呟き尾形の哲学自転
--------- ドクサ
まず、一般的に、ドクサとは、事実ないし真実に対して,当人の思い込みにすぎない事柄のことをさします。
とどのつまりは、憶測・想像による考えのことであり、臆見のことです。
めずらしく、今回は一般的な意味とほぼ同様の意味になります。
さて、妥当な判断するためには、事実ないし、真実を知っていることが必要になりますが、それを知らずして、判断をすることになるとは、「ドクサ(憶測)」になります。
このドクサ、現象学、ことにエポケーにおいては、不倶戴天の敵といえるほどの存在です。
まさに、エポケーとは、このドクサをいかに取り除くかがポイントになるということになります。
ですから、現象学において、ドクサを根拠にして語る事はご法度だとされています。
なぜなら、ドクサを根拠とする理論展開ほど、ご都合主義で、かならず間違うし、自分に不利にはたらく理論展開はないからです。
ドクサとはいってしまえば、思い込みです。
思い込みというものは、自分に不利な面を見落とさせ、有利な面のみ見て判断することになります。
たとえば、 競馬やテレビ番組のクイズで参加していないときは良く当たるのに、実際参
加してみると上手くいかないのは、このドクサ(自分にとって都合の良い臆見)が悪さをしていると考えております。
他に例をだします。
たとえば、神様についてaという係数が甲さんは0、乙さんは10、丙さんは∞、丁さんは10とします。
神様について書かれた全く同じ文書を読んだとすると、甲さんはその文書からなにも見出すことはできません。乙さん、丁さんはなるほどなぁ。そんな風な考えもあるのかぁ。と新しい知識が得られ、乙さんと丁さんは話があう。と思いました。
一方、丙さんはもう感動の涙で一杯になり、甲さんの反応が気に入らなくなります。甲さんにとっては、それは迷惑な話ですが。
理想を語れば、お互いにこの係数を時と場合により変えられればよいのですけどね。
ちなみに、現象学を使うと、このaという係数の本質は、それこそドクサそのものだということを本質直観できれば、理想にかなり近づけます。
想定はドクサ(憶見)にすぎず、想定によって判断するのは現象学においてタブーですよん。ということです。
さらに、心理学における、心理主義という大きなワナがありますが、それもドクサが絡んできます。
心理主義とは、自分にとっての普通を根拠にする、あるいは、自分がそう感じるのだから他人も同じだ。という臆見(ドクサ)が絡むものです。
精神分析であろうと、深層心理学であろうと、心理主義は哲学としても、医学としても間違いの種です。
また、ドクサは、交通安全において、不利に働きます。
といいますのも、「一番事故を起こしやすいのは、「飲酒運転」「居眠り運転」「わき見運
転」などではなく、「だろう運転」だそうです。
「だろう運転」とは
「まさかこんな所から人は飛び出してこないだろう」
「ちょっとお酒を飲んでしまったけど、このくらいなら運転できるだろう」
と
いうように、「だろう、だろう」と思ってしてしまう運転が、一番危険な運転だということです。
この「だろう運転」の「だろう」はまさに臆見(ドクサ)です。
現象学において、認識できるものを根拠とするのではなく、見る。聴く。触る。味わう。嗅ぐなどの知覚できるもののみを根拠としています。
他は全部、先入観によるドクサ(憶測)であり、いくらでも疑えるものであるということです。
つまり、ここで私が具体的な話をしても、それも原理的には言葉だけの架空の話でありドクサ(憶測)に過ぎない。ということです。
現象学を説明するために、ドクサ(憶測)によって説明するなんて本末転倒で
す。
根拠もなく、確かめることなく確信を持つという判断は、思い込み(ドクサ)です。
現象学は、言ってしまえば、体験の鮮度を重視するということなのかもしれません。
体験の鮮度というのは、記憶と実体験の一致する度合いのことをいいます。
たとえば、1年前の体験と現在の体験がどちらが、実体験と記憶が一致するかということです。
体験の鮮度が良いと、自分自身のリアルな感覚に思い込みが入る余地は、少なくなります。
しかし、体験の鮮度が悪いと、記憶の補正が入り、ドクサの入る隙が大きくなるということです。
このように、ドクサは自分にとって説得力を帯びるものですが、他人や現実には一切説得力を生じさせない、自己完結的な思い込みであるということです。
自分にとっての普通を根拠にして、自分の判断を自己批判できない方が見受けられます。
これは、まさにドクサによって自己完結し、相手になんら説得力を帯びない根拠と説明で強引に価値観を押し付けている。
ということに他なりません。
もっとも、ここまで言っておいてなんですが、ドクサは、本質が含まれていない。ということは述べたことはありません。むしろ、本質からさまざまな認識が生まれ、それが知識として蓄積され、ドクサを生むということでもあります。
いろいろ不利に働くドクサですが、それは経験によって体験の慣性化がなされ、より合理的な黄道が可能になるということです。
ドクサはその副作用といえるかもしれません。
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呟き尾形の哲学自転
--------- ドクサ
