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タグ検索で瑩山は64件見つかりました。
瑩山
持寺]]を開かれ、[[太祖]]と仰がれる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)[[禅師]]のことである。表記でたまに「螢山」と書く人がいるが、正しくない。 生没年:文永元年(1264、または文永5年(1268)とも)〜正中2年(1325) 出身地:越前国(現:福井県越前市[旧・福井県武生市]) 諡 号:[[仏慈禅師]](1354年)、[[弘徳円明国師]](1772年)、[[常済大師]](1909年) &color(blue){''【略歴−出家から[[印可証明]]まで−】''} ''※この伝記は近年の研究成果…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%e0%f2%bb%b3... - 2008年02月27日更新
總持寺
} [[曹洞宗]]の[[太祖]]・[[瑩山]]紹瑾[[大和尚]]を[[開山]]とする神奈川県横浜市鶴見区にある[[日本曹洞宗]]の[[大本山]]。[[山号]]は諸嶽山(しょがくさん)。元々は石川県輪島市門前町(旧・鳳至郡門前町)にあったが明治末期に起きた火災を起因にして現在地に移転した。石川には[[總持寺祖院]]が再建された。また、「総持寺」と表記されることがあるが、最近では旧字体の「總持寺」と表記するように勧められている。 &color(blue){''【歴史】''} 元々は行基菩薩開創で、諸嶽寺…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%e5%c1%bb%fd%bb... - 2008年08月03日更新
日本曹洞宗史略年表
と内容確認。 1264年(文永元) [[瑩山]]紹瑾禅師が越前にて誕生(一説に1268年、[[總持寺]][[開山]]・[[永光寺]]開山)。幼名は行生。 同年 義尹禅師が2度目の入宋。『[[永平広録]]』を持参して、無外義遠に『[[永平略録]]』を編んでもらう。 1265年(文永2) [[義雲]]禅師が[[出家]]、ただし教宗寺院。 1267年(文永4) 4月8日、義介禅師が[[永平寺]]三世として[[晋住]]。 1271年(文永8) 瑩山禅師が[[永平寺]]に上り、[[住持]]である[[義介]]禅師…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c6%fc%cb%dc%c1... - 2015年03月24日更新
FrontPage
[[永平広録]]』など、[[太祖]][[瑩山]]紹瑾禅師の著作である『[[伝光録]]』『[[瑩山清規]]』や、記録『[[洞谷記]]』などをお調べの方は、ご活用下さい。 ・[[宗典]]の1つとして、日常的に読誦される『[[修証義]]』についても、ほとんどの語句の意味を網羅しました。 ***利用時の注意点 ・&color(red){Wiki内検索機能}を表示しました[2007/01/18]。適当な用語を入れていただいた際、Wiki内に該当用語がある場合には表示します。このWikiでは、基本的に常用漢字に…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/FrontPage... - 2023年07月14日更新
仏祖正伝記
]]禅師・三祖[[義介]]禅師・四祖[[瑩山]]禅師・五祖[[峨山]]禅師・六祖[[無外]]円昭禅師・七祖[[無着]]妙融禅師と、大分[[泉福寺]]の系統に至るまでの列祖について、主にその[[大悟]]の[[機縁]]を記すものである。具に見ていけば、[[釈迦牟尼仏]]から懐弉禅師に至る一仏五十二祖の部分は、[[瑩山]]禅師[[提唱]]『[[伝光録]]』の[[本則]]部分にほぼ相当し、それを受けて編纂されたことは明らかである。その意味では、『伝光録』の影響を受けた文献で最古のものの1つといえる。 ただし、『…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%ca%a9%c1%c4%c0... - 2012年03月23日更新
大乗寺
の足掛かりとなっている。 そして、[[瑩山]][[禅師]]は、義介禅師の後に同寺に入って、『[[伝光録]]』の提唱を行うなどして[[学人]]の指導を行っている。瑩山禅師の後には、一時的に臨済宗法灯派の恭翁運良が入るものの、その後は[[明峰]]素哲禅師が住持となり、結局は明峰系が寺の系統を守り、近世に至っている。 その前後には26世[[月舟]]宗胡・27世[[卍山]]道白といった当時の[[曹洞宗]]をリードした[[学僧]]が次々と[[住職]]に入るや、黄檗式の行法も取り入れた『[[椙樹林清規]]』が編纂…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c2%e7%be%e8%bb... - 2023年12月20日更新
