第4話「その力の名は――――」

 時を裂いて駆ける、銀の刃と黒の穂先。
 そして、その二つは運命の時――その直前で、交錯する。
 (――――届いた!)
 刃が、触手に届く。
 アバドンを貫かんとした未来、不可避だと思われた未来に刃が届いた刹那。
 一瞬の歓喜と共に敏明を襲ったのは、耐え難い苦痛だった。
 「うあ……ぐああぁぁぁぁああぁぁッ!?」
 ヒヒイロカネの短刀を手にした左腕を、粘性の闇が喰らっていく。
 包み込むように流体の黒が纏わりついて、左腕の感覚を咀嚼するように奪っていく。
 「敏明!」
 佑太郎が叫ぶ。
 手を出せないもどかしさに歯噛みしながら、アバドンが敏明の名を叫ぶ。
 「とっしぃ!」
 「お、俺は、いいか……ぐあぁぁあッ!!」
 喰われていく。
 色付いた世界と、赤い世界が混ざり合って、敏明の思考を食い荒らしていく。
 抱え込んでいた負の感情と、そうでない感情が渦を巻く。
 「…としあきさん、たすけないと……!」
 「わかってる! でも、この状態で手を出したら……敏明まで……っ!」
 透香たちの声が聞こえる。
 広大な空間に残響するように、その声が霞んで脳裏に響き渡る。
 だが、それも遠く。
 敏明の奥底に響くのは、ここにはいない誰かの声だった。

 『生きたいか』

 その声は、厳かな響きを以って敏明に語り掛ける。
 生きたいか――助かりたいか。
 その問い掛けに、敏明は首を縦に振って答えた。

 『――――ならば、仮定しろ』

 既に形を維持できないほどの質量で、闇は敏明の左手を覆っている。
 まるで、敏明と同化でもするかのように。
 全身を走る痛みは既にない――――言い換えてしまえば、感覚自体が既にない。

 『――――世界を、仮定しろ』

 聞き覚えのないようで、何処かで聞いたような声。
 それは、遠く聞こえる佑太郎たちの声を塗り潰すように囁いた。

 ・

 「透の蝶――――爆ぜろ!」
 佑太郎が持つ無属の式――≪透の蝶≫を顕現させ、それを闇の間近で炸裂させる。
 誘導性の炸弾と化したそれが、敏明を包む異物を引き剥がさんと爆ぜる。
 だが、それは流体状の表層を波立たせるだけだった。
 「くそ……駄目か!」
 「私の爪で引き剥がしてみようか!?」
 「駄目だ! あまり強い刺激だと、敏明まで傷つけかねない!」
 「でも、このままだと……!」
 敏明の命すら、奪いかねない。
 いっそ肘から先を切り落としてしまえば、命だけは救えるかも知れない。
 その場合、透の蝶を治癒に宛がっても助かる確率は五分と五分。
 佑太郎には、その決断をすることが躊躇われた。
 自分を助けようとしてこうなったという負い目もあるのだろう……アバドンには多分に焦りが見える。
 それでも、二人の少女は佑太郎の決断を待った。
 「……まだだ、まだ打つ手はあるはずだ……!」
 必死に思考を回転させる。
 どの程度の衝撃ならば、敏明の被害を最小限に――そして、敵性体への打撃を最大限に加えられるのか。
 あくまでも敏明を助け出すことが前提だが、生半可なダメージでは引き剥がせない。
 「…いっそ、コアを……」
 透香が、蝿王の大剣を構える。
 ≪透の蝶≫の破壊力では、異物のコア――頭部に据えられた真紅の宝珠を砕けない。
 アバドンの爪や透香の剣ならば破壊できる。ヒヒイロカネの剣でも砕ける。
 それをしなかったのは、出来なかったからではない。
 このような不確定要素を多く孕む状況では、迂闊な一手が取り返しのつかない事態を招くことがあるからだ。
 慎重すぎてもいけないが、慎重に事を運ぶに越したことはない。
 佑太郎は、一歩踏み出そうとした透香の前に手を差し出して、行く道を遮った。
 「何が起こるか判らないんだ。それは最後の手段に……」
 「…その“さいごのしゅだん”を、いつ……どのタイミングで、つかうんですか」
 やはり焦りがあるのだろう。普段より刺のある口調で、透香が呟く。
 それは、佑太郎も推し量りかねている部分だった。
 真紅の球体を破壊すればこの異物が撃滅できることは、佑太郎たちも知っていた。
 だが、このタイミングでそれをすることによる不確定要素は無視できない。
 佑太郎は“敏明と同化している”という状態が引き起こす事態がどんなものか、今までの経験を総動員して予測した。
 そして、導き出した結果が『敏明を新たな核に据える』というものだった。
 もしそうなれば、敏明を救い出す方法が失われてしまうだろう。
 最悪、死を凌駕する苦しみを敏明に強い、佑太郎たちの手で彼の命を奪わざるを得なくなるかも知れないのだ。
 「透の蝶!」
 例え慎重に事を運ぶことが正しかろうと、手を拱く道理はない。
 自らの式神の名を叫びながら、掌の上に五蝶を顕現させる。
 「多角から一斉に透の蝶を炸裂させる。飛沫が巻き上がったら、アバドンが爪でそれを穿ってくれ」
 「…わたしは?」
 「透香の剣は大振り過ぎて飛沫散らしには向かない。何かあった時、即座に斬りかかれる体勢だけ維持してくれ」
 「…うん、わかった」
 こくりと頷いて、透香が蝿王の剣を引き手に構えて腰を落とす。
 しっかりと大地に足をつけて、いつでも地を蹴って行けるようにとその力を溜める。
 「よし、いく――」
 「待って! ゆーくん、とっしぃが……!」
 アバドンが真紅の爪先で指した先。
 佑太郎と透香は、その先――闇に喰われている敏明を見やった。

