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【定義】

染汚していないこと。染汚とは、分別でもって対象を判断することで、対象を無闇に汚すことをいう。なお、禅宗では、そのような分別心にとらわれず、無為・無作の功徳を強調した「不染汚の修証」を説く。
不染汚とは、趣向なく、取舎なからんと、しひていとなみ、趣向にあらざらん処、つくろひするにはあらずなり。いかにも趣向せられず、取舎せられぬ不染汚の有なり。 『正法眼蔵』「唯仏与仏」巻

なお、この「不染汚の修証」は、六祖慧能が強調したとされている。六祖は弟子の南嶽懐譲に対して、次のような言葉で印可したとされる。
曹渓いはく、祇だ此の不染汚、是れ諸仏の護念する所、汝も亦、如是、吾も亦、如是、乃至、西天諸祖も亦、如是。 『正法眼蔵』「行仏威儀」巻

【内容】

道元禅師は、特に坐禅については「不染汚の修証」であることを強調し、とらわれのない心境にて修行することの必要性を説く。
坐禅習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり。 『正法眼蔵』「坐禅儀」巻

また、特に「洗浄」という場面では、汚れた物を綺麗にするという思考が支配的になるが、禅の修行では、そのような場面であっても「不染汚の修証」が主張されていく。
しかあれば、身心これ不染汚なれども、浄身の法あり、浄心の法あり。ただ身心をきよむるのみにあらず、国土・樹下をもきよむるなり。国土いまだかつて塵穢あらざれども、きよむるは諸仏之所護念なり。 『正法眼蔵』「洗浄」巻

これは、いわば『般若心経』などにも説かれる「不垢不浄」という空思想を徹底した禅では当然の発想であり、浄穢を超えた身心を、浄穢を超えて洗浄するところに、その行の意義を認めるのである。道元禅師本師である天童如浄禅師もまた、浄穢を超えた、不染汚の修証としての洗浄に徹しきれず、若い時分は苦労したということが知られている。
有時因て浄頭を望む。時に竇問て曰く、曾て染汚せざる処、如何が浄得せん。若し道ひ得ば汝を浄頭に充てん。師、措くことなし。両三箇月を経るに猶ほ未だ道ひ得ず。 『伝光録』第50章

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