第十五話「さようなら」


 「……静真、くん」

 声を掛けることもできず、一部始終を見届けた浅葱 未来の呼ぶ声に、静真はふと振り返った。
 所在なさげに立ち尽くす少女の貌は、戸惑いに満ちている。
 黙祷すらまだ捧げていない未来を手招きすると、自分はその場所を退いた。
 「……幸せだったのかな」
 「それはないだろうが、あいつにとって満足のいく幕引きだったのは確かだな。
  憎たらしいくらい、満たされたような顔をしている……」
 憮然と言う静真の心中を察して、未来は沈鬱な愛想笑いを浮かべた。
 目の前の遺体を見やる。
 何の感慨も哀しみも沸かない自分に、未来は戸惑いを覚えていた。
 それどころか、悠介との記憶そのものが曖昧だ。
 静真と一緒にいた、彼の相棒の筈なのに――静真の記憶ばかりが、脳裏を過ぎっていく。
 未来はそれを静真への慕情が故と仮定し、思考を停止した。
 少女の奥底に嵌められた枷のような何かが、その思考は危険だと訴えていたから。

 「で……静真くん、これからどうするの?」
 「本隊に戻る」
 意外にも冷静な言葉に、未来は胸を撫で下ろした。
 静真は沈痛な表情こそしているものの、取り乱した様子はない。
 悠介の死に動転した静真が今すぐにでもあの瓦礫の塔へと赴き兼ねないと案じていた未来は、アテが外れたと安堵の吐息を漏らす。
 「そうだね……グレイブ隊長、どうしたかな……」
 「合流できていない所を考慮すると、恐らく何がしかと交戦に入ったか……或るいはこちらの穿ち過ぎか」
 「救助に行った方がいいよね……」
 「ああ、既に殺されたとは考えたくないからな」
 悠介の死は、やはり静真に少なからず影響を与えているらしい。
 いつもよりも気配りのない不快な物言いに、未来は僅かに眉を顰めた。
 「……うん、そうだね」
 ぽつりと漏らした同意の言葉も虚しく、静真には届かない。
 いつからだろう――静真との間に、決定的な溝が出来てしまったのは。
 浅葱 未来は純粋に蒼瀬 静真のことを想っている。
 少なくとも本人はそのつもりだし、作り物だと知っていてもその感情を塞き止めるつもりはなかった。
 だが、静真は真っ直ぐに未来を見ようとしない。
 負い目があるのは理解できるが、それでも静真の態度は未来に刺のような痛みを与えるのだ。
 
 「……ああ、そうだ」

 不意に、静真は何かを思い立ったように悠介の遺体に歩み寄る。
 そして――
 「な!? ちょ、ちょっと……静真くん!」
 その奇行に、未来は思わず声を荒げてしまっていた。
 あろうことか、静真は悠介の遺体が着ていた黒い戦闘服を脱がせ始めていた。
 「未来。その辺に悠介の使っていた拳銃と、大振りのショットガンがあるはずだ。
  悪いけど、拾ってきてもらえるか?」
 「静真くん……何を……何をやってるの!?」
 「形見分けだ。呪いを背負わされた分、これくらいは貰っていかないとな」
 さして心を動かした様子もなく、淡々と戦闘服を剥ぎ取っていく。
 その手付きに躊躇いはない。
 「悠介を埋葬する。
  でも、その前に――悠介の“力”は、俺が全部受け取っていかないといけないんだ」
 「静真くん……」
 「俺が、あいつにかけられた呪いってのは……背負わされたものってのは、そういうものなんだ。
  だから俺は、あいつから託された力で黒幕を討つ――それを、悠介も望んでるんだ。
  そうでも思わないと、まともにやっていられる自信がないんだよ」
 自戒のように呟く静真。
 未来に対してか――或いは、それ自分に対してか。
 言い訳じみたその言葉は、静真の心が壊れかけていることをまざまざと示していた。
 「あんな結末じゃなかったはずなんだ。
  どうせなら、殺し合っていれば――銃を向け合ってさえいれば、まだ納得もできた。
  なのに……」
 「静真くん……もう……」
 「俺に全部押し付けやがってさ……自分だけ、こんな……安らかな顔で、逝きやがって……」
 悪態をつく静真の声が、少しだけ震える。
 手際よく戦闘服を剥いでいた手が止まり、肩が震える。
 言葉に詰まったように黙り込むと、静真は最後にぽつりと涙声で一言だけ漏らした。

 「何が“呪い”だ……ちくしょう……!」

 それは、万の言葉にも勝る怨嗟だった。
 搾り出すように吐き出したその言葉を最後に、静真はただただ肩を震わせ続けた。
 「……静真くん」
 そんな彼の背中を、未来の小さな身体がそっと包み込む。
 暖かな感触が、背中越しに伝わっていた。
 心が壊れてしまわないように、優しく彼の背中を抱き締める。
 「泣いて、いいんだよ」
 「……」
 「悠介くんには、黙っておいてあげるから……泣いて、いいよ」
 それが、とどめだった。
 決壊する感情を塞き止めることもせず、静真は顔を伏せたままで泣いた。
 ぽたり、と涙が悠介を濡らす。
 「……うぁ……ぁあぁ……」
 止め処なく溢れる嗚咽。
 ずっと我慢していたそれが、未来の暖かさによって次から次へと零れていく。
 あたかも、氷が溶けていくかのように。
 
