第二話「孤独と慟哭」


 空が静寂の藍に包まれた頃合。
 敏明は、佑太郎に案内された拠点へと案内された。
 二階から上が崩壊している、かつてはマンションだった建築物。
 既に本来の用途を為さず、それでもなお形骸として存在を留める終わりの象徴。
 四人は、その中で火を用意して温まることにした。
 「ここはもう一人、別行動を取っている仲間も使ってる。そいつは、帰って来たら紹介するよ」
 「そうなのか」
 佑太郎の言葉に、敏明はさほどの興味を示すことなく呟く。
 廃ビルに着く頃には、昼頃まで抱いていた高慢な思考はすっかり成りを潜めていた。
 何も出来なかった。
 世界の王だと奢ってはみたが、あの銃弾が異物に突き刺さらなければ、敏明は間違いなく死んでいた。
 佑太郎たちが通りがからなければ、あのまま野垂れ死んでいたかも知れない。
 間違いなく、今晩の寝床には困っていただろう。
 (俺は何なんだよ……世界を変えたんじゃなかったのか? 俺の望む形に変えたんじゃ……)
 幾度となく繰り返してきた問い掛けを反芻してみるが、その答えは依然として見つからない。
 「こんな場所だが、ゆっくり休んでくれ」
 「ああ」
 気のない返事を返しながら、敏明は深く溜息を吐いた。
 先ほどから、佑太郎たちに対して募っていく苛立ち。
 形を為すことなく、それでも茫洋と積み重なっていく負の感情。
 何でそう思うのかは判らないが、穏やかに語り合う佑太郎たちを見ていると、苛立ちが収まらない。
 嫉妬か羨望か、それ以外の感情か。
 ともあれ、それを持て余していた敏明は、佑太郎たちに対して過度な接触は持つまいと決めていた。
 利用できるところだけは、利用すればいい。
 別にここで過ごさねばならない道理など、元からないのだ。
 (こんな世界で、誰かを信用なんて……できるもんかよ)
 世界そのものへの疑念を抱く敏明にとって、この世界に信用できるものなど何一つとしてないのだ。
 見ず知らずの自分に親切に振舞う佑太郎とて、例外ではない。
 世の中には、親切であるように見せかけて相手を平然と騙す輩とて存在するのだ。
 (俺は一人で生きていける。一人でやっていけるんだ)
 自分に言い聞かせるように、心の中で反芻する。
 そう、一人でいい。
 誰かと馴れ合う必要なんてないのだ。
 「まずは、食事にしようか」
 佑太郎の声で我に返った敏明は、その言葉に頷いて返す。
 一食分の携帯食を胃に収めたばかりなので、そこまで空腹感があるわけではない。
 だが、別に食べられない程ではないし、食事は出来る時に最大限まで食い溜めしておくべきだと思った。
 「さっきと同じ非常食だけど、いいかな」
 「ああ」
 敏明の返答を聞き届けてから、荷物が置いてある角のスペースへ足を向ける佑太郎。
 人懐っこい笑みを浮かべた彼の背中を見やって、敏明の中に僅かばかりの寂しさが過ぎる。
 (……信用なんて、できるもんか)
 胸中でもう一度だけ呟くと、ぱちぱちと燃える火へと視線を移した。
 ちくりと、胸の奥を刺すような痛み。
 敢えてそれに気付かない振りをしながら、敏明は小さく毒づいた。
 「……くっだらねぇ」

