役立つデータから笑える雑記まで、喧嘩界のオマケ要素

喧嘩サイトにおける喧嘩は、身体能力ないし暴力を競うものではない。
言語による論理性、正当性(もしくは文章センス)を競うものである。
(詳しくは喧嘩哲学を参照)
 
そしてここでいう言語とは「概念を明確化し他者と共有するためのツール」だと言える。
例えば、「1+1」というのは「1という数字に1を加える」という概念であるが
もし言語が存在しなければ、目の前にある1つのリンゴにもう1つリンゴを加えると2つになると
頭では分かっていても、その内容を他者と共有することはできない。テレパシーでもない限り。
つまりもう1度言うと、言語とは「ある概念を他人と共有できるよう明確化するためのツール」である。
 
もっと具体的に言うのであれば
「(極限状態に追い込まれた際に)自殺することは許されるか否か」について喧嘩しているA・Bがいたとして
Aの主張は以下である。
    • 本当に極限状態であるならば、自殺をするか否かといった選択の余地はないはずだ。
      その本人にとって自殺をしないという選択肢が存在していないという事なので
      残念な結果ではあるが「仕方ない」のではなかろうか。
そしてBの主張は以下である。
    • いかなる場合においても自殺を許すべきではない。
      といっても、これは生きていくのが辛い環境で無理矢理に生かし続けるのではなく
      生きる希望を見いだせるように、生きようと思えるように周囲がサポートすべきだ。
      「許す」などもってのほかである。

こういった喧嘩(というか討論?)において、言語の定義という闇が見え隠れしていることが分かるだろうか。
Aは「許す」という言語を「既に起こった出来事に対する判断」として定義している一方で
Bは「これから起こる出来事に対し容認する」という意味合いで定義してしまっている。

この喧嘩が数レスを経た後に「そもそも許すって何なんだ!?」といった脇道に逸れることは想像に難くないはずだ。
そして更に、ここに喧嘩師という生き物の性分が絡んでくる。
「お互い定義に認識のズレがあったね」で終わればまだ救いようがあるのだが
いかんせん喧嘩師とは負けず嫌い、勝ち(もしくは優勢)に執着するタチである。
「どちらの定義がより正当か、妥当か」という焦点で第2の喧嘩の幕が切って落とされることは決して稀ではない。
辞書の引用合戦といった低俗な争いに発展してしまう事も多々あるのではなかろうか。

こうなってしまっては、もはや冒頭で述べた「共有ツール」としての機能を果たせていないと言える。
掲示板を使い、言語(活字)にて喧嘩というコミュニケーションをとるわけなので
「お互いに共有できない言語」は喧嘩に適さない、使うべきではないと言える。

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