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タグ検索で永平広録は43件見つかりました。
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]]』『[[永平清規]]』や、語録『[[永平広録]]』など、[[太祖]][[瑩山]]紹瑾禅師の著作である『[[伝光録]]』『[[瑩山清規]]』や、記録『[[洞谷記]]』などをお調べの方は、ご活用下さい。 ・[[宗典]]の1つとして、日常的に読誦される『[[修証義]]』についても、ほとんどの語句の意味を網羅しました。 ***利用時の注意点 ・&color(red){Wiki内検索機能}を表示しました[2007/01/18]。適当な用語を入れていただいた際、Wiki内に該当用語がある場合には表示します。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/FrontPage... - 2023年07月14日更新
偈頌
[道元]][[禅師]]の語録である『[[永平広録]]』巻10には、『玄和尚偈頌』と題して、中国修行中に詠んだものから日本に帰ってきて詠んだものも合わせて、125首収録されている。しかし、他の[[上堂]]・[[小参]]などにも偈頌が入っているが、それらを抽出編集して[[面山]]瑞方禅師は『[[永平祖偈句中玄]]』を編集している。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%d0%f5%f0%f3... - 2008年07月07日更新
眼横鼻直
ない。また、この言葉の典拠は卍山本『[[永平広録]]』及び『[[永平略録]]』巻1-1上堂である。 ''[[上堂]]、[[山僧]]叢林を歴ること多からず、只是れ、等閑に天童[[先師]]に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜられず、便乃ち空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無く、任運に且く時を延ぶ。朝朝日は東より出で、夜夜月は西に沈む。雲収まって山骨露れ、雨過ぎて四山低し。〈以下略〉'' ところが、祖山本では、やや表現が異なり、「眼横鼻直」は無く「[[空手還郷]]」だけが確認される。し…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b4%e3%b2%a3%c9... - 2007年01月29日更新
永平家訓
[面山]]瑞方師が、[[卍山]]本『[[永平広録]]』から[[学人]]の[[修行]]に必要と思われる章句を抜き出して編集された著作。詳しくは『永平祖師家訓綱要』『[[永平家訓綱要]]』という。現在は、『[[続曹洞宗全書]]』「[[法語]]」巻で見ることが出来る。 &color(blue){''【内容】''} [[道元]]禅師が[[遷化]]されてから長い期間を経ていた江戸期の曹洞宗では、宗師家がそれぞれ独自の見解でもって宗風を展開したため、その乱れが著しかった。そこで、[[面山]]瑞方師は、[[道元]]…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b1%ca%ca%bf%b2... - 2006年09月29日更新
永平家訓綱要
方禅師が、[[道元]][[禅師]]『[[永平広録]]』(卍山本・全10巻)から、8つのテーマに基づいて編集した文献。詳細は『[[永平家訓]]』項を参照されたい。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b1%ca%ca%bf%b2... - 2023年11月05日更新
僧海
つ。一語、臨行して蘇を待たず、と。『[[永平広録]]』巻1-111[[上堂]]'' ただの1回だけでは、道元禅師の無念の思いが晴れなかったと見えて、次の機会(当時は[[五参上堂]]であった)にも僧海首座のための上堂を行った。 ''僧海[[首座]]が為に又上堂して、挙す。趙州道く「一見老僧の後、更に是、別人ならず」と。師乃ち云く、一見[[老僧]]、旧面に非ず。生前、未だ一[[叢林]]を出でず。風寒、菓落ち頭脳を換う。水沫、身と為す、雲、是、心、と。『[[永平広録]]』巻1-112[[上堂]]''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c1%ce%b3%a4... - 2006年09月30日更新
永平大清規
努めてきたかを説かれている。なお、『[[永平広録]]』に[[知事]]に謝する[[上堂]]が所収されている。当時[[知事]]程度の役職が変更される際には、必ず[[上堂]]が行われた。同様に『[[知事清規]]』の内容に相当する説示が行われている。併せて[[参究]]されなければならない。 &color(blue){''【流布・伝播】''} 『[[対大己五夏闍黎法]]』については、[[道元]][[禅師]]自ら書かれたものが断簡として現存し、現在でも署名や花押の筆跡鑑定を行う際の根本真蹟資料となっている。そして…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b1%ca%ca%bf%c2... - 2007年02月04日更新
蒼天蒼天
]ぞ」。石頭云く、「蒼天蒼天」。 『[[永平広録]]』巻1-31[[上堂]]''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c1%f3%c5%b7%c1... - 2021年12月30日更新
注脚
師云く、洪焔亙天す、玉、測らず。 『[[永平広録]]』巻7-484上堂'' このように、[[道元]][[禅師]]は僧肇の『肇論』から文章を引用しつつ、その一語一語毎に著語されている。これを「一一注脚」とされたのである。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c3%ed%b5%d3... - 2021年11月16日更新
坐禅人
祖師云く、坐禅人皆な深山に住す。 『[[永平広録]]』巻7-498[[上堂]]''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%ba%c1%c1%b5%bf... - 2021年09月02日更新
三苦