 ・

 ・ 

 それから十数分ほど経って。
 腰を落ち着けて、軽く食事を摂りながら佑太郎は、同行していた二人の少女のことを敏明に紹介した。
 大人しい方の少女は透香、黒いドレスの少女はアバドンというらしい。 
 透香は寡黙で大人しそうな娘で、一方のアバドンは無邪気で天真爛漫といった印象だ。
 「何で二人は、柊さんの所に?」
 「ゆーくんにメロメロにされちゃったから♪」
 「…おもいで、さがしてもらうためです」
 それぞれが、佑太郎の元にいる理由を簡潔に話す。
 アバドンは単純に佑太郎に惚れたからのようだが、透香の方はどうにも訳有りらしい。
 だが、それを聞くことは敏明には憚られるように思えて、口を噤んだ。
 踏み込んではいけない領分というものは誰にでもある。
 それに、今の敏明からしてみれば“深入り”など持っての他なのだ。
 「ま、何はともあれ。よろしくね、とっしぃ♪」
 「…よろしくおねがいします」
 「と、とっしぃか」
 それぞれが、紹介の締め括りに挨拶を交わす。
 最近は新たな人と会う機会に恵まれていなかった敏明にとって、それは妙にこそばゆい感覚だった。
 だが、それに流されるわけにはいかない。
 情が移れば、佑太郎たちと少しでも長く一緒に居たくなる。
 「こちらこそ。よろしく」
 浮ついた気持ちを必死に抑えながら、いささかぶっきらぼうに二人に言葉を返す。
 それでも、多少な心情が表情に出ていたのだろう。
 照れ隠しとでも受け取られたのか、二人にさほど気分を害した様子はなかった。
 「次は君の番だな、双葉くん」
 「? 俺はあんたらに名前を教えたと思うんだが」
 「いや。まだ聞いていない事があるだろ」
 不意に、佑太郎の目が細められる。
 それは朝方に出会った男と同質の、こちらの腹の内を探るような瞳。
 思わず萎縮してしまうような、力ある眼光だった。
 「……君がなぜ禁域にいたのか、そして君は一体何者なのかを」
 先ほどまでのような友好さではなく、幾ばくかの警戒心と疑念が込められた言葉。
 それは、佑太郎たちが敏明を信用していない事の証明でもある。
 尤も、信用されるような事は何一つとしてしていないのだが。
 (……まあ、そんなもんだよな)
 今までの親切な対応は、敏明から情報を聞き出す為の対応。
 そう思えば、見ず知らずの敏明に対して友好的だったことにも合点がいく。
 話さなかった場合の対応は、今朝会った男と同じなのだろう。
 「……OKだ、話すよ」
 元より、敏明には選択肢など用意されてはいないのだ。
 穏便に事を運ぶ為には、ここで妙な隠し立てなどしない方がいいに決まっている。
 (黙ってたって、話は進まねぇだろうしな)
 溜息をひとつ吐いてから、敏明は自分の置かれている現状を語った。
 本来は黒暦市の住人で、つい昨日まで荒廃などしていなかったこの町に住んでいたこと。
 朝方に出会った男から聞いた“現実”と自分の把握している“現実”が食い違っていること。
 自分の中でひとつずつ整理するように、“事実”だけを明確に告げる。
 (“力”に関しては……言わない方がいいよな。説明つかねぇし)
 下手にそんな事を言ったら、この場で佑太郎に排除されかねない。
 それに、あの異質な存在と相対した時に“力”が行使できなかったという決定的な事実がある。
 制御方法が判っていないだけだとも思ったが、もしかしたらそんな“力”はないだけかも知れない。
 現状、力の有無すら明確ではないのだ。
 それに関しては、黙っている方が賢明だろう。
 一通りの説明を終えて敏明が深く一息つくと、佑太郎は顎に手を当てて考え込むように言った。
 「なるほどね……まるで違う世界から来たみたいだな」
 「並行世界ってやつか。でも、そんな事はありえねぇだろ」
 「そうとも限らないさ。場所がこの禁域である以上は尚更な。
  ここは“位相が歪んだ世界”と言われてるんだ。他の世界と繋がったとしても不自然はない。
  本当に、頭でっかちの学者たちの推論が正しければ……という前提でだけどな」
 佑太郎が肩を竦める。
 そこに、アバドンが捕捉するように続けた。
 「正しいよ」
 「え? 何が?」
 「ゆーくんの言ってた話。頭でっかちの学者の推察は正しいって言ったんだよ♪
  ここは世界が歪んで禍ってる。だから、並行世界や異世界と連結しやすくなってるんだよ。
  もっとも、世界自体の“変化”で人そのものがシフトするかと言われるとビミョーなトコだけどね♪」
 さらりと説明するアバドン。
 しかし、敏明にはそれが全くと言っていいほど理解できなかった。
 (おいおい……ゲームか何かの話かよ、そいつは)
 TVゲームで出てくる裏設定のような話。
 敏明がアバドンの言葉を自分なりに考えて判ったのは、ここが『他の世界と繋がりやすい場所』だという事。
