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 晴れ着の樟脳の匂い。
 律子姉ちゃんの、髪の匂い。
 襟元の香り。
 結い上げられた黒髪のツヤ。
 晴れ着の固く滑らかな感触。

 きっと律子姉ちゃんは、怒っている。
 身を離せば俺のことを怒鳴るだろう、手も上げるだろう。
 僕は、本当はずっとこうしたかったのに。
 こんなに、こうしたかったのに。
 
 だから……離したく、なかった。



 秋月家のお正月。
 東京に新居、といってもアパートだけど……を構えた僕は、当然律子姉ちゃんのところにも
挨拶をしに行くことになる。

 去年はTVの中で歌い踊る姉ちゃんを、母さんのお雑煮の餅くわえながら見てる正月だったけれど。
 今年は違う。
 大晦日、紅白とレコ大の掛け持ちで忙しかったから……と石川社長にお休みをもらった、トップアイドルと
しての僕と。
 去年の夏に引退コンサートも大成功させ、現在芸能活動休業中の律子姉ちゃんと。
「ようやく律子も普通の女の子っぽくなったのよね、子供の頃からオトナびてたと思ったらいきなりアイドルで、
それが普通に家でおせち作るの手伝ってくれる年越しなんて、ほんと不思議」
 明るく笑うおばさん。
「それないでしょう、母さん。だいたいウチだって毎年おせちは買うものだったじゃない、仕事が忙しいから、
って。家でおせち作ったのなんて何年ぶり?」
 笑ってツッコミ開始の律子姉ちゃん。
 赤い振袖と綺麗に結った髪。
「そうねー、考えてみたら父さんが独立してからはじめてかも」
「ちょっと、母さん、これ味大丈夫なの? 食べに来る人とか心配よ?」
「律子、あなたの母だからって私まであなたと一緒にしないで」
「そうだぞ律子、母さんの料理上手は俺が母さんに惚れた理由の一つだったんだからな」
 隣の部屋で新聞読んでたはずのおじさん、介入。
「ちょっと、あなた、涼くん来てるんですから」
「父さん、もう!」
「あははっ、姉ちゃんとこは相変わらずだなー」
 僕は、ただ笑う。

 笑いの奥にあるものを、ここで気づかれたくはなかったから。

 姉ちゃんはたしかに言った。

「食べに来る人とか心配よ?」

 食べに来る人。
 誰のことか、考えれば簡単に僕の顔は曇る。

 その人はいつかの雑誌インタビューでこう言っていた。
「アイドル・秋月律子は、僕と彼女との二人の作品です」と。
 律子姉ちゃんのプロデューサー。あんな台詞を吐いて許される、この世でたった一人の人。
 そして……律子姉ちゃんと一緒になる約束をした、そういう人。

 律子姉ちゃんに今日のアポとりをしたときに、言っていた。
「元旦は、ほら、ちょっとウチのと挨拶とかあるから、さ。二日でいい?」と。
 状況考えてほぼ間違いなく、元旦にはプロデューサーさんが挨拶に来たのだろう。
 律子姉ちゃんの仕事先の上司、ではなく。
 秋月家の一人娘を娶る、婚約者として。



 秋月家のお雑煮は一族どこでも丸餅に海鮮系出汁が主力の九州系。
 実家で食べるものより、ちょっとシイタケだしが利いてるかな、くらいでそんなにウチのと違いはない。そし
て……おばさんごめん! おばさんへの期待ほどまずくもなかった、そして律子姉ちゃんへの期待ほどうまくも
なかったおせち料理。一通り食べてお腹も膨れて、僕はちょっと疲れが出てきて眠くなった、と、別部屋を貸し
てもらっている。静かな和風の客間だ。
 お客さん用の布団はふかふかで、羽毛入りの布団は軽くてふわふわで暖かくて。
 普通のサラリーマンやってるウチの両親と違い、律子姉ちゃんの両親(つまり、おじさんおばさんだ)は何店
もの支店を持つ小売チェーンの創業者夫婦。まぁ父世代の一族の出世頭といったところか。
 まさかその子世代で、二人も日本を代表するアイドルが出ちゃうとは思ってなかっただろうけど。ご先祖様も。



