 小指の先を椅子にぶつけて、エリははっと我に返った。そのまま『彼』がいる部屋へと視線を向ける。
研究室は防音設備がしっかりしているため、声は聞こえていないのは確実だ。
それでも、『彼』に見られているような感触に、エリの頭がさらに熱を帯びる。
 ――――限界を迎える寸前。かちゃり。ドアノブが回る小さな音が、背後の廊下に面した扉から聞こえた。
「えっ!?」
 慌てて部屋の隅へと移動し、エリは開いていく扉を見た。
だれが入ってくるんだろう。堤君だったら嫌だな。教授だと部屋に入るきっかけになるかな。
緊張に縛りつけられながら、待っていると。
「失礼します……あ、エリ。やっぱりここにいたのね」
 部屋にはいってきたのはエリの予想していた人物ではなかった。
「あれ? 委員長?」
 委員長――神条紫杏だった。朝早くだというのに、
彼女はいつものように奇麗にアイロンのかけられたシワ一つない服を、奇麗に着こなしている。
 エリと同じようにシャワーでも浴びたのだろうか、揺れるポニーテールは少し湿っているように見えた。
「おはよう。朝起きたら部屋にいなかったから、探してたのよ」
「そ、そうなんだ。おはよう。委員長」
 つかつかと足音を立てながら近づいてくる紫杏と微笑みを交わし、
エリは彼女が言った言葉を頭の中で反芻した。
やっぱり、ということは、紫杏はエリがここにいると当てをつけていたということになるのだろう。
 どうして当てがついたんだろう? 小さく首をかしげるエリを見てか、紫杏が口を開く。
「最近エリがよく研究室に来るって堤君が言ってたから。ここにいるかなって。
教授にいろいろ教えてもらってるんだって?」
「え? ……あ、うん。いろいろ教えてもらってるの。
今日はその…………か、借りた道具を置きに来ただけなんだけどね」
「そう。エリが機械に興味を持つなんて意外ね」
「そ、そう?」
 せわしなくきょろきょろと視線を動かしながら、
エリは無意識のうちに、委員長から奥の扉をかばうような位置に移動する。
 その動きが不審に思われたことには、気づかなかった。
「ええ。それに、やっぱりこういうのに興味を持つのって、男の子が多いと思わない?」
「うーん、それはそうかも」
「どうして男の子って、ロボットとか、ドリルとかが好きなのかしらね?」
「……ドリル?」
「ええ。誰かがそう言ってた気がしたんだけど」
「どうなんだろ……」
 他愛のない会話が始まって、エリはようやく極度の緊張から解放された。
肩の筋肉を弛緩させて、小さく欠伸をする。早くに目が覚めたとはいえ、不足した睡眠時間は、如実に体に影響を与えていたのだ。
「……ところで、奥の部屋に誰かいるのかしら?」
 その質問は、兎にも角にも不意打ちだった。
「え? うん……奥の部屋には……」
 言葉の意味を深く考えることができずに、エリは口を開いてしまった。
もし、エリが緊張から解放されて間もない時間であったのなら、
わざとらしさがありながらも嘘をついてごまかすことができただろう。
 だが。エリの意識は緩んでしまっていた。眠気と安堵により、
紫杏の言葉に深い注意を払うことを、忘れてしまっていた。
「…………」
 隠さないといけないことを喋ってしまったことに気付いたのは、
紫杏が不思議そうにエリを見ているのを見てからだった。
「あ、ち、違うの。そっちには誰もいないよ! いないから!」
 慌てて首を横に振り、両の手も顔の前で横に振りながら否定する。
それがいかにも怪しい行動ではあると自覚してはいたのだが。
 明らかな疑惑を浮かべたまなざしで、紫杏がエリを見つめる。
「うぅ……」
 弁明すればするほど、先ほどの言葉が真実だと言っているようで、エリは口と、目を閉じてしまった。
暗くなる視界と、訪れる沈黙。いっそ逃げちゃおっかな? そう思い始めた時。
 ごん、ごん。
 扉が壊れるのではないかというほど、大きなノックの音がエリの耳に突き刺さった。
慌てて眼を開くと、部屋の入り口に人影が見える。
 ついさっきまで、誰もいなかったのに。強張りはじめる身体を意識しながら、
エリはその人影から遠ざかるように後ずさりした。
「じゃまするぜい」
「うきゃあ!」
 ぶっきらぼうな低い声が怖くて、エリは慌てて紫杏の背後へと移動した。
彼女の背中と右腕にしっかりとしがみつきながら、首だけを出して恐る恐る声の主を見る。
 入り口に多田ずんでいる、青い帽子を被った男――――椿は、どこかポカンとした顔つきをしていた。
「…………あら、おはようございます」
 どこか冷たさを感じさせる声で、紫杏が椿に挨拶をする。
それに椿は気だるそうに『おう』と返事をした後、エリへと視線を向けてきた。
「ひっ!」
 反射的にエリは紫杏の背中で顔を隠す。
あの時、エリと椿はそれなりに会話をしていたが、
エリにとって、椿は必要が無い時はできるだけ関わりたくない人物なのは変わっていなかった。
「いや、『うきゃあ!』なんて叫ぶようなやつは珍しいような気がしてな」
 頬の端をゆがめるような笑いとともに椿の口から出てきた言葉は、
彼がエリへと視線を向けたことについての弁明のようだった。
 もしかしたら、椿流の冗句なのかもしれないが。
「……エリがおびえているので、要件を早く言っていただけると助かるのですが」
 小さなため息をついた後、紫杏が淡々と言葉を吐き出す。
ごめんね。エリがそう背中に向けて呟くと、紫杏は彼女の右腕をつかんでいるエリの手を、そっと撫でてきた。
 気にするな。ということなのだろう。
「あの爺さんから、あんたを呼んできてくれと頼まれてな」
「…………唐沢教授が?」
 少しだけ、紫杏が戸惑ったことをエリは感じ取った。
彼女を呼んだという唐沢教授が、リーダーである小波、あるいは実験をたまに
手伝っている堤以外の人間を、呼ぶということはほとんどない。
 椿の言葉が、嘘ではないかと値踏みしているのか。紫杏はまっすぐに視線を彼へ突き刺している。
「おう。じゃあ、確かに伝えたからな」
 それをものともせずに、椿はずれ落ちそうになった帽子を押さえながらマントを翻し、
音もなく部屋から出ていった。それを確認して、エリは手の力を緩めて、紫杏から離れる。
「ごめんなさい、エリ。呼ばれているみたいだから、行ってくるわね」
「う、うん……」
 振り返り、眉を少し傾けた紫杏は、本当に申し訳なさそうな表情をしていた。
委員長は何も悪くないのに。そうは思ったものの、
今は彼女が部屋を出ていくということが喜ばしいことではあったため、何も言わなかった。
「あ、あと、忘れないうちに、ユイか瑠璃花にメールでも送っておきなさい」
「あ……うん」
「じゃあ……あ、そうだ」