 「こんな結果じゃ誰も納得しないだろうに! 俺もお前も、納得できないだろうに!!」

 もはや絶叫に近いその声を、未来は言葉なく受け止める。
 静真がこうまで感情を顕わにすることは、滅多にない。
 どこかで線を引いて、距離を置いていた未来の前でとなれば尚更だ。
 この慕情が植え付けられたものだとしても、静真が自分に対して赤裸々に感情を吐露している。
 それは、不謹慎ではあるが未来にとって嬉しく思えることだった。
 「静真くん……終わってない、終わってなんてないんだよ……」
 「う……あぁ……」
 「一緒に、がんばろ」
 未来の言葉が、どれだけ静真に届いたのかはわからない。
 だが、静真が漏らす嗚咽は、少しだけ二人の間にあった溝を埋めてくれた。
 少なくとも、未来にはそう思えた。
 「ね……静真くん」
 名前を呼ぶ。 
 答えが返ってこなくとも、不思議と満たされたような心地。
 だから、未来は泣きじゃくる静真を抱き締め続けようと思った。
 少なくとも静真が泣き止んで、再び前を向くまでは。

 ・

 悠介と静真が、互いの終わりに向き合っていた頃。
 時を同じくして、合流した佑太郎とアバドンは揃って塔の入り口に足を踏み入れていた。
 広大とも言えない、だが決して狭くもない空間。
 埃っぽく、それでいてどこか静謐かつ荘厳な雰囲気の廊下を一目散に駆けていく。
 「斬宮とアリスさん、無事だといいんだけど……」
 「大丈夫。斬宮 カルマ……そうそう倒されたりはしないよ」
 「だと、いいんだけどな」
 つい先ほど別れた、正義の味方のことを思い返す。
 彼は、衰弱し戦闘能力を欠いたパートナーの為にあえて一度引き返すことにしたのだ。
 安全な場所にアリスを送り届けてから、再びこの塔を目指すのだと言う。
 『足手纏いになられても困る』
 そう言ったカルマは、どことなく“かつての”兄に似ている気がした。
 素直になれず、遠回しな労わりしか向けられない。
 そんな不器用な正義の味方を、佑太郎は好ましく思っていた。
 「……ゆーくん」
 アバドンの声音に、佑太郎は不意に立ち止まった。
 彼女の視線の先あるのは、淡い緑光の柱だった。
 「何だ……これ……」
 「多分、転送装置か何かだと思うけど……厄介だね。
  操作するものが何もない。多分これ、大罪の誰かの力で出来てる」
 「……ってことは、そいつの意のままに働く力ってことか」
 「うん。どこに飛ばされるかわかったものじゃないね……どうしよっか?」
 しばし、逡巡する。
 外壁を登って上を目指すという選択肢は、恐らく“不可能”なのだろう。
 それが出来るなら、初めからアバドンがそう提案しているはずだ。
 扉を開けて、塔の中に侵入した時の違和感。
 恐らくは結界の類だろう――それから考えても、まず正面から以外では侵入すら叶うまい。
 ならば――
 「行こう。こうしていても、状況は動かない」
 「……そう、だね」
 やや不安げに、アバドンが肯定する。
 カルマを待つという選択肢もあるにはあるが、彼がどこまで味方として動くのかは未だ未知数だ。
 先の戦闘は、利害の一致で結ばれた一時的な協力関係に過ぎないのだ。
 とは言え、戦力として共に行動したいという気持ちもある。
 それを見透かしたかのように、アバドンは首を傾げながら佑太郎に念を押した。
 「……正義の味方、本当に待たなくていいのかな?」
 「斬宮には斬宮の戦いがある。頼りにはできないさ」
 「そ。私も別にそれでいいけどね♪」
 アバドンの場違いに明るい声に、ついつい苦笑が漏れる。
 そう、待っている時間はない。
 透香がここにいるかも知れない――そう思えば、佑太郎の心は激しい焦りに駆り立てられる。
 ここは、言わば敵の本拠地だ。
 大罪に組している以上、晋一郎も恐らくはこの塔のどこかにいるのだろう。
 そんな場所に透香がいるとなれば、佑太郎を追い立てる焦燥も仕方のないことだった。
 「行こう、アバドン!」
 「うん♪」
 気を入れるように叫ぶと、佑太郎は思い切って光の中に身を躍らせる。
 それに続いてアバドンも黒いドレスを翻して、緑光の柱へと飛び込んだ。
 視界を埋め尽くす、光の奔流。
 緑から、やがて白へと変わっていく視界の光景。
 そして――