 軽やかな足音で、うとうとな心持ちから目が覚める。
 縁側を歩いてくる足音。これだけでもう誰だか、僕には分かる。
「涼、起きた?」
 やっぱり。律子姉ちゃんだ。
「うん、ごめん、すっかり寝ちゃってたみたいで。 今、何時?」
「んー、っと……3時20分。 あんた、時間大丈夫なの?」
「うん、三が日は休みだから」
「そっか……まぁ、そうよね。 765プロも基本三が日はおやすみだったし」
「あれ? 去年律子姉ちゃん、三が日も生番組毎日出てなかったっけ?」
「そりゃそうでしょ、録画番組ばっかでどこか退屈な三が日にこの私が生出演だもの、どこの局からも出演依頼
取り放題だったからね」
「プロデューサーさん、は?」
「当然付き合わせたわよ。担当アイドルの仕事が多い、これを嫌がるようなら三が日ずっと正座モノよ」
「……ちょっと同情した」
「あはは」

 だから、あの三日間の律子姉ちゃんは、あんなに機嫌よく仕事に臨んでたんだな、って。
 口をついて出ようとした言葉を、僕はぎりぎりで押し込めた。

 事務員兼任の委員長アイドル、という売り文句で、実際そうだったりする律子姉ちゃんだけど(おかげで人気
が出だした一時期、765プロの電話番号にはいたずら電話やファンからの突撃があったりで小鳥さんが大変だった
そうだ……)、プライベートは必ずしもそんなワーカホリックなわけでもない。ただ、やりたいことがあるとき
には人一倍熱心になる、その人一倍の度合いが人よりちょっと多いかな、ってくらいの、僕から見れば普通の女
の子だ。
 だから、年末年始には休んでどっか行きたい、って以前電話でこぼしてたことあった律子姉ちゃんが、三が日
全部仕事入れてそれもあんなに機嫌よく元気に仕事してたとなると、何かあったんだろうなとは思ってたけれど。
 そっか。プロデューサーさん、一緒だったんだな。

 居間でお茶いれるから飲みにきなよ、と僕の布団をひっぺがしにかかる律子姉ちゃん。
 ここらへんの強引さは相変わらずだ。
 まだもやがかかったような頭を数回振って、メガネをかける。
 掛け布団をたたんで、よいしょ、と押し入れに入れてる律子姉ちゃん。
 晴れ着の硬いラインを押して浮かび上がるお尻のラインに、一瞬僕の目が止まる。
 
「何、ぼーっとしてんの?」
 気がつくと。 僕の顔を覗き込んでる律子姉ちゃん。
「い、いや、……何でも、ない」 
 顔、赤くなってないだろうか。「何よ、顔赤くして」 ……がくっ。
「あ、もしかして私の振袖姿にグッときた? とか?」
 うん、それ正解。 とはさすがに言えない僕。
「ちょ、ちょっとね……」
 曖昧に言葉を濁す。ううん、全然、と答えるとどういう反応くるかはもう長い付き合いだからよく判ってるし。
「……でもね、涼」
「?」
「あんたも本当にこの1年、よく頑張ったわよ。
 ほら、敷布団しまうからそこどいて……去年の春、私のところに来たときは三日で投げ出すと思ってたんだけ
どね。女装アイドルとかさすがに私も冗談が過ぎたな、とは思ってたんだけど。それがねぇ、あんな風に……」
「いや、その……」
 女装アイドルでやるハメになっちゃったのも、結局は僕が弱いからだったんだけど。
「そして、あの事件。すっかり芸能界の話題総ざらいにしちゃってて、おかげで去年下半期は私の引退事件だけ
で芸能史埋め尽くす予定だったのが、予定くずれちゃったわよ」
「あはは……」
「それにね、実さんから聞いたわ」
「え?」
「涼が、あんなに必死だった理由。 ……桜井、夢子ちゃん、……だっけ?」
「え」
「あまり評判のいい子じゃないと聞いてたし、そんな子と涼がツルんでるって聞いて、どうなのかなって本当は
いろいろ心配してたんだけどね。でも、実さんからいろいろ聞いたの。あんたが本気だってこと、彼女も必死だ
ったんだってこと、そしてあんたが彼女にやりなおす勇気をあげたくて、あんなことしたんだ、ってこと。もち
ろんそれだけじゃないのは判ってるけどね、……あの時も言ったけど、あんた、本当に格好よくなった。もう一
人前の男の子なんだ、私の後ろついてくるだけの弟分から立派に卒業できたんだなー、って……」
「……姉ちゃん」
「ま、私にも事情あるから、こんな話できるのももう機会ないかもしんないし、先に言っとこうと思ってね。
 あんたのあの姿見てなかったら、私、今こんなに幸せになれてなかったかもしれないもの。あんたがあの姿見
せてくれて、それで私も踏ん切りついたのよ。前々からの夢のために、決断できたの」
「そう、なの?」
「独立はいつかするつもりだったけど、……ちょっと追加条件、ううん、そっちのほうが絶対条件かな……だか
ら、あんたには感謝してる。父さんや母さん、おじさんおばさん、ウチの社長や同僚のみんなたちと同じように、
あんたが居てくれなかったら、私、今こうしては居られなかったかもしれないんだから」
「……うん」
 ちょっとだけ、涙が出た。