 しかし、それが判っても今の状況の説明にはなりそうになかった。
 少なくとも、敏明にとっては。
 「まあ……事象変移に巻き込まれたのは、双葉くんが異能者だからなんだろうけど……」
 「は? い、異能……って、俺がか?」
 見透かすような佑太郎の言葉に、思わず敏明は上ずった声を上げた。
 『異能者』。
 アングラなどで囁かれている、特異な能力を持つ人間の総称。
 まさか、本当に居るとは思いもしなかった。
 「違ったかい? 割と大きめの“波調”を感じたんだけど……俺の気のせいかな」
 「ゆーくんが気のせいなら、私も気のせいってことになるのかな♪」
 さっきの話が退屈だったのか、それとも疲れが溜まっていたのか。
 静かな寝息を立てる透香に毛布をかけながら、アバドンが笑う。
 (俺が……異能者……やっぱりそうなのか)
 佑太郎とアバドンの言葉に、胸中で独りごちる。
 異能者であるのが間違いないのだとすれば、能力が攻撃などの物ではないと言うことなのか。
 「なあ、あんたも異能者ってヤツなのか?」
 「僕はそうだな。式神使いって言ってわかるかな……“力”を結晶化して生み出したモノを使役する。
  そういう類の能力者だな。だから、君が異能者かどうかもおぼろげに察しがついたって訳さ。
  ちなみに、アバドンも透香も異能者だ。二人は特殊な例だけど」
 「へぇ……」
 これで佑太郎側には異能者が三人。
 現状で、敏明を殺せるだけの力は持っているであろう事くらいは容易に想像がつく。
 (だったら、情報だけ聞いてトンズラするか……?)
 そんな考えが脳裏を過ぎる。
 逃げるかどうかは別として、異能者の――特に、“力”に対する情報は必要になるだろう。
 もしかしたら、敏明の能力が何なのかまで把握しているかも知れない。
 敏明は、その仮説に少しばかりの期待を寄せて、駄目で元々のつもりで聞いてみることにした。
 「なあ。俺の能力が何なのか、あんたに判るか?」
 「いや……僕にはちょっと判らないな。アバドンはどうだ」
 「さすがにそこまではわかんないよ。とゆーか、とっしぃは自分の力が何なのかわかんないの?」
 「生憎とな。俺は昨日まで普通の人間だったもんでな……さっぱりだ。
  見たこともないこの世界の事を夢で“見た”けど、それっきりって感じだよ……ったく」
 アバドンの問い掛けに、首を振って答える敏明。
 やれやれと言った感じに、アバドンも溜息をひとつ吐く。
 だが、佑太郎だけは考え込むように、ぶつぶつと独り言を繰り返していた。
 「世界を“見る”……いや、まさか……」
 「あん? どうしたんだ?」
 「双葉くん。念の為に聞くけど、君は……時間の“先”を見たことはあるか?」
 佑太郎の言葉に、首を傾げる。
 (未来予知の事か? だが、何でそんな回りくどい言い回しをする……似て非なるものってことか)
 似て非なるもの。
 見るものは“未来”ではなく“時間の先”。
 その辺が妙に引っ掛かる言い回しだった。
 「時間の先、と言うか……」
 敏明は、その違和感を省みている内に徐々に気付いていた。
 そう、あの時に夢の中で見たもの。
 (何で俺は忘れてた? あんな“モノ”を見ておいて……!)
 それは、時間の先などではない。
 もっと抽象的で、大袈裟で、圧倒的なもの。
 そう、それはまるで――
 「世界の“図面”と言うか……そういうものを読み取っていたような……。
  俺の意識が拡がっていって、世界の構成要素みたいなものを俯瞰してるような……って悪い、意味わかんねぇな」
 敏明の呟きに、佑太郎が頻りに頷く。
 世界の図面を読み取る力。
 直感の示すままに言ってはみたものの、自分でも言っていてさっぱり理解できない。
 仮にその通りの力だとしても、それが何の役に立つ力なのか。
 「君の力が何かは判らないけど、異能者であることは間違いなさそうだな」
 顔を上げた佑太郎の言葉に、敏明は苦笑した。
 「使い方がわかんねぇ以上は、宝の持ち腐れだけどな」
 「大丈夫、いずれわかるよ。自分の“力”ってのは、そういうものだから♪」
 「ふぅん……だといいんだがね」
 肩を竦める。
 アバドンの言葉に実感が持てないせいか、それはどこか空々しく聞こえた。
 “力”があることを実感できるからこそ言える言葉。
 それを言われたところで、納得などできないと内心で毒づく。
 (ちっ……どうやら、これ以上佑太郎とアバドンから聞き出せる話はないみたいだな)
 期待するほどの情報が手に入らず、微かに舌打ちする。
 せめて、持ち得る“力”がどんなものか、その輪郭だけでも判ればよかったのだが。 
 何か心当たりでもあるかのような、佑太郎の態度は気になったが、追求して答えそうな雰囲気ではない。
 (それに……)
 今の今まで、忘れていた夢。
 夢を見ていたことは覚えていたのに、その後の事を綺麗さっぱり忘れていた。 