 ・

 『始点を仮定せよ、死点を仮定せよ、至点を仮定せよ――』
 
 頭の中に反響する声に、顔を顰める。
 赤に染まった左側の世界と、色付いた右側の世界が拮抗して軋みを上げる。
 何を仮定しろというのか。
 それすら判らないと苛立つ敏明の脳裏を、疼くような頭痛が襲った。

 『――――己の罪を、仮定しろ』

 意識を引き込むような、黒い渦。
 底の見えない闇が、敏明の心の奥底をモノクロで照らし出す。

 ビデオの巻き戻しのように、記憶がどんどん遡っていく。
 それは、いつまで戻るのだろうか。

 他人の干渉を極端に拒み、世界を蔑んで見ている高校時代が過ぎて。
 他者との接触に怯えながら、かつての自分と同じ道を行く者を見て見ぬふりをした中学時代が過ぎて。

 やがて――――
 それは、全ての始まりへと集約する。
 苛められ、避けられ、嘲笑されている自分がモノクロで巻き戻される。
 不意に押し寄せる嫌悪、嘔吐感にも似た怒りと哀しみがココロの中を蝕む。
 次々と巻き戻されていく時間。
 そして、それは始まりの一言に辿り着いた。

 『……何で、何でそんなことが平気でやれるんだよ!』

 それは、偽ることのできない気持ち。
 世界に確かに或るもの――汚さや醜さ、綺麗でないものの存在。
 それらを知らなかった無垢な頃の敏明が抱いた、人の心に投げ掛けた疑問符だった。
 敏明の道はここから始まったとも、ここで終わったとも言える。
 何も知らずに、大人たちが無責任に肯定したことを鵜呑みに正しいと言えた――そんな無垢の終わり。
 そして、その無垢な気持ちに背を向けた、失意に満ちた日々の始まり。
 裏切られる前も、裏切られた後も。
 現実に真っ向から立ち向かったその時から、常に敏明の心の中には失望があった。
 平然と、或いは笑って誰かを追い詰める者への。
 言葉だけは飾っても、決して彼女を守ろうとしなかった大人への。
 真摯に向き合った自分を裏切った彼女への。
 
 そして、その引鉄を引いた自分への。

 
 『――――或るべき未来を、仮定しろ』

 敏明の記憶を陵辱したその声が、冷淡に告げる。
 意識は鮮明なようで、曖昧だ。
 その声に怒りを感じているようで、何かを求めているようでもある。
 何を? 決まっている。
 
 『――――其の名を、生まれ出ずる力の名を仮定しろ』

 あの時のように。
 世界を終わらせたいと、そう願ったあの時に似て――それでも、決定的に違う。
 揺らめく紅い光に手を伸ばしながら、憧憬に思いを馳せる。
 全ての始まりを。
 その幼い手が引いた、未来を分かった引鉄を。
 それを言わなかったからと言って、今がより良く違ったかと言われればそうではない。
 決してそうであったと限らないし、今よりもっと暗い現実が在ったかも知れない。
 それでも。それでもなお、敏明は思う。
 あの時に引鉄を引いたからこそ今の自分が在り、それ故にこの滅び逝く世界がある。
 
