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ばたん、と乾いたドアの音が部屋の中に響くと、思わず俺は大きな溜息をついてしまった。

わかる、わかるけどさ。嫌なこと言ってるのはわかるけどさ。
でも、やらなきゃしょうがないだろ?色事営業ってわけじゃないんだし。
仕事だって割り切ってもらえるとありがたいんだけれど、なあ…。

でも、彼女の言う事もわからないでもない。彼女の性格からして、そういうのが嫌だっていうのもよくわかるし、だからこそ今回のような反応が意外だとも思わない。
やっぱりな、っていう気持ちのほうが強い。だから、それだけに…。
やっぱり俺の配慮の方が足りないんだろうか。

頭を軽く振って、テーブルの上の資料を片付け始める。写真に図面、端っこがしわくちゃになった書類。
あの子も本当に嫌だったんだな、と今更ながらに思う。
黙って大人しく聞いていたように見えるのは表だけで、握り締めていたその書類の皺が、彼女の気持ちをそこに残しているかのようだ。
それはわかる。それはわかる、それだけに、俺にとっても余計に心苦しく感じられる。

乾いた音がして、彼女が出て行ったドアとは反対側の、俺の後のドアが開いた。
するとそこには、うちの会社の制服を着た女性が、小首を傾げるようにして顔だけを覗かせていたけれども、俺と眼が合うと、軽く頭を下げて微笑をたたえながら部屋の中に入ってきた。
部屋の空気が動いて、小鳥さんのつけている化粧水の、うっすらとした花の香りが漂ってくる。
薄く塗られた紅のくちびるが囁くように動いて、にっこり笑った小鳥さんが俺に話しかける。

「大変ですよね。お年頃の女の子ですから、仕方ないのかもしれませんけど。」
「見ていたんですか?…お恥ずかしい…」
「いえいえ。音だけですよ。覗き見の趣味はありませんから。それと事務所のドアを閉める音だけ、ですけど。
 でも、その音だけで何となく想像ついてしまいましたし。」
「はあ…そうですか…」
「しょうがないじゃないですか。プロデューサーさんだって、彼女に意地悪したかったわけではないでしょう?
何を言っていたのかは知りませんけど。まさかセクハラでもないでしょうし」
小鳥さんが悪戯っぽそうな表情でそう言う。
「あ、はい…それはそうですけど…でも、それは…うん…」

思わず俯いて、資料の山に視線を落としてしまう。どうなんだ俺。何がしたいんだ俺は。何が…。
彼女に何がしたい、とあえて考えてみれば、そんな答えはもう一つしかない。
彼女が目指す所にたどり着けるように、彼女がいま取り組んでいることを成功させて、悔いのないようにしてやりたい。
悔いがないだけじゃだめだ。やるからには成功させなければ。そのためには、そのためには…嫌な事だって、やらなければならない時だってあるんだから。
そんなことを考えているだけで、胸の中が一杯になって、息苦しくなってしまうほどに感じられる。

「プロデューサーさん。今日も残業です?」
小鳥さんが俺の肩にぽん、と小さな手の平を置いて、俺の頭の上から問いかける。
小さな柔らかい手の感触が、スーツの上からも感じられるぐらい暖かくて、細い腕から漂ってくるようなほのかな香りが、俺の胸の中の緊張をゆっくりと解していくようだ。

「はい、一応、そのつもり…ですけど…」
「そう、残念です。いえね、気分転換に、お酒でも飲みに行きませんか、と思ったんですよ。
お話すれば、プロデューサーさんの気持ちもまた変わるかもしれないって思ってね。」
「え…」

思わず小鳥さんの顔を見上げてしまう。
ショートカットの黒髪が揺れて、小鳥さんの丸くてつぶらな黒い瞳が優しく俺を見つめている。
黒い瞳の中に、引きこまれてしまうような感覚に包まれる。

「どうせ明日は休みですし。そうですね、でも1時間だけ待ちます。もし気持ちが変わって、お仕事が終わりそうだったら、行きましょう。」
それだけ言うと、小鳥さんは俺を励ますように、俺の肩をぽんぽんと軽く二度叩くと、にっこり笑って部屋から出て行った。