「な、なに?」
 どうにかごまかせそうだと思った瞬間、紫杏が屈託のない笑顔をエリへと向けた。
そのまま視線で彼のいる部屋の方角を指し示して、彼女はあくまで朗らかな口調で問いかけてくる。
「誰もいないのよね?」
「う、うん!」
「そう……なら、いいの。変なこと聞いてごめんね。それじゃあ、またあとで」
 紫杏はエリが即答したことに疑念を消したのか、
深く追求することはせずに、部屋を出ていった。
「う、うん。またね」
 颯爽と扉を開けて出ていく紫杏の背にまたねと言って、エリは小さく溜息をついた。
扉が閉まると同時に、静寂に包まれる研究室。
疲労感に肩を落としながら、エリは壁に掛けられている時計を見る。
 ずいぶん待たせちゃったなぁ。
 時計の針が指し示す時刻を見て、エリは申し訳なさに身をすくませた。
もしかしたら、『彼』はもうすでに眠ってるかもしれない――そんなことを思いつく。
(それはそれでいいかなぁ)
 そう思いながらも、エリは扉を開けることにした。



「お、おじゃましまーす……」
 扉を開く時にはかなりの緊張がエリの身を襲っていた。
できる限り意識しないように立ちふるまうことを心がけてはいるのだが、
自分がこれからしようとすること。それを考えるだけで、
身体が油の足りない機械のように、ぎくしゃくとした動きをしてしまう。
「お、エリ。いきなり帰っちゃったから、何かと思ったよ」
 エリが部屋に入ると同時に、読んでいた本を閉じ、声をかけてきた『彼』は、
幸いなことに、エリの奇妙な挙動には注意を払わなかったようだった。 
「ご、ごめんね。……えっと、少しは眠れた?」
「いいや……ふぁぁ。眠くない、ってわけじゃないんだけど」
 生あくびをしながら口元を押さえる彼は、確かに眠たそうに瞳を瞬かせている。
 『彼』が辛いと感じている、それがとてつもなく嫌だったから。
大きく息を吸い込む。覚悟を決めるために、しっかり眉を吊り上げて『彼』を見る。
「あ、あのね! 小波君!」
 吸い込んだ息を全て吐き出すほどの大声を、――逃げ出してしまいたいほどの羞恥が身を襲ったが、
それすらも消し飛ばすかのような大きな声――――エリの一連の動作を、
不思議そうに見つめていた『彼』に向けて叫んだ。
「……え? な、なんだ?」
 空気が震えるほどのエリの声に、『彼』は非常に戸惑ったようだった。
小さな子供を見つめるような彼の眼差しに、エリは逃げ出そうと半歩後ずさりをする。
 だが、今ここで逃げ出してしまうと、二度とその提案を口にすることはできない。
 それがわかっていたため、どうにか踏みとどって、口を開く。
「あたしもね、その! 夜に怖くて眠れない時があるの!」
「……まあ、エリなら結構頻繁にありそうだな。はははっ」
 エリにとっては、かなり真剣な発言だったのだが、
それを茶化すように笑われて、エリの勢いが止まる。
「う、うぅー……」
 水を差されたことに抗議の意味を込めて小さく唸ると、
『彼』は慌てて緩んだ頬を手のひらで包み、真面目な顔を形作った。
「ああ、ごめん。……それで?」
 少し熱が冷めたのを感じ――――こほんと一つ咳払い。
できるだけ大声になりすぎないように注意しながら口を開いた。
「……そ、それでね。その時は……えっと、
いつもお母さんと一緒に眠ってもらってたの。……優しく抱きしめてもらって」
 ゆっくりと、ゆっくりと足を進めて、『彼』の隣に座る。手を伸ばさずとも、触れるほど近い。
縮まることのなかった距離。縮めることのできなかった距離。
「あ、ああ……えっと、い、いいお母さんだな!!」
 エリが何を言おうとしているのか察したのだろうか、
『彼』は目を大きく開き、口早に驚きを表現しながら首を大きく縦に振る。
そのまま視線をそらしてエリに背中を向ける――拒絶されたのではないかと一瞬思ったが、
『彼』は背中を向けつつも、離れようとはしていなかった。
 それを好機だととり、エリは、
「だ、だから……その……」
 震える手を伸ばし、彼を背後から抱きしめた。
しっとりとした布――汗臭く、生ぬるい感触のシャツに鼻を埋めながら、小さく息を吸う。
 そのままベッドに、彼を引っ張りながら倒れこむ。
「どう、かな?」
 小さな声で尋ねると、『彼』は身を大きく震わせた。
「…………あ、えっと。……なんか、眠れそうだ」
 ぽつり、ぽつりと漏れ出た言葉に、エリは喜びを感じ、微笑む。
「よかったぁ」
 早くも呼吸を静かなものにしていく『彼』に、涙を流しながらつぶやく。
「……んー……」
 数分もたたないうちに、『彼』が静かに寝息をたてはじめた。
 女の子と一緒なのに普通に寝ちゃうなんて……などと思ったが、嬉しいことに変わらない。
「えへへぇ……」
 だらしなく頬を緩ませながら、エリは彼の熱を体にこすりつける。
夢のような状況で感覚が麻痺しているのか、もはや羞恥などどこにもない。
「ふぁ……」
 そして、自らにも眠気が押し寄せてくることに気づく。朝から緊張の連続だったため、疲れたのだろう。
「…………すぅ……」
 そのまま二人は、一つのベッドで眠りについた。





 ――それから二人は、『彼』が眠れぬ夜を過ごすたびに一緒のベッドで眠るようになった。
初めのころは眠りにつく時や、目を覚ましたときに、
エリが興奮して泣き出してしまったことは何度かあったものの、おおむね問題はなかった。
 もちろん、これはエリと彼だけに秘密である――――もし、このことを小野が知ったならば、
『その、そういったことはもう少し大人になってからの方が……』
 教授と椿はエリと話すことすらないし、ヒナコは…………ヒナコだけは、
何か感づいているのか、意味深な笑いをエリに向けていたが、何も言ってくることはなかった。
 実のところ、エリは『彼』が手を出さなかったことに少々の不満を覚えてはいたのだが、
それを自分から動いてどうしようとはせず。

 三週間が経過した。







「ついに、おいらに春が来たでやんす」
 封を開けられたばかりの傷一つない雀牌。
蛍光灯の明かりで鈍く光るそれを、右手を伸ばしてつかみ、
指で裏側をこする――――もちろん、今日初めて雀牌を触った小波に種類がわかるはずもないし、
すでに自分の牌になると決まっているものを、予想しても意味はないだろう。
「へぇ」
 右隣に座っている落田の言葉に適当に相槌を打ち、
牌を裏返しながら手元に引き寄せる。マジックで書かれた『西』という汚い文字が見えた。
「おめでとう、メガネ」
「良かったね」
 小波の反応に少し遅れて、平山と村山が小波と同じように適当に相槌を打つ。