 故に――――

 ・

 「――――嘆きの引鉄」

 静かに、抑揚のない声で呟く。
 世界の片側はもう、赤くなくなっていた。
 状況を確認する。
 依然として、左腕が流体の闇に呑まれたまま――その闇は、既に肘の辺りまでを覆っている。
 蠢く闇の中で、ゆっくりと手を握ってみる。
 確かに動く。意に従い、動く指の感覚が知覚できる。
 「おおお……」
 深く息を吐き出す。
 そして足を踏み締め、肩口に力を込める。
 「おおおおおあああああああッ!!!」
 一気に引き抜いた。
 纏わりつく流体の飛沫を飛散させながら、敏明の左腕がその闇を振り払う。

 そこに在ったのは、敏明の“腕”ではなかった。

 無機物の如き有機物。
 金属とはまた違う――弾性を孕むその黒は、まるで甲殻か何かのような感触。
 その表質の上に、筋掘りのように刻まれた幾筋ものラインが朱の幾何学模様を描く。
 指の先端には、銀色に輝く鋭い爪。
 一回り肥大化した敏明の腕は、かつての名残――人の腕の輪郭だけを僅かに残すだけだった。
 基本的構造は一緒。だが、その本質は大きく異なるもの。
 明らかに人間のものではない自らの腕を見ながら、敏明は軽く微笑すらしていた。
 指を握ったり開いたりしてみる。硬い、間接同士が僅かに擦れ合う感触。
 特に取り乱すこともなくその感触を確かめた敏明は、その手をもう一度強く握った。
 「は、はは……ははは……っ」
 乱れた息を整えながら、それでも漏れる哄笑を必死に噛み殺す。
 ついに、手に入れた。
 戦う為の力。立ち塞がる者を屈服させ、万難を排するだけの力を。
 「敏明……その手……」
 佑太郎の声が聞こえる。
 微かに震えているその声は、もう遠くはない。
 「コイツを片付ける。ちょっと待ってな」
 「……判った。じゃあ、僕たちも……」
 「いや。俺だけで事足りる。すぐに済むから、そこで大人しくしてな」
 流体の闇を纏め上げるように、異物がその姿を人型へと再構成する。
 それを見やりながら、一度だけ佑太郎たちの方に振り向く。
 変質した左目。
 それを見たアバドンと透香が、息を呑んだ。
 真紅に染まった、眼球に紋様の浮かび上がった瞳。
 その異常までは認識できていない敏明が疑問符を浮かべるが、すぐに気を取り直して異物へと向き直った。
 「そうだ……俺一人で勝てる、こいつに勝てるぞ……!」
 興奮を隠し切れないように、熱っぽい口調で独りごちる。
 左腕が≪嘆きの引鉄≫と化してからずっと、言い知れぬ高揚感に包まれている。
 世界を変えたあの力とは明らかに異なる起源に属する力。
 だが、新たに手にした力は敏明に訴えかけている。
 この力は“味方”だ。この力は“使える”と。
 「俺の力で! 俺だけの力で、こいつに勝てる!」
 腰を落として、異物の攻撃に備える。
 敏明には判る。“後数秒で、異物の再構成が完了する”ことが。
 そして、その瞬間までそのコアが剥き出しになることなどないということも。
 (なら――剥き出しにした瞬間に、叩き壊してやるよ)
 左眼を見開く。
 そこに、ホログラムのように浮かび上がった紋様。
 まるで悪魔が羽ばたくような、まるで天使が翼を広げるような。
 気高く、それでいておぞましい刻印が、瞳の上に刻まれた。
 「――――」
 一瞬だけ紋様が揺らめき、網膜を通じて“定められた未来”を垣間見る。
 それは、形容しがたい幾重もの光の帯となって、視覚から敏明の中枢へと駆け巡る。
 受信した情報を受理すべく、頭脳が忙しなく稼動する。
 先ほどまでの熱――敏明の感情処理までも疎かにしながら、脳が未来を未来として理解する。
 (俺は、この通りに動けばいいだけ)
 垣間見た幾通りもの分岐。
 その中から最善の一を選び取った敏明は、左腕の感触を確かめながら腰を落とした。
 踏み締めた脚に力を込め、それを一瞬に駆ける爆発力とする。
 そして、武器となった左腕を渾身の力で弱い部分に叩き込めば終わる。
 攻撃は“何処からどう来るか”が判るのだから、当たるわけもない。
 (まずは俺の足元に。続けて左、放射線状に五本、最後は散弾か)
 左眼が垣間見る“先の世界”を覗いて、一度だけ軽く頷く。
 最後の散弾は、今の身体能力では流石に凌ぎ切れない。
 左腕の変質と共に身体能力も幾分かは向上しているようだが、それでも多少ましになったという程度だ。
 だが、どうするかなど答えは至ってシンプルなものだ。
 (散弾を撃たれる前に、叩き込んで終わらせる)
 それが、敏明の出した答え。
 予め決めたプランに沿って触手の槍を掻い潜り、一撃を繰り出せば終わる。
 「――――見えた」
 流体の闇が人型を形成し終え、まるで保護膜のように核を包んでいた黒い表質が取り払われる。
 その瞬間、既に敏明は駆け出していた。
 左腕を引き、その瞬間に渾身の一撃を繰り出せるように力を溜めて。