微かな甘い香りが部屋の中に漂って、小鳥さんの残り香が呼吸と共に胸の中に入ってくる。

俺はしばらく呆然としていたけれども、ふと気がつくと、知らぬ間に身体が動き出していて、慌しく書類と仕事を片付け始めていた。


「社長は、何で俺なんかに声をかけたんでしょうね?何が一体気に入って?ピンときただって?何がなんです?ねえ、小鳥さん、なんでなんです?
俺に何の才能があるってんだ、全然上手くできていないじゃないか、ほんと駄目ですよ俺は。」

空になった水滴の付く3杯目の中ジョッキを側に来た店員のほうに押しやりながら、溜息とともに呟く。
声と一緒に吐き出される息はすでにアルコールが回っている熱さを喉の奥に感じさせると、うるさくもないが静かに人の話し声のする、落ち着いた風合いの居酒屋の空気の中に吸い込まれていく。

「何が、って…?そうですね、なぜだと思います?自分では。」
小鳥さんは俺の隣に座って、あまり聞いたことのない種類の酒を頼んでは、くいくいと飲み干している。
そのお酒がすすんでいる割には、彼女の様子は余り変わらない。
小鳥さんって酒に強いんだな、ちょっと意外だな、と思わないでもなかったけれど、後から考え直してみれば、小鳥さんは静かに酔っ払うタイプなのかもしれない…とその時に思ったのは、結論としては間違いだったのだろうと思う。

「わかりませんよ、そんなこと…わかるぐらいなら悩みなんてしませんって…」
「あはは、あのね、社長のあの台詞に意味を求めてはいけませんよ?」
「え?」
俺は思わず間の抜けた音声を口から出してしまう。

「そう、だってあれって、誰にだって言ってることなんですから。適当ですよ、適当。
だから、プロデューサーさん、あなたに何か素晴らしい能力を見出したから、そんなことを言ってるんじゃないですよ、社長さんはね。」
「…。」
やっぱりそうか。俺ってやっぱり駄目だったんだ。才能なんてなくて、駄目で、だからうまくできなくて、彼女を導けなくて。
俺が側に居るだけで、実は彼女にとってはよくないことなんじゃないのか、それならもう、いっそのこと…

「―――でもね。社長のあの言葉に反応する意欲があったことは、間違いないですよね?」

小鳥さんの、俺の中に対して直接確認するような口調。それはとても強い物言いで、思わず俺は、否定するのも忘れて考えこんでしまう。
何のこと…だろう?

小鳥さんが、カクテルグラスを両手でそっと抱えるようにして手にとって、口元に近づける。
透明な液体が傾けられて、ほのかな紅色の唇が動いて、こくりとそれを飲み干すと、眼を閉じて、ふう、と軽く息を吐く。
「真面目なこと。誠実なこと。一生懸命やろうと思っていること。
―――何よりも、彼女に良くしてあげようっていう気持ち。
 それが一番大事なことなんじゃ、ありません?
 あなたがそういう物を持っていたのは、意欲があるからなのではないですか、ということですよ?」
「…」

「何かが出来るからあなたをプロデューサーにしたんじゃないですよ。
 指導なんかしなくったって、頑張る子は頑張る。一見駄目なように見えたとしても、物凄くできるように見えたとしても、みんな違うように見えるとしても。
 彼女たちだって社長が選んできた子なんです。

 いつか、何か、自分が自分に気がつけば。
 彼女たちは、自分自身で頑張るんですよ。あなたの力なんていらないんです。

 あなたは、自分の姿勢を彼女に見せればいいんです。社長が見込んだのは、そこなんですから。
 あなたの真面目な、誠実な姿。ひたむきさ。
 それを彼女に、身近に見せてあげて欲しいんですよ?」
「…そう、なんですか…」
「そうですよ。あなた自身になんか、大げさなことなんて期待はしてません。
 だけれどもね。あなたにできることは、期待はしているとは思いますよ…?」

小鳥さんがカクテルグラスを空にする。
心なしか、とろんとしてきた瞳が潤んでいるようにも見える。
その、彼女の黒い瞳は、とても優しそうに見えて。
その眼を見ているだけで、胸の中が熱くなりながらも、とても暖かなものに包まれるように感じられて。

「疲れることだって、ありますよね…?」
「え…?」
「いつもいつも、頑張ってばかりなんていられないの、当たり前だと思いますよ…」
「…。」
「疲れたら、止まり木に止まって休んでみるのもいいですよ。
 羽根を寄せ合って、大きな木の陰で寄り添って、羽根を休めて、ね。
 疲れが癒えたら、また頑張ればいいんです。
 私は、そう、思いますよ…?」
「止まり木…?」
「そうですよ…休める場所。気持ちも、心も、身体も、ね。
 そういうところを探したら、どうですか。どんな場所だっていいんだけど。
 私が言えるのは、それだけかな…?」