 断続する世界を俯瞰するような錯覚。
 並ぶ時間、分岐する歴史、励起する境界。
 その全てを眺めていたような――――

 「あぐッ!?」
 不意に頭の中に走ったノイズが、思考を焼く。
 脈打つように、視界を覆う紅の光。
 ちりちりと痛む目の奥。
 眉間の辺りを抑えながら、視線を床へと落とす。
 「どうした? 双葉くん」
 「だいじょーぶ?」
 佑太郎とアバドンが声を掛けるが、それに返す余裕がない。
 息を整えながら、思考を焼く痛みを和らげるように、心を空洞にする。
 何も考えないように、胸の鼓動に意識を集中する。
 やがて、胸の鼓動に沿うように脈打っていた紅の光が収まり、頭痛が引いていく。
 「……具合が悪いのか。大丈夫か、双葉くん」
 「あ、ああ。問題ねぇ」
 搾り出すように、佑太郎に答える。
 敏明の中の“何か”が拒否するように、夢の終わりを思い出そうとした瞬間に襲った頭痛。
 まるで、思考を強引に拡散させようとでもするかのような赤い光。
 (くそ……しばらく、この問題はお預けかよ)
 内心で歯噛みする。
 疲れているのかも知れない。
 あまり深く考えることはせず、精神と身体を休めることに専念した方がいいのかも知れない。
 最後に大きく息を吐き出してから、俯けていた顔を上げた。
 「ちょっと疲れてるのかも知れねぇ。くらっと来ただけだ」
 「そうか。ならいいんだけど……」
 心配そうな佑太郎に、苦笑しながら肩を竦めて見せた。
 ゆっくりと立ち上がる。
 まだ少しふらつく感はあるが、歩けないほどではない。
 「どこか行くのか?」
 「上の階。屋根がなかったから、ちょっとしたプラネタリウムになってそうだからさ」
 「そうか……冷えないように、毛布だけ持って行くといいよ」
 「いや、すぐ戻るから」
 後ろ手を振りながら、階段の方へと向かう。
 佑太郎が心配そうに溜息を吐いているのが聞こえたが、敢えて聞かない振りをする。
 親切なのはいいのだが、今の敏明にはどうにも煩わしい。
 「やれやれだ」
 少し首を振りながら、敏明は崩壊した二階へと向かった。