浄住寺
(blue){''【定義】''} [[瑩山]][[禅師]]によって開かれた石川県金沢市内にある[[曹洞宗]]寺院。詳しくは法苑山(元々は法苑林といった)蟠龍峰浄住護国禅寺という。 古写本『[[洞谷記]]』に収録される文書による限り、元々の開基は瑩山禅師の母・[[慧観大姉]]で、後に瑩山禅師が[[勧請開山]]されたともいうが、禅林寺本『[[瑩山清規]]』に依れば瑩山禅師自身が開闢と名乗っているようなので、瑩山禅師の母に縁のある寺院だが、開いたのは瑩山禅師ということになるのだろう。同寺開山後、[[西堂]]…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%be%f4%bd%bb%bb... - 2012年03月19日更新
總持両祖行術録
[[總持寺]]の[[両祖]](御開山[[瑩山]]紹瑾禅師・二祖[[峨山]]韶碩禅師)の行状などを集めた文献。なお、元禄4年(1691)臘八に書かれた[[梅峰]]竺信禅師の跋に依れば、同年冬に加賀芳春院の鳳山慧丹禅師が總持寺両祖の伝記や『[[十種勅問]]』などを集め、梅峰禅師に手紙を送り「三百年後の末造、未だ本祖の道徳に於いて知らず」と歎きつつ、これらの伝記などを印刷し、世に広めたいと願ったため、刊行された経緯などが理解出来る。現在では、本書に収録された文書の内、両祖の行状のみを『[[諸嶽開山二祖禅師行録]…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%e5%c1%bb%fd%ce... - 2023年08月27日更新
珍山
'} 号は珍山、名は[[源照]]。[[瑩山]]紹瑾[[禅師]]の[[法嗣]]となり、後には[[侍者]]となった。『[[瑩山瑾禅師語録]]』の編者「[[源祖]]」のことか? 俗 姓:不明 生没年:不明 出身地:加賀の人 &color(blue){''【内容】''} 加賀に生まれた珍山源照禅師は、始め[[浄住寺]]にいた[[鉄鏡眼可]][[禅師]]に参じて[[出家]]したが、鉄鏡が元応3年(1321)1月28日に[[遷化]]すると、その意を承けて瑩山禅師に参じた。 ''(元亨3年6月)同廿七日、…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c4%c1%bb%b3... - 2023年04月29日更新
教授戒文
戒文』は口伝でのみ用いられていたが、[[瑩山]][[禅師]]はこれを和文に開いて慧球姉公に授けたとされており、『[[教授文]]』と呼ばれている。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b6%b5%bc%f8%b2... - 2006年11月27日更新
太祖略伝
5月15日に出版された[[太祖]]・[[瑩山]]紹瑾[[禅師]]の略伝。詳しくは『總持開山太祖略伝〈完〉』。著者は、当時曹洞宗務局総監であった滝谷琢宗禅師(後に[[大本山]][[永平寺]]63世)であり、曹洞宗務局蔵版、明教社が販売を担当した。題は当時の大本山永平寺の[[貫首]]であられた久我環渓禅師、序は大本山[[總持寺]]の貫首であられた旃崖奕堂禅師、更に題は辻顕高老師、跋は後に大本山永平寺62世となる青蔭雪鴻禅師によって書かれた。 &color(blue){''【内容】''} 本書は[[瑩山]]…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c2%c0%c1%c4%ce... - 2022年07月22日更新
日本曹洞宗
師)・[[太祖]][[常済大師]]([[瑩山]]禅師)を[[両祖]]とする(これを[[一仏両祖]]という)。 ''・教義:''本宗は『[[修証義]]』の[[四大綱領]]([[懺悔滅罪]]・[[受戒入位]]・[[発願利生]]・[[行持報恩]])に則り、[[禅戒一如]]、修証不二([[修証一等]])の妙諦を実践することを教義の大綱とする。 特に、[[只管打坐]]については、ひたすらに[[坐禅]]を行うのが良いとされ、この坐禅は悟りを得るための修行ではないとする「[[修証一等]]」の考えに基づき、更に一歩を進…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c6%fc%cb%dc%c1... - 2008年08月21日更新
免丁抄
その証明書を「免丁抄」という。なお、[[瑩山]][[禅師]]は[[学人]]に[[起単]]の際にこれを[[維那寮]]に請求することを定めており、しかも安居証明書及び安居許可証の意味で用いていると思われる。 ''諸山に[[掛搭]]する時、免丁抄を帯びて掛搭するなり。宋朝には免丁抄を帯びざる人、掛搭を免(ゆる)さず。日本国、いまだこの儀を行ぜずと雖も、[[当山]]は須らくこれを行ずべし。[[請暇]]せずして去単するの人、再びの参暇を免すべからず。法を軽んずる人、必ず衆に入らしむべからず。 『[[瑩山清規]…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%cc%c8%c3%fa%be... - 2009年04月24日更新
