1-236 千夏と俺

 俺が黄昏時の教室で一人官能小説を読んでいたら、幼馴染の千夏が騒がしくやって来た。
「あーいたいた。ねーねー修ちゃーん……? 何読んでるの?」
 相も変わらず小柄で童顔、好奇心に目を輝かせた表情は、高校生とは思えないほどに子供っぽい。
 俺は目で文章を追いながら、短く答えた。
「『幼馴染は甘えん坊』」
「何それ」
「官能小説」
 千夏がサイドでまとめた髪を揺らして、ガクッと肩を落とす。
「修ちゃんは、どうしていつもそういうの読んでるの」
「好きだからだ」
 俺の将来の夢は官能小説家だ。全人類に本能的に備わっているエロスを極限まで追及する、素晴らしい職業だと理解している。
 俺の答えをどう解釈したのか、千夏はほんのり頬を赤く染めてもじもじと身じろぎを始めた。
「そっか。好きなんだね」
「ああ。愛していると言っても過言じゃない」
 周囲には趣味が合う奴がいないから、なかなか理解されないのが少々悲しいところではある。
 だが俺はくじけない。エロスに賭ける情熱は、たとえ絶対零度のブリザードでも消せないほどに熱く燃えているのだ。
「ねえ、修ちゃん」
 心の中で情熱の炎を燃やす俺に、千夏がどことなく恥ずかしそうに問いかけてくる。
「その話、どんなのなの」
「普段は男を寄せ付けないほど高慢に振舞うお嬢様。
 だがしかし、厳しく躾けられてきた彼女の心は、常に父親の愛情を求めて飢え乾いているのだった。
 幼馴染という立場からそのことを察し、さり気なく彼女を支える主人公。
 その内二人は密かに一線を超え、少々普通とは違った形で愛し合うようになる。
 情事のときは普段と打って変わって幼児のように振舞う幼馴染に戸惑いつつも、
 必死に彼女の心の寂しさを埋めてやろうと努力する主人公。
 そうして肌を重ねていく中で、二人はいつしか成熟した大人として精神的に成長していくのだった――」
 粗筋を語りながら、俺は感動に打ち震えていた。
 この小説の名シーンの数々が、自然と心の中に蘇ってくる。
 主人公と二人きりのときのみ、擬似的な幼児退行という形で心の寂しさを曝け出すお嬢様と、
 それを無理なく受け止めて、少しずつゆっくりと成長していこうとする主人公。
 官能小説らしからぬ透明な文章で描かれた物語は、まさに歴史に残る傑作と



「修ちゃん」
 想像に没頭するあまり千夏のことを忘れていたことに気がついた。
「なんだ」
「つまり、さ。修ちゃんは、甘えん坊な女の子が好きなんだね?」
 上目遣いでそう問いかけてくる千夏に、俺は少し考えながら頷いた。
「そうだな。そういった形で好意を表現する女性というのに、そこはかとないエロスを感じるのは事実だ」
「よ、よくわかんないけど、そうなんだ……よし」
 何か決心するように呟いたあと、千夏は背後から俺の肩に両手を回して、頬をこすりつけるようにしなだれかかってきた。
 小柄故に重さはあまり感じないが、正直少し鬱陶しい。
「ねえ、修ちゃん」
 猫なで声、というのだろうか。媚びるような声だ。いつもは舌足らずな口調だから、少々珍しい。
 とは言えやはり慣れていないらしく、ぎこちない調子で、千夏が囁く。
「あのねえ、千夏ねえ、今、見たい映画があるの」
「そうか。じゃあ、見にいったらいいんじゃないのか」
「だけどねえ、今月のお小遣いもう使っちゃったから、見にいけないんだあ」
「そうか。じゃあ、諦めたらいいんじゃないのか」
「……修ちゃんの意地悪ぅ」
 拗ねたように言いながら、千夏が薄い胸を俺の背中に押し付ける。
 何が意地悪なのか分からずに、俺は少々困惑した。
「何のことだ」
「だからねえ、修ちゃんが、千夏と一緒にその映画を見にいってくれたらいいなあって」
「何故だ」
「何でもいいじゃない。ねえ、お願い」
 肩越しに頭を突き出した千夏が、俺の頬に自分の頬を摺り寄せてきた。
 俺は顔をしかめる。昨今の女子高生は皆こういう感じなのだろうか。
 いくら幼馴染相手とは言え、少々距離が近すぎるような気がする。
 そもそも、こんな風に露骨に媚びるような甘ったるい声を出して、体を摺り寄せてまで金銭をせびろうとするのは良くない行為だろう。
 そう考えたので、俺はしっかり断った。
「駄目だ」
「どうして? 修ちゃん、千夏のこと嫌い?」
「そうじゃないが」
「じゃあどうして? ねえ、いいじゃない、千夏と一緒に映画見に行こうよお」
 ちらりと横を見ると、至近距離に千夏の潤んだ瞳がある。
(む。いつの間にやら高度な技術を身につけたものだな)
 少々感心しつつ、俺は答えてやった。
「何故なら、映画を見るときにかかる代金が2000円程度だからだ」
「……それで?」
「それだけあれば、官能小説が3冊は買える」
「修ちゃんのバカァッ!」
 唐突に、千夏が俺を罵倒した。