 先ずは右側に一跳びしてから、低姿勢で一気に間合いを詰める。
 一瞬前まで敏明が居たところを触手が穿ち、さらにそれが的外れにも左側に薙ぎ払われる。
 (この後は――)
 放射状に放たれる五本の黒槍。
 それは、敏明の軌道を塞ぎ脳髄を穿つように放たれる“はず”。
 (確かに俺は身体能力で劣る。ならば――――)
 どこまでも怜悧に澄み渡る思考。
 それは今まで帯びていた熱を失ったかのように、ひたすらに論理と確約に基づく思考のみに徹底される。
 恐怖も傲慢も、慟哭すらも既になく。
 ただ、脳のさらに奥底に与えられる情報――垣間見た万象の記述、その一端のみが淡々と受理されていく。
 「代わる何かで、補うまでだ」
 頭を下げて、より姿勢を低く落とす。
 その頭上を黒い槍撃が疾り抜ける。
 髪の数本が槍撃を掠めるが、敏明はそれに動じることもなく目を細める。
 左眼に浮かび上がる紋様が一瞬だけ蠢く。
 ここから先に繰り出されるものは、散弾砲の如き無数の黒塊。
 敏明の運動神経でそれを回避することは不可能。
 (ここで――――叩き込むしかないわけだ)
 どこか他人事のように嘆息すると、一度だけ強く大地を踏み締める。
 右足に痛いほどの衝撃。そして、引いた左腕に確かな感触。
 「終わりだ」
 雪辱を晴らそう、誰かを守ろう、この力を知らしめよう。
 そんな私的な感情など、既に遥か彼方。
 始まりはアバドンを庇おうとしたことかも知れないが、それはあくまでも始まり。
 今ある気持ちは、高揚感でも達成感でもない。
 ただ、目の前の存在を終わらせる。
 敏明たちの生命を死に曝す異物を、無に返す――その為だけに、この一撃を叩き込む。
 吸い込まれるように、銀爪は真紅の核へ。
 そして、穿つ。
 前のめりになって、全体重をかけて放たれた一撃が朱の宝珠を完膚なきまでに叩き砕いた。
 硝子が割れるような甲高い音。
 赤の欠片が次々に地面に零れ落ち、かしゃかしゃと甲高い音を立てて飛散する。
 舞い散る赤い硝子の欠片が、砕けて散る音の中。
 ふと、敏明の心をあの時の思いが過ぎる。
 敏明が走り、そして力を求めた理由。決着の刹那、遠い彼方に追い遣られていた気持ち。
 死に瀕したアバドンを救おうとし、そして自分もまた助かりたいと願った。
 その時の気持ちを思い出した。
 「――――これが、俺の力か」
 幾分熱を取り戻してきた思考で、噛み締めるように呟く。
 だが、今はそれだけ。
 やがて、戦いの終焉を告げるように闇は溶けて消えていった。
 痕跡ひとつ残すことなく、まるでそこに在ったという事実すらも否定するかのように。
 「終わったぞ」
 その様子を見届け、闇の消失を確認してから敏明はゆっくりと振り向く。
 呆気に取られたように、佑太郎たちは返事をすることなく敏明を見ていた。
 「おい、佑太郎」
 「……敏明、君のその左腕は……」
 「俺にもよく判らない。けど、何でか使い方は解るらしい」
 脳の更に深淵、目の奥辺りに神経を集中させる。
 スイッチを切り替えるように、或いは刀剣を鞘に収めるように。
 戻れ、と強く念じる。
 ゴキゴキという嫌な感触と共に、その左腕が“元の形”に再構成されていく感覚。
 伴う痛みに、思わず固く目を閉じる。
 (……端から見ると、どうなってるんだろうな)
 無理矢理、目を少しだけ開けて見る。
 光に包まれた左腕が、徐々にその輪郭を変えていくのが見て取れた。
 「ぐ……ぅッ」
 短く呻きながら、右手で二の腕辺りを押さえる。
 目尻に涙が滲むが、それを拭うだけの余裕などない。
 やがて痛みが治まって、左腕が元の形――人間の腕、闇に喰われる以前の腕に戻る。
 「戻し方は解ってたけど、こんなに痛いなんて聞いてねぇよ」
 舌打ちしながら、軽く腕を振る。
 まだ痺れが残っている。頭も疼くように痛む。
 そして――
 「あぐッ!? あ……!」
 左眼に映る世界が、脈動するように紅く明滅した。
 脳をハンマーで打たれるような痛みに、合わせるように視界の色が変わる。
 「ぅ……あ……」
 今度の痛みは、耐えられるレベルのものではない。
 強引に意識を剥ぎ取っていくような、そんな鈍い痛み。
 保っていた意識が奪い去られ、身体が崩れ落ちるのに、そう長い時間は掛からなかった。
 「と、敏明!」
 「とっしぃ!?」
 「…ふたばさん、しっかり……」
 三人が駆け寄って、倒れる敏明の身体を支える。
 その声が遠く響くように、頭の中を反響する。
 わんわんと響く声に頭痛が助長されているような感じがして、敏明はその声に顔を顰めた。
 (く、そ……静かに、して……くれよ……!)
 遠のく意識の中。
 最後に聞こえたアバドンの声を聞いて、少しだけ安心感を抱いたまま。
 敏明は、そのまま深く底まで引き摺られていった。