三つには天苦、謂わく風雨等なり。 『[[永平広録]]』巻5-402[[上堂]]'' なお、上記の一節は、中国天台宗の荊溪湛然『止観輔行伝弘決』巻第十之一からの引用であるが、具体的には自分自身の苦しみとなる「内苦」、外的な害悪に基づく「外苦」、そして天に基づく「天苦」とされる。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%b0%b6%ec... - 2021年06月29日更新
永平寺
乙巳、四方の学侶、座下に雲集す。 『[[永平広録]]』巻2冒頭'' 道元禅師は中国留学を終えてから京都にあって観音導利興聖宝林寺([[興聖寺]])を自らの[[修行]][[道場]]として開いていたが、新たに[[禅宗]]を始めたことから比叡山の圧迫を受け、また[[本師]]である天童如浄禅師からは「帰国の後、国王大臣に近付すること莫れ、聚洛城隍に居せず、須らく深山窮谷に住すべし」(『[[建撕記]]』)と示誡されていたこともあり、そして如浄禅師が越(=現在の中国南部からベトナム北部にかけての地域)の出身であった…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b1%ca%ca%bf%bb... - 2008年08月04日更新
首座
子の[[懐弉]]禅師を任じており、『[[永平広録]]』などの記述からは、[[懐弉]]禅師の他に以下の首座がいたことが知られる。 ・[[僧海]](巻1・[[興聖寺]]、『[[御遺言記録]]』) ・[[懐鑑]](巻3・[[永平寺]]) ・[[義信]](『[[三祖行業記]]』) なお、首座については、配役上の首座と、[[戒臘牌]]に於ける首座とあったようで、それが[[語録]]に於ける修行僧の呼び名でどのように使い分けされていたかは、その都度考える必要がある。 ''かの牓、かく式あり。[[…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bc%f3%ba%c2... - 2008年06月30日更新
永平広録点茶湯
[侍者]]などが編集したと思われる『[[永平広録]]』の註釈書。全10巻、5冊本(写本)であったが、『[[永平広録註解全書]]』には他の註釈書とともに収められる。成立は、宝暦12年(1762)に、大龍山にて校訂されたものだが、書き始めは、その20年前の寛保2年(1742)であると自ら述懐している。内容的には、極めて難解であるけれども、随処に本光一流の解釈が付され、『永平広録』[[参究]]の指南書としては最高のものとの評価もある。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b1%ca%ca%bf%b9... - 2010年09月29日更新
永平祖偈句中玄
'} [[道元]][[禅師]]の『[[永平広録]]』内に点在する[[偈頌]]を抽出編集したもの。編者は[[面山]]瑞方。宝暦9年(1759)に刊行された。通称は『[[句中玄]]』だが、一句の中に大蔵経の玄旨が蔵されていることを意味している。現在は、『[[続曹洞宗全書]]』「[[歌頌]]」巻で閲覧可能。なお、収録されている偈頌は150首であり、面山は更にこの偈頌に註釈を付した『[[句中玄聞解]]』(1巻)がある。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b1%ca%ca%bf%c1... - 2007年02月04日更新
永平略録
、詳しくは『永平元禅師語録』だが、『[[永平広録]]』に対して分量が約10分の1であることから『永平略録』と通称される。 &color(blue){''【刊行について】''} ・本書は、道元禅師の語録『永平広録』を寒巌[[義尹]][[禅師]]が中国へ持参し、道元禅師の[[同参]](=共に修行した僧のこと)だった無外義遠に校正を依頼し、もとの全10巻から全1巻に抄出されたものである。そこで、義尹禅師は本書を[[永平寺]]に将来し、更に[[宝慶寺]]の[[寂円]]禅師に伝わった(この原本自体は伝わらない)…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b1%ca%ca%bf%ce... - 2006年11月21日更新
本来無一物
不曾蔵]]を看る。[[下座]]。 『[[永平広録]]』巻1−53[[上堂]]''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%cb%dc%cd%e8%cc... - 2013年12月07日更新
義演
てから[[侍者]]として仕え、特に『[[永平広録]]』を編集する場合には、5〜7巻について中心的役割を果たした。 [[道元]]禅師が示寂した後は、[[永平寺]]2世となった[[懐弉]]禅師に就いて学び、悟りを開いたという伝記資料も存する。しかし、果たして義演禅師が[[懐弉]]禅師から[[嗣法]]したかどうかは古来から記述が分かれる。古い伝記資料である『[[三祖行業記]]』などでは[[義介]]禅師や[[義尹]]禅師は「付法弟子」となっているのに対し、「[[伝戒]]弟子」と記述が変わっているためである。 …
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b5%c1%b1%e9... - 2006年11月28日更新
玄和尚頌古
とめた[[道元]]禅師の語録である『[[永平広録]]』巻9は、[[道元]]禅師が古則90則を収集し、それに[[頌古]]を付した『玄和尚頌古』である。江戸時代に[[卍山]]師によって開版された『[[永平広録]]』を用いて、廓堂祖宗(?〜1832)が第9巻だけ独立して江戸時代に『永平元和尚頌古』(文政10年[1827]、全1巻)と題して出版した。 &color(blue){''【内容】''} ''・永平元和尚頌古目録'' ⇒本来の『[[永平広録]]』に目録や題名はないが刊本に従って以下に示す。また、当Wi…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b8%bc%cf%c2%be... - 2007年07月17日更新
如是我聞
如是我聞、[[信受奉行]]、と。 『[[永平広録]]』巻1-20[[上堂]]''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c7%a1%c0%a7%b2... - 2013年03月22日更新