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【定義】

普段の心持ちがそのまま仏道であるということ。なお、一時の曹洞宗ではこれを「へいじょうしんぜどう」「びょうじょうしんぜどう」と読み換え、前者を平常底であるとし、後者を悟れる仏者に於ける平等一心の具現であると解釈し、後者ではまだ悟り臭く、前者に戻るべきであると主張した。また、「平常心是道」は、元々馬祖の語であるとされる。
江西大寂道一禅師示衆に云く。道は修を用いず、但だ汚染すること莫れ。何を汚染と為すや、但だ生死心有って、造作・趣向する、皆な是れ汚染。若し、直に其の道を会せんと欲せば、平常心、是れ道なり。平常心と謂うは、造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く、聖無し。 『景徳伝燈録』巻28

また、南泉普願と趙州従諗の問答としても有名。
趙州真際大師、南泉に問う「如何なるか是れ道」。泉曰く「平常心、是れ道」。師曰く「還た趣向すべきや否や」。泉曰く「向かわんと擬すれば、即ち乖く」。師曰く「擬せずんば、又た争か是の道を知らん」。泉曰く「道、知・不知に属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達すれば、猶お太虚廓然蕩豁の如し。豈に強ちに是非すべきや」。師、言下に玄旨を頓悟す。 『真字正法眼蔵』19則

曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師が伝法された際の問答としても有名。
義介和尚の略伝に曰く〈洞谷記に五老の略伝有り、其の一なり。前後の文、之を略す〉、後に加州に大乗を開き、学徒接得す。海部紹瑾、参随の首たり。一日、紹瑾に問う、「公の見処、如何。平常心?を知るや」。瑾曰く、「道は知・不知に属さず」。師、黙許し付授して云く、「汝、超師の気概有り、宜しく永平宗旨を興すべし。即ち住持を譲与せん、云云」。 『洞谷記抜書』

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