あいたたた7

拳装魔道 The Death Hand Slayer



平和だったその村を、悪しき魔物が跋扈する。

炎上する家屋、錯綜する生死。流れ出る血に大地は濡れそぼり、響き渡るは怒号と悲鳴、大気は軋み、
轟き叫ぶ。

悽壮の風吹き荒れる街路を、逃げる少女が一人。

赤いワンピースは所々が裂け、長く伸ばされた銀髪は煤に汚れて黒く染まる。
可憐な貌に浮かぶは涙。背後に迫る恐怖に耐えながら、もつれる足を必死に進め、粘つく絶望を燃料に
走り続ける。

少女は、この村の唯一の生き残りだ。
ここに一人の魔族が現れたのが半刻ほど前のこと。
そのわずかな間に村は壊滅し、村人は嬲り殺された。
たった一人残された少女が、狂いもせずにこうまで生き延びているのは、ある意味奇跡と言えよう。

      • だが、滅多に起きえぬからこその奇蹟とも言える。
その証拠に。

「あっ!」

転ぶ少女。地面を這いずるその眼前に。

「ん? もう終わりかな、お嬢さん」

絶望が凝固して、そこに立っていた。


「う・・うううぅ・・・・」

地面に手足を擦りつけながら、なおも少女は逃げようとする。

見下ろす魔性は黒き男。上等な背広に、撫でつけられた総髪。紳士然とした佇まいにはしかし、口元には
淫蕩な笑みが張り付く。
その眼に漂うは濃密な「欲」。

その生々しさに、少女の心に死に対するものとは別種の恐怖さえ芽生えさせた。

「なに、逃げたことは怒らないとも。多少は活きの良いほうが、汚すときの愉悦も増えようというもの・・・」
闇の中で尚目立つ、病的に白い手が少女に伸ばされる。

少女に待つのは、人間として味わうありとあらゆる屈辱、恥辱、侮蔑、絶望、悲哀の全てであろう。
這い寄る闇から少女が逃れるには、起こりえぬ奇蹟を望むしか手段は無い。

−−−だが。

「そこまでだ、下郎」

起こりえぬとしても、実際に起こるものでなければ、そもそも人の身に観測されぬ。

「む・・・?」

振り返った先、闇を赤く染める炎の向こう側に。

少女にとっての奇蹟が、堂々と屹立していた。

奇跡は、男の形をしていた。

余計な布を極力排した、「戦う」ことに特化した軽装。
短く刈り込まれた髪の下、厳しい顔立ちに二つ灯る眼光が、強烈な闘気で魔物を射抜く。

「なんだ・・・人間か。まだ生き残りがいたとはな。黙っていれば助かったものを。 それで、
ここに現れて貴様はどうしようというのだ?」

黒き魔物の言葉には、侮蔑がありありと浮かんでいる。
それはそうだろう、魔族というものは、根本的に人間が太刀打ちできるモノではありえない。

だが。

「知れたこと。―――貴様を倒すに決まっている」

男は、堂々と言い放った。

「・・・ほぅ? 人間が、私を? これは面白い」

「・・・」

「やって・・・・みろっ!」

沸騰する大気、巻き上がる灼熱。
魔物の掌から発せられた炎は一直線に男へ疾駆し、その体を一瞬にして気化させる。
命中した炎は業火と化し、爆風は男から離れた場所に居る魔物の頬を心地よさげに撫でる。

それで、終わりのはずだった。

「・・・なに?」

煙が消え、屹立する男はいまだに健在。しかも無傷。

男は腰を深く沈め、拳を突き出した姿勢で不動でいる。
その拳を包むは、炎の照り返しを受けて鈍く輝く鉄色の手甲。

「くく・・・なるほどな、”自在護符”か。なるほど、得心 がいった」

自在護符とは、高レベルな結界武装の一つである。

魔術とはつまるところ、自然の理を無視して発動する代替現象でしかない。

例えば、火を付けるという現象を行うためには、火打ち石を使えばいい。岩を破壊したいのならば、
ツルハシで打ち据えればいい。

そういった他の行動で再現できることを、使役者の魔力によって行使するのが魔術という現象である。
逆説的に言えば、世界において条件が合えば起こりえることしか魔術は再現できず、
時間を逆行するとか、そういった反自然的現象は魔術ではなく”魔法”の領域だ。