 ・

 「こいつは……」
 二階に上ってから、目に入ったのは一面の星空。
 汚染された空に浮かぶ星など大した事はないだろうと思っていたが、高い建物が軒並み倒れたせいだろう。
 開けた夜空は、中々の展望だった。
 少しばかり肌寒いが、頭を冷やしたいと思っていた敏明にとってそれは大して苦ではなかった。
 「よっこらせっと」
 瓦礫の少ない床に腰掛け、そのままごろりと仰向けになる。
 一面に広がる夜空が清々しい。
 「ま、俺がいない方があいつらも気が休まるだろ」
 何気なく呟いてから、自分のネガティブさに溜息を吐く。
 確かに、敏明は輪の中に紛れた不協和音かも知れない。
 だが、それを気にして声にまで出す辺り、精神的に相当疲れているのだろう。
 思えば、今日は色々な事があり過ぎた。
 揺らめく影を固めたような人の形をしたモノとの交戦。
 一歩間違えば、命を落としていたのだという事を今更ながらに自覚する。
 (よくもまあ……あの場でふざけた真似が出来たもんだな、俺)
 震える腕を抑えながら、自嘲気味に笑う。
 あの時は、思考が麻痺でもしていたのだろうか。
 「だけど……俺は、生きてる」
 手を夜空に掲げてみる。
 藍を遮って拡がる手の陰に、歪な笑みを漏らす。
 やはり、敏明の奥底に“力”は存在した。
 その“力”が、敏明を殺さない。
 “力”がある限り、世界は敏明を生かし続ける。
 何故か、漠然とそんな思考が浮かび上がって、泡のように弾けて消えた。
 「く……はは、あははははは……!」
 今更のように込み上げてきた生の実感と、それに伴う高揚感。
 我慢できずに、思わず声を上げて笑った。
 下にいる佑太郎たちに気付かれぬよう、少しだけトーンを抑えた声で。
 まるで何かを嘲笑うように、押し殺した声で笑い続けた。
 そうして一頻り、笑い疲れた敏明は怠惰な表情を浮かべて夜空に目をやった。
 笑いが絶えた後に訪れた空虚が、敏明に僅かばかりの感傷を齎す。
 「そういや、どうなっちまったんだろうな……親父たちは」
 不意に、そんな疑問が胸を過ぎる。
 死んでしまったのか、それともまだ廃墟の何処かで生きているのか。
 或いは世界が変わった時に消滅してしまったのか。
 「……ふん、どうでもいいさ」
 自分に言い聞かせるように、声に出す。
 ちくり、と胸が痛んだ気がした。
 投げ遣りなその言葉ですらも、敏明の胸を締め付けて離さない。
 こんなにも嫌っていた筈なのに。
 「くっだらねぇ」
 敢えて声に出して、切って捨てるように敏明はそう言い放った。
 孤独が胸を苛む。
 独りであるという事が、世界を余計に広く思わせる。
 広いこの世界に、たった一人ぼっち。
 そう思うと、たまらなく叫び出したくなる。
 誰かの存在を、精神的にも物理的にも、誰かとの繋がりを自分の傍に求めたくなる。
 これ以上考えていると、どこまでも深みに嵌りそうだった。
 だから、その思考を切り捨てようと思った。
 そうしないと、この胸に巣食う弱さに押し潰されてしまいそうだから。
 (知らなかった……)
 そう、敏明には判らなかった。
 当たり前の誰かが、自分の中からぽっかりと抜け落ちることが、こうも寂しいことだなんて。
 もしかしたら、家族が旅行に出かけた時の開放感を想像していたのかも知れない。
 でも、それは違う。
 帰って来ることを前提とした、仮初の孤独――言ってしまえば、孤独“ごっこ”に過ぎない。
 元の鞘に収まることを前提とした、予備動作の時間まで与えられた予定調和。
 しかし、今回はそうではない。
 忽然と、心の準備すら出来ぬままに消失した家族。
 家族だけではない――――隣の家に住む幼馴染も、学校の級友も、みんな消失した。
 文字通り“独り”になったのだ。
 (……くそったれが)
 こんな気分にさせられるとは、思いもしなかった。
 状況に怯えて、誰かの助けの手を求めているだけかも知れない。
 それでも敏明の胸は、自らと同じ時の中に在った人間の温もりに餓えていた。
 「やめよう」
 もう一度、思考停止の言葉を呟く。
 今度は完全に、この連鎖する感情を断ち切れるように。
 深く一息吐いて、気を落ち着ける。
 大丈夫だと自分に言い聞かせながら、夜空に瞬く星へとその意識を移す。
 満天とは行かずとも、建物がない分開けた空。
 それは、何も示すことはない。
 ただそこに在るだけ、世界を照らすこともない。
 その光が、何故か敏明には心を落ち着かせるもののように思えた。
 「考え事は、済んだか?」
 不意に掛けられた声に、上体を起こす。
 アバドンとの談笑を切り上げて来たのだろうか、佑太郎が敏明の傍まで歩み寄っていた。
 「ここ、いいか」
 「別に。好きにしろよ」
 ぶっきらぼうな言葉に苦笑しながら、佑太郎は敏明の隣に腰掛ける。
 それを見やってから、敏明も先ほどまでと同じように仰向けに寝転がった。
 隣に誰かがいる。
 ネガティブな追想に囚われていた敏明には、佑太郎の来訪は助け舟のようにも思えた。
 「……僕たちとは、別の道を行くんだろ」
 「!?」
 唐突に掛けられた言葉に、思わず目を見開く。