 ・

 ・

 『……』

 哀しげな顔で、一人の少女がこちらを覗き込んでいる。
 胸に黒い装丁の本を一冊抱えて、幾重もの衣を身に纏った幼い少女。
 (夢……?)
 やけに鮮明な意識のままで、夢の世界で目を醒ました敏明は、一人で嘆息した。
 「えーと……」
 先ほどまでの頭痛はない。左腕の痛みも治まっている。
 周りを見渡す。
 まるで宇宙のような、広大な漆黒の空間。浮かび上がる巨大な門。
 見たところ、ここに居るのは目の前の少女と敏明だけのようだ。
 「君が、俺をここに呼んだのか」
 敏明が幾分優しげに問い掛ける。
 だが、その問いに少女はふるふると首を横に振った。
 「じゃあ、何で……」
 『あなたが、ここへアクセスしました』
 澄んだソプラノボイスで、敏明の言葉を遮って少女は言った。
 「アクセス?」
 『貴方がここに繋がった。ここはあらゆる世界の欠片を観測する地……始まりと終わりの集う場所。
  “あの世界”で、ここにアクセスする力を持った人間は、貴方で二人目』
 「二人目……もう一人いるのか」
 『……』
 その問いには、答えない。
 言葉を発するでもなく、首を振るでもなく。
 敏明の言葉に、沈黙という回答の否定を以って応える。
 「……で、俺はどうすれば戻れるんだ」
 『直に目が覚めます。世界と同化した時の残滓、それが意識を失った貴方をここに引き寄せただけ。
  目が覚めれば、貴方はあの崩壊しつつある世界に引き戻される』
 少女の淡々とした言葉。
 その中に、敏明は若干だが違和感のようなものを感じ取った。
 (崩壊“しつつある”世界……?)
 既に崩壊したのではないのか。
 少女の言い回しでは、“今も崩壊が進行している”ようにも聞こえる。
 「既に世界は滅んだんじゃないのか?」
 『どうでしょう。それを私の口から言うのは憚られます』
 穏やかだが、断固たる拒否の意が込められた言葉。
 それを聞いた敏明は、溜息を吐きながら肩を竦める。
 「わかった。じゃあ、別のことを聞いておくか」
 『いえ、もう時間がありません。貴方の意識は覚醒しかけています』
 少女の言葉と同時、周囲の空間にノイズが走る。
 音もなく、視界に映る空間が少しずつ歪んでいく様に、敏明が困惑する。
 「お、おい……!」
 『貴方が得た“力”……』
 敏明の左腕をそっと撫でながら、少女は哀しげに呟いた。
 『この力は、いつか貴方を孤独にします』
 「孤独に……? あ、おい! ちょっと!」
 やはり敏明の言葉に答えることなく、少女は緩やかに言葉を紡ぐ。
 瞳を閉じて、幾重にも重なる衣の奥底で小さく嘆息する。
 少女の持っていた黒い装丁のノートがぱらぱらと捲れ、その中から言葉が幾つか漏れ出て消えた。
 『ですから、忘れないで下さい。貴方の得た力の意味、貴方が求めた力の答えを』
 透き通った声が、ノイズの走る世界に響く。
 どこまでも広く果てのない世界、虚空と呼ぶに相応しい漆黒が、やがて色を失っていく。
 モノクロになって、古いフィルムのように途切れていく世界。
 最後に敏明は、その中に茫洋と浮かぶ少女に向かって叫んだ。
 「お前の! お前の名前は!?」
 意識が急速に、現実へと引き戻されていくからだろうか。
 夢の世界での眠気が、敏明の意識を剥ぎ取っていく。
 泡沫の意識の中。
 優しくも澄んだ少女の声が、その名を囁いた気がした。