まず、一般的に、ドクサとは、事実ないし真実に対して,当人の思い込みにすぎない事柄のことをさします。
とどのつまりは、憶測・想像による考えのことであり、臆見のことです。
めずらしく、今回は一般的な意味とほぼ同様の意味になります。
さて、妥当な判断するためには、事実ないし、真実を知っていることが必要になりますが、それを知らずして、判断をすることになるとは、「ドクサ(憶測)」になります。
このドクサ、現象学、ことにエポケーにおいては、不倶戴天の敵といえるほどの存在です。
まさに、エポケーとは、このドクサをいかに取り除くかがポイントになるということになります。
ですから、現象学において、ドクサを根拠にして語る事はご法度だとされています。
なぜなら、ドクサを根拠とする理論展開ほど、ご都合主義で、かならず間違うし、自分に不利にはたらく理論展開はないからです。
ドクサとはいってしまえば、思い込みです。
思い込みというものは、自分に不利な面を見落とさせ、有利な面のみ見て判断することになります。
たとえば、 競馬やテレビ番組のクイズで参加していないときは良く当たるのに、実際参
加してみると上手くいかないのは、このドクサ(自分にとって都合の良い臆見)が悪さをしていると考えております。
他に例をだします。
たとえば、神様についてaという係数が甲さんは0、乙さんは10、丙さんは∞、丁さんは10とします。
神様について書かれた全く同じ文書を読んだとすると、甲さんはその文書からなにも見出すことはできません。乙さん、丁さんはなるほどなぁ。そんな風な考えもあるのかぁ。と新しい知識が得られ、乙さんと丁さんは話があう。と思いました。
一方、丙さんはもう感動の涙で一杯になり、甲さんの反応が気に入らなくなります。甲さんにとっては、それは迷惑な話ですが。
理想を語れば、お互いにこの係数を時と場合により変えられればよいのですけどね。
ちなみに、現象学を使うと、このaという係数の本質は、それこそドクサそのものだということを本質直観できれば、理想にかなり近づけます。
想定はドクサ(憶見)にすぎず、想定によって判断するのは現象学においてタブーですよん。ということです。
さらに、心理学における、心理主義という大きなワナがありますが、それもドクサが絡んできます。
心理主義とは、自分にとっての普通を根拠にする、あるいは、自分がそう感じるのだから他人も同じだ。という臆見(ドクサ)が絡むものです。
精神分析であろうと、深層心理学であろうと、心理主義は哲学としても、医学としても間違いの種です。
また、ドクサは、交通安全において、不利に働きます。
といいますのも、「一番事故を起こしやすいのは、「飲酒運転」「居眠り運転」「わき見運
転」などではなく、「だろう運転」だそうです。
「だろう運転」とは
「まさかこんな所から人は飛び出してこないだろう」
「ちょっとお酒を飲んでしまったけど、このくらいなら運転できるだろう」
と
いうように、「だろう、だろう」と思ってしてしまう運転が、一番危険な運転だということです。
この「だろう運転」の「だろう」はまさに臆見(ドクサ)です。
現象学において、認識できるものを根拠とするのではなく、見る。聴く。触る。味わう。嗅ぐなどの知覚できるもののみを根拠としています。
他は全部、先入観によるドクサ(憶測)であり、いくらでも疑えるものであるということです。
つまり、ここで私が具体的な話をしても、それも原理的には言葉だけの架空の話でありドクサ(憶測)に過ぎない。ということです。
現象学を説明するために、ドクサ(憶測)によって説明するなんて本末転倒で
す。
根拠もなく、確かめることなく確信を持つという判断は、思い込み(ドクサ)です。
現象学は、言ってしまえば、体験の鮮度を重視するということなのかもしれません。
体験の鮮度というのは、記憶と実体験の一致する度合いのことをいいます。
たとえば、1年前の体験と現在の体験がどちらが、実体験と記憶が一致するかということです。
体験の鮮度が良いと、自分自身のリアルな感覚に思い込みが入る余地は、少なくなります。
しかし、体験の鮮度が悪いと、記憶の補正が入り、ドクサの入る隙が大きくなるということです。
このように、ドクサは自分にとって説得力を帯びるものですが、他人や現実には一切説得力を生じさせない、自己完結的な思い込みであるということです。
自分にとっての普通を根拠にして、自分の判断を自己批判できない方が見受けられます。
これは、まさにドクサによって自己完結し、相手になんら説得力を帯びない根拠と説明で強引に価値観を押し付けている。
ということに他なりません。
もっとも、ここまで言っておいてなんですが、ドクサは、本質が含まれていない。ということは述べたことはありません。むしろ、本質からさまざまな認識が生まれ、それが知識として蓄積され、ドクサを生むということでもあります。
いろいろ不利に働くドクサですが、それは経験によって体験の慣性化がなされ、より合理的な黄道が可能になるということです。
ドクサはその副作用といえるかもしれません。
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呟き尾形の哲学自転
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