だが、起こりうる現象を再現しているとはいえ、やはり魔術は「外れた」技術である。
例え簡単な現象を再現したとしても、世界には起こりえぬことを行った「世界矛盾」が発生する。
本来その矛盾は微々たるものであり、現象が「起こった」という厳然たる事実の前に、霧散するもので
しかない。

しかし、自在護符はそういった矛盾を見逃さない。
自在護符に刻印されているのは高度に練り上げられた「世界の理」であり、理論武装された装着者は
世界の理そのものである。
矛盾である魔術は届き得ぬ。

例え外界に熱風が吹き荒れ、業火が大気を灼こうとも、それは魔術という「矛盾」である以上、
世界の理にとっては「起こっていないこと」と同義なのだ。

−−−つまり、自在護符は事実上あらゆる魔術を無効化する。

「だが・・・それがどうしたというのだ?」

そう、自在護符は魔術を無効化する。だがこんなものがあったところで、人間と魔族の差は本来埋まり
得ぬ。

「魔術が届かぬならば・・・私自らひねり潰すまでよ!」

巻き上がる轟風、疾走する黒影は音速の域か。
死を具現化した拳が男に迫る。

魔族の強大さはなにも魔力量の膨大さに限ったことではない。
その真価は人間など遙かに凌駕する圧倒的な身体能力であり、
雷撃のように地を駆け、大地をを砕くその肉体こそが、魔族の魔族たる理由なのだ。
その拳は当たれば死ぬとか、そういう次元の話ではない。
魔族が腕を振り上げた時点で、それは人間にとって死と同義である。

だが。

「な・・・にぃ!」

爆風を伴って襲来するその拳を、男は突きだした左手で巻き取るように受け流す。
絶対的な死を避けた、男はそれだけに止まらぬ。むしろその身をさらに前へと踏み込みつつ、
閃光の如き肘を魔族の額に打ち込んだ。

「ぐ・・・ぐおお!」

踏鞴をふみ、男から後退する黒衣の魔性。
その眼前で、男の姿がさらなる力を望まんと変容しようとしていた。

変容は腕から始まる。手の甲のみ守っていた自在護符が肩まで浸食する。
鈍い鉄色は男の鍛え抜かれた両腕を覆いつくし、それでもまだ変容は治まらない。
胸から肩、腹、そして下半身へと。
全身を覆い尽くした世界の理は、最後に男の顔をも覆い尽くし、憤怒の形相を象った仮面と成る。
鉄色に輝くその肉体、胸元には「粛」の一文字。

炎の中にあってなお、その存在は張りつめた静謐・・・しかし、身に纏う闘気は周囲の炎さえ霞ませる。

「・・・馬鹿な」

魔性の男の唇が、知らず、言葉を紡ぐ。
そこにあるのは、紛れもない恐怖。

「あり得ぬ、そんな戯言断じて認めぬ! 死んだはず、滅び去ったはず・・・」

全身を覆う自在護符の装甲に、胸元の粛の人文字。
そして、死の一撃を受け流す出鱈目さ。
魔族である者にとっては、その姿はあまりに有名すぎる。

「拳装魔道だと!?」

拳装魔道。

人間は魔族には勝てぬ。唯一の例外は、まれに生まれる先天的魔力保持者だが、よしんば居たと
してもその性質は限りなく魔に近い。

だが、そんな人間達の間にあって生身で魔に立ち向かわんとする者達が居た。
彼らは自身の微々たる魔力を外界に作用させるのではなく、むしろ内界・・・己が四肢に満ち渡らせた。
外界に勝てぬのならば己が世界、肉体を極限まで研ぎ澄ます。

徹底的に合理化された体裁き。より速く、より強く、鍛え抜かれた拳は鬼神の業。
それらを活かす呼吸法による肉体の完全制御、己の体を完全把握し、一つの戦闘現象へと化す・・・
どこまでも愚鈍なまでに研ぎ抜かれた彼らは、やがて一つの答えへと到達する。