恐らくここにいない男子クラスメイトも、同じ反応をしただろう。そんな事を小波は思う。
「真面目に聞けでやんす。オ・イ・ラに! 春が来たでやんすよ?」
 春が来た。夏真っ盛りの今ではあるが、矛盾した言葉というわけではない。
落田が浮かべている怪しげな笑みからすると、恋愛関連の話題なのだろう――――もっとも、
その話が本当である可能性は、夏の途中に春が来るよりもあり得ないかもしれないが。
「妄想だろ?」
「夢の話じゃない?」
「メガネよりかは、俺のほうがまだ可能性が……あ、それチー」
 三人そろって薄情なことを口にしつつ、たんたんとゲームが進行していく。
すでに時刻は深夜一時。明日のことを考えると、これがオーラスだろう。
「……泣いてもいいでやんすか?」
 ぐったりと情けなくうなだれる落田。その眼鏡の奥の瞳には、きらりと光る滴さえ見える。
少し酷い反応だったかと反省しつつ、小波は苦笑しながら問いかけた。
「はいはい。で、何があったんだ?」
「ぐふふふふふ。白木さんでやんす」
 一瞬で瞳のきらめきを消し、再び怪しげな笑みを浮かべた落田が口にした言葉は、
それだけはあり得ないだろう。と思うぐらいに意外だった。
聞き間違えたのかと思って、落田の左右に座っている平山と村山を見るが――彼らも聞き間違えたのかと
思ったのだろう。理解できない、といった表情を浮かべていた。
「エリ?」
「そうでやんす。最近、おいらとたまに会話してくれるようになったでやんす。
きっとおいらの魅力に気付いたんでやんす!」
「…………」
 やっぱり。妄想だったか。
胸中で呟いて、憐みたっぷりの視線を落田に――というよりも、落田の眼鏡に向ける。
 残り二人も同じような視線を落田に向けていた。……のは確かなのだが、
「あー……」
「そういうことか……」
 二人は何故か、非常に納得したと言いたげな表情も浮かべていた。
「そういうことかって、どういう意味だ?」
 気になって問いかけると、平山と村山が視線を合わせる。
アイコンタクト、というほど高度なものではないが、平山が話すと決まったらしい。
 気乗りがしないのか、やや気だるそうに口を開く。
「メガネの期待を壊す感じで悪いけどさ、最近の白木さん、俺にもたまに話しかけてくるぜ」
「……は?」
 ぽかんと口を大きくあけ、驚きを表す落田。それが面白くて口元をゆがませた小波だったが、
「……ん?」
 平山が言った言葉が信じ難いものだと気付き、眉を傾ける。
「と言うよりも、男の子と頑張って会話しようとしてる……って感じだよね。
神木さんとか、霧生さんが男子と話してる時に混じってる感じで」
 疑念を抱く小波の耳に、村山のフォローが届く。
信じられない。小波としては非常にそう言いたかったのだが
「そういえば、そういった場面を見た気もするかな。眼鏡の妄想、ってわけじゃないのか」
 最近の彼女の様子を思い出してみると、確かに男子クラスメイトと話している場面があったような気がした。
はっきりと思い出せる、というほど頻繁に見た記憶があるわけではないのだが。
「がっかりでやんす……」
 落田ががっくりと肩を落とすと同時に、小波もそれを真似るかのように肩を落とした。
「逆に俺は、最近ほとんど話した記憶が無いなぁ……」
「そうなんでやんすか? 小波君と話してない、ってのは意外でやんすね」
 落田にとって、この程度の落胆はそう珍しいことでもないからだろうか。
彼はそう落ち込んだ様子もなく、小波の漏らした言葉に反応してきた。
 溜息をつくと同時に牌山へ手を伸ばし、小波は再び呟く。
「そうだよなぁ。頼ってくれてると思ってたんだけど」
 小波からすれば、エリとは一年前の夏休みの時に少々――積極的に会話をする
間柄とまではいかないものの――仲良くなれたのだと思っていた。
自分を頼ってくれていると思った場面も、何度かあったからだ。
「頼って?」
「ん? ……ああ、ほら、エリって泣き虫だろ?
 落田の訝るような声に、答えになっていない答えと、苦笑いを返す。
彼は首を軽く傾けてメガネの位置をずらし、蛍光灯の光をきらりと反射させた。
「ふふん。そうやって男は勘違いするもんでやんす」
 すぐさま鼻で笑われることになったが、怒りを覚える――――というほどまではいかなかった。
勘違い、と言われればそうだったのかもと思う程度の考えだったからだ。
「メガネが言うと、説得力あるよなぁ」
「そうだね……」
(けれど……勘違いじゃないとするなら?)
 ふと胸に浮かんだ考えが、背中に冷たいものを走らせる。
 一つだけ、一つだけ理由を思いついたのだ、エリが、自分を避ける理由を。
(……あの時は確か、俺は倒れたけど、エリと椿は運よく帰ってこれたんだっけ)
 三週間前――――オートリピートシステムが作動した日。
その日のことを、小波はあまりよく覚えていない。エリと椿と自分の三人で、
宇宙ビーストと戦っていたおぼろげな記憶だけが残っている――――いや、移されているだけだ。
そして運よく帰還することができた二人も、その時の記憶ははっきりしていないらしい。
教授が言うには、宇宙人の技術を利用して開発された機械を使い、記憶をいじったのだという。
二人の――特に、エリの――精神状態を安定させるためと、小波が入れ替わったことを
知られることによる士気の低下を防ぐため。そう、小波は説明を受けていた。
 それに異議を唱える気はない。状況を考えれば、当然だと思う。
 しかし。
(もし、エリがそのことを覚えているなら?)
 それなら理由は説明できる。入れ替わってしまった人間と、今までのように関わることは、普通できないだろう。
 しかし。
「……ん?」
 ふと、落田の顔が視界に入り、その理由が間違っているということに気付く。
もし、彼女の記憶が残っているのなら、落田が避けられていないのはどうにもおかしいだろう。
 あの日システムが作動したのは、彼も同じなのだから。
「どうしたでやんすか?」
 視線を下向けてかたまったいたのを不思議に思ったのか、落田が心配そうに声をかけてくる。
「いや、外れだなって思っただけさ」
「……ん? ってことは、テンパイでやんすね?」
 残念そうに返事をした小波に向けて、落田がほくそ笑む。
当たりの牌と見間違え手思わずつぶやいてしまった。そう思われているらしかった。
「さあ、どうだろ? ふぁぁぁ……」
 曖昧な返事をして、小波は大きく欠伸をしながら頭に浮かんだ考えを振り払った。
考えが暗い方向に向かう気がして、嫌になったのだ。
もとより考えることはあまり得意ではないし、気にしないでいようと思えば気にならない。
 ――――もし、どうしても気にしてしまう状況に追い込まれたら、俺はどうなるんだろ?
