呟き尾形の個人的な資料です。

花火の日
 1733年(亨保18年)に両国川開き(隅田川花火大会)が旧暦5月28日であったことから、5月28日が花火の日となっています。
 両国川開きのきっかけは、1732年(亨保17年)に起こった大飢饉でだったそうです。
 この年は、西日本一帯にいなごの大群が発生するなど例年にない凶作となり、多数の餓死者が出ました。
 飢饉に追い討ちをたてるように、疫病が流行して多くの死者を出すなど散々な年でした。
 これを重くみた幕府(8代将軍吉宗)は、1733年(亨保18年)5月28日、その慰霊と悪病退散を祈って、隅田川において水神祭を挙行したそうです。
 このとき、両国橋畔の料理屋が公許を得て、同日川施餓鬼を行い、花火を上げたというのが、後年、川開きとして年中行事化されていったというわけです。

 ただし、8月1日も花火の日になっています。
 これは、花火が解禁されたのが1948年の8月1日だったこと。
 東京本所厩橋で玩具問屋爆発事故とよばれる、死者を18名をだすという大規模な花火爆発事故の起きた1955年8月1日であったこととその追悼。
 世界最大ともいわれる教祖祭PL花火芸術の開催日が8月1日であったことがかねられて制定されたものだともいわれています。

 さて、この花火の歴史ですが、紀元前3世紀の中国で爆竹が使用されたのが起源だという説もあります。
 他にも、最初期の花火は6世紀、中国で火薬が使われるようになるのとほぼ同時期に作られはじめたと考えられているそうです。
 ただし、10世紀まで花火は存在しなかったという異説もあります。
 6世紀にしろ、10世紀にしろ、発明の地は中国であったとされています。
 最初期のものは、現在のような観賞専用というわけではなく、ロケット花火に似た花火を敵陣に打ち込んで火事を起こしたり相手を威嚇したりといった、武器との区別がはっきりしないものもありました。
 この花火がヨーロッパに伝わったのは13世紀以降だといわれています。
 初期のものは祝砲の音を大きくしたり、煙に色などがつくようにしたものだったと考えられています。
 ヨーロッパでの主な生産地はイタリア(当時の東ローマ帝国)だったそうです。
 この時代の花火は、ヨーロッパの花火は主に王侯貴族のものであり、王の権力を誇示するため、王が催すイベントなどで揚げられたそうです。
 ちなみに、ロケットを除く打揚花火(私たちが花火大会で観賞する花火)は、イタリアで開発されたという説もあります。
 で、日本で花火が製造されるようになったのは16世紀の、鉄砲伝来以降だそうです。
 記録によれば、1613年に徳川家康が江戸城内で花火を見物したと記されています。 
 ただしこれより前にも花火を楽しんらしいと思われる記録はあります。
 1589年に伊達政宗が仙台で花火を楽しんだという記録。
 1582年4月14日にポルトガルのイエズス会宣教師が現在の大分県臼杵市の聖堂で花火を使用したという記録。
 1558年(もしくは、1560年)に現在の愛知県豊橋市にある吉田神社の例祭で花火を始めたという記述。
 などがあるともいわれていますが、1613年の徳川家康の花火見物が、花火という単語を使った記録だといわれています。
 江戸時代にはいり、花火を専門に扱う火薬屋が登場しましたが、1648年には幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れがだされているそうです。
 今も昔もかわらず、花火は当時から人気があったとされていたそうです。
 当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられています。

 さて、花火大会に「か〜ぎや〜」、「た〜ま〜や〜」
 といわれますが、これは、江戸時代、打上げ・仕掛け花火製造の元祖が「鍵屋」だったことがあげられます。
 で、7代目鍵屋の時、番頭清吉を両国に別家して「玉家」を称して以来、鍵屋は両国橋の下流、玉屋は上流で打ち上げ「鍵屋・玉屋」と併称されたそうです。
 これが、「か〜ぎや〜」、「た〜ま〜や〜」といわれる理由です。







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