殺しきるには力が足りぬ、消し去るためには魔力が足りぬ、なれば、より大きな魔力を利用すればいい。

「くっ・・・!」

拳を突き出した姿勢で、拳魔は未だもって不動である。

ぴくりとも動かぬその体はしかし、その実四肢に魔力が満ち渡り、吸い込み吐き出すその呼気は、
それだけで一つの魔術詠唱である。

拳装魔道は、己の魔力で殺すのではない。その体内で練り上げられるは一つの儀式。

その儀式の旨は「燃焼」

一歩制御を間違えば自身の神経を焼き切るその業を、一撃必殺と狙いすます。

それが魔術として発動するのは外界でさえない。
発動するのは、使役者の手が触れた魔族の体内である。
魔族自身の膨大な魔力によって発動した魔術儀式は、そいつの神経、血管、脳細胞をすべからく焼き尽くす。
魔族は、己が力の強大さ故、逃れ得ぬ死を迎える。

それこそが拳装魔道の神髄。
か弱き人間達の生みし、究極の戦闘絶技。

魔族のみならず、人間からさえも畏怖されながら、拳装魔道の使い手、そして絶技は共にこう呼ばれる。

「・・・死燃手!」

死燃手。

魔族にとって、唯一の脅威ともいえる存在。
だが、「拳主」と呼ばれた七人を筆頭に四十人ほど居た彼らも、三年前に魔王直々に手を下されたこと
により、既に壊滅したはずである。

故に、あり得ぬ。

多くの魔を打ち破り、多くの闇を屠ってきた忌々しき天敵は、最早存在せぬはず・・・・!

「何故だ! 何故貴様がここにいる! しかもその粛の一文字・・・退存が何故!」

退存。

拳装魔道拳主が一人。
組織的にはNo4、しかし戦闘能力に置いては最強と呼ばれた存在。

魔族にとっての悪魔の如き存在が死の淵から蘇り、まさしく具現化した悪夢そのものとして、
黒き魔性を睥睨する。

「何故・・・だと?」

腰を深く落とし、右拳を顎の横へと固定する。

「何故も是非もない。拳装魔道四主、退存は三年前に既に死んだ」

軽く開かれた左掌が、憎き魔族を捕捉する。

「仲間は死んだ。希望も志もとうに無い。
 ここに在るのは一つの拳・・・復讐の、拳魔よ!」

それは、轟風か。
突如として膨れあがった猛烈な怒気が純粋な闘気に変換され、物理的な質量を伴って周囲の炎を
いよいよ激しく燃えあがらせる。

「う・・・うぉぉおおおおおおおお!!!」

叫んだのは黒き魔性。長き時を生きた彼は、ここで攻めねばなすすべも無く殺されると直感する。

退存へと突進する中で、己の両腕をより戦闘向きへ変容させていく。

より固く、より速く、より岩のように。
一瞬で膨れあがった両腕は内側から背広を突き破り、圧倒的な暴力として具現化する。

「死ねぇぇええええ!!」

身体変化、これこそがこの魔族の真の能力である。膨れあがった拳による拳打は、
たとえ鋼鉄であっても容易く貫く。

それを、連打。突き進む拳に爆風が巻き起こり、退存の頭、胸、腹、ありとあらゆる急所を
徹底的に狙い打つ。

その拳速は音速に迫る。爆風を伴うそれは質量、威力相まってまさしく豪雨の如く降り注ぐ砲弾と同義。
魔族をして強靱と呼びうるそれは、魔力の介在せぬ純粋なる破壊の業である。
当たれば必殺、いかなる箇所であろうと肉片となって飛び散るのみ。

しかし、この場合は相手が悪すぎた。

「なにィ!?」

響き渡る金属音、飛び散る火花は蒼く激しく。

死の砲弾の嵐を、退存はことごとく退ける。
顔面に迫った拳をかわし、胸部を狙った一撃をはねのけ、腹部に突き進む必殺をいなす。

避ける、かわす、打ち合わずに逸らしていなす。

交錯した拳の数は、既に百を下らない。

それは力による拮抗ではない。
暴力が集約する拳先を的確に見抜き、その先端を肘で、拳で、手の甲で、わずかばかりに方向を
ずらしているのみ。

結果的に魔族の拳は在らぬ方向に逸れ、退存へと届くことはない。

見た目の上では、魔族が退存を圧倒しているように見える。
だが実際に追いつめられているのは、むしろ魔族のほうである。
一瞬でも手を休めたら、死を内包した掌が己の神経を焼き尽くす。拳を避けた退存は、その時点で
既に攻勢。故に手は止められぬ。

      • そう。
停止した瞬間が己の死だというのに、どうしてこの手を休められようか・・・!