温かそうな眼差しを細めたまま、小鳥さんが静かに言う。
小鳥さんの優しい眼。どこを見ているのだろう。空になったグラスを通して、小鳥さんが見ているものは、何なんだろうか。

小鳥さんが背を反らせて伸びをすると、すっと立ち上がる。
俺が彼女を見上げると、薄暗い店内の中にぼんやりと溶けこんだ小鳥さんのシルエットが浮かび上がる。
幻のような小鳥さんが、耳を疑うような事を言う。

「じゃあ、プロデューサーさん…
少しだけ、他人に甘えてみてはどうですか?

甘えてみるのも、いいかもしれませんよ。
それで、甘えてみて、人にやさしく出来るエネルギーを取り戻して…ね?」

「え…?」
小鳥さん、それ、どういう、意味で…?
俺の言葉は喉の奥でつかえてしまって、出てくることができない。


「まだ…もう少し飲めるでしょう?
 うちに来て飲みませんか。もしよければ、ですけどね」

小鳥さんはすっと立ち上がると、上着を羽織って店の出口へと歩いていった。

「何で来る気になったんですか?」
「え…?」
小鳥さんの部屋の中の、二人で座れるぐらいに大きなソファーに並んで座ると、小鳥さんがそう尋ねてきた。
小鳥さんの家。
生まれて初めて入る年上の女性の部屋は、俺が思っていたようなものとはまったく違っていた。
華やかな物でもなく、女性らしい可愛らしいものに溢れているわけでもなく。
シンプルで、でも綺麗に掃除されていて、小さな緑の鉢植えが幾つかある、静かで落ち着いた彼女の部屋。

小鳥さんはにこっと笑って急須を手に取ると、お茶碗にお茶を注いでくれる。
「…落ち着きました?」
「―――はい。」
アルコールの酔いはもうどこかに飛んでしまっていて、心臓の鼓動も静かな響きになっているのがわかる。
畳の匂い、お茶の香り、そして小鳥さんのほのかな香り。
それらがみんな、自分の気持ちを和らげるように包み込んでいるようで。

「…あらいけない、失礼しました。お酒飲もうって誘ったのにね。
つい、お茶なんか出しちゃって。ごめんなさいね。
何を飲みます?ビール…よりワインか梅酒の方が良さそうですけど…」
小鳥さんがそういうと、ソファーから身を乗り出して、膝立ちになって俺に聞く。

彼女が動く度に部屋の空気が動いて、着衣の隙間からふわりといい匂いが浮き出てくるようだ。

時計のアラーム音が部屋の中に響く。
次の日になったことを知る。

「小鳥さん…?」
小鳥さんの眼をまっすぐと見て、静かに問いかける。
「はい…?」
彼女の小さなピンク色の唇が動いて、優しい声で答えてくれる。
「甘えて、いいんですか…?」
「甘えるだけ、ですよ?」
「甘えるだけ…?」

彼女の言葉をはかりかねて、ただ真似をするように反芻する。
そんな俺に、諭すように彼女が言う。

「そう。甘えるだけ。約束できるなら。それが。
 それが約束できるなら、いいですよ?」
「…どういう意味…です?」
「こうやって、夜に、独り身の男女が一つの屋根の下にいるからって、する事は一つじゃない、って私は思っているだけだから」
「…はい…。」

そう、か…

「こんな風に、男の人を泊めて…。
 それで、何もなかっただなんて、誰も思いやしないと思います。

 でもね。たとえ、誰にこの、今日のことが知られたとしても。
 私は、このことで、あなたを縛りつけるつもりなんてないんですよ。

 私は、本当は強く飛べるのに、高くはないとしても独りできちんと飛べるはずなのに、ただ気持ちだけが疲れてしまっている若鳥を止まらせてあげたいだけ―――だから。
 だから、やましいことをしちゃいけません。ね?
 やましいことなんてしていなければ、人に何を言われたとしても平気でしょう?
 胸を張って、正しい事を言えるはずでしょう?

