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ドラキュラ物語(子どものための世界文学の森27)


解説 磯野秀和

 この物語のもともとの題名は『ドラキュラ』です。作者のブラム・ストーカーは、1847年にアイルランドの首都ダブリン市で生まれました。両親は、ダブリン市の役所に勤めていました。
 ストーカーは、小さいころは体が弱かったようですが、一生懸命鍛えて、10歳を過ぎたころには丈夫で元気な少年になりました。
 16歳で、ダブリン市にあるトリニティ・カレッジ(ダブリン大学)に入学したストーカーは、演劇(舞台で行う劇)を見るのに熱中しました。そんなストーカーの演劇好きに目を付けたダブリンの新聞社から、演劇の記事を頼まれるようになりました。このことが、後々、作家としてのストーカーの役にたったようです。
 さらにラッキーなことに、ストーカーは、サー・ヘンリー・アービングというイギリスの大俳優に認められて、大学を卒業するとすぐに、アービングのマネージャーとして劇団に入りました。
 それからのストーカーは、アービングが1905年に亡くなるまでの28年間、劇団のいろいろな仕事をこなしながら、この『ドラキュラ』をはじめ、いくつもの小説を書いて有名になりました。
 では、ストーカーは、どうして『ドラキュラ』を書くことになったのでしょうか。たまたま、ストーカーが大学生のとき、女の吸血鬼を主人公にした『カーミラ』という作品が、雑誌に載って話題になりました。作者は、ストーカーと同じアイルランド出身のレ・ファニュという人でした。
 ストーカーは、この謎めいたテーマにすごく引き付けられて、自分もいつかは、男の吸血鬼を主人公にした物語を書こうと思い立ちました。しかし、これだという主人公を思いつかないまま月日が経ちました。
 そのうち、これを知ったアービングが、アルミン・バーンベーリというハンガリーの学者をストーカーに紹介しました。ストーカーは、この学者から、願ってもないドラキュラ公の歴史や伝説を教わったのです。
 そして、この伝説をもとにして書いた、吸血鬼小説の最高傑作『ドラキュラ』は、1897年、イギリスで発売されると大評判になりました。ドラキュラが、あまりにも人気者になったので、ドラキュラの城のあるルーマニアではドラキュラ・ツアーがはやったほどです。
 ストーカーは、ロンドンで1912年、64歳でなくなりました。
 この『ドラキュラ物語』のもとの本『ドラキュラ』は、登場人物の日記や手紙のやりとりという形で全体が書かれているので、この本では、わかりやすいように物語風に書き直しました。
 ところで、今から3000年も昔の古代人たちは、血には死人を生きかえらせる力があると信じていました。この考えが、悪魔の信仰とむすびついて吸血鬼伝説となったのでしょう。
 ドラキュラのモデルとなったのは、本当にいた人物で、昔のルーマニアのワラキア君主のドラキュラ公、ブラド・ツェペシュ(1431〜76年)です。
 ドラキュラの名前に含まれているドラクという音が、悪魔を意味することも、吸血鬼ドラキュラ伝説の誕生に関係があるかもしれません。
 また、ツェペシュは、敵を自分の城の杭に突き刺したと言われています。これでは、伯爵が死んでから吸血鬼になったという伝説が生まれても不思議ではありませんね。でも、これは、敵に無闇な戦いを続けさせないための見せしめだったのです。ルーマニアではツェペシュは、戦争から国を救った王として語り継がれています。

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