「……じゃ、そろそろ行こ?」
 話をうち切って立ち上がろうとする律子姉ちゃん、その背中に。
 僕は。
 何だったのだろう。
 ここで立ち上がらせてしまったら、しまったら。そんな衝動が僕の中に生まれて。
 そして、僕は、その衝動の「先」がなんだったのか未だに分からないけれど。
 その衝動に身を委ねていた。

 立ち上がろうとしたところに後ろから抱きつかれて、尻餅をついてしまう律子姉ちゃん。
 その背中から、姉ちゃんを抱きしめている、僕。



 離したくなかった。 離したらどうなるか、嫌でもわかるから。
 離したくなかった。 本当はずっとこうしたかったから。
 離したくなかった。 姉ちゃんの感触を離したくなかった。

 肩ごと姉ちゃんを抱きしめていた僕の右手が、動く。
 帯の上あたりを掌が押さえる。やわらかく膨らんだ、律子姉ちゃんの、おっぱい。
 ……硬い上着に阻まれて、いくらか掌が沈んだ程度だったけれど。
 もう一方の手が、動く。
 突然の尻餅に乱れた下半身の太もものあたりに。
 律子姉ちゃんの、脚。カメラを通して何度も見た、でも本当は違う、律子姉ちゃんの白く綺麗な太もも。
 これも上着に阻まれて、ただそのあたりを撫ぜただけで。

 晴れ着が、邪魔だ。
 そう、僕の中で何かがささやく。
 その第二の衝動に、僕は抗えなかった。
 さっと身を翻し、姉ちゃんを後ろに転がす。
 青い畳に背をつけて仰向けに転がった姉ちゃんを、僕は覗き込んで



 ……怒っているだろう、泣いているだろう
 僕への嫌悪を、憎しみをむき出しにして
 でも、でも

 ずっとずっと好きだった、本当はずっと好きだった
 頼りにしていた、甘えていた、相手にしてくれた、そんな僕の律子姉ちゃんが。
 あと何ヶ月、もしかしたら数週間で、永遠にあの人のものになってしまう。
 だったら、それだったら。
 それだったら。



 姉ちゃんは、泣いていなかった。
 怒ってもいなかった。憎んでもいなかった。

 ただ、僕を見上げていた。そして。
「涼、落ち着いて、涼」

 ……僕に、呼びかけ続けていた。
 最初の衝動に僕が負けたそのときから、ずっと。
 耳からの情報がようやく僕の心に届きだす。
「……姉ちゃん」
 呟いて出た、僕のことば。
「……涼、あんた、……私のこと、そういう目で、見てたの? ずっと?」
「……うん」
 言ったとたんに、視界が歪んだ。
 目元が熱くなる。表情が歪む。ぼと、ぼと、と涙がこぼれているのがわかる。
「うっ、ううっ、ぅ、うう、っ……」