 だが、佑太郎はそんな様子など気にする素振りも見せずに苦笑した。
 「見てれば判るさ。これでも、この“場所”がこうなる前は、探偵をやってたんだ。
  それくらいは見抜ける。双葉くんは、結構気持ちが表に出やすいようだしな」
 佑太郎の穏やかな言葉が、空に融ける。
 『双葉くん』。
 その呼び方がくすぐったくて、少し不機嫌な……それでいて、照れ臭そうな声で敏明は言った。
 「……敏明、でいい」
 「そうか。じゃあ僕のことも、佑太郎でいいよ」
 少し嬉しそうに、佑太郎も笑う。
 そんなやり取りが気恥ずかしくて、敏明はぽりぽりと鼻の頭を掻いた。
 「で、どうするつもりなんだ?」
 「佑太郎……の言った通り、別行動を取るつもりだ。
  一宿一飯の恩を受けといて言うのも何だが、俺は誰の力も借りるつもりはねぇ。
  俺には“力”があるハズなんだ。だったら、そいつを使いこなす方法を探すだけだ」
 「ご家族とか、探さなくていいのか?」
 「別に。未練なんてねぇよ」
 言い捨てる敏明の顔を、寂しそうに佑太郎が覗き込む。
 敏明はそれに気付いていたが、あえて気に留めないようにした。
 「辛くはないか?」
 「何でそうなる。俺は別に辛くなんてない」
 「そうか……なら、いいんだけど」
 そこで、言葉が途切れる。
 薄っすらと浮かぶ月灯りが、流れる雲によって遮られる。
 月光がおぼろげな光に変わり、夜を照らしていた蛍灯が微かに蔭る。
 「……力を求めて、その先に何がある?」
 「あ?」
 「敏明にとって、力って何だ?」
 「さっきから質問攻めだな……俺にも、よくわかんねぇよ。
  でも、それがありゃ生き残れるし、独りでだってやっていける。
  煩わしい他人と馴れ合ってやってく必要だってなくなるんだ、万々歳じゃねぇか」
 「本当にそうか?」
 佑太郎の言葉が、視線が、胸に刺さる。
 “力があれば、本当に独りで生きていけるのか”。
 その問い掛けが、やけに鮮明に鼓膜に焼き付いて離れない。
 「さっきから何が言いたいんだよ」
 「“力”に飲まれるなよ。大きすぎる力は、自分さえも滅ぼす。
  これは綺麗事なんかじゃない。“力”は慢心を生み、慢心は過信になる。
  過信は、必ず自分の身を焼き尽くす。大切なものすら、奪っていく」
 「俺には大切なモノなんてねぇよ」
 「……そうか」
 寂しそうに、佑太郎が呟く。
 そして、懐から一振りの短刀を取り出して敏明に差し出した。
 「何だこれ?」
 「ヒヒイロカネの短刀だ。“力”ある者が使えば、魔を退ける力を示す……ウチの家宝だ」
 「か、家宝!? そんなモン受け取れねぇよ、バカ!」
 「誰もあげるなんて言ってないだろ? 次に会った時に返してくれ」
 差し出された短刀を、渋々受け取る。
 武器があれば助かるとは思うが、正直、家宝なんて大それた物を受け取るのは気が引けた。
 例えそれが、借り受けるだけであっても。
 「いいか? 必要な時以外は抜こうとするなよ」
 「ま、極力使うに越したことはねぇしな」
 頷きながら、その短刀を懐に仕舞う。
 「そうじゃない。誰かを“守る”為に使えってことだ。
  決して誰かを“傷つける”為に使うなよ。武器は、凶器にしちゃいけないんだ」
 「ふーん……」
 諭すような佑太郎の言葉に、気のない相槌を打つ。
 「いつか、敏明にも判る時が来るよ。大切なものが出来た時に、きっとな」
 「へぇ……タイセツナモノとやらがある佑太郎にはわかるってか。
  そりゃ、可愛い女の子を二人も侍らしてりゃ、そんな考え方も生まれるってか」
 吐き捨てるような敏明の言葉に、佑太郎の眉が少し顰められる。
 だが、そんな様子には構うことなく敏明はその雑言の後を続けた。
 「生憎と、そいつは恵まれた奴の考えだ。金持ちの坊ちゃんの趣向を貧乏人が理解できないのと同じ。
  お前みたいに人間関係に恵まれた奴だけが、そんな甘っちょろい考えを持てるんだよ」
 「僕の言葉が、偽善だって……そう言いたいのか?」
 「違うのかよ!」
 思わず立ち上がり、声を張り上げる。
 突然のその様子に、思わず佑太郎も気圧される。
 「俺は仲間なんていらねぇ……馴れ合いなんてしたくねぇ。
  そんなお為ごかしは、反吐が出るんだよ。お友達ゴッコは、もう沢山だ。
  誰かを助けようとしても、テメェが傷つくだけだ。それが現実、腐った世の中の仕組みなんだよ!」
 「……それで、敏明は本当にそれでいいのか?」
 「いいも何も……そうなんだから、どうしようもねぇだろうが! “そういう世界”なんだ!
  何とか自分が傷つかないようにする事しか……出来ることなんてねぇんだ」
 無力さに泣いた自分。
 誰かを助けようとして、その誰かに裏切られて、多くの誰かに傷つけられた過去。
 それらが胸中を過ぎって、敏明の心を蝕んでいく。
 誰かを助けられるのは力を持つ一部の特権。
 少なくとも、誰かを信じようなんて言う甘い考えを持っている人間には為せないこと。
 非情になって、全てを切り捨てなければ一は守れない。
 全を切り捨てて、一を守ることしか出来ないのが、力なき人間の限界なのだ。
 敏明は、これまでそう思ってきた。