 『――――無限寿光』

 ・

 「敏明! くそ……やっぱりか」
 「…やっぱりって?」
 横たわらせながら、佑太郎が治癒の為に敏明の身体に≪透の蝶≫を宛がう。
 表面的な傷が原因ではないから、それがどこまで意味のあることかは判らなかったが。
 「多分、これは僕がベルゼブブと戦った時と同じ状態なんだと思う。
  戦う力がないと言っていた敏明のあの行動……恐らく、それは世界の先を見る力だ」
 「ゆーくんがあの時に使っていた“力”と同じ……じゃあ、とっしぃも世界と同化してたってこと?」
 「同化がどうだのは判らないし、あくまでも予想だけど。あの時、僕も同じように倒れた。
  じいさんが言うには、脳が余りある多重分岐世界の情報を処理し切れずにショートしてる状態らしい。
  意識が遮断されるのは、安全装置としてのブレーカーが落ちるからだとか」
 佑太郎の言葉に、透香とアバドンが心配そうに敏明の顔を覗き込んだ。
 苦悶ひとつ浮かべずに、眠るように瞳を閉じたままの敏明。
 糸の切れた人形のように唐突に崩れ落ちた彼は、今もまだ目を醒まさない。
 「透香、確か生きてる冷蔵庫があったろ? あそこに入ってた氷、何か布に包んで持って来てくれ。
  アバドンはペットボトルの水を何本か頼む」
 「…うん」
 「わかった。すぐに持ってくるね」
 佑太郎の言葉に、二人は頷いてから駆け出す。
 表情ひとつ変えることなく眠り続ける敏明。
 その顔を覗き込みながら、佑太郎はあの時の事を追想していた。
 「敏明……お前も、見たんだな」
 世界の“先”。その段階で最も最適だと判断し、選び取った最良の未来を。
 だが、その力は酷く脳に負担を掛ける。
 佑太郎が倒れ伏した時がそうだったように、下手すると霊核――霊力の源泉となる力点を損傷しかねない。
 最悪、意識が二度と戻らず廃人になることも有り得ると、桂木は言っていた。
 「持ってきたよ!」
 アバドンが、数本のペットボトルを抱えて戻って来る。
 それを、横たわる敏明の横に置いて、敏明の顔を覗き込む。
 表情ひとつ変えず、やはり苦悶すら浮かべない穏やかな寝顔。
 まるで死んでしまったかのようなその顔は、見る者に言い難い不安を感じさせた。
 「……ねぇ、何でとっしぃは私を庇ったのかな」
 「多分、アバドンがあの触腕に貫かれる“分岐”を見たからだと思う」
 「そっか……」
 らしくない、しゅんとした顔で敏明を見つめるアバドン。
 罪悪感があるのだろうが、それ以上にどこか心配そうな顔。
 何となくその横顔を見ていた佑太郎は、胸の中にもやもやした感情が募っていった。
 少し哀しげなアバドンを見ていられなかったからか。
 それとも、他の理由からか。
 「僕もそうした。見えてたら、僕もアバドンの前に立ってたよ」
 不意に、そんな事を口走っていた。
 妙に憮然とした、それでいて言い訳がましい物言いに、当の佑太郎自身が驚きを禁じえない。
 そんな事は当然。誰かを守る為に戦う佑太郎が、その身を親しい誰かの盾にする事など至極当然の筈なのに。
 「ゆ、ゆーくん……?」
 仄かに頬を朱に染めて、佑太郎の顔を覗き込むアバドン。
 唐突にあんな事を言った手前か、どこか気恥ずかしさを覚える。
 「あ、いや……」
 「本当に、その……私を守ってくれる、の……かな?」
 本人は普段通りに攻めているつもりなのだろう。
 しかし、口調は控え目で勢いが足りず、どうにも照れが先行しているようにしか見えない。 
 傍目から見れば、弱々しいことこの上なかった。
 だがそれでも、恥かしい事を言わされようとしている佑太郎にも相応のダメージは見て取れた。
 「まあ、そりゃ……当たり前だよ」
 「あ……ぅ」
 消え入るように頼りない、やはり恥かしさが先行した佑太郎の言葉。
 だが、それでもその言葉はアバドンの顔に確かな熱を持たせ、俯かせるには充分なものだった。
 互いに気恥ずかしさから、揃って口を噤む。
 その沈黙を壊したのは、どこか不機嫌な、無口な少女の声だった。
 「…らぶこめ、か」
 「ぅわ!?」
 「ひぇ!?」
 二人が振り向くと、そこには『怒っています』と書いたような表情をしている透香が立っていた。
 いつものような、無表情だけど保護欲をそそられるような顔ではない。
 無表情であるが故に、半端ではない威圧感を醸し出す表情だった。
 「…らぶこめ、か?」
 先ほどと同じ言葉を、しかし今度は疑問符を投げ掛けて呟く。
 やはり、苛ついてはいるようだった。
 「あ……いや、何と言うか……場の雰囲気と言うか、その……」
 「
 「…わたしが、ペットボトルとりにいけばよかった」
 寂しそうに呟く透香。
 このまま泣き出してしまうのではないかと思わせるような、捨てられた子犬のような顔。
 「透香……」
 「ち、違うんだよ。透香ちゃん、これはね……」
 「…もういい」
 タオルに包んだ氷を差し出しながら、佑太郎たちから顔を背ける。
 本格的に怒らせてしまったらしい。