「まあ、男が苦手ってのが治ってきてるんだったらいいことなんだろうな。うん」
 胸に浮かんだもしもの考えが少し気になったのだが、
終局が近づいていることに気づいて、小波は話をまとめようと適当なことを口にした。
 だがそれは、小波以外の三人にとって同意できかねるもののようだった。
三人はそろって訝しそうに小波を見つめてくる。
「治ってきてるでやんすかねぇ? 話をする時も、いつもびくびくしてるような気がするでやんすけど」
 口火を開いたのは落田だった。どこか不満そうに聞こえる――エリが
自分に心を開いていないのだと再認識したからなのだろう――声を出す。
「そういや、俺もこの前、話してる最中にいきなり逃げられたな」
「僕も。……理由がさっぱりわからないのが困るよね」
 平山と村山が落田に続いて…………沈黙が訪れる。
 エリはまあ、決して悪い人間だというわけではないし、
嫌われているというわけでもないのだが――――少し、面倒な女の子だということは否定できないだろう。
「まあ、そこがいいでやんすけどね。…………くっくっく」
 どこか重苦しい雰囲気を壊すかのように、落田が怪しげに笑う。
「メガネって妙な趣味してるよな」
「……そうだね」
 もっとも、まだ十代の半ばの少女だといってしまえばそうだ。
エリ以外の女子クラスメイト達に気の強い人間が多いため、
彼女は少々幼い性格のように思えるが――――そう珍しいというほどでもないのだろう。
 もっと長い目で見てあげよう。そんな年齢に合わない考えを浮かべながら、小波はリーチ棒に手を伸ばした。
「なあ」
 そのとたん、つまらなそうにポツリとつぶやかれた言葉が耳胃に届いた。
小波は気だるげに首だけを動かして、後ろを見る――――視線の先には、だらしなく床に寝そべってる光山がいた。
十分ほど前は正座していたはずだったのだが、今は身体中を緩ませきっている。
「なんだか、すごく寂しいんだが」
「リーチ! ……ツバメ返しを見せてやるぜ! とか言って牌を破壊したのが悪いんだろ」
 情けない言葉を呟いた光山から視線を卓に戻してリーチ宣言をすると同時に、
小波は光山の失敗を冷たく吐き捨てる。
「いや、金をかけようぜ! って言いながら、実は一円も持ってなかったところじゃないか?」
 間をおかずに平山。
「オイラとしては、さっきこっそり屁をこいてたのが許せないでやんす」
 鼻をつまみながら落田。
「どっちかって言うと、点棒をごまかそうとしたほうが悪いような?」
 迷いながら村山。
「……マントルより深く反省している」
「微妙におかしくないか、それ?」
 次々に責められた光山は、不適に胸を張りながら謝罪の言葉を口にする。
反省の様子が無い彼に、小波は小さなため息をついた。

 ――――――苦楽を共にした友人たちと過ごす夜
 それは彼が、どんなに渇望しても二度と手に入らないもの。
 それを小波は知ることなく、最後の夜が終わり、その日が訪れる。






 部屋に入る瞬間はエリにとって、非常に大切なものだった。
彼に与える第一印象をよくするために、いつも最大限の注意を払いながら扉を開けている。
 身だしなみが乱れていないか、笑顔を浮かべることができるかどうか、
大きすぎず、小さすぎ無い声を出せているかどうか。
 さまざまなことを考えつつ、それらすべてを実行しようと努力しようとしているのだが。
「おじゃましま……す?」
「お、おはよう。エリ」
 その日は、想像していなかった光景に、少しだけ口ごもってしまった。『彼』は基本的に、
ベッドを椅子代わりして本を読んだり、テレビを見たりしているのだが、
「おはよう。……ところで、なんで床に寝そべってるの?」
 その日は何故か、『彼』は床に寝そべっていた。
 奇麗に磨かれている床――――暇なので、彼がこまめに掃除をしているらしい――――は、
そう不潔には見えなかったものの、あまり行儀が良いとは言えないだろう。
 ぽりぽりと指で頬を掻きながら、『彼』が小さく欠伸をする。
「冷たくて気持ちいいんだ。エリもどうだ?」
「や、やだよぅ……」
「はははっ」
 朗らかに笑『彼』には、眠れなかったことによる顔色の悪さは見えなかった。
 それとは別に、その手元に分厚い本があったことに、エリは疑問を抱いた。
『彼』が本を読んでいる姿というのは、そう珍しいことではないが、
朝起きてすぐに本を読むほど、『彼』は読書家ではないはずだったからだ。
「本、読んでたんだね。……また、眠れなかったの?」
「いや、昨日はちゃんと眠れたよ。俺だって何時までもエリに迷惑をかけるわけにもいかないしさ」
 質問に即答してきた『彼』には、嘘を言っている様子は無い。
胸をなでおろしながらも、エリは彼の発言に少しだけ気落ちする。
「迷惑じゃないのに……」
「え?」
「あ、う、ううん! な、何でもないから!」
 思わずぽつりと漏らした言葉を『彼』が聞き取れなかったことに落胆と安堵をおぼえながら、
エリはゆっくりとベッドに腰かけた。いつもならベッドの端と端に座って語り合うのだが、
今日は『彼』が床に寝転がっているため、ベッドを独り占めすることができた。
 ぼふん、と勢いよくベッドに寝転がって、エリは彼と同じように寝そべってみた。
 『彼』に顔を向ける――――視線が絡み合い、たがいに照れ笑いを浮かべる。
「……俺さぁ」
 何を話そうか迷っていたところで、『彼』が本の表紙をエリに向けて話しかけてきた。
「こういう本には一生縁がないって思ってたんだよな。文字ばっかりで読みづらいし」
 軽く左右に振られる本。その表紙に書かれているタイトルは、
エリでさえも聞いたことのあるぐらい有名な哲学書だった――もっとも、中身はさっぱり知らないのだが。
「えっと、哲学書……だよね?」
「ああ。なんか小野さんが貸してくれた。暇つぶしにどうでしょう? だって」
「あはは……でも、結構読んでるんだね? 半分ぐらい?」
 肌触りのよいシーツを頬にこすりつけながら、エリは『彼』との会話を続ける。
身体はちゃんと洗っているのだろうが、『彼』の匂いというものを感じ取って少し嬉しかった。
「まあ、読み飛ばしてる部分も多いんだけどな。
聖書を読んでないとわからないって注釈されてるぐらいだし、さっぱりだ」
「そうなんだ……なんだか、難しいんだね。委員長に聞いたら、いろいろ教えてくれそう」
「…………」
 委員長。エリがその言葉を口にした瞬間、『彼』の表情が影を帯びた。
それはごくわずかな――――それこそ瞬きをしただけで消えてしまうほどに短かったのだが、
見間違えたのではないと確信できるものでもあった。
「……どうしたの?」
「いや、なんでもない。向かないことはするもんじゃないなって」
 不安に思い問いかけると、本で口元を覆い隠すようにたたきながら『彼』は小さく笑った。