「ぬぉおおおおおおおおお!!」

死の予感に奮い立ったか。
追いつめられた魔族の拳はより速度を増した。その拳速は最早音速さえ凌駕する。その速度、威力、
まさに絶技に値する。

だがここに来て、退存の拳も精度を増す。
魔族が音速ならば退存は神速か。かくも軽妙な技の冴えはまさしく拳装魔道。あらゆる脅威を駆逐した
その絶技、残像さえも霞ませる。

「おおおおおおおお!!」

黒い魔族は止まらぬ。
我が拳を凌駕する技はむしろまやかし、真に恐ろしいのはその掌だ。
それさえ出させなければ我が勝利。
いかに死燃手といえどもたかが人間、脆弱な肉の身に過ぎぬ生物が、何時までもこの拳に耐えられる
はずがないというもの。
先に体力が尽きて倒れるのは、目の前の退存というのは赤子でもわかる道理だろう・・・!

「何故だっ! 何故っ! なぜっ! なぜぇ!」

だが、何故だ。
ならば何故、この退存という男は息切れさえもしていない。
それどころか、我が拳速を凌駕しつつあるというのか・・・!

交錯した拳の数は、じきに五百に到達する。

黒き魔族は知らぬ。全身に魔力を循環させた死燃手は、最早人という尺度で測れる存在ではなく、
その真義は一つの戦闘現象。

そして内に魔力を通した拳は、あらゆる破壊を凌駕する鬼神の業であることを。

響き渡る破砕音。それは肉が飛び散る音ではない。

砕けたのは魔族の岩の拳。
顔に迫ろうとする魔族の右拳を、退存が避けることなく、真っ向から打ち殴った結果である。
まさしく攻防一体、砕け散った腕の破片が宙を舞う。

「なにぃ!?」

痛みよりも先に、驚愕が魔族の頭を先行する。

その瞬間、勝負は決まっていた。

一瞬、気を抜いただけだというのに。
魔族の眼前には、最早退存の姿はない。

そのかわりに、ひたりと。

死の象徴である掌の感触を、魔族はうなじに感じた。

「ひ・・・ひぃ・・・」

まだ魔族は殺されていない。
破壊された右手を修復することも可能だ。

だが、そんなことになんの意味があろうか。
少しでも動きを見せた瞬間、まばたきもせぬ間にこの男は自分を殺すだろう。

そんな実感が、魔族にはあった。そんな認識の前では、今更疼いた右手の痛みなど、
ほんの些末事でしかない。

なにより、触れる掌のなんと冷たいことか。
温度の全く存在せぬその掌の持ち主は、果たして人間か。
いや、そもそもこの死燃手という存在は、生物とさえ呼べるのか・・・?

「・・・なにか、言うことはあるか」

退存が、最後に魔族に問いかける。

「ま・・・待ってくれ。おれ・・・いや、私は三年前の君の仲間を殺し尽くしたことには
 関わっていない、君とはなんの関わりもないんだ!だから・・・」

魔族の心を、初めて味わう絶望が覆い尽くす。
死の間際に、その不安に、必要以上に魔族を饒舌にさせる。

「・・・ならば問おう。その両の腕を汚す血は、一体誰のものなのか」

「え・・・?」

「俺にとって、殺す理由などその一点だけで十分だ」

深く息を吸い込み、そして吐き出す。
その瞬間、あらかじめ退存の体内で練り上げられていた魔術式が、魔族の体内に侵入し・・・そして、
発動した。


「ギャァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


それは、どんな激痛か。

発動した瞬間、燃焼が魔族の全神経を駆けめぐり、末端に至るまでその全てを焼き尽くす。
熱はそれだけに止まらぬ。
全身に張り巡らされた血管、そこに熱く流れる血潮にさえその熱は伝わり、
しかしあまりの高熱に膨張、気化し、毛細血管は破裂して魔族の目、鼻、耳、口、体中の穴
という穴から、噴水のごとく吹き出し飛び出る。