 意識を、白光が埋め尽くしていった。

 ・

 「柊 透香。客人だ」
 吸い終わった煙草を灰皿に擦り付けながら、守谷 直親はベッドの上で俯いている透香を呼びつけた。
 ここに来てからというもの、透香は元気を取り戻す様子がない。
 食事の時こそ多少は明るい表情を見せるものの、それ以外の時は概ね伏せってばかりだった。
 常に俯きがちで、気の抜けたような――それでいて、寂しそうな表情ばかりを浮かべる。
 そんな透香の様子を、守谷はひどく陰鬱に思っていた。
 何もしてやれない自らの無力への歯痒さ、いつまでも伏せてばかりで動かない透香への苛立ち。
 それらが綯い交ぜになった感情を、守谷は持て余していたのだ。
 「……」
 「おい、聞いているのか? 客が来ていると言ったんだ……会ってやれ」
 もう何度目か知れない溜息を漏らす透香に、守谷が再度呼びかける。
 多少荒げた声に反応したのか、透香がはっと顔を上げる。
 「招き入れるぞ?」
 「…はい」
 やはり覇気のない言葉に嘆息しながら、守谷は扉を開けて客人を迎え入れた。
 襟の高い黒外套を纏い、小脇には頭部をすっぽりと覆えるような仮面を抱えている。
 「んじゃ、お邪魔します」
 部屋に入った彼――双葉 敏明は、部屋の主に一礼する。
 入室の礼儀を通した敏明に気を良くしたのか、守谷はやや崩した表情でにやりと笑みを漏らす。
 「いつも傍に侍らせている件の彼女は、今日は留守番かね」
 「? ああ、エラーブラッドね……今日は込み入った話だから置いてきた」
 「込み入った話か。何なら、私も外そうか」
 「あ、いや……別に、どちらでも……」
 口篭もる敏明を、冗談だと窘める守谷。
 実際、席を外そうかと思っていたのは事実だが、まさかそこまで恐縮されるとは予想外だったのだ。
 だから、あえて冗談めかすことで煙に巻くことにしたのだ。
 「まあいいさ。邪魔なら適当に追い出してくれ。
  ……コーヒーはブラックでも構わんかね」
 「あ、どうも。あの……」
 「柊 透香ならば、奥にいる。先に行って話していたまえ」
 まだ何処かおどおどした敏明を先に行かせる。
 それを見送って、ばりばりと頭を掻きながらコーヒーメイカーへ向かった。
 (やれやれ……厄介な話にならないといいのだが)
 その杞憂は取り越し苦労にはならないだろう。
 守谷は淹れ立てのコーヒーを持って行くのが憂鬱に思えた。
 奥の部屋から聞こえてくる、ぼそぼそとした喋り声。
 時たま、敏明が声を荒げている様も聞いて取れる。
 これが厄介な話でなくて何だと言うのか。
 「はぁ……何とも厄介なものだな」
 こぽこぽと音を立てるコーヒーメイカーを見下ろしながら、守谷は盛大に溜息を吐いた。

 ・

 三人分のコーヒーを持って寝室に赴いた守谷が見たのは、何とも頭の痛くなる光景だった。
 興奮したように肩をいからせる敏明。
 それとは対照的に、今にも泣き出してしまいそうなほど弱々しい透香。
 守谷はテーブルの上に盆ごとコーヒーを置くと、うんざりしながら二人の間に割って入った。
 「あー……落ち着きたまえ、双葉 敏明」
 「……」
 「彼女は見ての通り、反応が希薄だろう?
  私も聞くから、冷めてしまわない内にそのコーヒーに一口つけて落ち着きたまえ」
 正直に言えば、間に入るつもりなどなかった。
 だが、そうでもしなければ、敏明は興奮の余りに透香の服を掴むくらいはしていただろう。
 何を話していたかは守谷の預かり知るところではなかったが、それでも第三者の介入なしに二人が無事に話を終えることはなさそうだった。
 「で……何の話かね。
  かいつまんで説明してもらえるかな?」
 守谷はコーヒーを一口飲みながら、陰鬱極まりない心境でそう告げた。
 透香は俯いたまま、言葉を発する様子はない。
 それを慮ってのことではないが、敏明がやや熱弁気味に――だが一言だけ、実に簡潔に答えた。
 「透香さんは……佑太郎と、別れるべきだ」
 その一言から状況を察しようと、守谷の脳が忙しく回転する。
 彼の言う『佑太郎』とは、柊 佑太郎――あの柊 晋一郎の弟のこと。
 そして、敏明の言葉をストレートに解釈するなら『佑太郎と透香は恋人同士』ということなのだろう。
 実際、柊姓を名乗らせたりしている辺り、佑太郎は透香に対して親密な態度を取っていてもおかしくはない。
 透香自身も、ここに来た理由の一端に『彼に迷惑をかけたくない』というものがあるとは聞いている。
 相思相愛だという話も、あながち信憑性のない話でもない。
 だが、そこに何故敏明が絡んでくるのか。
 一頻り思索を巡らせた後、守谷は珍しく自信なさげな声音で回答を出した。
 「……横恋慕、かね?」
 「何でそうなる!」
 「あ、いや……生憎と恋愛には疎くてね。今は亡き妻としか交際した経験もないのだ。
  すまないが、できるだけわかりやすく……それでいて簡潔に教えてもらえまいか」
 守谷の苦笑に毒気を抜かれたように、敏明が深々と嘆息する。
 どうやら、一応の落ち着きは取り戻せたらしい。
 「難しい注文してくれるよ……ったく」
 「そう言うな。必要な情報だけを、最低限だけ教えてくれればそれでいい。
  情報とは得てしてそういうものだ。覚えておきたまえ」
 「はぁ……」
 気のない返事に苦笑しながら、守谷は先を促した。
 敏明の話の内容は、纏めてしまえば実に簡単なものだった。