「ふふふっ。そうだね。あ、そういえば昨日の夜、メガネ君がね……」
 ごまかすような彼のしぐさに不安は消えなかったものの、
エリはこれ以上追及しないことを決めて、ほかの話題を口にしはじめた。

 ――この時まで、『彼』と彼女は確かに幸せだった。












 食堂には、甘い香りが立ち込めていた。
時刻は午後三時。狙い澄ましたかのように、ちょうどおやつ時である。
エリは喜びで震えそうになる手をゆっくりと動かし、
フォークに突き刺さっていたケーキの欠片を咥えた。
途端、強い甘味が舌に伝わって、やがて口内すべてに広がっていく――それに少し遅れて、
舌の体温で溶けたチョコレートから、やや強い苦みが走った。
生クリームの甘さを引き立てるためだろうか? そうなのだとすれば、その目論見は大成功だろう。
咀嚼して、飲み込んだ瞬間にもう一口が欲しくなるのだから。
 だが、ここですべてを味わってしまうのは勿体無い。
そう思い、エリは一旦フォークを置いて、湯気の立つティーカップへと手を伸ばした。
「ふぅ……」
 食堂の換気扇が回る音を耳にしつつ息を吹きかけ、ゆっくりと口元に寄せる。
レモンの切れ端が入った紅茶を味わいながら飲み込み、口の中をさっぱりとさせてつぶやく。
「すんごくおいしい……」
「お、それは良かった」
 そのケーキの製作者――霧生夏菜は、エリの言葉に満足したようだった。
エリの緩みきった口元を見て、満足そうに微笑んでくる……と、エリはそこで
彼女自身がケーキを食べようとしていないことに気づいた。
「あれ? 夏菜は食べないの?」
 フォークを皿に置きながら問いかけると、夏菜はゆっくりとエリから視線をそらした。
その先を見てみると、遠くのテーブルに椿が座っていた――――どうやら、新聞を読んでいるらしい。
だが、夏菜は椿を見つめているというわけではないようだった。
そのさらに先――――概念的などこか遠くを見つめているように見える。
「……最近、体重が」
 どこか物憂げな表情になった夏菜がポツリとつぶやいたのは、多くの女性の悩みの種となっているものだった。
「そ、そうなんだ」
「油断したらすぐこれだからなぁ…………体重計が憎くなる」
 肩をがっくりと落とし、エリへと視線を戻す夏菜に向けて、エリは曖昧な笑顔を浮かべた。
聞くところによると、彼女は小野映子の作る料理の秘訣を舌で盗もうとしているうちに、
少しばかり体重が増えてしまったらしい――――もちろん、彼女は決して太っているほうではないし、
スタイルも悪いほうではない。だが、本人が気になっている以上、下手な慰めの言葉は逆効果だろう。
「あたしも気をつけないとなぁ……」
 そんな事を言いつつ、エリは皿の上のケーキにフォークを突き刺す。
気をつけないといけないのはわかってはいるが、所謂『ダイエットは明日から』というやつである。
 まあ、現在のエリは体重で悩んでいない、ということもあるのだが。
「ま、あんまり気にしすぎるのもよくないんだろうけどな」
 夏菜はそういいつつも、ケーキを食べる気はないようだった。
肩を丸め、腕をだらしなくテーブルに伸ばして突っ伏す――――その視線の先は、エリの胸元に向けられていた。
「……食べてる分、全部胸に行ってるんじゃないか?」
「こほっ!」
 ポツリとつぶやかれた言葉に、激しくむせるエリ。
中学三年生にしては大きい胸は、友人にからかわれることもないわけではなく、
普段ならあわてながらもあしらうことができたのだが、ちょうどケーキの欠片がのどを通る瞬間に
言われてしまったため、動揺してしまったのだ。
「けふっ、けほっ……か、夏菜!」
「ははは、ごめんごめん」
 逆流しそうになるケーキを慌てて飲み込んで、せいいっぱい眉を吊り上げて抗議をするエリ。
夏菜は大して反省している様子もなかったが……よくよく考えると、そこまで怒るようなことでもないだろう。
「も、もう……あたしだって、食べすぎたらお腹がふっくらしちゃうんだよ?」
 夏菜の言葉が冗談だとわかってはいたが、自らの腹を触りながらエリは反論の言葉を呟く。
「くそっ! 体重計なんて恐ろしいもの、この世から消えてなくなればいいんだ……」
 鋭い視線をテーブルに向けながら怨念を吐き捨てて、再び突っ伏す夏菜。
微妙に身もだえしているのは、額をテーブルに強くぶつけてしまったからなのだろう。
「うーん……消えてほしい、って言うんだったら、あたしはゴキブリに消えてほしいかなぁ。……あれ、怖いもん」
 眉をひそめ、小さくつぶやくエリ。
体重計が消える、というのは確かに魅力的に思う部分があったのだが、
体重計を作る職人(いるのかどうか知らないが)が可哀そうだろう。そう思ったのだ。
「ゴキブリ……? あんなの、体重計に比べたら可愛いもんだろ?」
「か、可愛くはないよう…………」
 エリの言葉に返事はしながらも、起き上がろうとしない夏菜。
何とはなしに、彼女の艶やかな黒髪に手を伸ばす――――きちんと手入れされているのか、
非常に滑らかなさわり心地である。
 指にくるくると髪を巻きつけつつ、エリは会話を続ける。
「あ、そうだ。この前ね、可愛いライオンの形をした体重計を見つけたよ。
体重を測るとね、がおー! って鳴くんだって」
「なんだか実用性には乏しそうだな」
「そうだけど……可愛かったよ?」
「うーん……でも、ライオンなんだろ? 隙を見せると襲いかかってくるはずだ」
「え?」
「体重を測り終えて降りた瞬間に…………がぶり、と」
 がぶり。夏菜はそう言った瞬間に勢いよく起き上がって、
まるで獲物を襲うかのように両手を構え、エリにじりじりと近寄ってきた。
「そ、それはちょっと怖いよぅ」
 少なからず恐怖を覚えながら、エリは身体を後方にそらして夏菜から離れようとするが、
夏菜はおびえるエリを気にする様子もなく、
唇の端をわずかに歪めるいやらしい笑いを浮かべながらテーブルに身を乗り出してくる。
「体重計なだけに、体脂肪とか測定してやわらかい部分を狙って……」
 左右の手でエリの両肩をしっかりと掴み、耳元で囁いてくる夏菜。
可愛らしいライオンが、突如牙を生やし襲ってくる様子を想像していたエリにとって、
その言葉は耐えることができないものだった。
「ふぇ……ひっく…………」
「げ」
「ふえええええええ……」
 火傷するのではないかと思うぐらいに熱くなった瞳から、涙が溢れ始める。
それと同時に、夏菜の体は急に離れていく――――だが、自発的に、というわけではないようだった。
滲んだ視界の中、『チョークチョーク!』と叫ぶ彼女の声が聞こえてくる。
 何事だろうと、エリは指で涙を拭いて素早く三度瞬きをする。
ややうつむいていた顔をあげると、先ほどまでいなかった人物が夏菜背後に立ち、彼女の襟首を掴んでいた。