 否――――思わざるを得ない事が、確かにあったのだ。

 ・

 あれは、まだ敏明が小学生の頃。
 クラスの中で一人だけ、皆から苛められていた女の子がいた。

 理由が何だったかも、どういう苛められ方をしたかも覚えていない。
 だが、敏明は幼稚園の頃からその子を知っていた。
 本を読んでばかりで、誰かと交流を持とうともせずに日々を一人で過ごす内気な少女。
 クラスは彼女を蔑む言葉を投げ掛け、時には物理的な嫌がらせをした。
 彼女は、文句ひとつ言わなかった。
 時折、耐え切れなくなったのか、哀しそうに涙を零すだけだった。 
 それを見ていて、敏明は耐えきれずに叫んだ。
 クラス中を相手に回して、その子を苛めるのをやめるように訴えたのだ。

 別に、その子に特別な思い入れがあったわけではない。
 ただ――見るに耐えなかっただけだ。
 自分が正しいことをしているという自信があったからだろう、それは何処か心地良い行為だった。
 まるで自分が、正義の味方にでもなったかのような錯覚すら覚えた。
 だからだろうか。
 敏明は、その子を全力で守らねばならないと思うようになった。
 それは、まだ本当の“好き”を知らない少年の、勘違いから始まった想いに過ぎなかったのかも知れない。
 だが敏明は、本気でその子を守ろうとした。
 クラス中の冷めた視線に怯えることなく、毅然と苛めの不当性を訴えかけた。

 例え倫理的に正当であろうとも、輪を乱す者の末路は決まっている。
 閉鎖された社会においては、特にそれが顕著に出るものだ。
 やがて敏明は、クラスから孤立していった。
 様々な罵詈雑言や陰口が、その子ではなく敏明に浴びせられるようになった。
 だが、それでも敏明に後悔はなかった。
 両親も敏明の行動を褒めたし、その子が笑うようになったからだ。
 その子の笑顔に、自分の行動の為した結果に満足していたからだろうか。
 敏明は気付かなかったのだ。
 何時の間にかその子は“線の内側”にいて、敏明だけが“線の外側”にいたことに。
 クラスに溶け込んだその子は、クラスメイトと共に敏明に雑言を投げ掛けた。
 冷めた、どこか嘲るような視線を送るようになり、当初は顕していた敏明への感謝は露と消えて。
 気がつけば敏明は、守った者に傷つけられるようになっていた。

 その時になって、ようやく知ったのだ。
 信じて、裏切られて。
 例え学校の、それも一クラスの中の出来事であったとしても、それは“世界の略図”なのだと。
 そんな世界の中で、守れるものなど一つしか選べないのだと。