 『透香は戦いの上で佑太郎の枷になる。だから、彼の元に帰るか去るかした方がいい』。

 そう提案された透香は、しかし明確な答えが出せずに黙り込んだ。
 それで苛立った敏明が声を荒げてしまったという話だった。
 「ふむ……」
 「守谷さん、あんたはどう思うのか……正直な話を聞かせてくれよ」
 顎に手を当てて、低く唸る守谷。
 敏明の言っていることも、あながち的外れではない。
 大罪側である守谷が案ずるというのもおかしな話ではあるが、確かに透香の存在は佑太郎の枷になる。
 この塔に軟禁されている時点で、彼女の存在は人質と大差ない。
 もしも大罪の誰かが『透香がどうなってもいいのか』と言えば、それは確かな説得力を持ってしまうのだ。
 ならばいっそ、彼から離れてしまうしかない。
 透香が佑太郎の元に戻る気がないのであれば、の話だが。
 「柊 透香。君はどう思っている」
 「……」
 最も尊重すべき者に、言葉を乞う。
 それを待ち望んでいるのか、敏明も固唾を飲んで透香の言葉を待った。
 だが――透香は、何も言おうとしなかった。

 「……やむを得んな。私は好かんやり口だが……強引に“柊 透香”には眠ってもらおうか」

 呆れ果てたような守谷の言葉に、真っ先に反応したのは敏明だった。
 焦燥と怒りを顕わにしながら、守谷に掴み掛からん勢いで身を乗り出す。
 「ちょ、ちょっと待てよ! 強引にって……そりゃどういう意味だ!?」
 「言葉の通りだ。柊 透香の意識を沈黙させて、代わりに蝿王の意識を表層に顕在化させる。
  私がメッレに指示され、施していた処置だ。
  最後に躊躇いがあって実行できずにいたが……彼女が楽になれるというのであれば、それもよかろう」
 淡々と、あくまでも怜悧に語る守谷。
 その冷淡さに、敏明が思わず声を荒げた。
 「ふ、ふざけんな!!」
 「……君の価値観など問うつもりはないし、君にこの件に口を挟む権利はない。
  あくまでもこれに対して決定を下せるのは、彼女だけだ……違うかね?」
 「う……」
 論理で固めた守谷の言葉に、敏明は口篭もるしかなかった。
 恨めしげに吊り上げた視線を向け、怒りを言葉なく伝えることしかできない。
 そんな状況に、歯噛みする。
 「……人でなしが」
 「大罪になったその時、私はもう……そう、人ではないモノになってしまっているのさ。
  それに、生憎と私は君にいくら憎まれても良心は欠片も痛まない」
 「くそ……透香さんを消すなんて、俺が許さないからな!」
 「威勢がいいのは結構。だが、君の許しを乞うつもりもなければ許可を得るつもりもない」
 「ぐ……!」
 守谷の切り返しに、次第に言葉を失っていく敏明。
 薄々だが、わかってもいたのだ。
 これがどういう形であれ、透香を慮っての措置であることを。
 せめて、透香に現実を見せないように――そういった守谷の親切から来るものなのだと。
 だが――

 「認めたく、ねぇ……」

 それは、敏明の甘さだった。
 どこか汚れたくないという、決意の足りなさ――言ってしまえばそれは、思考の停止だ。
 常に先を考えること――その放棄。
 「……君は無様だな。何とも情けない」
 呆れ果てたような守谷の言葉に対して、敏明は何も返すことができなかった。
 いつだってそうだった。
 何かを決めようとして、先延ばしにして……何かと理由をつけて、その場を凌いで。
 そうして、掌から色々なものを零してきた。
 なのに、それでも怯えを覚えた彼の心は抗うことを拒絶する。
 「…そう、して……ください」
 ぽつりと呟かれる、敏明の最も望まない答え。
 弾かれるようにして顔を上げた敏明は、透香の表情を見て凍り付いた。
 感情の色が、どこにもなかった。
 まるで全てを投げ捨てたかのように、透香の顔に浮かぶ表情は色を持たないものだった。
 「…どこにも、いばしょなんてない」
 「そんな……そんな事、あるもんかよ……」
 透香をどう慰めればいいのか、わからない。
 その不安が、敏明の言葉尻を窄ませる。
 そしてそれは、透香に対して更なる絶望を植え付けてしまう。
 何かを言えばいいわけではない。
 少年の余りに至らぬ配慮に、守谷は軽く眩暈さえ覚えていた。
 「……双葉 敏明。もういい……黙りたまえ」
 「で、でも……!」
 「いいから。今の君では、彼女を傷つけるだけだ。
  沈黙も優しさだということを肝に銘じておきたまえ――言葉を紡ぐだけが全てではない」
 「……くそッ!」
 敏明は歯噛みすると、そのまま立ち上がって透香たちに背を向けた。
 窓際に寄りかかるようにして、空に目を向ける。
 「柊 透香。確認するが――本当に、君の意識を凍結してもよいのだな」
 「…はい」
 「最後に、柊 佑太郎に挨拶を済ませるかね?
  辛いかも知れんが、けじめとしては有効だ……後悔はしなくて済むだろう」
 守谷の言葉に、俯く透香。
 それがいかに辛い選択を強いているか、守谷にはわかっていた。
 しかし、それでもこの選択を問わずに行動に移すことを、守谷は是とはしなかったのだ。
 だからだろう――渋面のまま、守谷は透香の答えを待った。
 「…やり、ます」
 「了解した。それじゃあ――」
 「俺に行かせてくれ」
 守谷の言葉を遮ったのは、何時の間にか二人に目を向けていた敏明だった。
 何かを決意したような目の色は、先ほどまでの無神経な少年のものとは多少違っていると守谷には映った。
 だから守谷は、今度は言葉を遮ることはせず、彼の言葉に暫し耳を傾けた。
 「俺も……あいつと、戦わなくちゃいけない。
  だから、俺は最後に――双葉 敏明としてじゃなくても、あいつに意志を伝えておきたいんだ」
 「……いいだろう。君に一任する」
 守谷は深く息を吐くと、白衣の胸ポケットから煙草を一本取り出した。
 そして、それを火を着けずに咥える。
 「いいか? 必ず柊 透香は連れ帰れ……柊 佑太郎の手に渡してくれるなよ」
 「わかってる。蝿王……ベルゼブブは、俺たちの戦力だからだろ。
  ……なあ、聞いておきたいんだけど……透香さんの意識、消えてなくなるわけじゃないよな」
 敏明の言葉に、守谷は目尻に皺を寄せた。
 それを見て取ったのか、敏明も渋面になる。
 「割り切りたまえ。君に柊 透香を気に掛けている余裕などないはずだ」
 「これだけは譲れねぇぞ。教えろよ」
 睨み付ける敏明。
 だが、その視線を守谷は心底不愉快そうに受け止めていた。
 いつもの穏やかな彼ではなく、ありありと憤りを湛えた瞳で敏明を見返す。