「凶暴な雌ライオンがいたみたいだから退治してみたんだけど、何か問題があったかしら?」
 その人物――――神条紫杏は、夏菜の襟元から手を離しつつ、エリに笑いかけてくる。
「ぐすっ……う、ううん。ありがとう……」
 再びテーブルに勢いよく頭をぶつけたらしく、再度身もだえしている夏菜が気になったものの、
とりあえず紫杏に礼を言うエリ。
「どういたしまして。……でも、エリもこれぐらいで泣かないようにしないとね?」
「う、うん。……ごめんね、夏菜」
「いや、謝る必要はないぞ、うん」
 エリが謝ると同時に、夏菜がゆっくりと体を起こす。
少々申し訳なさそうに頭を下げてくる彼女に笑顔を返して、エリはポケットに手を入れた。
「しかしライオンか……私としては、ヒョウのほうがいいかな」
「どちらにせよ、稀少だから織の中に入れないといけないわね」
「……そいつはごめんだ」
 ハンカチを取り出して涙を拭いているうちに、紫杏が夏菜の隣に腰かける。
「委員長もケーキ食べるか? 味はエリのお墨付きだぞ」
「いえ、遠慮しておくわ」
「どうして?」
「今日はあまり体を動かしていないから。あまりカロリーは取りたくないの」
「そうだよなぁ……体動かしてない日は、耐えなきゃダメなんだよなぁ……」
 大きく溜息をついて、夏菜が頬杖を突く。
彼女のやさぐれた態度に何か感じることでもあったのか、紫杏が問いかけてくるような視線をエリに向ける。
 『体重が増えちゃったんだって』
 声には出さずジェスチャーで伝えると、紫杏は心得たとばかりに小さくうなずいてきた。
そしてそのまま持っていたバッグをまさぐりはじめる――――どうやら、深く追及しないことに決めたらしい。
「それはそうと、夏菜に聞きたいことがあるのよ」
「ん?」
 きびきびとした無駄のない動作で、紙の束を取り出し、テーブルの上にばらまく紫杏。
細かい文字がびっしりと並んでいる紙。見る限りでは、どうやら学校の宿題というわけでもないようだが。
「なんだ、この書類」
 手元に滑り込んだ一枚を手に取り、夏菜が不思議そうにそれを見る。
つられてエリも近くにあった一枚に手を伸ばす――――見えたのは、紙の半分を支配している折れ線グラフだった。
「ええ。実は、ここの生活で使った経費の資料をもらってきたんだけど」
「経費の資料?」
 オウム返しに聞き返す夏菜に、紫杏が小さくうなずく。
彼女の言葉を踏まえて手元の書類を見てみると、
どうやらエリの持っている書類は細かな雑貨に関するもののようだった。
折れ線グラフの上にある表には、衣服、食器類、トイレットペーパーなどの生活に必須なものから始まって、
週刊誌、ゲーム機、野球用品、昆虫採集キット、折りたたみ式麻雀卓、プラズマテレビなんて文字まで見える。
「ええ。将来、何かの役に立つかもしれないでしょう? それで、一つ気になったのが……ほら、ここを見て」
 折れ線グラフには、いくつかの線が描かれていたのだが、
その中でも『娯楽品』と注釈がついている線は非常に高い位置にある。
 ――――こういうのって、税金の無駄遣いなのかなぁ?
 でも、命の危険もあるんだし、ちょっとぐらい無駄遣いしても大目に見てくれるのかな?
「……うん?」
「少し、おかしくないかしら?」
 エリが考え事をしているうちに、二人が話を進めていく。
蚊帳の外ではあることに気付いたが、そこまで興味のそそられる話題でもない。
 傍観することにきめて、エリはなんとなく書類を眺め続ける。
「おかしい……って言うほどか? これ。 確かに変な感じに増えてるけど、食費なんてそんなもんだろうし」
「食費だけならね……あ、エリ。それちょっとこっちに貸してくれる?」
 さすがにマッサージチェアはやりすぎじゃないのかなぁ。
エリがぼんやりそんな事を思いつつ眺めていた書類は、どうやら説明に必要なものだったらしかった。
書類の向きを彼女が見やすいように回転させて、紫杏に手渡す。
彼女はエリに向けてありがとうと小さくつぶやき、そのまま夏菜に書類を手渡した。
「ふーん……こっちも少しだけ増えてるな。三週間前ぐらいからか?」
 三週間前。その言葉を聞いた瞬間、エリの心臓が大きく跳ねた。
慌てて自動販売機の方向に向かいそうだった視線を、夏菜の手元へと向ける。
今になって、彼女の持つ書類が自分の手元を離れたことが悔しくなった。
「ええ。とりあえず食糧費が増えていた理由なら夏菜に聞けばわかるかなって。何か、心当たりない?」
「うーん……そこら辺は小野さんが全部やってたから、私はわからないな」
 紙を扇のようにして自らを仰ぎながら、夏菜が紫杏に返事をする。
ひらひらと揺れる紙に合わせるように、エリは身体を軽く揺らしつつ、
どうにか紙の中身を見ることができないかと、首を精いっぱい伸ばした。
 その奇妙な動作を、紫杏が横目で見る。
「そう……エリは何か知らない?」
「な、何が?」
 いきなり話を振られて、思わず素っ頓狂な声を出すエリ。
「ここにきてからのデータをまとめていて気付いたんだけど、
三週間ぐらい前から、食糧や消耗品を購入しなおすペースが速くなってるのよ」
 夏菜の手から紙を奪い取って、紫杏が差し出してくる。
それを爆発物を触るかのように恐る恐る掴んで、紙面に視線を走らせた。
 確かに、約三週間前から少しずつグラフが右上がりになっていように見える――――のだが、
そう言われてみて初めて気づくぐらいに緩やかな上がり方である。
「こ、これぐらいだったら、ただの偶然じゃないの?」
「ええ。もちろんその可能性が高いわ。でも……そうじゃない可能性もある」
「…………」
 人差し指で机を軽く叩きながら、紫杏はエリに向けて口の端を吊り上げる。
それは笑みと呼ばれる表情だったが、見るだけで背筋に寒気が走るような威圧感を含んでいた。
「……あたしは、何も分かんない」
 迷った末に、エリは小さく横に首を振る。
「全く?」
「うん」
「それならいいの。……じゃあ、小野さんのところに行ってみることにするわ」
 エリが動揺を見せなかったからか、紫杏はあっさりと引き下がって、机の上に散らばった書類をまとめ始めた。
エリも持っていた一枚を手渡す。礼と同時に向けられた笑顔は、先ほどと違い柔らかいものだった。
「じゃあ、またあとでね」
 返事を待つことすらせずに、紫杏は椅子から立ち上がり出口へと歩いていった。
思ったことをすぐに実行できる彼女の行動力を羨ましく思いながら、エリは小さく吐息を洩らす。
暗雲が体中を包み込んでいるような気味の悪い不安感に、身体は小さく震えていた。
「…………なんだったんだろうな?」
 去っていく紫杏の背中を横目で見つめながら、夏菜がエリに向けて呟く。
紫杏の行動に違和感があったのだろう――だが、エリには彼女に返事をする余裕は無かった。