 ―――私は、そう思います―――よ?」

「はい…。」



「電気、消しますよ。暗くても怖くないですか?」
小鳥さんが俺をからかうように言う。
「はい。怖くないです。小鳥さんが側に居てくれるし…」
「あはは。それが余計に怖いことになるとも知らずに、そんなことを言って…」

小鳥さんが手を伸ばして、天井から釣り下がっている照明器具のスイッチのひもを軽く引く。
白い蛍光灯の残像が暗闇に残って、僅かに残る光で、俺の側に座っている小鳥さんの姿を浮かび上がらせる。


ふわりと。静かに、柔らかな羽根のように。
小鳥さんが腕を俺の胸の上に回して、俺に覆い被さるように抱きついてくる。

感じられるもの。
彼女の柔らかい手の平が、俺の肩を優しく抱いて。
彼女の暖かな吐息が、俺の首筋に心地良く吹きかけられて。
彼女の香りが、ほのかに立ち上って俺を包んで。

柔らかな胸が、俺の胸に吸いつくように当てられて、彼女の鼓動が俺の身体に伝わってくる。
小鳥さんの背中に腕を回して、小鳥さんを抱き締めるように軽く力を入れる。

「もう…大人しくしてないと駄目ですよ?」
「え…。これも、駄目、ですか…?」
「駄目です、よ。」
小鳥さんの囁く声が耳元にかかる。
「そんな…。甘えていいって言ったのに…
 小鳥さんの、嘘つき…。」
「もう…。困った子だ。
 …少し、だけですよ…?」

小鳥さんに甘えるように彼女を抱く。
彼女の背中を撫でながら、柔らかな身体を触れ合わせるように抱き締める。

小鳥さんは、俺の頭とうなじを撫で続ける。
耳の後ろを這う小鳥さんの小さな指先が柔らかい。
「…小鳥さん…」
「はい…?」
「…小鳥さんのほっぺ、すごく柔らかそう…。
お肌、なめらかでふわっとしてる…」

彼女を抱き締めていた手を離して、小鳥さんの頬に触れる。
指先を這わせて、頬から彼女の首筋に、のどのほうにと動かして、小鳥さんの柔らかな肌を感じて。

柔らかな胸に触れて。
キスをするように、彼女の胸元に顔を埋めて。

「おやすみなさい…」

どちらからともなく言った言葉とともに、俺達は一緒にまどろみの中に落ちていった。

「おはようございます」
週明けの朝、何事もなかったかのように小鳥さんが俺に向かって挨拶した。
小鳥さんは、いつものようにお盆に載せていたお茶を机の上の隙間にそっと置くと、いつものようにすっと立ち去ろうとする。

普段どおりに繰り返される朝。


「あの…小鳥さん…」
「はい?」
小鳥さんが振り向いて、短い髪が揺れる。

「どうも、ありがとう、ございました…。
元気付けてくれて…」
「いえいえ。プロデューサーさん、ちゃんと帰れました?
夜遅くなったから、終電間に合うかぎりぎりでしたからね。」

…え…?

「どうしたんです?そんな、びっくりしたような顔をして。」
「え、いえ、その…小鳥さん、お邪魔して、すみませんでした…」
「お邪魔?」
「はい、おうちに、お邪魔して…甘えてしまって…」

「…夢でも見ていたんじゃありません?」

小鳥さんがふっと微笑して俺に言う。

「夢でしょう。きっと。夢ですよ。
若い男性を誘って、夜にうちに呼ぶなんて、私がすると思います?」
「…。」
「私は、そんなふしだらな女じゃないですよ。ね。
 だから、夢ですよ。きっと。そんなのはきっと、夢の中の話なんですよ。
 でも、プロデューサーさんも、妄想するんですね。意外でしたよ?ふふっ。」

いつもと変わらない彼女の微笑。

「…はい。すみません。
変なことを言って、すみません。
失礼しました…」

「いえいえ。お気になさらず。」

小鳥さんが軽く頭を下げて会釈する。

「小鳥さん…」
「はい?」
「俺、頑張ります。
 そしていつか、小鳥さんのこと、本気で誘います。」
「…。」

小鳥さんが何度か眼を瞬かせる。

「…はい。楽しみに、しています、よ?」

彼女はそう言うと、くるりと背中を返して歩き去っていく。

俺はしばらく、立ち去る彼女の背中をぼうっと見つめ続けているだけだったが、すぐに机に向き直ると、無心に仕事に集中する。
頑張ろう―――頑張って、ただ一生懸命に。
その気持ちだけを、自分の中に大事にしまって、それを拠り所にしていこう。
そのことだけを、俺は強く思っていた。




end

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