 「よくも偉そうに吠える……勘違いするなよ、小僧。
  君如き子供が背負えるほど、彼女の心も過ごしてきた時間も軽くない。
  彼女が想いを寄せる彼――柊 佑太郎ならともかく、君がそこまでしゃしゃり出るのは筋違いだ。
  それをよくも言ったものだ……君は何様かね」
 
 守谷が普段は発しないような辛辣な言葉に、思わず敏明は気圧される。
 強気に返そうと思っても、そこに言葉が続かない。
 息ごと言葉が詰まったように、敏明はただ息を飲むしかなかった。
 だが、それを押し退けようとする激しい感情も沸き立っていた。
 「……佑太郎……また、俺の前に……」
 嫉妬と失意に満ちたその呟きは、守谷の耳には届かなかったのだろう。
 依然として憤慨したままの守谷は、軽蔑の視線を向けたまま言葉を続けた。
 「意志の希薄な柊 透香に同情して、お守りでもしているつもりなのかね?
  ならば、とんだ心得違いだ。彼女には明確に意志がある。
  君が保護者を気取る必要もなければ、君に保護されなくてはならぬほど弱くもない」
 「……」
 「何か言ってみろ、とは言わん。
  馬鹿ではないと自負するならば、その辺りをもう一度よく考えてみることだ」
 「……もし、馬鹿だって認めるなら?」
 「分相応な発言を心得たまえ。それが出来ぬのなら、他人の内情に首など突っ込むな」
 簡潔極まりない、それでいてありったけの不快を詰め込んだような守谷の言葉が、敏明の胸を穿つ。
 普段は冷静な守谷の発言だからこそ、それは敏明の胸にも響くものがあった。
 苛立ちのせいだろう。
 荒げた語気が、彼の言葉をより一層強いものにさせていた。
 「……わかったよ。悪かった」
 「そう思うのならば、くれぐれも柊 透香を頼むよ」
 「ああ。任せてくれ……とは言えないな。信じてくれ」
 敏明の頼りない言葉に、しかし守谷は満足そうに頷いた。
 ここで『任せろ』と啖呵を切るようなら、守谷は敏明を見限っていただろう。
 少なくとも、そんな人間を信じようなどとは考えなかった。
 「…よろしく、おねがいします」
 透香が、申し訳なさそうに会釈する。
 それを見て、敏明はどこか胸が熱くなるのを感じていた。
 守ってあげたいという衝動。
 源泉のない感情が渦を巻き、敏明の心を突き動かす。
 「透香さん……」
 「…おわりに、します」
 寂しげな透香の呟きが、敏明の胸に靄のような感情を沸き立たせる。
 だが、その感情が何なのかを敏明は知らない。
 ともすれば、恋と錯覚してしまいそうになるその熱を持て余しながら、敏明は無言で頷いていた。

 「……では、行きたまえ。彼らが来る」

 それは、突然の死刑宣告に等しかった。
 守谷の言葉を整理するまで、二人は若干の時間を必要とした。
 「彼ら……まさか……」
 「そのまさかだ。柊 佑太郎とアバドンが、この塔に侵入するようだ。
  レヴィが知覚したらしいな……つい今しがた、端末に連絡が入っていたよ」
 淡々と告げる守谷の言葉が、遠く聞こえる。
 わんわんと耳鳴りが響く。
 アバドンが一緒だということは容易に想像できていた――そして、敏明が済ませる別れは――。
 