震えを押さえつけるかのように、自らの身体を抱きしめる。
(やっぱり……気づいてるのかな)
 誰かが『彼』の存在に気づくということは、エリにとって二番目に恐れていることだ。
秘密を知る人間は少ないほうがいい、という教授の言葉は、
納得できない部分もあるが正しいものだと思っていたし、そして何より。
 『彼』を独占できなくなってしまう。
 ――そんな考えが頭に浮かんだことで、エリは自分を叱りたくなった。
本当に『彼』のことを考えるなら、独占なんて考えは浮かべてはいけない。
 そんなことは、わかっているはずなのに。
「たいへんたいへんたいへーん!」
「……ん?」
 沈黙が続いていた食堂に、突如甲高い声がけたたましい足音とともに飛び込んできた。
驚きに高鳴る胸を押さえながら、視線を入り口に向ける――すさまじい勢いで
食堂に飛び込んできたのは、エリの親友――神木ユイだった。
「あ、エリ! 夏菜! 大変大変大変!」
 その名の通り馬の尻尾のような形をした髪の毛を激しく揺らしながら、
ユイは勢いを殺さないまま、椅子を跳ね飛ばしつつエリたちのもとへ駆け寄ってきた。
「はぁ、はぁ、ふぅ……」
 倒れこむようにエリの隣に腰かけて、大きく口で呼吸するユイ。
よほど慌てていたのだろう。額には大粒の汗が浮かんでいる。
「何があったの?」
「はぁ、ふぅ……どうしたもこうしたも、どうしたの!」
 問うエリにずずいっと顔を寄せて、ユイは慌てふためきながら叫んでくる。
彼女の熱気と声に気押されつつ、どうしたものかとエリは夏菜に視線を向けた。
 夏菜が肩をすくめ、手にしていた湯呑をユイに差し出す。
「……とりあえず、お茶でも飲んで落ち着いたらどうだ?」
「ありがとっ! ……んくっ……ふはっ!」
 エリから離れ、奪い取る様に湯呑を受け取り、一息で飲み干すユイ。
よほど疲れていたのだろう。肩で大きく息をしながら、呼吸を整えはじめる。
その間にエリはポケットからハンカチを取り出して、ユイの額へと手を伸ばした。
汗が一粒ずつ柔らかい布に吸い込まれていき、ハンカチの色が濃くなる。
 たっぷりと一分ほど時間をおいてユイの呼吸は穏やかなものになった。
「落ち着いた?」
「うん…………あれ? ところで私、なんで慌ててたんだっけ?」
「あ、あたしに聞かれても」
 天然なのか、故意なのか判断しづらいボケに苦笑を浮かべて、
エリはハンカチをポケットに入れなおす。
 それを見て――――かはどうかはわからないが――――
ユイは閃いたとでも言いたげな表情を作り、ポンと手を鳴らした。
「あ、そうだ、思い出した! 宇宙人が撤退したんだって!」
 朗報であるはずのその言葉は、エリが恐れていたものだった。
「嘘…………」
 驚きに目を見開きながら、エリは囁くように小さく言葉を漏らす。
「本当かっ!?」
 それとは対照的に夏菜は大声で叫びながらテーブルに大きく身を乗り出してきた。
エリの反応が芳しくなかったためか、ユイが夏菜へと視線を向ける。
「本当本当! 私もさっきまでダンジョンに潜ってたんだけど、
ほとんど敵と合わなかったし、おっきなUFOが空に消えていくのを見た人もたくさんいるんだって!」
 拳を握りしめガッツポーズをとる夏菜に、ユイは嬉しそうに手を伸ばす。
パチン、と軽快な音でハイタッチを交わす二人。
「ほらほら、いえい!」
「い、いぇいっ」
 続けてエリの眼前にもユイ手のひらが差し伸べられて、エリも慌ててその手をたたく。
ぺちん。先ほどに比べて、やや地味な音が響いた。
「これでようやく、戦いも終わりってことだよね。明日からは普通の女の子に戻るぞー!」
 腕をぐるぐると回しながら、ハイテンションなユイがはしゃぎ出す――――それは当たり前のことだろうとエリは思う。
死の危険もある戦いの日々がようやく終わりを告げたのだから、喜ぶのは当然だ。
 けれど、『彼』にとっては……
「……エリ、どうしたの? なんかあんまり嬉しそうじゃないけど」
「え? そ、そんなことないよ。……でも」
「でも?」
 探るようなユイの言葉に、エリは反射的に否定を返してしまう。
言葉が続かずに口ごもってしまったものの、このまま黙っているのは怪しく思われるだけだろう――そう思い、
適当な言い訳を口にすることにした。
「……いまさら、普通の女の子にはなれないんじゃないかなぁ、って」
 喜びに水をさす言葉を言ってしまったのではないか。口にすると同時にそう思ったのだが。
「ああ、そうだな。第一作のエンディングでそんな事を言っても、シリーズが続く限り戦わなくちゃいけなくなくなる」
 夏菜はどこか楽しそうに微笑みながら、エリに向けて小さくうなずいてきた。
不思議に思い、ユイに視線を向ける――――彼女もまた、口元を軽く緩ませていた。
「それで、いつの間にか女の子って年齢じゃなくなるんだよね」
「って言っても、あれは最初から女の子って年でもなかったけどな」
「そういえばそうかも」
 空気が悪くならなかったことは喜ばしいことではあったが、
話についていけずにエリは戸惑ってしまう。
「……何の話?」
 耐えきれずに問いかけると、ユイは少し驚いたようだった。
「うーん……。仇打ちは大変だ。ってことじゃないかな?」
「……よくわかんないけど、大変なんだね」
 迷いながらユイが口にした言葉を聞いても、理解することはできなかったものの、
だが、大して重要でもないだろうと、エリは適当に相槌を打つ。
 そして。
「ともかく。宇宙人が帰っていったってことは、この基地からおさらばできるってことだよな?」
「うん! あ、でも、しばらくはなんだかんだで残らなきゃいけないかも。
ダンジョンにはまだハタ刺さってる人が結構いるみたいだし、たぶん……二週間後ぐらいになるんじゃないかな?」
 夏菜の問いかけにユイが返した言葉に、エリは心臓をわしづかみにされるような衝撃を受けた。
冷汗が背中を伝い、肌が泡立つような不快感が身体中を覆う。
 唾をごくりと飲み込み、エリは小さく呟いた。
「二週間……」
「うん! ……ぎりぎり二学期に間に会わないけど、思ったよりは早く終わったね」
 ユイの言葉が耳に入らないほど動揺して、エリは思案に暮れる。
 ――――このまま、何事もなくこの基地を去ることになったら、
 彼は、どうなるのだろう?
「って、ああ!」
 思案に暮れていたエリの耳に、突如脳を揺らす大声が届いた。
身体が跳ねるほどに驚愕しながら声がした方向――――隣を見ると、
ユイが背筋をぴんと伸ばした状態で立ちあがっていた。
その際に椅子が派手に蹴倒されたらしく、床を転がっていく音も聞こえる。
「こんな朗報なんだから。早くみんなに知らせてあげないと。それじゃ、また後で!」
 脱兎の如く。というのは、逃げているわけでもないから不適切なのかな?
