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【定義】

「夜間に手を背(うしろ)にして枕子を摸する」と訓じ、元々は中国禅宗の雲巖曇晟と、道吾円智が観音菩薩が手眼を用いて人を救済する様子についての問答で、道吾が答えた言葉。
雲巌無住大師、道吾山修一大師に問う、大悲菩薩、許多の手眼を用いて作麼かせん。道吾曰く、人の夜間に背手して枕子を摸するが如し。雲巌曰く、我れ会せり、我れ会せり。道吾曰く、汝、作麼生か会す。雲巌曰く、遍身?是れ手眼。道吾曰く、道うことは太煞道う、ただ八九成を道い得たり。雲巌曰く、某甲はただ此の如し、師兄作麼生。道吾曰く、通身是れ手眼。 『正法眼蔵』「観音」巻

なお、道元禅師はこの道吾の一句について、以下のように提唱される。
道吾いはく、如人夜間背手摸枕子。いはゆる宗旨は、たとへば、人の夜間に手をうしろにして、枕子を摸索するがごとし。摸索するといふは、さぐりもとむるなり。夜間はくらき道得なり、なほ日裏看山と道取せんがごとし。用手眼は、如人夜間背手摸枕子なり。これをもて用手眼を学すべし。夜間を日裏よりおもひやると、夜間にして夜間なるときと、撿点すべし、すべて昼夜にあらざらんときと撿点すべきなり。人の摸枕子せん、たとひこの儀すなはち観音の用手眼のごとくなる、会取せざれども、かれがごとくなる道理、のがれ・のがるべきにあらず。 「観音」巻

ここの解釈はさまざま有るけれども、この一文の後に続く部分も参照して考えれば、観音の功徳無辺際?にあらゆる物に及び続ける意として採って良い。さも人が夜間に自分の背中の方に行ってしまった枕を探すが如く観音は綿密に、念入りに功徳を及ぼすと考えるべきであろう。

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