 「あ……アバドン、さん……?」

 思えば、その想いはあまりに不自然な始まりだった。
 あの夜の語らい――その中で見せた寂しそうな横顔が焼きついたのが、敏明の中で起きた些細な革命だった。
 誰かを好きになるという気持ちを知った。
 胸の中を誰かが埋め尽くすという感情を持て余して……。
 思えば一人で歩き出したのも、アバドンに見合う人間になるという決意からではなかったか。
 「……あ……いや……」
 だが、彼は出会ってしまった。
 アバドンと同じ顔をした、似たような寂しさを背負っている少女と。
 今にも失われそうなその命を――その細く小さな手を、敏明は取ってしまった。
 取り返しのつかない状況。
 気づけば敏明は、何も考えずにこうしてここにいる。
 思えば、これはその代償なのだろう。

 「お、俺は……アバドンさんじゃなくて……エラーブラッドを、とった……?」

 今さらのように押し寄せる理解。
 思考停止のツケは、容赦なく敏明の心を打ちのめした。
 「今から、エラーブラッドを捨てるかね」
 「あ……」
 「大罪を捨てて、柊 佑太郎の元に戻る――そうすれば、元通りとまでは行かずとも、君は前に戻れる」
 「……でも、エラーブラッドは……!」
 「廃棄されるだろうな。彼女の役目はそこで終わる」
 その答えは、聞かずとも明白だったものだ。
 それでもあえて問うたのは、それを受け入れたくないという敏明の弱さ故だ。

 アバドンの許に戻りたい。
 でも、エラーブラッドを見捨てることなんて出来ない。

 今の敏明を揺さぶる二律背反は、まさにそうだった。
 結論の出ない、問答の袋小路。
 そこに迷い込んだ敏明は、今さらのツケに身を震わせることしかできずにいた。
 「……時間がない。彼らの所に向かいたまえ。
  別れを告げると決めたのだろう? 柊 透香はとっくに覚悟を決めているようだが……」
 「あ、ああ……わかってる」
 守谷は、敏明の背を押すように言葉をかける。
 彼には分かっていた。
 双葉 敏明は、エラーブラッドを切り捨てることはできない。
 自分の関わる人間を切り捨てるという選択を選ぶだけの強さを持っていない。
 彼は幾らアバドンに焦がれていても、エラーブラッドを切り捨ててまでその想いを貫くことは出来ないのだ。 
 だから、彼は大罪に残り続けるだろう。
 それを見越した上で、守谷は頼りない敏明の背中に同情混じりの声を掛けた。
 
 「アバドンに憧れて……そのアバドンの影を振り切れずに、アバドンを守る為にアバドンと戦う。
  その矛盾は、いつか君を殺すぞ」

 警告にも似た守谷の言葉に、しかし敏明は言葉を返すことはしなかった。
 振り向きもせず、まるで顔を見られたくないと言わんばかりに、小脇に抱えていた仮面をそっと被る。
 そして、透香を煽動するように歩き出した。
 「…としあき、さん……」
 今にも泣き出しそうな透香の声を無視して、敏明は部屋の扉を開く。
 透香はそれ以上何も言わず、彼の後に続いた。
 それを見送った守谷は、咥えていた煙草に火を着けた。
 焦げた先端が橙色に色付き、それは程なく白い灰へと姿を変える。
 その灰を手近な灰皿に落とすと、守谷は溜息にも似た紫煙を深々と吐き出した。

 「……こんな物語の先に、いったいどんな価値があるというのか……」

 自らに向けたかのようなその言葉が、守谷の胸を締め付ける。
 透香に施した措置は、言ってしまえば『透香の精神を限界まで衰退させる』ものだ。
 衰退させた意識は、蝿王の支配に抗えずに程なく消滅するだろう。
 何かの享楽で蝿王が生かしておこうとしない限り、その霊圧は間違いなく柊 透香を押し潰す。
 そして、蝿王が彼女を生かしておく可能性は限りなく低い。
 少なくとも、守谷はそう見積もっていた。
 「私はこんな汚い真似をしているよ……君は私を見て、どう思うだろうな。
  引っ叩いて諭してくれるのか……それとも、呆れて愛想を尽かすのか。なあ……」
 亡き妻へ――彼の人生において唯一心を許せた、もうどこにもいない女性に向けて語り掛ける。
 最後に掠れたその名前は、ついぞ誰に届くこともなく霧散した。
 そう、他ならぬ守谷 直親自身の耳にも。
 
 ・

 「…としあき、さん」
 「俺の答えは決まってる……守谷のおっさんにも見透かされてたよ、ちくしょう!」
 毒づきながら歩を進める敏明の後ろを、透香が付いて歩く。
 黒い外套を靡かせる少年の表情は、黒い仮面に覆われて見ることはできない。
 だが、それでも透香には敏明が渋面を浮かべているであろうと容易に察することができた。
 余りにも大きな歩幅、荒げた口調。
 それで察する事が出来ないほど、透香は人の感情について鈍いわけでもなかった。