 自分の狙い通りに映画代をせびれなかったとは言え、これではいわゆる逆切れなのではなかろうか。
「落ち着け千夏。お前の行動は明らかに一般的な倫理に反しているぞ」
「一般的な倫理に反してるのは修ちゃんでしょ!」
 一番小さいサイズでも、なおぶかぶかな制服の袖で涙を拭いながら、千夏が拗ねたように呟く。
「修ちゃんは、わたしと一緒にお休みを過ごすよりも、一人でえっちな小説読んでた方が楽しいんだ」
「それは誤解だ。官能小説は決して性欲を満たすだけではなく、もっと高潔な」
「重要なのはそこじゃないでしょ、もう!」
 叫びながら、千夏はばたばたと両腕を振る。
 その段になって、俺はようやく千夏の言わんとするところに気がついた。
「待て、千夏。さっきの発言を考えるに」
「なに!?」
「要するに、お前は映画など関係なしに、俺と一緒に休日を過ごしたい、ということか?」
「え」
 千夏の顔が見る見る内に赤く染まる。
「え、と。う、うん、そう、だけど」
 か細い声で呟く千夏に、俺は苦笑を禁じえなかった。
 要するに、ただ遊びたいと言うだけでは俺が退屈だと思って断るのではないかと危惧して、
 わざわざ映画が見たいなどという妙な理由をつけて誘った訳だ、こいつは。
(臆病なところも昔から変わらないな)
 そんなことを考えつつ、俺は千夏を手招きした。
「ほら、来い」
「う、うん」
 千夏がおずおずとやってきたので、俺は小柄な体を膝の上に乗せてやった。
 昔から俺と千夏の体格差はずっとこんな感じだったので、慰め方もずっと変わっていない。
 こうやって膝の上に乗せて撫でてやると、千夏はとろんとした目になってすぐに機嫌を直すのだ。
 で、今回もそのとおりになった。
「俺と遊びたいなら、素直にそう言えばいいじゃないか」
「だって、修ちゃんいっつも本ばっかり読んでるし、他の人と一緒にいるのは嫌かなって」
「それは誤解だ。別に、他人に心を閉ざしている訳じゃないぞ」
「本当? 千夏のこと、嫌いじゃない?」
「何をバカなことを言ってるんだ、お前は」
「そっか。えへへ、良かった」
 千夏が俺の膝の上で安心したように笑う。



「あーあ。でも、残念だなあ。あの映画、見にいきたかったのに」
「なんだって?」
「ううん、なんでもない。えへ、修ちゃんのお膝の上、やっぱり寝心地がいいね」
 千夏が目を細める。実際そのまま寝入ってしまうことも多々あるので、俺は顔をしかめて釘を刺した。
「寝るなよ」
「大丈夫だよー」
 そう言いつつも、もう俺の膝の上で体を丸めかけている。
 ずっと続いてきた習慣で、体が俺の膝の上を寝床として認識しているのかもしれない。
(やれやれ)
 千夏の頭を撫でてやりながら、俺は苦笑する。
 本当に、こいつはいつまで経っても寂しがり屋の子供のままだ。
 まだまだ、俺が世話してやらなければならないらしい。
 ちなみに、俺達がこういうことをしている場面を見て二人の関係を邪推し、
 修治はロリコンだ、などととんでもない言いがかりをつけてくる輩もいるが、それは大きな誤解である。
 俺は千夏に対して劣情を抱いたことなど一度もない。
 俺にとって、こいつは何者にも代えがたい、大切な妹のような存在なのだ。
 いつかはしっかりした男を捜して、ちゃんと嫁入りさせてやらねばならないという義務感を持っているぐらい、
 その愛情は深いものだ。やましい目で見られるのは甚だ不快である。
 今、俺の膝の上で安心したように寝息を立てている千夏も、同じように思っているに違いない。

 その週末、俺は約束どおり千夏と一緒に過ごした。
 高い金を払って映画を見にいくことは出来なかったが、代わりに一本百円でDVDを借りてきて、二人で見ることにした。
「何が見たい」
 千夏に聞いたら、
「修ちゃんの好きなもの、なんでもいいよ」
 と、笑顔で答えたので、個人的に傑作的な芸術だと認識しているポルノ映画を借りてきた。
 千夏はいつも通り俺の膝の上でそれを見ていたのだが、映画を鑑賞している間中ずっと、
 何やら赤い顔で身じろぎし続けていた。
 本当に落ち着きのない奴だと思う。
 やはり、俺はまだまだ千夏から目を離すことが出来ないようだ。



 終わり。
2008年07月20日(日) 12:46:43 Modified by amae_girl




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