 その様子に呆れながら、数分前から目を醒ましていた敏明がゆっくりと上体を起こした。
 気を利かせて寝たフリをしていたが、いい加減にそれも辛くなってきた。
 「……ったく、倒れた奴を放置していつまでもイチャこいてんなよな」
 まだ頭が少しだけ呆けているが、そこまで酷い痛みもない。
 空腹感と、身体を無理に酷使したからだろう――節々に鈍い痛みがある。
 左腕は完全に元通りだ。違和感もない。
 握っていたヒヒイロカネの短刀が見当たらないが、恐らくそれは変質化の時に同化してしまったのだろう。
 先端の銀爪が、変化した刃だったのだと思えば説明もつく。
 (それは後で、改めて佑太郎に説明しないとな)
 眠りから醒めた直後の、頭の重さが少々鬱陶しい。
 軽く頭を押さえて振った後、敏明は佑太郎たちの方に視線を向けた。
 「敏明! 目が覚めたか……」
 「お前とアバドンさんがイチャイチャし始めた辺りで気がついてたんだが、どうにもタイミングがね」
 肩を竦めて、大きく溜息をひとつ。
 『イチャついてる』という言葉に、アバドンは耳まで真っ赤にして俯いている。
 だが、佑太郎は敏明の言葉を聞いて、耳打ちするように小声で言った。
 (敏明! だったら何で助け舟を出してくれなかったんだよ!)
 (何で俺がお前に助け舟出さなきゃなんねぇんだよ)
 こそこそと話し合う男二人。
 それを訝しげな目で見る透香の視線に気付いた佑太郎は、愛想笑いを浮かべながら――
 「ほ、ほら! 水でも飲むか? 透香が持ってきてくれたんだぞ」
 「…おみずは、アバドン」
 「あ!」
 (墓穴掘りまくりだな。ミスタードリラーめ)
 フォローのつもりだったのだろうが、更に裏目に出る佑太郎。
 そして、そのミスでますます不機嫌になる透香。
 なるほどどうして、傍から見ている分には非常に面白い関係だ。
 (……ムカつくけどな)
 最後にそう付け加えながら、その光景を見やる。
 誰一人として欠けていない現実。
 それは、敏明があの瞬間に最善として引き寄せた――願った未来そのもの。
 上手くそれを引き寄せられたという安堵感が、一気に身体の力を抜けさせた。
 (一歩間違えれば、そこに誰かが欠けていたかも知れないのか……)
 胸の中で独りごちる。
 もしかしたら、欠けていたのは自分だったのかも知れない。
 否、左腕を食われたあの時、左腕が変質しなければ本当に死んでいたかも知れないのだ。
 今頃になって震え出す身体に、呆れ果てる。
 両腕で自分の身体を抱き抱えるようにして、その震えを必死に抑え込もうとする。
 「敏明……?」
 「何だよ……今さら震えてきやがった……一歩間違えれば、俺も死んでたんだなって思ったらさ」
 左手を見る。
 まだ微かに震えるその手を、震えを握り潰すかのように硬く握る。
 それでも収まらずに、拳は微細に揺れていた。
 あの時のことなど、思い出したくもない。
 恐かった。自分が死ぬと思った。死ぬ意味すら見つけられずに死にそうだったのが余計に恐かった。
 何の意味も持たず、自分の死が何の結末にも直結しないのがたまらなく恐かった。
 アバドンは助けられたかも知れないが、あのままなら敏明の死はそこ止まりだった。
 状況ひとつ切り開けず、一時凌ぎの助けで終わる。敏明の死は、結局はそれ以上の意味を持たなかった。
 (でも、俺は無駄死にしなかった。俺の行動は、結果として意味を持った)
 それは単なる結果論。思考の逃避でしかない。
 しかし、敏明にはそこ以外に振り上げた思考の拳の落とし所が見つからなかった。
 そう思って納得する以外、敏明にはこの状況――あの時の行動の帰結を受け入れる術を持たなかったのだ。
 「あの……」
 「ん?」
 「とっしぃ。あの時、ありがとね♪」
 努めて明るい声で、アバドンが礼句を述べる。
 あの時とは、敏明が触手からアバドンを庇ったあの時のことだろう。
 (……)
 アバドンの顔を見る。
 晴れやかな笑顔。苦痛も悔恨もない、先ほど話した時と同じ笑顔。
 それを見たら、今さらのように悩んでいた死の意味やら何やらの一切合財が瑣末なことに思えた。
 あの時の行動があったから、この笑顔がある。
 誰かを守っただの何だのと考えると、昔まで遡ってまた悩みに耽ることになるだろう。
 だから、今はそれだけでいい。
 「気にするな」
 それはアバドンにだけでなく自分にも向けて、一言だけそう呟いた。
 例え現実逃避でもいい。思考の断絶でも構わない。
 今はただ、この優しい“結末”を――。