 「……何処に行くのかしら」
 
 呼び止めるようなソプラノボイスに、敏明と透香の歩みが止まる。
 声の先は、敏明たちが下っていた階段の上――――そこにいたのは、エラーブラッドだった。
 「柊 佑太郎たちを迎え撃ちに行くのかしら」
 「いや。今日は挨拶だけだ」
 「そう……何にせよ、私を除け者にして行くというのは不愉快ね。
  私も挨拶しなくちゃいけない相手がいるのだし……貴方、それが浮気だって判ってる?」
 妖艶な作り笑いを浮かべたエラーブラッドの茶化した言葉に、敏明が苦笑する。
 そんな仮面の下を察したのか、黒衣の少女はゆっくりと敏明の傍へと歩み寄った。
 「冗談よ。ただ……アバドンには、私も宣戦布告したいわね。
  恐らく何も知らないあの子に……殺意という刃が向けられている現実を、教えてあげるの」
 「そうか……なら、着いて来い」
 「ええ。言われずとも」
 示し合わせて頷くエラーブラッド。
 その様子を、透香は呆然と見やっているしかなかった。
 目の前にいるのは、少女の恋敵――そして、友達であるアバドンと同じ顔をした少女なのだ。
 守谷の言葉を聞いていなかったわけではないが、実際に目にするとやはり理解より驚きが先行する。
 そんな透香の奇異の視線に気づいたエラーブラッドが、振り返って優雅に一礼した。
 「はじめまして、よね。ヒイラギ トウカさん」
 黒いドレスの裾を持ち上げてお辞儀するその様子は、アバドンそのものだった。
 それが、透香を余計に困惑させる。
 「私はエラーブラッド。トシアキには、そう名付けてもらったわ」
 「…よろしく、おねがいします」
 何とかそう返せた透香に、エラーブラッドは笑顔を向けた。
 それが親愛だったのか嘲笑だったのか、傍から見ていた敏明には判別できなかった。
 だが、どこか含みのあるその笑顔は、どうやら透香には敵意とは取られなかったらしい。
 透香も薄く微笑むと、目を細めて会釈した。

 「……それじゃ、行きましょう。私たちの敵を確認しに」

 二人を煽るようなエラーブラッドの発言。
 それは、友を敵に変えに向かう二人を試してのものか、それとも彼女お得意の皮肉か。
 敏明と透香は、その言葉に顔を見合わせて苦笑した。
 笑えるような状況ではない――笑うしかなかったのだ。 
 「……行こう」
 「…はい」
 「ええ」
 敏明の言葉に透香とエラーブラッドが頷く。
 そうして黒い仮面の少年を先頭に、三人は連れ立って歩き出した。
 それぞれの心の中に、黒い感情を隠したままで。

 ・

 「ここは……?」
 佑太郎とアバドンが辿り着いたのは、塔の中とは思えない広さの大広間だった。
 まるで映画の中に出てくる大聖堂のように、厳かな雰囲気に包まれた空間。
 天井のステンドグラスは、天使ではなく悪魔をモチーフに描かれている。
 黒翼を生やした人間と、翼を持たない人間。
 その悪魔に追われ、逃げ惑う人々の抽象画――血を連想させるような鮮やかな真紅。
 「……禍々しい、な」
 「そうだね」
 佑太郎の言葉に、アバドンは静かに頷いた。
 もっとも、悪魔であるアバドンはその構図にどこか安息を覚えてもいたのだが。
 
 「ようこそ。柊 佑太郎――――咎人の聖域へ」

 広大な空間に、少年の声が響いていた。
 どこかで聞いた、それでいて聞いたことのないような声に、佑太郎が身構える。
 声の元は、聖堂を一周するように設けられた通路――その踊り場から。
 そこに立っていたのは、黒衣に身を包んだ少年だった。
 漆黒の仮面で覆われて表情は伺い知れないが、既視感を覚える雰囲気。
 見る者に少年と確信させる幼さ――顔が見えない分、彼の内面がそう見させるのかも知れないが。
 「……大罪か……ッ」
 鋭い視線で睨み付ける佑太郎。
 静かだが、その声音には怒りと焦燥が浮かんでいた。
 いつでも抜き放てるようにと剣に添えられた手を見て、踊り場から見下ろす黒衣は肩を竦める。
 「……そういきり立つなよ」
 「透香はどこだ!」
 「すぐに会わせてやる……ここに来た意味のひとつは、それだからな」
 黒衣が手招きする。
 すると、その横に佑太郎とアバドンのよく見知った顔が現れた。
 「と……透香!!」
 「だ、大丈夫!? 透香ちゃん!!」
 「……」
 二人の叫び声に、しかし透香は哀しげに首を横に振るだけだった。
 その様子に違和感を感じたのか、佑太郎の表情が徐々に歪に歪んでいく。
 「と、透……香……?」
 「…おわかれ、です」
 おわかれ。
 その言葉を受け入れたくないと言わんばかりに、佑太郎が首を横に振る。
 「何で……どうしてだよ!」
 「…いままで、いっぱい……ありがとう」
 「そうじゃないだろ! そうじゃないだろ、透香!」
 佑太郎の悲痛な叫びに、しかし透香は言葉を返さない。
 何かを言うのが辛いのだと――そう訴えるかのように、壊れた人形のように首を横に振るだけだ。
 アバドンは、両手を口元に当てたまま言葉を発することもできずにいた。

 「…わたし……ひろいせかいで、やっぱり……」

 その切り出しに、佑太郎の脳裏をあの夜の歌声が過ぎる。
 それは、透香に言わせてはいけない一言。
 透香の中でどんな転機があったのか、佑太郎は知らない。
 それでも、その言葉だけは言わせてはいけないと――佑太郎は、声の限りに叫んだ。