 どうして、僕は泣いてるのか。
 律子姉ちゃんに、ようやく、僕の気持ちを伝えたのに。
 いや、違う。伝えてしまったからだ。
 こんな形で伝えてしまったからだ。
 姉ちゃんに気持ちを伝える方法なんて、いくらでもあったのに。
 姉ちゃんが僕に構ってくれるから後でもいいや、告白するのが恥ずかしから後でいいや、もし告白して
断られたら、キモいと思われて構って貰えなくなるくらいだったら、そんな言い訳ばかりして機会を逃し
続けてきて。
 その挙句、こんな、女の子にとって最悪のやり方で自分の気持ちを伝えようとしてしまうなんて。
 あの衝動に負けた瞬間、そのときに、僕は僕の気持ちを律子姉ちゃんに認めてもらう機会を永遠に自分
から捨てたんだって、そのことに気づいてしまったから。
 姉ちゃんが身をおこして乱れた振袖を直している間、ずっと僕は畳に突っ伏して泣いていた。

 とん、と畳に膝を付いた音。
 涙と鼻水と後悔でぐちゃぐちゃな僕の肩に、律子姉ちゃんの手がおかれる。
「……ごめんね、私、好きな人、居るから。
 その人と一緒になって、二人で頑張っていくのが、私の夢だから。
 だから、あんたの気持ち、……嬉しいけど、Yes、とは言ってあげられない」
「うん、……」起き上がりつつ袖で涙を拭く。
「ちょっと、ハンカチくらいつかいなさいよ」そう言って姉ちゃんはハンカチで僕の顔を拭いてくれる。
「……ありがと、姉ちゃん」
「どういたしまして。 ……涼」
「うん」
 姉ちゃんが、真面目な顔で僕を見る。
 綺麗な、本当に綺麗な、律子姉ちゃん。
 こんなに真剣な顔で僕を見るのなんて、これまで何度もなかったから。
 僕も、正面から見返す。
「私は、彼のことが好き。婚約して、二人で会社も立ち上げてる」
「……うん」
「でもね、私はいつまでも、たとえ苗字は変わっちゃっても、私だから」
「うん」
「秋月、じゃなくなっても。あんたの姉ちゃん、……従姉だけどさ、あんたの姉ちゃんだってことは、変
わらないから」
「……うん」
「私にそれ以上を求め続けてくれてたこと、私は忘れない。そりゃ、まぁ、ちょっとは今も怖いけど。で
も、あんたもそれがどういうことか、判ってるでしょ?」
「うん、……今からでも、姉ちゃんが大声あげたら、同じだ、って」
「……そうね。あたしたちの姉弟みたいな関係も、終わりになる。でも、私は私の夢が壊されない限り、
そんなことはしたくない。彼を全力で『好きだ』って言える自分になりたいから、だから、……さっき思
いとどまってくれたあんたを、切り捨てたくない」
「……」
「だから……ね」
「……!?」

 唇が、唇に触れた。
 い、いや、何だって、これ。
 律子姉ちゃんが、僕に、キスをした。
 事実がわけわからなくて、僕の頭の中でぐるぐる回る。
 えっと、これって、どういうこと?

「これで我慢しなさい! ……誰にも内緒だからね?」
「……うん」
「さ、それじゃ、顔洗って居間においで! お茶入れてくれるって母さん言ってんだからさ」

 とたとたとた、と軽やかに足音を立てて、姉さんが出ていく。
 女の子以上に女の子になろうと必死だった僕には、なんとなくわかる。姉さんが今の僕を、まだ怖いと
思っていることは。
 それでも、ここまでの話をするために、けだものの僕と同じ部屋に残っていてくれたことを。
 僕は、本当に感謝したいと、そう思っている。





 お茶菓子は甘くて、お茶はちょっと苦くて。
 その味は僕にちょうど良く合った。
「……ところで涼、夢子ちゃんとはどうすんの?」
「ぶふぉっ!」
「ちょっと、涼、汚い。ちゃんと拭きなさいよ」
「あらあら、涼ちゃんもいい人居るのね」
「そうなのよ母さん、涼が去年あんなことしたのも、実は彼女のために……」
「や、やめてよ、律子姉ちゃん!」
 焦る僕を前に、律子姉ちゃんが、にやりと笑った。
 あんたはあんたの道を頑張りなさい、と、たぶんそういうメッセージも含めて。
 そして、僕も思った。
 あんな僕をこういう風に扱える時点で、もう彼女も、僕の知ってる「律子姉ちゃん」ではなくなったんだな、と。

 さよなら、「律子姉ちゃん」。
 口の中の苦味と胸の中の苦味の両方を、僕はぐいと飲み込んだ。

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