 敏明はその子を守ることを選んだから、自分を守ることは出来なかった。
 その子は自分を守ることを選んだから、自分を守った敏明を庇うことはしなかった。

 それが――“限界”なのだと。

 ・

 「俺は、俺しか守れないんだよ」
 噛み締めるように、あの時の悔恨を振り払うように言った。
 守れるものが一つしかないのなら、その一を守る力は自分の為に使う。
 それが、あの時に敏明が心に決めたことだった。
 「……何があって、敏明がそうなったのかは僕には判らない。
  確かに、僕は人間関係においては恵まれてるんだろう。傍に透香も、アバドンもいてくれる。
  そんな僕だから言える、綺麗事なのかも知れない。
  でも……」
 佑太郎は哀しそうな目で言ってから、そこで一度言葉を区切る。
 何かを察したのだろうか。
 だが、それでも言わずにはいられないのか。
 誰かの為に生きて、誰かの為にしか戦えない佑太郎だからこそ、他ならぬ敏明の為に。

 「いつか、自分以外の“何か”が見つかるといいな」

 そう、言った。
 敏明の、痛みの滲むような言葉を聞いて、それでも佑太郎はそう言った。
 「……ッ」
 思わず、佑太郎から顔を背ける。
 『逃げるな』と言われているようで、それは昔に幾度も自分に問い掛けたことで。
 それでも、目を背ける以外の選択肢が見つからなくて。
 「ああ……いつか、な」
 だから、敏明はそう言うしかなかった。
 曖昧に頷いて、その言葉を心の片隅に置いておくことしか出来ない。
 それが、今の敏明に出来る精一杯。
 見ず知らずの自分の為に色々と手を尽くしてくれた佑太郎への、最大限の譲歩だった。
 「さて……僕は行くよ。余り身体を冷やさないようにな」
 腰を上げて、佑太郎は最後に一度だけ笑ってからその場を後にした。
 佑太郎は、最後に何も言わなかった。
 渡した短刀を『何かを守る為に使え』と、念くらい押したかったに違いない。
 でも、それはしなかった。
 真っ向から主張を否定されたのに、取り乱すことも、声を荒げることもなく。
 「……何だよ、くそ」
 夜風に頬を撫でられ、火照った心が少しずつ冷えていく。
 敏明を思って、護身用に武器を貸してくれた佑太郎にちゃんとした礼くらい言うべきだった。
 「守る為に使え、ね」
 懐に仕舞った短刀を取り出して、鞘から刃を抜いてみる。
 月灯りに煌く銀光。
 それを見ながら、敏明は先ほどの佑太郎の言葉を反芻していた。

 『いつか、自分以外の“何か”が見つかるといいな』

 その言葉が、胸にちくりと突き刺さる。
 「逃げ出した俺が……自分から目を背けた俺が、誰かを守ることなんて……出来るもんかよ」
 おぼろげな月の光を照り返す白刃を見やりながら、力なく呟く。
 敏明は、逃げ出した。
 誰かを信じることから逃げ出して、誰かを傷つけて自分を守ることだけを覚えた。
 自分を裏切った少女が後に中学校に進学して、再び苛められている姿を見た時に『助けよう』とは微塵も思わなかった。
 むしろ、それ見たことかとすら思った。
 いい気味だと、その少女が苛められて傷つく姿を見て清々しく思う自分。
 そんな自分を受け入れたその時から、敏明は全てに抗うことをやめたのだ。
 佑太郎のような眩しさも、彼の傍にいる少女たちのような真っ直ぐさも。
 そして、彼らのような強さも、敏明にはない。
 “力”さえ持たず、この荒れ果てた大地を這いつくばって逃げ惑う。
 今日の敏明は、まさにそんな小さな存在だった。
 
 「“力”が……全てを薙ぎ払う“力”が要るんだよ」

 刃を鞘に納めながら、敏明は自分に言い聞かせるように独りごちる。
 月明かりを照り返していた銀の刀身が、ゆっくりと鞘の闇へと飲み込まれていく。
 やがてそれは、キンという渇いた音を立てて全て鞘へと納まった。
2006年11月11日(土) 19:24:38 Modified by ID:PJPlxrdg+g




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