 「言うな……言っちゃダメだ!! 透香ああああッ!!!」

 その言葉は届かなかったのか。
 透香は、異形に染まらぬ右目から一筋の涙を流しながら――その言葉を告げた。

 「…ひとりぼっち」

 ぴしり、と音を立てて罅割れるかのように、佑太郎の心を哀しみと失意が引き裂く。
 声を上げることもできず、立ち尽くすしかできなかった。
 その一言は、透香がずっと感じていた隔たりであり、佑太郎が埋めようと努めた溝。
 佑太郎が認めたくないと拒み、目を背けていたもの。
 それを突きつけられたからこそ、佑太郎の心は千々に引き裂かれた。
 或いは、透香にとってそれは淡い恋の終わり――自らに課したけじめだったのかも知れない。
 だが、失意に満たされた佑太郎の心は、それを慮ることはできずにいた。
 「透香……何で……」
 「…さようなら」
 明確な別れの言葉。
 それだけを告げると、透香は佑太郎たちに背を向けた。
 透香には判っていたのだ。

 守谷の措置や蝿王の支配――そういったものは関係なく、柊 透香は既に限界に来ているということを。

 言わば屍のような状況で、蝿王の苗床として生き続けてきた少女。
 分不相応な霊力をその身に宿して、蝿王の支配に抗って生き続けた彼女の精神は、崩壊を間近に控えていたのだ。
 維持できない記憶、途切れ途切れになる自意識、自分を認識できなくなる恐怖。
 そういったものに抗い続け、戦い続けてきたのが透香だったのだ。
 だが、それでも限界はある。
 単身で守谷の元に赴いたのは、少女の人格が完全に消失する前に、記憶を取り戻したかったからだ。
 もう助かることはできないだろうことを、透香は知っているのだ。
 だからこその、別れ。
 それは、柊 透香という少女が遠からぬ内に済ませねばならない、別離の儀式だった。

 「……透香さん。もう行って」

 仮面の男の言葉に従うように、透香は頷いてその場を去る。
 何を言っていたのかは、佑太郎自身にもよく判っていなかった。
 ただ心のままに叫び、彼女を呼び止めようとしたことだけ――その認識だけが、鮮明に脳裏にこびり付いていた。
 だが、透香はついぞ振り返ることもなく佑太郎の前から姿を消した。
 「ゆーくん……」
 アバドンが、立ち尽くす佑太郎の背をそっと抱き締める。
 その壊れ物を扱うような手つきに、佑太郎の頬を一筋の涙が伝っていた。
 過ぎたる失意は、激情に変わる。
 自分の心が壊れないように、やり場のない感情の矛先を何かに求める。
 そして――

 「お前か……」

 佑太郎にとって、その存在は目の前にいる仮面の男に他ならなかった。
 背中の暖かさに目もくれず、佑太郎は漆黒に身を包んだ男に憎しみの目を向ける。
 「ダメだよ……ゆーくん、ダメ……!」
 「お前が……!」
 アバドンの制止も届かない。
 柊 佑太郎は、そんな目を誰かに向けてはいけないと――自分を救った瞳を、そんなにも歪めてはいけないと。
 救われた自分を否定しないで欲しいと、そう訴える言葉も、今の佑太郎には届かない。
 大切な何かを失った失意。大切な何かを奪われた憤り。
 絆を失ったあの時の痛みがフラッシュバックし、その熱が佑太郎の心を焼き焦がす。
 
 「返せ!! 透香を……透香を返せえええええッ!!!」

 背の暖かさ――アバドンを振り払い、佑太郎が駆け出す。
 ヒヒイロカネの銀刃を抜き放ち、同時に“透の蝶”を展開――その全てを、攻撃の一手に。
 「ダメ! ゆーくん!!」
 佑太郎の背中に手を伸ばす。
 しかし、黒衣の少女が伸ばした手を振り払うように、真紅の軌跡が手の甲を打ち据えた。

 「ふふ……あは、あははははははははははは!!!!」

 狂ったような哄笑。
 それは、酷く聞き親しんだ声音――まるで、少女が世界に絶望していた頃のような声だった。
 真紅の軌跡の先――聖堂の壁際に寄り掛かって笑う、黒衣の少女。
 その姿は、紛れもなく自分。
 アバドンは困惑する自分を必死に諌めながら、悪意ある哄笑を垂れ流す少女の貌を睨み付けた。
 「……酷い有り様ね。
  男に捨てられて、惨めに手を延ばして……ふふ……あはは……!」
 「黙って。殺しちゃうよ?」
 「…………おばかさぁん。そうやって、出来もしないコトを言っちゃうなんて……。
  ふ、ふふ……あは、あははは……」
 壊れたように、笑い続ける少女。
 その笑みは、無性にアバドンの殺意を掻き立てた。
 
 「――――いいわ。殺してあげる♪」

 アバドンの目が、鋭利な刃物のように細められる。
 それは、佑太郎の傍に寄り添う少女のものではない――悪魔と、朽ちたる太陽と呼ばれた少女の貌。
 
 「「逃げられると思うな!」」

 重なり合う、戦意に満ちた二人の咆哮。
 佑太郎の殺意は、黒い仮面に向けて……アバドンの殺意は、目の前の自分に向けて。
 
 ――――斯くして、戦端は開かれた。
2007年05月06日(日) 09:20:11 Modified by ID:PJPlxrdg+g




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