それは、全身の神経をむき出しにして炎の中であぶり、血管には血液の替わりに熱く滾った
熱湯を流し込むようなものである。

故に、その痛みには耐えられぬ。

その熱が脳さえも焼き尽くす暇もなく。
黒き魔族は体の死よりも前に、心の死を迎えていた。

どう、と倒れる。
耳、鼻、口から血液のなれの果てが漏れ出て、炎に染まる街路に染みこんでいく。

ここに、一つの村を殺し尽くした魔性の者は、周囲を囲む炎の中で、その熱以上の超熱に焼き尽くされ、
圧倒的に死滅した。



「くっ・・・!」

がくり、と膝から崩れ落ちる。
理論武装が解除され、生身へと戻った退存の体には、大量の脂汗が滲んでいた。

超絶技巧で魔を屠る死燃手は、けして不死身ではない。
人としての限界を超えて酷使された肉体は悲鳴をあげ、全身の神経を削られるような
痛みを行使者に与える。
もとより拳装魔道という魔力行使のありかたは、人の身には過ぎ足る物である。
少しでも魔力の流れが狂えば、神経は焼き切れ内臓の血管は破裂する。
例え狂わずとも、神経と内臓には深刻なダメージが与えられる。故に死燃手は戦うごとに命を削られる。

気を持ち直し、調息。
体内で暴れ狂う魔力の流れを呼吸法により正常化し、全身の魔力回路へと丹念に流し込んでいく。
傷ついた体内を、緩慢に整えていく。

息を吸い、吐く。

たった一呼吸でさえ、内傷を負った臓には耐え難いまでの激痛が走る。
それを無視し、調息によって体内を徐々に静整していく。
きつく縛られていた縄が、徐々にゆるめられていくかの如き緩慢さで、痛みを意識の外へと
追いやっていく。

「・・・べっ」

血塊を吐き出し、ようやく退存は立ち上がった。
とはいえ傷が完全に癒えるはずもなく、激痛にさいなまれる肉体を、調息によって誤魔化している
のみである。

死燃手は不死身ではなく、そして無敵でもない。
連続した戦闘に耐えられるはずもなく、本来は一回の戦闘ごとに休養が必要とされた。

「・・・」

しかし、拳装魔道が壊滅した今となっては、そんな慣例など最早意味を成さない。

ただ闘い、そして殺す。それが今の退存の在り方である。

「・・・」

そして立ち上がる。身のこなしに隙は無く、一人闘いの荒野を行かんとする。
歩き出すその肉体は、闘いのためのみに存在した。


「・・・む」

そんな在り方が変わり始めたのは、おそらくこのときだろう。

「その手を離せ、娘」

ただ一人生き残った娘は、絶望の淵で出会った奇蹟にすがろうとしていた。
なにもかも剥ぎ取られた無表情、しかしこの上なく無垢な表情で。

親も、兄弟姉妹も既に無く、少女の世界は既に失われていた。
色と形を失ったその世界に、せめて形だけでもその手に掴もうと、少女は退存の衣を握りしめる。

「・・・」

そんな少女の姿に、心が揺さぶられたわけではあるまい。ましてや、その不幸な境遇に情が移った
わけでもないだろう。

「・・・好きにしろ」

だが、退存は少女の手を振り払うことはしなかった。
あるいは、退存も疲れていたのかもしれぬ。行く末もなにも見えず、ただ闇を歩き魔を屠り続ける
その行程に。
なにかしらの救いを、退存は求めていたのかもしれぬ。

事実は、誰にもわかるまい。退存本人でさえ、なにもわかっていないだろう。

彼らが互いに認識しているのは、弱々しくも己の衣を掴む華奢な手の感触と、しっかりとした足取りで
己の身を引く力強い体躯のみである。

燃え崩れる死街の炎を背に、失った者達がゆっくりと歩き出した。
2006年06月17日(土) 03:35:46 Modified by ID:O8b9luq7Cw




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