そんな事を思うぐらいに素早く、ユイは食堂を立ち去っていった。
 一瞬で静かになる食堂。
 やっぱり、ユイの存在は大きいんだなぁ。
そんなことを思いながら、エリはユイが蹴とばした椅子へと手を伸ばし、つぶやいた。
「……携帯でメールすれば早かったんじゃないかな?」
「まあ、人から聞いたほうが真実味は出るだろう」
 椅子を起こすと同時に夏菜が返事をして、ゆっくりと背伸びをする。
今にも笑いそうになるほどの喜びを隠しているためか、紅潮した頬が小さく震えていた。
「しかし、こうなるとみんなで騒ぐことになりそうだし、御馳走を作る必要があるな。
……そうだエリ。悪いけど料理を作るの手伝ってくれないか?」
「え? えっと……」
 スカートの裾を軽く払いながら立ち上がった夏菜が出した提案は、
そうおかしいものではなかった。いくら料理上手とはいえ、
小野と夏菜が二人だけで二十人を超える料理を作るのは骨が折れる。
そのため、必然的に手伝う人間が必要になるのだが、
戦闘面で役に立てないエリは、望んで手伝うことが多かったからだ。
「どうした? 何か予定でもあるのか?」
「予定っていうか……その……」
 だが、今は夏菜の提案を断り、一刻も早く『彼』のもとへ駆けつけたかった。
吉報であり、凶報でもある報せを伝えるために。
 どう断ればいいか迷っていたエリだったが、
ふと、気配が近づいて来るのに気づいて、食堂の入口へ視線を向けた。
「……ん? お、青野じゃないか」
 足音からして、ある程度体重のある人物なのではないかと思ったのだが、
その推測は正しかった――クラスメイトの一人、青野柴夫が迷うことなくこちらへ近づいてくる。
「どうしたんだ? 青野。そうだ! 宇宙人が撤退したことなら知ってるか?」
「ああ。さっき神木が教えてくれた……と、それより、白木に伝言を頼まれてるんだが」
「え? あ、あたし?」
 話しかけられることはないだろうとエリは思っていたのだが、
突然声を掛けられ、気持ちだけ背後に下がりまがらテーブルの横に立つ青野に視線を向けた。
 青野はエリのそういった行動ももう見なれているらしく――――夏菜と一緒にいるときに、
話すこともあったためだ――――たいして気にする様子もなく、言葉を続ける。
「ああ。教授が『研究所にきてほしい』と言ってたらしい」
「そ、そうなんだ。ありがとう」
「いや……どういたしまして」
 笑みを浮かべて礼を言うと、青野は少し照れくさそうに眼をそらした。
照れられるということは、例え恋愛感情が全くない人間であっても悪くない気分ではある。
自分もそう捨てたものじゃないななどと思いつつ、エリは立ち上がった。
「ごめんね夏菜。なんか呼ばれてるみたい」
「いいって、仕方がない。代わりに青野に手伝ってもらうことにするよ。
ケーキ作るのに男手があったほうがいいしな」
「俺か? ……まあ、別に構わないが」
 少々後ろめたくはあったのだが、青野が手伝うのなら問題はないだろうと自分を納得させて、
エリは軽く会釈をして、小走りに駆けだした。
一瞬だけ椅子をきちんと戻さなかったことが気になったが、戻るつもりなどあるはずもない。
 食堂を出て、頬に当たる熱気の満ちた風を切りながら全力で走りだす。
 一分でも、一秒でも早く彼のもとにたどり着くために。





 たどり着いた研究所には、誰もいなかった―――教授どころか、堤に姿すらない。
(……誰かが、嘘ついてくれたのかな?)
 生じた疑問に答えを出す暇もなく、息を整えて最奥扉を開ける。
「あ…………」
 『彼』は、ベッドにうつ伏せで寝転がっていた。
 眠っているのではないか。じっとりを汗で湿ったシャツを見て、
エリは一瞬だけそう思ったが、『彼』がもぞもぞと身体を動かしながら起き上がったことで違うと気付く。
 ゆっくりと、『彼』がエリに顔を向けた。
「こんにちは、小波君。……あのね、もう聞いてるかもしれないけど……」
 『彼』の瞳はエリを映していただろうし、明らかにエリを認識していた。
それなのに、エリは『彼』が自分を見ていないということに気付いた。
 虚ろだったのだ。いつも携えているはずの強い意志の光が全く見えず、
それどころか、生きていると実感できる程度の光さえも見えなかったのだ。
「……ああ、さっき小野さんがきて教えてくれた」
 もちろんそれは、ただの光の加減によるものだったかもしれない。
だが、『彼』が気落ちしているのは確からしい―――『彼』がエリのほうを見て呟いた言葉は、
聞き取りにくい小さなものだった。
「そ、そうなんだ…………隣、座るね」
 瞳を両手で覆い隠してうなだれる『彼』にゆっくりと近寄り、
エリはスカートが広がらないように押さえながら『彼』の隣に腰掛けた。
いつもなら最初はベッドの端に座るのだが、今日は一刻も早く『彼』の隣に座りたかったのだ。
「……宇宙人が、撤退したってのはいいことだよな」
 エリが座ってしばらくしてから、『彼』が震えた声を漏らした。
「う、うんっ。いいことだよね。その、もう怖い思いしなくて済むし」
 雰囲気で泣きそうになってしまうのが嫌で、エリはできるだけはっきりとした声で返事をする。
そして、その勢いで『彼』が明るい表情を作ってくれればいいと思っていたのだが。
「けど、そうなると俺はもう二度と――」
 何事かを言いかけた口を閉ざし、『彼』がゆっくりと両手を膝元に下ろした。
現れる憂いを帯びた横顔。それを見た瞬間、エリの感情が爆発した。
「小波君!」
 引っ張られるように手を伸ばし『彼』の頭を抱き寄せる。
息が止まるほどの興奮と、胸が張り裂けそうになるほどの悲しみ。
それらをないまぜにするように、エリは『彼』の身体を強く抱きしめた。
染み渡ってくる『彼』の体温はいつもと何も変わらない、そのはずなのに。
 妙な寒気がエリに伝わってきた。
「大丈夫。大丈夫だから……」
 全く根拠のない言葉。それはエリがあまり好きなものではなかったが。
それしか言える言葉が無かった。
「……ありがとう」
 エリの行動に、『彼』は礼を言って身を震わせながらエリの胸に顔を押し当ててくる。
それ見て、エリは『彼』が心を完全に許してくれたと、そう思った。
自分の弱いところをさらけ出してくれるぐらいなんだから、
きっともっと深い関係になることができる。そう思った。
 それなのに。

 ――――それなのに。
 それなのにどうして、
 どうして、あたしは犯されているんだろう。


続く

管理人/副管理人のみ編集できます