洞谷記
[日本曹洞宗]]の[[太祖]]である[[瑩山]]紹瑾[[禅師]]が著した、寺伝と自伝。特に、洞谷山[[永光寺]]に関する記述が主で、自身の永光寺在任期間の記録や置文などを収録する。全1巻。永享4年(1432)英就(英龍とも)書写の[[大乗寺]]所蔵本(古写本)が存在し、同著の原初的状況が知られるようになった。後には流布本も出ている。 &color(blue){''【伝播】''} ''古写本'' ・英就書写本(永享4年[1432][[大乗寺]]所蔵本) ・[[面山]]書写本(正徳4年[1714][[永福…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c6%b6%c3%ab%b5... - 2018年11月12日更新
無涯
定義】''} 号は無涯、名は智洪。[[瑩山]]紹瑾[[禅師]]の[[法嗣]]であり、後に浄住寺や永光寺に入った。 俗 姓:不明 生没年:生年不明〜観応2年(1351) 出身地:加賀の人 &color(blue){''【内容】''} 加賀生まれであった無涯禅師は、幼くして[[鉄鏡眼可]][[禅師]]の下で[[出家]][[受具]]したが、その導きにより、後には瑩山禅師に師事するようになった。研鑽すること長年にして、瑩山禅師から法を嗣いだ。「[[四門人六兄弟]]」の一人。元亨3年(1323)には、師命を…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%cc%b5%b3%b6... - 2011年01月06日更新
鉄鏡眼可
(blue){''【定義】''} [[瑩山]][[禅師]]の弟子であり、瑩山禅師が最初に[[開山]]として入った阿波[[城万寺]]にて[[受戒]]した。その後、同寺、かつ瑩山禅師にとって最初の[[首座]]になるなど、僧団で重きをなした。 生没年:生年不詳〜元応3年(1321) 出身地:不詳 &color(blue){''【内容】''} 『[[洞谷記]]』にその名が見えるものの、細かな行実は不明である。なお、その『洞谷記』に依れば、正応4年(1291)に、瑩山禅師が最初に開山として入った阿波城万寺に…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c5%b4%b6%c0%b4... - 2021年01月03日更新
城万寺
or(blue){【定義】}'' [[瑩山]][[禅師]]によって開かれた徳島県海部郡海陽町(旧・海部町)にある[[日本曹洞宗]]の[[寺院]]、現在では城満寺と書く。[[山号]]は真光山。[[開基]]は加賀富樫氏の一族とされるが、詳細は不明。 ''&color(blue){【歴史】}'' 『[[洞谷記]]』の記述によると、「廿八(歳)阿州海部・城万寺の[[住持]]に充す」とあるため、[[瑩山]][[禅師]]28歳(1264年生まれ説だと正応4年[1291])の時に開創されており、[[開基]]は加賀…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%be%eb%cb%fc%bb... - 2008年03月24日更新
三節
(blue){''【定義】''} [[瑩山]]紹瑾[[禅師]]による「[[三仏忌]]」の表現。 ''十二月八日、成道会と称す。[[公界]]、力に随って供を弁ず。三節の儀、皆な一如なり。[[主人]]、[[跪炉]]し、[[維那]]、[[宣疏]]に云く・・・ 禅林寺本『[[瑩山清規]]』「[[成道会]]」項'' また、以下のような表現も見える。 ''三節共に此の[[回向]]を用う。 [[卍山]]本『瑩山清規』「[[涅槃会]]」項''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%b0%c0%e1... - 2020年06月09日更新
首先
住職地、等と表現する。例としては、「[[瑩山]]紹瑾[[禅師]]の首先住職地は阿波[[城万寺]]である」等と用いる。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bc%f3%c0%e8... - 2019年08月25日更新
洞谷山
(blue){''【定義】''} [[瑩山]][[禅師]]が[[開山]]となった能登羽咋[[永光寺]]の[[山号]]のこと。 ''予は[[洞山]][[高祖]]十六世の[[法孫]]、故に彼の[[家風]]を慕いて、山名を洞谷と為す。 『[[洞谷記]]』''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c6%b6%c3%ab%bb... - 2007年09月28日更新