 ・

 ・

 「そろそろ帰らなきゃならねぇが……やれやれ、気が重いな」
 漆黒に身を包んだ青年――朱紗 悠介は、瓦礫の上に座ったままで独りごちた。
 手には愛用のショットガン、イサカM37ポリス。
 そして、全身を包む衣服は普通の上下ではなく、全身をすっぽりと覆う漆黒の戦闘服だった。
 「双葉 敏明……ねぇ」
 番犬としての彼の飼い主――守谷 直親から接触を命じられた青年の名を呟く。
 彼を守谷の、そして大罪の元に連れ帰ること。
 それが、無事に守谷との接触を果たした悠介が、彼から与えられた任務だった。
 「この広い廃墟の中から探すのか。気楽に言ってくれるぜ……ったくよ」
 愚痴るように言うと、守谷からくすねて来た煙草に火を着ける。
 一度死んで守谷に引き取られてから、たまに吸うようになったのだ。
 苛ついた時に吸うと気が休まるいう守谷の言葉に興味を示して、こっそり一本頂戴したのがきっかけ。
 それ以降は、理由もないが何となしに煙草をくすねては火を着けるという癖がついた。
 それまで喫煙経験のなかった悠介は、結局は煙を口に含むまでしか出来ないのだから笑い話でしかないのだが。
 言ってしまえば、まじないのようなものだ。
 所詮は気休めだと割り切って吸うようにしているから、悠介自身は大して気に留めていない。
 所詮、酒も煙草もそんなものだ。
 僅かな時間、拒絶したい現実から逃避する為の小道具。
 そんなものに手を出す自分に呆れながらも、咥えた煙草を口から離す。
 「ふぅ……」
 赤と白のパッケージをくしゃりと握り潰しながら、勢いよく紫煙を吐き出す。
 イサカの中にある弾はあとどれくらいだったか。
 そんな事を考えながら、皺だらけになったパッケージを強引にポケットに押し込んだ。
 「とりあえず柊たちのトコに戻ってみるか」
 誰にともなく呟きながら、踵を返す。
 そして、まだ半分以上も残っている煙草を指で弾いて捨てて、爪先で残り火を踏み消す。 
 日は、まだ高い。
 このまま歩けば、夕刻頃には佑太郎たちが使っているあの廃屋に辿り着けるだろう。
 悠介は、突き立てるように置いていたショットガンを担ぎ上げると、独り廃墟を歩き出した。
 最後にもう一度、せめて少しは愉しませて欲しいという淡い期待を込めて、その名を呟きながら。

 「双葉 敏明……ね」
2006年11月19日(日) 22:21:13 Modified by ID:PJPlxrdg+g




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